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文芸の里コミュのコモドのオオトカゲの子(出会いの巻)第八回

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    Bach Double Violin Concerto - Yehudi Menuhin And David Oistrakh

   ☆

 コモドのオオトカゲの子(出会いの巻)第八回


 トカゲの子の時間感覚で、午前十時を回った頃である。今日はFが外出するはずで、トカゲの子は、それを首を長くして待っていた。十時を少し回って、Fが玄関を出て行く音がした。忘れ物に気づいて戻って来ることもあるので、五、六分は待たなければならない。
 戻ってくる足音がしないので、トカゲの子は浴室のドアを開けた。戸口に食パン二切れとソーセージが一本、ビニール袋に入れて置いてある。それはトカゲの子の昼食である。
 彼は昼食を片目にいれて確認すると、浴室の腰掛を手にして運び出した。運ぶ場所はFの書斎、パソコンの前である。二本脚で立って荷物を運ぶのは容易ではなく、床に置いて押して行った。敷居に引っ掛かると、少し持ち上げて、また押してやる。
 そうやってパソコンの置かれた机の前に来ると、彼は大きく息をついた。一安心である。次にFのしているのを見て知っている手順を踏襲する。
 まずパソコンのスイッチを入れる。デスクトップが徐々に明るんできた。待ち遠しいことこの上もない。じれったくなって、デスクトップの横文字の羅列を前足で擦ってみる。しかしそんなことでは、検索の画面は出てこないのだ。これはFがしているのを見ていて、頭に叩き込んでおいた。実を言うと、トカゲの子がコンピューターに挑戦するのは、今回がはじめてではない。前に二度、起動から検索画面が出てくるところまでは、体験しているのである。文字の入力もしてみたが、肝心の歌詞の入力にきて、うまくキーボードの打ち込みができなかった。しかしそのうち、歌のタイトルの「ここにいるよ」の「ここに」まで打ち込むだけで、それらしき歌が出てくることに気づいた。彼は嗅覚で嗅ぎ当てるように、「ここに」で括られた中から、求めている歌を探しにかかった。けれども最後のところで、気が焦ってしまい、うまくいかず、Fが帰宅する不安から、引き揚げていた。引き揚げるといっても、サッカーボールのように、腰掛を蹴りつつ進まなければならないので、暇がかかるのだ。あと一歩遅れたら、Fに見つかる危険な場面もあった。
「何か今、がさがさしていたけど、異状はなかったか」
 とそのとき、Fが帰って来て、浴室を覗いて訊いた。
「べつに」
 とトカゲの子はけろっとして答えた。
「じゃあ、俺の気のせいかな」
 とFは赤い顔をして言った。
「アルコールのせいですよ」
 とトカゲの子は言った。
「お前、よく分かるな」
「そりゃ分りますよ、その赤い顔を見たら」
「そうか、俺は顔には出ないほうなんだが、年齢のせいかな」
 Fはそう言って、浴室の鏡を覗いて、自分の頬を擦っていた。「どこも赤くなんかねえや。素面の顔じゃねえかよお」
「充血した赤い目で見ると、顔の赤さは見えないんですよ」
 とトカゲの子はもっともらしいことを言った。口から出るままに言っただけで、それが正しいか否かは、自分でも分らなかった。Fもそんなものかなあ、と思っただけで追究はしなかった。視神経が酒で麻痺すれば、赤も霞んで目に映るということで、トカゲの子の言い分も完全な間違いとも言えないのかも知れなかった。
 島にいた頃、トカゲの子は酒で苦い体験をしていた。恐らく一生忘れることはないだろう。
 コモド島のオオトカゲの間で、酒は貴重な飲物だった。それが手にはいるのは、観光客がキャンプを張って帰った後だった。観光客が引揚げた後、まず子どもトカゲが先遣隊として差し向けられていたが、この子トカゲは他の飲料と同じように、ウイスキーの飲み残しを口にして、酷い目にあったことがあるのである。目が廻りはじめ、体は痺れてしまい、ついに睡魔に襲われ、一匹だけで草叢に寝て一夜を過ごした経験があった。翌日、雌のオオトカゲが探しに来て、背に乗せられて連れて行かれた。その雌のオオトカゲの背の上で、オオトカゲの子は自分の人生における重大な真相を聞かされたのだった。
「あんたのお母さんはねえ」
 雌のオオトカゲは、子トカゲを背に乗せて、森の奥地へ向かって歩みを進めながら、しんみりした口調で話し出した。「事故に遭って死んだなんていうトカゲもいるけど、本当は今も生きているよ。どこかの国の、どこかの街の、何という動物園なのか、まったく分らないけれどね。あんたはまだもの心つく前で、幼かった。それでも母親を離れても生きていける目処がついたとき、仲買の動物業者の手に渡されていったのさ。あたいらは、自由に生きているように見えても、この国の観光資源だからね。あんたのお母さんは、口の先から尻尾の尖端まで、すらっとしたそれはそれは、八頭身の美体だったよ。顔だって美しかった。あたいみたいな平凡で、傷のあるものは買手もつかないけどさ。あたいなんかこれでも、平凡よりは上の等級なんだけど、岩山から転落したときの傷痕がねえ。分るよね、あたいの傷痕。あんたが今掴まっている肩の下の抉られたようになっているところ」
「ここ?」
 トカゲの子は、右手の指が食い込んでいる窪みに力をこめて聞いた。オオトカゲの習性によるが、まっすぐ進むのではなく、左右に大きくぶれながら行くので、しっかり掴まっていなければ振り落とされそうだった。雌トカゲの傷痕は、掴まって体を支えるのに大いに役に立った。
「そう、そこそこ。格好悪いでしょう」
「おばさんには、気の毒だけど、今のおいらには、落されないように掴まるのにおお助かりさ」
 先に触れたオオトカゲの習性で、左右の足を踏み出すたびに、山道の右側と左側が交互に目の前に迫ってきた。
「あんたのお母さんはね、あたいにこの傷があるから、どこにも買われていかないと分っていたのさ。それで麻酔銃を撃たれて、眠り込んでしまう前にあたいを呼んで、あんたのことをよろしく頼むと、涙を流し流し頼んだものさ。お母さんは『うちの坊や、うちの坊や』って、言っていたね。『うちの坊やが、私がいなくても、育っていけるように、私の一生のお願いね』って。お母さんは、麻酔が効きはじめてうとうとしはじめていた。その母親にしがみついているあんたを、さらうようにしてオオトカゲの群れる奥地へと歩いたものさ。結局何もあんたにはしてあげなかったけれどさ。一度だけ、助けるようなことをしたことがあったよ。覚えているかな。番長のデブトカゲがバックしてくるのに、あんたは気づかないでいたのさ。危ないと思ったから、あたいは走り寄ってあんたを尻尾で払い除けたのさ。あんたは五メートルは飛んだね」
「覚えているよ、そのときのこと。空中を飛ぶなんて初めてだったし。それからも、空を飛ぶことなんて一度もなかったから」
 とトカゲの子は、当時を思い出しながら言った。飛ばされて落ちた場所が草原だったから、よかったようなものの、すぐ横が奇岩の岩場になっていて、少し角度がずれていたら、どうなっていたものか分らなかった。
「あんたの落ちた場所が草原で、あんたはすぐ立ち上がったから、安心したようなものの、同じ危険から立ち退かせるにしても、どうしてもっとお手柔らかにできなかったものかと、自分を責めたものさ。きっと日頃からあんたにつくしていないという思いが、あのとき一時に出てしまったんだね」
「つくしていないなんてことないよ。今日だってこうして、迎えに来てくれたじゃん」
「じゃん?」
「日本からの観光客が、さっきそんな言葉を遣っていたから真似してみただけ」
「あ、そう」
 と雌のトカゲは素っ気なく言ったが、この言葉こそ彼女と、子トカゲの関係を如実に言い表していた。雌トカゲは子トカゲを引き受けて、実の子のようにも育てなかったし、実子として育て、いつか子どもが疑問を抱いて問い詰めてきたとき、事実を教えるという道筋も取らなかった。最初から吹き抜けの真相の中に曝しておいたのである。
 もしそうでなかったとしたら、子トカゲが雌トカゲを母親として育っていたとしたら、はるばる日本にまでやって来ることになったあの言葉、「ここにいるよ」「ここにいるからね」なんて言葉が聴こえてきただろうか。歌詞の意味など分りはしなくても、言葉を超えて何かを伝えてきたのではなかったか。
 ドコモのオオトカゲの子は、その声の発信源である歌手の検索に、必死になっているのである。

 オオトカゲの子が悪戦苦闘の末、ようやく先日Fが、検索にかけて見つけ出したトリオで歌っているコモドカーンに辿り着けて、小躍りしているとき、電話が鳴った。コールが十回以上鳴りつづけても止まないので、子トカゲは苛々した。せっかくの歌の音声が台無しにされてしまう思いにかられて、プラスチックの腰掛けの上でぺたぺた足踏みをした。二十回ほど(数えてなどいないが、随分長かった)コールがつづいて切れたが、子トカゲは電話の鳴る音で掻き消されていた部分が多かったため、最初から再生しなおした。
 再生の歌声が鳴り響いて、半ばに差し掛かった頃、また電話が鳴った。子どもトカゲは炎の舌を電話機の方角へ向けて出したが、効果などあるはずはなかった。Fがかけてきた可能性があったが、猫の件は片付いたのだし、緊急の要件など考えられなかった。そんなことより、ようやく辿り着けたコモドカーンの歌声のほうが大切で、雑音に等しい電話の音で掻き乱されてはたまらなかった。たとえFからであったにせよ、Fの話で、せっかくの魂の慰安をふいにしてはいられなかった。

 トカゲの子が想像したとおり、Fは携帯を握りしめて焦れていた。
 FはFで、緊急にどうしても伝えなければならないことが持ち上がったのである。それは母親が電話してきて、二日後の予定を変更して今日出かけるが、必要なものはないかと訊いてきたからである。母親は所属する生花グループの慰安旅行に参加することになっていたが、その出発日が急遽替わったとかいうことだった。
「いいよ、一回くらい掃除に来なくたって」
 とFは言った。彼が以前電話したとき、さしあたって欲しいものはないかと訊かれて、酒の肴にハムかソーセージがいいなどと、言っておいたので、母親はそれを確保した上で、さらに必要なものを訊いてきたのであった。
 Fが前にソーセージとハムを頼んだのは、トカゲの子の食料のためだった。デパートでいくら特大の弁当を買って行っても、一個の折り詰め弁当では追いつかないほど、トカゲの食欲は旺盛になっていたのである。
 Fは電話で、トカゲの子にこれから出かけるという母親の危機を知らせようとしたのに、電話に出ないとなると、あとはもう成行きに任せる他なかった。犬とのトラブルを起こしてからというもの、それだけ目立つ存在となってしまったトカゲ自身、己が身の成長を認めないわけにはいかなくなっていた。それにもかかわらず、Fの外出を待ち構えていて、外に出たのであろうか。あるいは、Fではなかった場合のことを考えて、出るのを避けたとみるべきだろうか。それはそれで賢いやり方であり、責めることはできない。しかし母親の突然の訪問は、避けようがないのである。二日後の訪問は伝えてあって、これまで通り、彼女が帰ってしまうまで、浴槽の下へ潜り込んでいるはずであった。彼女は浴槽の掃除も当然していくが、あまり手間がかからないように、Fは男の独り暮らしらしくなく、入念に掃除していたのである。
「おまえ、いつもお風呂だけは綺麗にしているね」
 と褒めたくらいである。
 Fはトカゲの子が危険をはらみつつ成長していくのを、成行きに任せているのと同じく、何事もなく母親が掃除を済ませ、帰っていくことを願っていた。まさかトカゲの子がインターネットにかぶりついているとは、気づきもしなかった。コモドカーンを検索にかけたときの喜びようからみて、もう一度見せてくれと、いつか要求される不安はあったが、あのときは途中から異様な雰囲気に流されていき、三角定規で脳天を殴打するという気まずさで終了したのである。それだけに、よもやパソコンに挑戦しているなど考え及ばなかった。

 トカゲの子は、トリオの歌声を五回再生して聴いたあと、どこかにコモドカーンが独りで歌っているのがあるに違いないと思いはじめ、下へ下へとクリックして探していった。クリックして聴いては途中で止め、また次をクリックして聴くということを繰り返して、コモドカーンを血眼になって探していった。その通り、血眼という表現が、子トカゲの心境にぴったりしていた。実際目は充血して、熟年のオオトカゲが生肉をあさるときの目つきと比べても、遜色がなかった。
 そんな努力の甲斐があって、オオトカゲの子どもは、コモドカーンがソロで歌っている歌声に出合ったのである。
 このときの欣喜雀躍ぶりといったらない。彼はボリュームを最大にして、これも一度は低音の方角へスピーカーのつまみを回してしまい、その際堕ち込んだ己の失望感に敵対する意気込みで、逆側につまみを回し、最大の音響を確保し、それを最善、最高とみなして、狂喜していたのである。
 このときはもう、コモドカーンのソロの歌声のみで、アパートの周辺を行き交う車の騒音や、上空を過ぎる飛行機やヘリコプターの爆音、またベランダに来る野鳥の囀り、はては冷蔵庫や蛍光灯の低い唸りなどのいっさいの物音は掻き消されていた。
 オオトカゲの子は歌を聴くだけでは我慢ができず、自分でも歌わずにはいられなくなり、腰掛の上では安定を欠くため、ジュウタンの床に下りて、前足を上げ、腰を振り振り、舌足らずの歌声を響かせていた。
 そんな絶叫と熱唱のさなかだった。Fの母親が来て、扉の前に立ったのは。


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