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文芸の里コミュのコモドのオオトカゲの子 第六・猫との対決とその後の巻〈1〉

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    Moris Ravel, Boléro - Maurice Béjart, Sylvie Guillem (Full).wmv .

コモドのオオトカゲの子第六
 猫との対決とその後の巻〈1〉



 秋の色が深まる、夕闇迫る児童公園のベンチ。茶白の猫が、Fの住むアパートの方へ体を向けて坐っている。腰を伸ばしたちゃんとしたお坐りではなく、四肢をたたんだ蹲る格好のお坐りである。ここにいて見張っていれば、Fの帰宅を見届けられるし、トカゲが五階の浴室の窓から出入りするのも一望にできる、願ってもない場所である。ひとわたり見て、Fとトカゲのやって来る気配がないと、目を瞑って、どこにでもいる平凡な猫になるが、しかしそれも、ちゃんと考えた上での、視神経を休ませる戦術上の休憩だった。一つのことのみに集中していた猫にとっては、いくら鼠を狙う習性から、待つことにかけては慣れているとはいえ、どこかで一息は入れなければならなかった。
目を瞑って、うとうとっとしかけたときである。あるいはうとうとっとして、目を瞑ろうとしたとき、外灯の下に人影がさして、急いで上へと登って行ったものがある。Fに違いない、と猫は直感した。今の急ぎ方は、階段を一段ずつではなく、二段まとめて登るやりかたである。何か企みがあるな。猫はすぐ後を追った。
 一方Fは無残な引っかき疵をつけられたドアの前に、猫がいないことにほっとすると同時に、いつ急襲されるかも知れないので、何よりトカゲの存在の有無を確認する必要があった。トカゲの外出時間を決めておかなかったことが、ずっと気掛かりになっていたのである。
 浴室の戸を開けて、浴槽の下を覗いてみる。闇だ。目を光らせてもいない。よし、Fは安堵の胸を撫で下ろす。猫がやって来るのなら、今のうちだ。外は闇が濃くなってきている。トカゲが帰宅する前に、猫のためにトカゲの不在を立証してしまわなければならないのだ。
 このとき、扉のドアを掻き鳴らす爪音が起こった。よし今のうちだ。Fは浴室から玄関へと走った。
 次に起こったことを、グッドタイミングなどとは、口が裂けても言えないだろう。Fが猫を招き入れ、いざ浴室の戸を開けたそのとき、トカゲは外壁をよじ登ってきて、窓から浴室の床へと飛び降りたのである。トカゲはコンクリートの外壁の登攀に体力を使い果たし、荒い息遣いをしていたから、一時何が起こったのか、自分がどういう状況下にいるのか、まったく覚束ない状態だった。しかし眼前に露わにされているのは、猫の臭いと、茶白の猫そのものである。逃げ出せば男が廃れる。コモドの大トカゲのコドモのプライドにかけても、それだけはできない。トラブルを避けるために、姿をくらませていることだけでも、大変な譲歩だったのである。
 憎悪に煮えたぎる猫の目つきは、以前とまったく変わっていない。しかしその中に怖れのようなものが走ったのを、トカゲは見逃さなかった。猫からすると、侮蔑の対象でしかなかったものが、知らないうちに一回り大きく、逞しくなって、それだけで圧力をかけてきたのである。猫の目に、その怯えが走った。しかし今や事態は、退くに退けないところにきているのである。
 ここに立ち至ったFの心境をどう説明したらいいだろうか。人生には得てしてこういうことがあるものだ、そんな生半可な解釈では済まされるものではない。
 成行きに任せて二者は向かい合った。成行きの別名は不可抗力だ。そんなふうにこじつけては見たものの、二匹が死闘を開始してしまったとき、どうやって引き離せばいいのか、見当がつかなかった。そんなことになる前に、やはりここは力づくででも引き離すべきだろう。しかし何を持って、力とするか。
 Fにふと良案が仄めいた。シャワーだ。シャワーを浴びせて、双方の興奮を鎮めてやればいい。Fはシャワーを手に取ると、レバーを押し上げる。いきなり水の噴霧が二匹にふりかけられた。
 しかし結果は徒と出てしまった。二匹は水の噴霧を戦闘開始の合図と見てしまったのだ。猫は唸り声を大きくし、トカゲはめったに見せたことのない割れたピンクの舌を、ちらちら出して、ただならぬ雰囲気になった。猫は爪を立てた手を素早く伸ばして、トカゲを叩こうとする。猫の唸り声は凄まじく、トカゲからは、息を抜くようなひゅうひゅうという声が洩れるだけだ。このままでは、実質をともなわない猫の威嚇に、表向きの敗北をきっするばかりと見たトカゲは、相手のジャブを避けるように浴室の狭い床を回りはじめた。すると猫もそれを追って回りだした。
 Fは二匹の戦闘の凄まじさが度を越えていくにつれ、これを外部の者がどう捉えるか不安になってきた。猫の声を人間の声と取り違え、つまり独り暮らしのFを変質者、もしくは偏執狂とみなして、警察に密告するか、動物愛護協会に届け出るか。どちらにしても、迷惑この上もない。変質者とみる事実誤認だけなら、我慢すればいいことで大したことはないが、真相に迫ろうとして、警察なり動物愛護協会の係りの者がやってくるようなことになったら、事だ。許されていないコモドの大トカゲのコドモを飼っているというので、社会問題となり、それこそただではすまなくなる。可哀想だから置いてやったと言っても、相手にもされないだろう。そもそもトカゲが人間の言葉を話すはずはないと思っているし、そう信じているものに向かって、トカゲがいくら人間の言葉を喋ってみたところで、聴き取ることなどできはしないのだ。根っから信じようとしない者には、何も伝わりはしないのである。
 むしろ、大騒ぎになったほうが、トカゲの行く末を心配する者も出てきて、トカゲのコドモのためには、いいのではないかという思いもある。しかしその場合は、せいぜい動物園の爬虫類館行きで、彼の故郷、コモドに帰還するのは、まず不可能であろう。
 Fがそんな心配を抱え込んでいる間に、二匹の戦いは、まさに重大な局面に入っていた。回っているうちに、Fの立つ戸口に近い側にトカゲが来ていた。二匹が向こう側とこちら側で睨み合って回っているのだから、内側と外側という見方は当たらない。相手を意識しながら、あくまでも外側を回っているのである。
 先ほど、猫の目に怯えが走ったと書いたが、それはトカゲの子にそう映っただけで、Fには猫の表情を読み取るなどできなかった。法的規制などなく、言葉を持たない動物は、相手の情況を、表情や体の動きから探り出すしかない。したがって本能的な察知の仕方は、人間よりはるかに優っている。教えられなくても、また体験しなくても、生まれつき備わっている。お互いに無駄な傷は受けたくないし、できるなら体力の消耗も最小に止めておきたいだろう。そして何より、命の温存をはかりたいのである。
 トカゲの子は猫の目に敗色を読み取ると、一気に前に出て、猫に体を浴びせた。猫は力を小出しにした牽制がしばらく続くとみていたから、体ごと飛び込んでこられると、気力を削がれて、ますます苦境に陥った。こうなると、もう勝ち目はない。命を落としてトカゲの子に食われるだけだ。猫の肉はうまくないという定評があるから、喰われはしなくても、殺されることは間違いない。
 猫はトカゲの子の肉体の硬さと、分厚い肉の塊のような重たさに圧倒されて、横倒しに崩れ落ちた。トカゲはその猫の上に、体重をあずけて覆い被さる。組み敷かれると、猫の爪を立てたパンチも、空を切るだけだ。
 猫はトカゲの下から、我が身を引っこ抜くようにして抜け出すと、浴槽の蓋の上に跳び乗り、そこを足場にして、小窓へと突進した。先ほどトカゲの子が帰還した小窓である。猫もそこをトカゲの子が出入りに使っていたのを知っていたから、脱出口として閃いたのである。しかし今、外を覗いて見て、その驚くばかりの高さに怖じけた。はるか下に、外灯の明かりを浴びた芝生が、細波のように波打っているのだ。あそこまで、どうやって辿り着けるだろうか。その点でも、猫はトカゲの子に畏敬の念を持った。あいつは天才だと思った。私はまた、選りにもよって、とんでもない化け物に関わってしまったものだ。
 猫は小窓からの脱出をそく諦め、くるりと半回転すると、浴槽の蓋から床へと飛び降りた。トカゲと張り合っていた身の強ばりは、今や綺麗に解けて、すっかり柔軟になっている。これこそが猫の本領ともいえる身のこなしで、Fの脚に体を擦りつけた。今はこの主人に頼らなければ、外に出られないことを知っているのだ。現金といえば現金だが、これが猫の本性とあれば、いたって自然だ。むしろ先ほどまでの緊張が異状であったといえる。Fの脚に体を擦りつけ、Fの顔を仰いでニャーと鳴いた。唸り声にかわって、喉をごろごろ鳴らせている。
 トカゲの子はその猫を不審に思って、猫に近づこうとした。猫はそうはさせじと、Fの脚の間に入って、尻尾をトカゲに向けている。トカゲの子は侮辱されたと思い、心穏やかではない。戦いに勝利したものが、敗北したものに侮辱されるなんて、聞いた覚えがない。しかもさっきの唸り声から一変した喉鳴らしである。
「こいつは俺様に負けたものだから、ご主人様に媚びて、俺に仕返しをしてもらいたいみたいですなあ」
 とトカゲの子は言った。
「黙れ!」
 とFはトカゲの子を一喝した。
 Fが猫をかばえばかばうほど、トカゲの子は面白くなさそうだった。そもそもの発端は、トカゲの子が逃げて行く猫の後ろ姿を見て、ケケケケと笑い飛ばしたことが、猫の心象を害したとかで、因縁をつけてきたらしかったが、トカゲからすれば、その笑ったことすらとっくに忘れているのに、いつまでも根に持って、今はその決着をつけに現われたのに、結果は呆気なく出てしまって、猫は勝負では負けても、言い分では自分のほうが勝っている気でいるらしいのだ。 トカゲの子は、猫の引け際の悪さにも腹を立てていた。相手の顔色で心理を読むことにかけては、長けているはずだったが、猫が現在どんな気持ちでいるかまでは、理解できていなかった。
 茶白猫の現在は、もうトカゲの子に対して、いっさい心残りはなかった。ただ一時も早く、ここから出て行きたいだけだった。そのためには、Fに玄関の重い扉を開けてもらわなければならないのだ。自分の命はいまや、一人Fにかかっていた。
 猫は早く扉を開けてくれという願いを、尻尾の先に籠めて、尻尾を上げ、尖端をカギ型にして、Fの太股の辺りを突付くことで示そうとした。
 それを見ていて、トカゲ子はまた憤った。尻尾のカギの先が、Fの脚を外れてトカゲの方に向けられ、しかもひょいと、からかうように動いたのである。トカゲの子は、猫が尻尾でやるなら、こちらもそれでやるしかないと、猫に比べると何倍もある胴体と陸続きのようになっている尻尾を、高々と持ち上げると、猫の尻尾を上から叩きつけたのだ。猫は強ばっている尻尾を上から叩かれたもので、体の前部、つまり頭部が持ちあがる破目になった。天秤棒の一方の端のように。
 Fはまた一悶着ありそうな雲行きに、猫を帰そうとして浴室を出た。猫は当然ついて行く。トカゲの子もその後からついて来たので、「お前は、送らなくていい。ここに残れ」
 ときつく言った。猫はもう、媚びる喉鳴らしはしていなかった。扉が少し開くやいなや、自分の力でこじ開けるようにして、出て行った。あまりの素早さに解せないとばかり、Fが出てみると、猫の姿はどこにもなく、ドンドンと猫の足で階段を打ち鳴らすような鈍い音が伝わってくるばかりだった。削られたペンキが、踊り場を廻る微風に少しだけ傍らに寄ってはいるが、猫につけられた跡は歴然としてあった。母親が来るまでの間に、補修をしなければならないと思い、そのことでFは頭を悩ましはじめた。
 リビングのテーブルには、Fが帰りしなデパートの食品売り場に立ち寄って買ってきた特売の弁当が、レジ袋に入れたまま載せてある。そこから立ち昇る鶏肉の唐揚の匂いが、辺りに漂っていた。猫はこの匂いの中を、まっすぐ浴室へと向かったのである。そのことからも、猫の頭に占めていたものの重さを、Fは噛み締めていた。あの猫にとっては、食べ物より片付けなければいけない重大事が、頭をいっぱいにしていたのである。それがうらぶれた秋風の吹きすぎるような敗退できりがついてしまったことを、Fは猫のために気の毒に感じた。
 浴室からはトカゲの子が頭を覗かせ、テーブルのレジ袋に視線を向けていた。そうやってFに食事に呼ばれるのを待っているのだ。
 Fはシンクで手を洗い、皿を一枚出して、そこに弁当の折から唐揚と飯を分けて入れる。次に二個のマグカップに、インスタントのスープの粉末を入れ、ポットの湯を注いだ。
「よーし」
 とFはひとりごちたつもりが、トカゲの子に号令をかけることに連携して、トカゲが走りこんで来た。あたかもスタートにつくアスリートのようにして、浴室から頭を出して待ち構えていたのである。
「ところでご主人、つかぬ事をお聞きしますが」
 トカゲの子は食事を待ち焦がれていたのをごまかそうとして、そんなふうに話を運んでいった。
「つかぬ話でも、ついた話でも構わん。何だ改まって」
 Fが促すと、トカゲの子はエヘヘヘと笑いで誤魔化しながら、椅子に乗り、皿に手を伸ばした。
「うまいっすね、この鶏」
 トカゲの子は唐揚を口に放り込み、汚れた指をくわえてそう言った。
「いつもは特上を買って帰るんだが、お前がいることを考えて、特上よりは、量の多い特大を選んで来たんだ。今日の24時が賞味期限で、どちらも同じ特安価格だったからな」
「特上ってなると、もっとうまいってことですか?」
「まあ、そういうことだ。肉の特上を使うからだろうな」
「そんなの贅沢すぎますよ。どうしてこの国の人間は、未開の貧しい国の人のことを考えないのか。これで充分うまいっすよ。唐揚にされる鶏の身になってみれば、決してそんな贅沢は言ってられないですよ、ねえ。特上ではなく、特大にすれば、鶏を殺さないですむはずはないし、同じ鶏の股肉にするか、尻肉にするかの違いくらいでしょう」
「もういい、お前の講釈はたくさんだ。それよりさっき言いかけた、つかぬ話っていうのは、何だ。猫のことか?」
「とんでもはっぷん。ナンマイダブ、ナンマイダブ」
 Fはトカゲが好奇心から、また新しい言語を吸収してきたな、と苦い思いにかられていた。どこで覚えてくるのか、まったく困ったものだ。
「………」
「言えないのか」
 トカゲが黙ってしまったので、Fはいささか気になって、顔を上げた。トカゲの目が潤んで、人間で言えば上気したようになっている。これは何かだな、とFは直感した。恋の芽生えか。しかし同じトカゲが、この都会にうろついているとも思えない。すると異種間における不倫の恋か。
 Fは想像を逞しくしていきながら、さまざまな恋の可能性について考えていった。しかし年端も行かないこのトカゲの子が、よりにもよって、恋に陥った相手というのは、いったい誰なのだ。
「おい」
 ぽかんとしてしまっているトカゲの子に向かって、Fは呼びかけた。
「はっ」
 トカゲはFの声に、はっと我に返ったようなしばたきをして、目を開いた。何のことはない。トカゲは眠気を催して、半ば眠っていたのである。そんな半睡状態のなかから、Fにせかされるままに、呟きが洩れて出た。
「ココニイルカラネ」
 Fはこの声を聴いて、深いところからの安心を得た。そうだったか。それなら心配するには当たらない。青山テルマか。そもそもこのトカゲの子の、コモド島脱出の動機は、この歌にあったのだ。異種動物間の不倫の恋が芽生えたのではないかと、案じたFは、いっぺんに不安の解消をえて、
「そんなことか。俺もすっかり安心したよ」
 Fは言って、冷めてしまったマグカップのスープを口に運んだ。トカゲの子もFにならって、スープに手を伸ばした。しかし飲み方となると、Fとは少々違っている。まず口を上にむけて開け、そこに両手にしたマグカップを傾けて注ぐのである。噎せたりすると大変なことになるので、Fはこのときばかりは、すぐ逃げ出せる体勢になっている必要がある。今回はスムースにいったようだ。
「ああ、おいしかった」
 トカゲの子は食事を終えた報告をした。
「ごちそうさんだな」
 とFは言った。
「へい、ところでご主人さま」
 とトカゲの子は、またぶり返したのである。Fはまだ片付いていなかったことを認識して身構えていた。
「テルマちゃんの、ここにいるよは、別の歌手が歌ってますね。それを今回スーパーで聴きましてね。その歌唱力抜群なのに、びっくらこいてしまったんですな」
 トカゲの子は分りもしないくせに、生意気を言いはじめた。歌唱力抜群などと、いったい何に根拠をおいて語ってくるのか、Fはトカゲの口の奥を覗いてみたくなった。
 しかしそんなことをしても、何も見えてこないのは自明の理だ。実際関わっているのは口の中ではなく、脳なのだが、しかるべき権威の学者がいて、さまざまな研究を重ねているが、確かなところは何も見えてこないのである。宇宙の中枢にして坩堝である脳。動物学者でもないFが、コモドのオオトカゲの子を、ひょんな事情から預かってみて、今言えるのは、蛇の仲間の爬虫類で、餌を丸呑みにしてしまうくらいのことだ。
 今も唐揚を口に放り込んだ後、汚れた手をくわえているので、口に入れた餌はどうするのか気になっていたが、そんな心配は無用だった。彼らは口に入ったものは、咬まずに呑み込んでしまうのだ。内部に空洞を抱えた生き物ほど怖いものはない。人間も同じだ。空虚を抱えたものほど怖ろしい。何をするか分らないからだ。空虚は宇宙すら丸呑みにしてしまう。
 あの猫が先ほど、トカゲの子に押さえ込まれて、とっさに身を引き抜いて逃げ出したのは、子トカゲの口の中に広がる空洞を見たからではなかったか。ここに呑み込まれたらお終いだ。猫が戦意を喪失したのは、それを見てしまったからではないだろうか。蛇が怖れられるのは、あの長い胴のすべてが空洞だからだろう。しかもその空洞は伸縮自在で、いくらでも広がるようになっている。蛇は象さえ呑み込んでしまうのだ。星の王子さまが描いた象を呑み込んだ蛇の絵は、この世で最も怖い絵だ。
「その歌唱力抜群の歌手の名は、何というのかな」
 Fはトカゲの口の中を見ないようにして言った。
「それが分ればいいのですが、歌手の紹介はなく、ただ歌だけが連なって流れていましたからね。あの歌にはまったく痺れましたね。青山テルマでないことだけははっきりしている。訛りがあるのか、ないのか。訛りのある外国人、失礼、おいらは人じゃなかった。外国籍のおいらには、分りっこないっすよ。だから帰って、ご主人に訊けば分ると思って、勢い込んで帰って来たら、タイミングが悪く、猫の障害にぶつかってしまった。でも今回、その猫と出合うのを避けて外出させて貰ったことは、不幸中の幸いでしたね。あの歌に出会えたのだから。ご主人さま、あの歌手をどうにかして見つけ出すことはできませんかね」
「テレビでも、ビデオでもなく、スピーカーから聴こえてきただけか」
「そういうことですな。あのスーパーには、画像なんかどこにも映っていませんでしたから。小生意気な店長の顔なら、ありありと思い浮かびますけど」
「なんだその小生意気な店長というのは。お前また悶着を起こしたわけじゃあるまいな」
 Fはざわざわっとした寒気に襲われて、そう言った。
「滅相もない。ご主人に今、奇しくもまた悶着を起こしたなんて、


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