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文芸の里コミュのマタ来テネ

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  Yulianna Avdeeva - Chopin Piano Concerto No. 1 in E Minor, Part 01 .




  ◇マタ来テネ


 金曜日、疲れた彼は帰宅しないでそのまま愛車を走らせ、職場から温泉ホテルへ向かった。チェックインして、ロービーに下りて行くと、鳥籠に鸚鵡がいて、
「よく来たね」
 と彼を迎えてくれた。
 しかし、この鸚鵡の言葉、よく聴くと、彼がネットで口座の出し入れに普段つかっているパスワードなのだ。《英数字とアルファベットの小文字を混ぜて》と規定にあるとおり、覚えやすく意味のある「よく来たね」とし、《49kitane》というパスワードをつくった。
「よく来たね」
 誰も知らないはずのパスワードが、鸚鵡に筒抜けになっているとなると、穏やかではない。
 鸚鵡は苔むしたような緑の頭を振り振り、「よく来たね、よく来たね」と彼のパスワードを連発している。
 ロビーには何人か客もいるので、彼は鳥を脅して黙らせるわけにもいかない。もしそんなことをすれば勘ぐられて、自分のパスワードを他人に明かしてしまうことになる。鳥の段階で留めておかなければならない。
 彼は自分のパスワードを吹聴している鸚鵡にいたたまれず、温泉に浸かりに行った。
 湯に浸かっている間も、鳥のことばを往き巡らせて考えていた。もしかすると、彼がよそ行きの仕度もせず、仕事着のまま来たものだから、鸚鵡は〈よく来たね〉、と言ったのではなく、ようふく、キタネ〈汚い〉とつい侮蔑のことばを洩らしたのではなかっただろうか。カジュアルな旅支度ならともかく、仕事着のままではな、などと、気が咎めていたこともあって、鸚鵡の言葉を〈洋服、汚い〉にまで発展させて、苦笑っていた。〈ヨウフクがキタナイ〉だとよ。
 それなら、というわけで、湯にたっぷり浸かり、シャンプーとボディーソープで頭と体を洗い、シャワーを浴びて汚れを流した身に、糊のきいたホテルの浴衣を着用し、隆として鸚鵡の前に立った。
 すると、どうだ。
〈いいの、きたね〉
 意訳すれば、〈いいのを、着たね〉と発声の内容を変えてきた。この鳥は、同じ〈キタネ〉と言うのに、さっきは〈汚ネ〉で、今は〈着タネ〉とはっきり遣い分けているのだ。
 今はロビーに客は一人もいなかった。つけっぱなしのテレビが、低音でぼそぼそ言っている。
 少し離れた売店に、売り子の娘がいるが、そこまで声がとどくことはないだろう。
「お前はどうして、俺のパスワードなんか知っていたんだ? 49kitane〈よくきたね〉なんて。まあ、それは俺の取り違えで、湯に浸かりながら思いついた、洋服汚ネが本音だったとしても、餌を掻き散らした、お前の鳥籠のほうがよっぽど汚ネーだろうよ」
 このとき、後方から女の声がしたので彼は振り返った。売店の売り子が何か言っている。聞き取ろうとして、彼はそちらへ歩み寄って行った。
「気に障ること言っても、無視してね。その鳥、どこで覚えるのか、乱暴な言葉を遣ったりして、お客さんを怒らせているのよ」
 彼が鳥に八つ当たりしているとみて、女はそう言った。職場がホテル内の売店とあって、外に出る機会がないせいか、日焼けがなく、肌が蒼白く光っている。光っているのは、狭い店内の灯りを独り占めにしているからだ。スポットライトを浴びて、一人で舞台に立っているようにも見える。三十前後、細面の美しい女だ。
「洋服が汚いなどと言われるとね」
「あら、そんな失礼なこと言いました?」
「いや、会社が退けると、帰宅しないでまっすぐ車に乗ってしまったもんだから、素直に聴けば、よく来たね、と言う歓迎の挨拶だったのかもしれないけど、あまりにも自分のパス……」
 まずい、彼はそこまで言って、踏みとどまった。油断してはいけない。この女と鸚鵡は、同じ職場内で、グルなのかもしれない。
 女は客に警戒心を持たれてはならないと、気を回したものか、
「私だって被害者だわ」
 と訴える側に回った。内部告発である。
「ほう」
 彼は売場まで、残り三メートルの位置で立ち止まった。これ以上近づくと、欲しくもないのに、何か買わなければならなくなる。
「お客さんの前で、〈私とデートしようよ〉、なんて言うらしいの。それで、私が鳥に言わせたと勘ぐって、私の休みはいつかなんて、訊くのよ。呆れて、何も言えないでいると、閉店したら、何号室に来ないかなんて」

 彼は結局、このまま悪者にされた鸚鵡のところに戻るわけにもいかなくなった。そうかといって、じゃ、などと、自分の部屋に向かうのも間が悪くなり、一気に三メートルの距離を詰めて、豪華とも質素ともいえる並べ方をされた土産物の前に立った。そこで誰にも渡すあてのない山菜漬けを買う破目になった。


 帰宅すると、彼はまずパスワードを変更した。すると、夢に登場するようになった鸚鵡も、言葉を替えてきた。
「私とデートしようよ」
 などと誘うのだ。誘った後は、売店の女の顔と入れ替わって澄ましこんでいる。
 新しいパスワードは、絶対盗まれないようにしなければならない、そう心を引き締めた。一方で、鸚鵡にあの女への橋渡しをされた思いも強く働くようになっていた。
 その鸚鵡に何かいってやる言葉はないか、探していた。すると容易に「馬鹿にするなよ」と口から飛び出てきた。ひと頃、そんな歌を歌っていた歌手がいたような気がした。山口百恵だっただろうか。和田アキ子だっただろうか。出回った歌なら、鳥の頭にも簡単にインプットされて、「馬鹿にするなよ」「馬鹿にするなよ」と喋りはじめるだろう。
 ところが、夢の中では鸚鵡ではなく、女がその言葉を遣いはじめたのである。「お客さん!」と呼ばれたので、売店に寄って行くと、「私を馬鹿にしないでね」と、女は赤い口を金魚のようにぱくぱくさせて言った。「こんなものを、私のロッカーの中に入れておいて、添え書きまでして『贈呈しまーす』ですって」
「僕はそんなことした覚えは、まったくありませんがね。そもそもその手にしているものは、なんですか?」
「マタニティードレス。女が妊娠したときに着る」
「はじめて聞く名前ですね」
「そんなこと言って惚けて」
 と女が言った。
「私とデートしようよ、なんて鸚鵡に言わせているから、噂が一人歩きをはじめて、深みに嵌り、今度はそれを打ち消すために、マタニティードレスまで用意しなければならなくなったんだ。何も君一人を責めているんじゃないよ。つまりはネット社会のもたらした不幸というものさ。そもそもが、僕のパスワードからはじまったんだ。〈ヨク来タネ〉がいつの間にか、鸚鵡に〈マタ来テネ〉に替えられ、その、マタ来テネ、とマタニティードレスが関わっているのは「マタ」だけじゃないか。ちゃんちゃらおかしいよ」
 彼は夢の中でもっともらしい思いにかられて、言い放った。
「あなた私と関わっていないって言うの? 関わったからこそ、マタニティドレスを贈ってくれたじゃない。私それがとっても嬉しかったの」
 夢の中味が、ますます関わりのない方へ逸れていった。それでいながら、修正できないのだ。それが悔しく、切歯扼腕しつつも、どうすることもできないのだ。
 彼は目が覚めた後も、夢の名残りにどっぷり浸かって足掻いていた。

                           了

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