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文芸の里コミュのあげひばり

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       pachelbel's Canon in D--Soothing music(the best version


   ☆

 あげひばり

 春まだ浅い休日のビル街である。高層ビルの一つに、ブランコ師がブランコに腰掛けて窓拭きをしている。高いビルとあって眺望のきくはるかな山並みには、まだ雪を残している。しかしここでは、太陽光線がほしいままに降り注いで、熱いほどである。
 この都市の空に、信じられないようだが、雲雀の囀りがかまびすしい。地上で通行人になっているときには、都会の雑音に掻き消されて、見ることも聞くこともなかった雲雀の声である。
 どうやら雲雀は、唯一近くで動く人影を、縄張りに入り込んだと見ているらしい。いきなり降下してきて、窓拭き男の首筋をちくりと突付いて去った。
「いたっ!」
 と叫んで男の体が揺れた。窓拭き専用のブランコに体を固定しているとはいえ、こんな高空で、敵愾心をむき出しにして攻めて来られるのは、気持ちのいいものではない。それでなくても、熱い。陽光は頭上から照りつけ、窓からの反射光は顔面へと突き刺さる。加えて予期しなかった、熊蜂じみた雲雀の襲撃である。これまで田園の守り神ともいうべき雲雀が、兇暴な蜂に変身するなど考えてもみなかった。
 窓ガラスに照りつける太陽の反射光で、男は目がくらくらっとした。とにかく熱い。彼はタオルで滴る汗を拭い、水分を補給するため、ブランコのサイドに取り付けたボックスから、ドリンク剤を取り出して口に含む。このときである。雲雀の第二波の攻撃があったのは。しかも、先の攻撃とは違い、つつきに来て去るのではなかった。
 男の耳を聾するばかりにけたたましく鳴きたてながら、彼の前に飛び込んで、何やら纏いつくように、しばらく放れて行かなかった。彼はドリンク剤のボトルを振って、追い払いにかかる。雲雀は彼の皮膚を伝って、後ろに回り、それからおもむろに離れて行った。さては兵糧攻めにきたな、と彼は判断した。思いなしか、ドリンク剤が飲んだ以上に減っているようだ。ボトルを振り回して零したか、雲雀が前に回りこんで飲んだかもしれない。
 彼は鳥のこんな攻撃に遭うのは初めてだった。鴉には、もうこれ以上巣に近づくなというので、頭髪を靡かせるほど接近して脅されたことがあった。それも同じ鴉に二度脅されるということはなかった。別な場所で、別な鴉の襲撃に遭っただけだった。
 鴉と似て非なる鳥といえば、鷲に脅されたことはある。彼が高所に恐怖を感じないのは、少年の頃から登山が好きということがあるかもしれない。あるいは登山が好きで山に登っているうちに、高所を怖れなくなったのか。いずれにしても、それが今の職業選択に結びついていることは明らかだった。
 アルプスの頂上に立った時、ふいに鷲が飛来して、三メートルと離れていない、彼の目の高さで空中に留まり、ぎろりと目を動かし、その鋭い眼光で睨みつけた。嘴と彼を睨んだ目が金色に輝いていた。
鷲は空中に十秒ほども静止していて、翼を翻して去ったが、あれも神聖な領域を侵すなという脅しだったと考えられる。
 雲雀はなりも小さく、睨みもきかないから、蜂に近い粘着した攻撃になるのかもしれない。彼は窓拭きの作業を進めながら、そんなことを考えていた。
 その矢先第三波の攻撃が襲いかかった。今度はしかし、鳥の狙いをどう斟酌したらいいのか、彼に混乱をもたらすものだった。単なる脅しとも、兵糧攻めとも異なっている。
 まず彼の項に取り付いて、ヘルメットと頭との隙間に嘴をつっこみ、つづいて体ごと捻じ込ませようとでもするような、くすぐったくももどかしい動きを見せた。
 彼は頭を捻って考えた。これは高所での特殊作業のため、鈍重な動きを余儀なくされているのをよいことに、ブランコ師である彼そのものを、巣作りの適所と認めたのではないか。
 それが不服で、男が鳥を払い除けようとするなら、そうしなくなるまで、人間の反抗心を根絶やしにしてしまう必要がある。そう受取るには、男の自尊心が赦さなかった。雲雀の目算はあまりにも彼を馬鹿にしてかかっているのである。
 次に今彼が激昂しているそのことに的を絞って、混乱と悲鳴をピークに持っていけば、頭に変調をきたして、作業中止に持っていける。彼はうっかりこの鳥の悪巧みに嵌ってはならないと、決意を新たにした。なんとなれば、この線が、雲雀の鳥頭から見ると、理解しやすいのではないかと思えたのである。今もこの男は暑さで相当参っている。雲雀からすればお日様は友達みたいなものだが、この男ときたら、頑丈なヘルメットまで着用している。太陽を見方にしないで勝てるものなど、世界中どこを捜しても、いはしないのである。それに拍車を掛けるようなのろまさときている。速く動けば風も湧いて少しは涼しさを呼ぶが、この男の蝸牛の動きは、何ということだ。蝸牛だって、木に這い上がるのなら見たことがあるが、這い下りるのなんて知らない。今に見ておれ、雲雀の俺様があの男を参らせてやる。

 彼はもっとオーソドックスに、やはりこのビルのどこかに雲雀の巣があって、それを守ろうとしていると見るのが、妥当な線だと考える方向に傾いていった。しかしやんちゃな雲雀の攻撃から、雄の雲雀と捉えたが、果たして雄鳥が卵を産むだろうか。大きな疑問に突き当たったとき、ヘルメットが持ち上がって前に傾いてきた。彼は慌てて鳥を追いはらぶべく、後ろに手を持っていった。
 そのときである。陽光を遮って、そのロープの影が斜めに降りて来た。なんと雲雀がもう一羽、彼に絡んできたのである。これで先程からの疑問が氷解した。はじめからいるのが雄なら、これは雌だ。その逆だって、いっこうに構わない。とにかくこれは一組の雲雀のカップルなのである。
 斜めの影がロープのように降りてきたときから、彼はこの鳥を不吉なものとして、本格的な排除にとりかかった。ブランコ師の仕事柄、ロープは垂直に垂らす以外、あってはいけない邪悪な行為だったのである。いかに愚直に見えようとも、物はまっすぐ下に落ちるという自然の法則を踏み躙ってはならなかった。ロープを斜めにして這うなどもってのほか、いかに仕事がはかどるからといって、蟹の横這いなど決してしてはならなかった。にもかかわらず、この鳥は、ロープを斜めに張り渡して、その影と一緒に飛び込んできたのである。これは悪魔からの使者だ。
 こうなると、ヘルメットを持ち上げようとしている雲雀を追い払うのにも、非情な力が働いて邪険になった。その彼の手をしきりに突付きにきたが、そこに第二の鳥が滑り込んで入れ代わったのである。彼は不吉な黒い影の鳥を手探りで追いかける。すると逃れ出た最初の鳥が、彼が拭いていたガラス窓に貼りついて、ばたばたやりはじめた。相手はすべすべしたガラスなのだから、翼を振っていなければ、一箇所に留まってなどいられない。この鳥は窓ガラスの中に何を見たのか、中に飛び込もうとして翼を全開にして打ち振っている。休日につき、室内は真っ暗で誰もいない。映っているのは、翼を広げる自分の姿だけだ。その鳥に手を焼いている彼の姿も映っている。鳥に関わりだしてから、仕事はまったく捗っていない。
 えい、面倒だ。彼はその鳥を捻りつぶしてやる勢いで手を伸ばしていく。手に握ったものを、力任せに地上に向かって投げつけてやればいい。途中までは弾丸のように落下して行き、息を吹き返して翼を広げれば、そこから新しい生き方がはじまるというものだ。もう都会はこりごりと、草木の多い土地へ飛んでいけば、巣作りに相応しい場所も見つかるだろう。
 待てよ、その場合、相手が必要なのか。するとまたここに戻ってくるということか。ちぇ! 彼は舌打ちし、相手を気絶させるほど強く握るのはよそうと思った。そんな骨折れ損の草臥れ儲けはしたくない。そこで彼は、消極的におずおず手を伸ばした。するとどうだ。
 その男の手を翼で打ち叩いて飛び立ち、彼の背中に回った。そこにはバトンタッチした、後から来た鳥がいるのである。まるで雲雀の夫婦交代で営巣に取り掛かっているようなものである。この調子で、抱卵から、雛が孵れば、給餌へと引き継がれていくのだろう。そのための予行演習をしているようなものだ。
 男の中にむらむらと怒りが込み上げてきた。その感情のまま手を背中へ持っていった。すると二羽揃って飛び立つ気配はあったが、蜂鳥のごとく、少しく離れて空中に留まっていて、間もなく一羽が窓ガラスにぶつかってきて、さっきと同じく翼を広げてばたばたやりはじめた。しかし動作は同じでも、よく見ると鳥の個体はさっきとは違う。こちらは骨格が頑丈で身がひきしまっており、精悍な感じがする。これは雄だ。彼はそう直感して、すると同類への敵対心へと憎しみが募った。こうなると単なる縄張り争いではなく、雄対雄の熾烈な戦いとなった。
 彼は拳を固めて窓ガラスを直撃する。びんと窓全体に震動が走ったが、既に雄鳥は逃げた後だった。逃げても彼の背に回って、ひそひそ何やら次なる作戦を示し合わせているようだ。彼は怒り心頭に発して、窓ガラスを叩いた空拳を、そのまま背へと運ぶ。すると羽音と風だけ彼の感覚に伝えて、飛び立ち、しばし空中で待機し、一羽が窓へと移って来る。彼は今度こそと、鳥の隙をつくようにして拳を運ぶ。

 そんな愚行を繰り返しているうちに、男はついに精悍なほうの鳥を掴んだ。いや捕まえたという自覚があった。しかし凝視すると鳥の姿は失われている。どこへ消えたのだろう。捕えた感覚はまざまざと残っているが、逃がした記憶はないのである。逃れ出た姿を見ていないのだ。
 彼は細心の注意を払い、拳の手をもう片方の手の指で、一本一本開きにかかった。昔見た、奇術師が掌の中から緑の鳥を飛ばした芸を、目の当たりに思い浮かべていた。あの緑色の鳥が、奇術師の掌に納まってしまう。文字通り掌中にしたのである。
 そんな芸ができるものなら、自分もその栄光によくしたかった。ブランコ師から奇術師への転身。やることはがらりと違うが、置かれた立場上から来る決意の点で、さほど大きな開きはない気がする。 高空でブランコに腰掛けての窓拭きと、舞台上で奇術が不首尾に終るかもしれないという緊張と、どちらにインパクトがあるか。高所を怖れる多くの者なら、命懸けの戦慄を、ブランコ師のほうに見るだろう。ただ普通は、視点をブランコ師の位置まで運んでこないのだ。見上げはしても、見下ろしはしない。見上げるのと、見下ろすのとは格段の違いがある。
 星を見慣れている人間の目には、高いところを見上げる分には、さほど抵抗を感じないのである。まして地上百メートルのビルの窓で、ブランコ師が作業をしていたからといって、驚異の目で見上げたりはしない。それが翻って、ブランコ師のいる高さから、地上を見下ろした場合、どういう反応を示すか。おそらく当のブランコ師にも、大衆の心のなかを推測することはできないだろう。
 そもそも、ここよりもっと高い空を飛行機やヘリコプターが飛び交い、飛行船が漂い、大きなアドバルーンが揚がっているのである。看板の電光写真や文字も彩り鮮やかに、流行の最先端をいっている。そんな引き立つものの間に、まったく目立たない作業着のブランコ師が貼りつき、せっせと窓拭き作業をしていたからといって、いったい誰の目に留まるだろう。ブランコ師はむしろ、目立たないのを誇りとして生きているのである。

 そんな彼は今、雲雀に目立ってしまったことで、悪戦苦闘をしているのだった。確かに握ったはずの雲雀が消えてしまった。かつて奇術師が見せてくれたように、不可能なことではない。可能なら一羽の雲雀は手の中に入っているはずだ。それを確かめるためにもう片方の手で、指を開かせていく。自分の指でありながら、右手と左手は別人のものであるような、おかしな感覚になっている。汗が滴り、目に入る。見届けなければならない大事なときに、何ということだ。彼は腰に紐で繋いだタオルで汗を拭う。
 彼は拳の一本一本の指を開いていき、最後の小指ですべての指を開き終えた。その間に逃げ出していく鳥はなかったので、拳の中は空だった。だがそう思ったとき、手底から腕のほうへ、するすると滑り落ちたものがある。どこへ消えたかと探すと、膝の間に一本の羽毛が挟まっていた。彼はそれを摘まんで目に近づける。間違いなく雲雀のものだ。ということは、押さえ込んだのは確かだったのだ。そして逃げていった形跡はない。押さえたのに、逃げ出しはしなかった。すると、この一本の羽毛に、縮まったというのか。はたして再生は可能なものか。
 彼は先程、雲雀を押さえ込んだときを再現するため、羽毛を握り締めて、その拳を窓ガラスにぐいぐい押し付けていった。次に拳を開いて、羽毛をガラス窓に密着させ、それを開いた掌で抑えていった。
「おい、雲雀よ出て来い」
 そう叫んで窓の中の闇を覗いた。確かに闇だ。休日の闇の静まりだ。彼は前掲姿勢になり、その闇の中を探るように視線をめぐらせた。闇に目が慣れてくると、「東南アジアの恵まれない子らに愛の手を」とか「アフリカを飢餓から救え」などというスローガンの文字が読み取れる。この部屋は世界の救済に関わっている事務所か。彼は世界に関わる事務所の窓拭きをしているということで、気持ちが大きくなる。
「それを妨害しようとする、雲雀の悪党め、でて来い!」
 彼は羽毛を窓ガラスに押し付けて叫ぶ。声が嗄れているので、ドリンクのボトルを傾けて飲み干す。もう飲料水は残っていない。ここ空中では、自動販売機で買うようなわけにはいかないのだ。彼は目先の雲雀との戦いで、先のことなど考えていられなかった。
 何故という理由はないが、先程から雲雀が室内にいて、彼を睨んでいる気がしてならなかった。彼は窓の中をいろいろな角度から物色していった。自分のいる側の外の世界も映ってくるので、識別が難しいのだ。ここは高所で、街路樹ははるか下になっているので、見えているのは室内の観葉植物らしい。
 部屋の奥から窓際まで目を移してきて、彼はたじろいだ。小鳥が一羽〈雲雀に決まっている)中から顔がガラスにくっつくようにして、彼を見下ろしているのである。彼が見つけ出す先に見られていたという衝撃が走った。しかしどうやって中へ飛び込んだというのか。窓は残らず閉まっているし、換気扇らしきものもない。孔などどこにもない。しかし奇術師から発して、一本の羽毛、羽毛から母体の再生という、線を引くことは可能だ。理論ではなく、あくまでも、あやふやな奇術を母体とした理屈である。
 彼は一羽に集中するあまり、背後に隠れている最初からの鳥を忘れていたのである。その一羽の鳥が、ひょいとヘルメットの上に跳び乗って、何をしているのかと、部屋の中を物色する窓拭き男を、見下ろしていた。それがそっくり、室内の闇を背景にした窓ガラスの鏡に映りこんでいたのである。
 そうとは知らずに、彼は今しがた見えた鳥影を探して血眼になっていた。詳しく調べるために窓に目を密着させる必要を感じ、額をガラスに押し付ける。かつっと、ヘルメットがガラスに当たった音にも気づかなかった。続いてヘルメットがはがされ、顎紐が外れて落下していくのにも気づかなかった。
 ヘルメットは各階のコンクリートの出っ張りにぶつかり、からころ乾いた音を発して地上へ落ちていった。ヘルメットが消え、足場を失った最初からの雲雀は、一度彼から離れるべく飛び去った。彼が探す雄鳥はどうなったのか。
 彼はガラスに顔面を密着させ、今や左右の手を拳にして窓を打ち叩いて叫んでいる。
「おい、雲雀め、出て来い。出てきて田園に帰れ。お前に必要なのは都会のビルなんかじゃない。田舎だ。原っぱだ。草原だ。今は過疎化で、自然は溢れている。そこに帰れ。放射能の汚染は、田園だけじゃなく、どこにだってある。都会だって同じだ」
 彼は窓ガラスが鳴動するほど叩いた。休日でもなければ、この中の一室を事務所とするPKOの職員が、窓に歩み寄って、彼を覗き込み、すぐにも救急車の手配をするだろう。


 黄色いヘルメットは、ビルの壁に当たっては跳ね返されながら、休日の真昼間の路上に落ちていった。通行人はそれを見て、とっさに事故だと察し、あたふた自分の逃場を探しながら頭上を仰いだ。
 百メートルになんなんとする高層ビルの窓に、一人の男が張りついてしきりに手を振り上げている。しかし助を求めているようではない。地上、つまり路行く人々に向かってではなく、窓に向かって手を振り上げ、さかんに叫んでいるのである。
 ヘルメットを落としたくらいだから、突発的なトラブルに遭遇したと思えるが、どうも救いを求めているようではない。怒り狂って、拳を振り上げているようなのだ。しかし窓の中からの反応はまったくうかがえない。そもそもこのビルの窓は開かないようになっているし、叫んで声が通るとも思えないのだ。ではいったい何をあの男は訴えているのだろう。
 通行人の一人はヘルメットを手に取り、手掛かりになるようなものはないかと、引っくり返したりしながら調べている。ヘルメットが落ちていた近くには、空のペットボトルも転がっていた。
 定年を過ぎたと思える六十代の男性が、ヘルメット、ペットボトル、男の張りついている高層ビルを線で結ぶようにして見ていたが、彼なりの判定を下すように言った。
「あれは、多分、熱中症ですよ。意識があるようでないようなもんです。しきりに窓を叩いていますが、自分で何をしているか分らんのですよ。こうなると、救急車を呼んだほうがよさそうですな。この高さでは、梯子車も届かないでしょうが、ヘリにするかどうかは、専門の方に任せるとして、とにかくパトカーに来てもらいましょう」
「あ、それなら今、連絡を取りました」
 窓拭き男の下には、土俵を膨らませたほどの空間ができていた。何が落ちてくるか分らない不安が、人々をその周りの安全地帯へ退かせていた。携帯をかざして、連絡したと言ったのは、土俵ほどの空間の、向こう側にいる青年だった。
「さすが、若い人には敵わない」
 六十代の男が若者を褒め称えた。間もなく救急車のサイレンが、休日の街並みを貫いて沸きあがった。その早さに、どよめきの声が上がった。
 サイレンが大きくなり、歩道と接する位置に停まった。すぐ拡声器つきのマイクで、高層の男に呼びかけがはじまる。
「アー、アー、こちら警視庁パトカー。窓拭き作業に従事している方、聴こえますか。聴こえたら、地上に向かって手を振って下さい。アー、アー、聴こえますか。高層ビルに上っておられる、男の方。聴こえたら、地上の方に向かって手を振って下さい。反応なし。この分では、近いところまでエレベーターで昇って、確認したほうがいいな」
 パトカーの同僚ヘの声も、拡声器に入っている。このとき、高層ビルの、窓拭き男のいる場所に近い階の踊場から、地上に向かって手で信号を送る者がいた。どうやら先ほど、パトカーの要請をした若者らしい。手のしるしは何を意味するのか、×印に見える。若者は駆けつけたパトカーにも、すぐ携帯で伝えたらしい。何、窓ガラスに、顔をつけて、眠り込んで、しまった。若者からの情報を伝え聞いた警官の、そんな声の断片が、聞き取れる。
 間もなく、別なパトカーが駆けつけ、白バイも来て、何人かが若者のいるビルの階へと向かっていった。
 ラテン音楽なのか、ジャズなのか、男を眠り込ませないための音響が、けたたましく鳴り響いた。パトカーからこんな音が流れるなど、前代未聞だ。
 ビルに上って行った救急隊からも、拡声器で窓拭き男を呼び覚ますべく呼びかけがはじまった。その声が地上に向かって降ってくるのだ。
 窓拭き男は今、どんな夢を見ているのだろうか。ロープを斜めに張って降下してきた雄の雲雀は掌に入ったのだろうか。斜めに不吉な黒い影を曳いて侵入してきたものを、今こそ手放し、あっぱれな芸を披露するときではないのか。それを見せるための群集は、地上に膨れ上がって押しかけて来ている。昔奇術師がして見せた、貧弱な舞台ではない。日の煌めく白昼の通りを、ぜひ目に収めたいと集まってきている民衆なのだ。
 日頃の楽しみなど何一つとしてないひとりひとりなのだ。そうでもなければ、こんなに寄って来はしない。群集どころか、警視庁のパトカーまで駆けつけ、間もなく梯子車が来るだろう。犯人を逮捕するためではなく、救済するためだ。垂直に降りるだけという、もどかしくはあっても、誠実な動きしかしない善人を、何としても救い出したい一念で駆けつけている。群衆も今やその感化を受けて、堕ちずに、天へ昇れと祈って見守っている。
 間もなく梯子車が来て、アームを伸ばしていった。先端には転落した体を支えるための受皿のようなものがついている。そうか、この高さから落下したら、いくら地上にマットを厚く敷いても助からないから、少しでも距離を縮めて受け留めようというわけだな。
 そうこうしているうちに、空に爆音を響かせ、救急ヘリコプターがやって来た。ヘリコプターから命綱で繋がれた一人の救急隊員が降りて来て、男を背後からブランコごと抱え込んだ。ブランコから男を放して連れて行くのかと思ったが、そうはしなかった。絶対に離れないように固定した窓拭き用のブランコから、男だけ切り離していくのは、かえって危険と見ての処置だった。一度屋上に出て、そこに駆けつけていた他のブランコ師の手を借りて、男を自由の身とし、それからヘリコプターに収容して、緊急病院に搬送するてはずになっていた。
 屋上はヘリが降りられるようにはなっていなかったから、空中に留まって男が窓拭き用のブランコから解放されるのを待っていた。地上の群集はそれを固唾を呑んで見守っていた。
 そしてついに男が吊り上げられていくのを見届けた。男はらくらくヘリコプターに吸い込まれていき、扉が閉められると、青空に爆音を轟かせて飛び去った。

 あの雄の雲雀はどうしたのだろう。低迷していたその疑問は、男がらくらく空中に吊り上げられていくとき、綺麗に解決をみていた。あの邪な雲雀は、男の手で一糸残さず握り潰してしまったのだ。
 悪い種を地上に撒き散らしてはならなかった。影の太陽はいらない。太陽は一つでたくさんだ。雄の雲雀は、一時雌を誘惑し、こぞってブランコ師に襲いかかった。
 今は一匹だけが、青い空に融けて、あたかも声だけのように囀っている。天真爛漫、きらめく雲雀の声である。
                      了
 

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