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文芸の里コミュの夜の汽笛

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         Rachmaninov - Andre Previn - Symphony No.2 Mvt.3 (1/3)

 ☆夜の汽笛


 遥か沖を、船が汽笛を鳴らして通る。
 海に面した寂れた村である。柿が稔ったが、採る人も、食べる人もいない。あたかも咲いて散る花のようだ。
 人のいなくなった村里の、あの家、この家。あの家と、この家の、娘と息子が、大都会で夫婦生活をしている、などとは誰も知らない。
 もっとも、そんな例はめったにあるものではない。奇跡に近いが、まったくないわけではない。まれにはある。いや、過去形ではあるが、あった。
 身を寄せ合って暮らしていた二人であったが、身すぎ世すぎで破綻をきたし、女が家を出て行った。そこに居れば戻ってくるかと、男は糊口をしのぎつつ待っていたが、女は帰らず、そのうち都市開発の波が押し寄せ、立ち退かなければならなくなった。
 男は僅かな立退き料を手に、故郷に戻った。他に女と連絡を取れる場所がなかったのだ。やがて女も世の中に深く傷つき、故里に救いを求めて帰って来るだろうと。

 男を迎えたのは人ではなく、柿だった。どの家ももぬけの殻で、柿が花盛りだった。柿の花盛りではない。柿の実が花のように咲き誇っていた。
 男は豊穣な重みに垂れている枝から、一個をもぎ取ると、口に運んでいった。がぶりとやると、太陽の熱を蓄えていて、驚くほど温かい。彼は二個三個と頬張り、満腹した目で柿の木を見上げる。
 尖端の枝に鴉がいて、男を見ている。その上の青い空に、白く昼の月がかかっている。
 今では荒地となっている庭と畠の境目あたりを、狐が人に愛着を示しながら横切る。狐と見たが、どうやら野生化した犬のようだ。

 男はさっそく昔の我家の整備に取り掛かった。草臥れていて、意気が上るほどではないが、とにかくここに人が住んでいることだけは、報せなければならない。そのために煙突を高く伸ばして、いつも火を絶やさず、煙を出しつづけていようと思った。
 そうすればあの女が帰ってきたとき、素通りして行くことはないだろう。たとえ女が戻って来ないにしても、ここに人間がいることだけは、外部に報せてやりたかった。
 沖を行く船がたまに汽笛を鳴らすのも、信号を発して他者に自らのありかを教えていくのだと思えた。たとえ船に何千人乗っていようと、大海に出ればまとめて一つに過ぎないのだ。その一人が周囲に俺はここにいると、信号を発信して通って行くのだ。
 煙を出すために燃やす燃料はいくらでもある。何といっても周囲はすべて空家で、廃屋に等しい。鍵をかけず、ドアを釘付けしていなければ、まず二度と戻ることはない。見捨てて行ったと見てよい。二軒に一軒、いや三軒に二軒は、そういう廃残の家だ。未練はあっても、帰還できない家だ。
 男はこのような空家から、ブリキの煙突やら土管を貰ってきて、自家のストーブに取り付けていった。
 帰郷した日に、女の家にも行ってみたが、数年前に祖母と女の母が出たままのようだった。女はそれより三年前に、家出同然に家を出たのである。
 男はそれより二年先に古里を離れていた。既に父はなく、母は男の姉に引き取られて、南の都会へ移っていた。
 女の家に鍵はかけてあったし、ドアは釘付けにしてあった。だから女にそのつもりがあれば、いつでも戻ることはできるのだ。
 都会から帰郷した男が、空家から廃材やら家具その他を集めて、自家に運び込むようなことになるなんて、考えてもみなかった。それを見て咎める者は一人としていないのである。盗むのにも、見つからないようにするところにスリルがあるのだろうが、それが皆無ときている。彼は逆に、何か音高く鳴らしてやりたくなるが、ここには危急を報せる何ものもない。
 一軒の空家に立てかけてあった古いリヤカーを借りて、それに土管やら薪になる古板を積んで、一人で道なき道を歩いていると、またあの狐に似た犬に出合った。犬は道を横切るとき、顔をこちらに向けた。男を振り向きながらの犬の視線が、どうも男を疎んじているように思えてならない。一度棄てて行った故郷に戻ってくるようなものは、ろくでもない奴だ。そう値踏みしているようなのだ。 
それでも男は、自分を知っているものが、一匹でもここにいると思えて、心強かった。
 あの女はいったい、どこをうろついているのだろう。自分と関わるものがいないというのは、何とも心細いものだ。
 全知の神は、やはりいてくれたほうがいい。それでなければ、人間はあまりに寂しくて惨めだ。
 男はそんな思いを込めて、庭で焚火をした。燃料は廃屋からリヤカーで運んできた。椅子やテーブル、古い箪笥なども火に投げ込んだ。沖行く船からも、この火は見えるはずである。汽笛を鳴らせば、海と陸との応答ということになる。箪笥は嫁入り道具だったのであろう。その人はもうこの世にはいない。箪笥が崩れるとき、火の粉が爆ぜて、一瞬花火のように夜を彩った。
 このときである。背後の海から警笛が届いたのは。警笛は六、七度短く気忙しく鳴らされた。いやもっと何回も鳴らされた。今もつづいているから、六、七回どころではない。
 こんなに大きく都会を離れた孤島にも等しい、辺鄙な廃村に関わって生きるものがあるとしたら、あの女のほかには考えられない。彼女は今日本を離れ故郷を捨てて、海外へ旅立つところではないか。
 そうは言いながら、故郷のことは気になっていた。いさかいの後には、彼が故郷に帰ってやり直すと語っていたし、今音信が断たれているとなると、故郷に舞い戻っているとしか考えられなかった。
 女は、故郷の岬の沖を通過するときには、汽笛を鳴らしてくれるように、船長と上級の船員に頼んでおいた。彼の憶測するところの女は、そのくらいのことのできる女だったのである。
 汽笛は一度鎮まったが、一、ニ分してまた最初からやり直すとでもいうように、夜の海原をどよもしてきた。音のする方角へ目を凝らすと、薄っすらと横二列の明かりが、暗い海を幽霊のように流れている。くっきりとした船体は見えないが、大きな客船であろう。その中に船客となっている女を、彼は視覚ではなく、霊の目で捉えた。
 女が苦難の中から信号を発信してくるとなれば、彼はそれに応えないではいられなかった。焚火を彼と見て、発信しているのであれば、もっと火を大きくして火勢を強めてやればいいのか。
 彼は傍らに積んであった他人の家の家財道具を、片っ端から投げ込んでいった。先程のものとは違う、別の家の嫁入り箪笥も焚火の真ん中に放り込んだ。これでもか。彼は何故か気が大きくなってそう独りごちた。そうだろう。音信もなく、完全に断たれたと思っていた女が、彼との最期を刻印するかのように信号を送ってくるのである。
 彼は火を壮んにするだけでは気が済まず、焚火の中に飛び込んだ。そうではなく、焚火を飛び越え、燃え盛る火を背にして、暗黒の海に向かって立った。両の腕を広げ、左右の脚を大きく開いて、大の字を形作った。火を遮って出来た暗黒の大の字。小心翼翼として、一度も女に示すことの出来なかった彼が、いま身を以って演出する大の字。
 沖の客船は、汽笛の最後を、長々と尾を曳きながら夜の航海へと突き進んで行く。
                          了

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