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文芸の里コミュの空を泳ぐ男 No1

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          G. Gershwin - Rhapsody in Blue, FORTISSIMO FEST 2010 


 秋とはいえ、日中はまだ汗ばむばかりの暖かさだった。
 Kは旅先にあって、日本有数の大都市の駅前広場にいた。生垣も青々として生気を保っている。日の雫が、葉の一枚一枚を元気づけているようだった。
 週日とあって、ベンチは空いている。Kは空いたベンチの一つに腰掛け、自販機で求めた缶コーラを片手に、これから電車で出かける次の都市について、思いをめぐらせていた。
 広場のベンチに寛いでいるのは、Kのような旅人とか、老人、子供を遊ばせる主婦といったところだったが、広場の境にあたる建物の周辺となると、人々は忙しなく動き回って、そのほとんどはこの都市の住民と見受けられる。
 旅人と住民、そういったちぐはぐな人間模様が織り成す都会の空に、Kは何気なく目をやった。というより、缶コーラの残量が少なくなって、缶を大きく傾ける必要から、自ずと空に目がいったというべきだろう。
 その目の片隅に、Kは異様なものを発見してたじろいだ。何だあれは? 驚きのあまり、コーラが器官に入って呼吸が苦しくなった。噎せるのをこらえて、再び空の異物に視線を放った。裸の男が一人、空を泳いで来るのだ。Kはそれが夢であればいいと願った。本心からそう思った。
 Kは夢であれかしと、祈りを込めて、自分の周囲を観察した。すると季節おくれの花々が、一斉に開花したかのように、面々が空を見上げて放心しているのだ。それだけではない。広場の周辺を動き回る人々も空を見上げて放心している。しかも皆が皆、信じられない、人を騙すのもいい加減にしてくれ、心の中でそう言っている。
どこかぼーっとして、最初にKが感じたときと同じ、夢の気分で眺めている。
 彼らは周囲を見渡し、他人も揃って空を見ていることから、どうやら夢ではないと認識していくらしく、動揺は本格的なものになっていった。人がばたばたと倒れていくではないか。見てはならないものを見てしまった、禁断のものに手をつけてしまった、そういう何とも情けない表情になって、腕を後方に投げ出すような格好をして、あたり構わず崩れ落ちていくのだ。他より発見するのが早かったKとて、例外ではない。
 後頭部を殴打された感覚になり、ベンチに仰向けに倒れこんでいった。すると何と、そのKを嘲笑うかのように、すぐ真上の空を紺のトランクス一つの男が、抜き手を切って泳いでいくのだ。これでは、見たくなくても目に飛び込んでくる。彼の目には、男の臍まで見えた。
 水泳の泳者のように口など開いてはいない。面を上げまっすぐ前方を見据えている。その目は険しいながら冷静で、不安や恐怖の翳りはない。空には風があるのか、いやこの速度で進めば、自ずと風も生まれるというものだろう。髪は背中の中ほどまで靡いている。
 Kはその男の年齢を、自分より一回り若い三十半ばと見た。Kは自分より人生経験の乏しい者を青二才と呼んでいたが、今やその青二才に先を越されるどころか、完全に制空権を握られてしまったのである。
 それは一人、Kだけではなく、老若男女を問わず、すべての人間について言える。こぞって一人の男によって制空権を握られてしまったのである。空を泳ぐ男が正であるなら、我々人類は負だ。負の側に落されてしまった。これからは、負の領域で生きていかなければならないことになる。
 男がもし、鳥のように両腕を翼の代わりに上下に揺すって、飛んで行ったのであれば、まだ我慢ができる。腕を翼と見ればーそれだって常軌を逸してはいるがーその翼を秒速何千、何万回という高速で打ち振ったとする。そうすれば人体を空中に持ち上げることも可能な理屈にはなる。
 しかしたった今、目の上の空をゆうゆうと泳いでいった男は、水泳の選手が水中で抜き手を切るように、空中で抜き手を切っていたのである。こうなるともう、嫌でも敗北を認めなければならないことになる。もしKにアニメの才があれば、「ひとりの男に制空権を握られた日」と題して、空を泳ぐ男の下に、Kを筆頭に、仰向けに倒れこんだ群像を描いたことだろう。この後に人類には何がもたらされるのか。不吉だ。ひとりの男が歴然として空中を泳いでいくのであれば、そうできない人類は、負の側に生きることになるのだ。
 Kはうらぶれ、朽ち果てた落葉の一枚のようになってベンチに倒れこんでいた。今はもう、泳ぐ男を最初に目にしたときのように、夢かうつつか定まらない、ぼんやりした精神状態ではなかった。はっきり目覚めて、空を泳ぐ男の存在を認めた上で、敗北宣言をさせられていたのである。その証人は周りに倒れこんでいる人々だ。彼等とて、Kと同じ心境だったであろう。敵機の襲撃にあって一網打尽にされた群れの中にいるようなものだった。
 それだけ痛めつけられたKに、なお一縷の望みがあるとしたら、いやその希望に縋りつこうとして、彼は助かる可能性をたぐりよせようと、必死になっていた。それはあの男が自らの力で空中を泳いでいたのではなく、上から目に見えない飛行船のようなものに操られていて、彼は抜き手を切るポーズだけをしていたのではないか。
 Kはそうであって貰いたいと、祈るような気持ちになっていた。
 また別な可能性も気泡のように浮かび上ってきた。それは強力な浮き袋を身にまとって浮力を得ていたとする考えだ。しかしこれはあっさり打ち砕かれた。男の臍まで見えたくらいだから、浮袋に覆われていたとは思えない。だがごく小さな袋でも、人体を空中に支える威力のあるものが発明され、その試験飛行をしていたとは考えられないか。
 このとき、アスファルトの路上を踏み鳴らして、数人の男たちが駆けてきた。男たちは芝生に踏み込み、足音が消えて草を擦る音に変わった。
「YCビルに正面から向かって行きます。このままでは間違いなく
ぶつかります」
 そんな声とともに、男たちがKの傍らを駆け抜けて行く。
「あ、二十階の手摺につかまって、ただ今そこに降りました」
 一人がこう言うと、別の男が、
「現場を押えられる写真を撮って。証拠を突きつけられるように、ビルの縁から数えられる横長のが必要になる」
「OKです。地上からのと、駅側からのと、二枚押えました」
「よし、行くぞ」
 男たちは荒く息を衝いて、一斉に駆け出して行く。
 Kは今や、この勇敢な男たちに勇気付けられて体を起こし、彼らの去った方角へ視線を投じた。空を泳ぐ男を目撃したからといって、
決して屈服しない男たちがいたのだ。自力で空を泳げるはずはない。何か仕掛けがあるはずだ。それを突き止めてやらなければならない。
それでここまで追いかけて来た。空を泳ぐ男の制空権を認めないどころか、追究して身包みを剥がし、地上に住む我々より下の地獄へでも突き落としてやるという勢いだ。
 Kは立ち上がると、その勇気ある男たちを追った。後三十分ほどで次の目的地へと列車が出るが、それより泳ぐ男によってもたらされた自信喪失、負の境地から脱出することが先決だ。その失地回復がなければ、次の都会へ行っても、仕事など手につくものではない。
 Kはショルダーバックを肩にすると、すでに高層ビルの下に差し掛かっている男たちから目を放さず、必死に追っていった。Kに限らず、他の卒倒していた者たちも、同じように、泳ぐ男の消えたビルの方へにじり寄って行く。
 その中にはKのような旅人の他に、老人や子供を連れた主婦もいた。また広場周辺の建物に出入りしていて、たまたま泳ぐ男に遭遇した者たちも混じっていた。車の中から見た者は、車を置いたまま駆けつけていた。
 成人は皆が皆といっていいほど、力を落しており、いかに見てはいけないものを見てしまったかを、如実に物語っている。数は少ないながら、依然夢の続きを追っているような顔のものもいた。
 子供と犬は無邪気なもので、何故大人たちが空を泳ぐ男に当てられたかのように、意気消沈しているのか理解できないのに戸惑いながら、空を泳ぐ男への好奇心のほうが勝って、高層ビルへ引き寄せられて行った。ただ犬に関しては、どう言ったらいいのだろう。子供の好奇心に感染してはしゃいでいるのかもしれなかった。
 

 先に駆けつけた男たちは、高層ビルの下で、どの窓に泳ぐ男が消えたのかを、携帯に収めた写真で確認する作業に取り掛かっていた。
「二十階の、駅側から十二番目の部屋だな」
 目標が定まると、ぞろぞろとビルに吸い込まれていく。
 その男たちは、ガスのメーターの検診をして廻っていたとか、水道の工事に携わっていたりして、この都市の機能と関わっている人たちだった。中には営業マン風の男も混じっていた。
 Kがビルに辿りついた時には、一台のエレベーターが先陣の男たちを乗せて昇っていくところだった。Kは隣のエレベーターが降りて来るのを待った。泳ぐ男を発見するのは誰よりも早かったが、その意気込みにおいて、先陣の男たちに大きく水をあけられていたのである。一台目のエレベーターに置いて行かれるのは、やむを得ない。Kが次のエレベーターを待っている間に次々と人々が現われて、不安そうに顔を上に向けていた。何を考えているのか。思いは皆同じだった。それを突き止めないではいられなくて、押しかけてきているのだ。それとは、空を泳ぐ男そのものにほかならない。
 エレベーターが降りてきて扉を開くと、人々は雪崩れこむように乗り込む。殺気立つほどではない。ひとりの男に制空権を握られ、負の側に追い込まれてしまっているからであろう。どう足掻いたところで自分たちは敗者なのだ。
 立錐の余地もないほど乗り込んだが、行先を何階にすればいいのか、男の消えた場所を特定できる者がいなかった。相当上の階であるとは目の印象で覚えているが、何階かまでは分らない。皆が皆行先不明の難民の心境になって立っていたが、頭一つ抜きん出た長身の男が、一同の頭の上で自分の携帯に収めた高層ビルの写真に目を凝らしていた。小刻みな顎の動きが、階を数えているのに違いなかった。乗客は一人残らずその男の顔を見上げていた。男が顔をしかめたり、目の動きが虚ろになったりする度に、乗客のうえにも失望の色が現われて、一時はどうしようもないほどの窮地に追い詰められたりした。
「よし、二十階だ」
 長身の男は決断を下して、腕を伸ばしボタンを押した。人々の上に安堵が広がり、すぐ次の不安を招き寄せて、沈み込んだ。男を
目の当たりにしたからといって、いったいどんな希望に繋がるというのか。男が裸同然、トランクス一つの丸腰で秋晴れの空を泳いでいたのは目撃して、しっかり脳裏にやきついているのだ。一目で納得がいく仕掛けとなるような武器があるなどとは、とうてい考えられなかった。
 チャリンとエレベータの着階を報せる音がして、扉が開く。多くのものが手を囚人のように前に組んで降りる。
 どの階なのか、また思案を必要とするのか、気がかりはあったが、
その心配はなかった。一つの扉の前に七、八人の男たちが集まって
中の様子を窺っていたからだ。一人屈み腰になって、合鍵で扉を開けにかかっている。
 今エレベーターを降りた一団が、足を忍ばせて寄って行くと、男たちの顔がこちらに振り向けられた。しかし彼らに、追随して押しかけてくるものを制止する資格はない。それに気づいたのか、合鍵を遣う者に集中して呼吸を合わせる。そうこうしているうちに、三番手の一行を乗せたエレベーターが着いた。
 彼らが降りる前に、合鍵が合致して扉の男たちが吸い込まれていた。そこにKを含めた二番手が走りこんだ。

 二十階12号室の中は、空の机の上に椅子が積まれて、片隅に寄せてあり、何とも殺風景なただずまいだった。部屋の中央で一人の男が、下着の上にシャツを着用しているところだった。無断で合鍵をつかって男たちが侵入して来たとあって、慌てふためくというより、不当な侵入に抗議するといった態度を見せて、全身をこわばらせていた。
「誰の許可を取って、入ってきたんですか」
 と男は言った。
「誰も彼もないよ、いくらブザーを押しても、ドアをノックしてもまったく応答がないとなれば、当然のことじゃないかな」
 男たちの中で中心核と見られる、やや年長の男が言った。
「あなたたちはいったい誰です?」
 とこの部屋の住人が言った。
「それはこちらが訊きたいところだよ。君は誰の許可を取って、空を飛んだりしたのかね。飛ぶなんてものじゃない、我々を愚弄するようにして、抜き手を切って泳いだりしたのかね」
「空を泳いだですって?」
 この部屋の住人は、驚きを隠しきれないといった顔で、攻め寄ってきた。
「そうさ、颯爽とクロールで横切ってきたのさ。我々民衆を馬鹿にしきって、領空侵犯もいいところさ。しかもトランクス一つといったスイマーのいでたちでね。素っ裸同然で、都会の空を横切るなんて、ただごとではない。多くの人間が、頭上を越されたんだ。たった一人の暴挙にも等しい道楽のために、それを目撃させられた市民がプライドを傷つけられ、自信を喪失した。敵国の飛行機が、無断で空を横切ったようなものさ。敵機なら航空自衛隊が出動して、警告を発するなり、従わなければ、撃ち落とすところだ。それがならなかったのが、今回のような不測の事態だ。まさかトランクス一つの男が空を横切るなんて、どのレーダーで捉えられるか。とすれば、反撃は我々市役所職員の、勇気あるボランティア精神に委ねられる」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ。何回も言いますが、その空を遊泳した男と、この私とどんな関わりがあるというのです。私はその泳者を目撃もしていないし、まったく関係ないですよ。私は空どころか、バイクで少し前にここに到着して、今着替えをしているところですよ。陸を走るのを取り締まるにしても、私は信号無視なんかしていませんからね」
 年長者は気圧され気味に半歩後退した。彼はこの者が空を泳いだ男であると信じていた。それ故に、男の秘める底知れぬ力を怖れていたのである。
 年長者が退くと、後を引き継ぐとばかりに、同じ課の部下とおぼしき若者が、携帯を振りかざして躍り出た。
「我々は証拠写真を押さえているんですがね。それを見ると、どうしてもこの階のこの部屋にいきつくんですよ。二十階の、十二号室に」
 若者は上司の形勢不利を挽回するチャンスとばかりに言い募る。
「そう言われるなら、いいですよ。この部屋に泳ぐ男が侵入したとして、どこから入ったというんですか。このビルはほとんど窓が開かないようになっているんです。この分厚いガラスをぶち破って入ったとでもいうんですか。ちょっとこちらへ来て確かめて下さいよ。
どこかに抜け穴があるかどうか」
 十二号室の住人がそう言うと、ぱっと三、四人が窓辺に接近して、脇に寄せたカーテンの裏側を探ったりした。
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