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文芸の里コミュのヴェロニカ

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                  ラヴェル・亡き王女のためのパヴァーヌ



 ☆ヴェロニカ


 彼は仕事の帰り、時間があったからブックオフに寄って、文学書の前に立っていた。書架の上には、105円と表示がある。ここで読みたい本が見つかれば、もうけものである。
 以前、フイリップ・トゥーサンの浴室という本を見つけて小躍りしたことがある。新品同様の探していた本だった。
 今日はそういった掘出物は見つからなかった。もっと高価な表示のあるコーナーなら、あるいはあるかもしれないが、そこまで出費するつもりはなかった。高価になればなるほど、読んで感動がこなければ、無駄をした気になるのである。
 彼は文学書のコーナーを離れて、出口へと向かった。途中に画集のコーナーがあるので、立ち寄ってみる。これも欲しいものがあるというより、画集を繰って、目の保養になればと思ったのである。彼の職業からすれば、文学書よりむしろ、美術書のほうが適っていたかもしれない。
 画集の背表紙を見るともなく眺めているうち、ざざっと心臓の波立つような衝撃が起こった。ルオーの画集である。かつて、これを手に入れるのに、わざわざアルバイトをして購入したことがあった。画学生であった時代。そういっても、まだそれから四年は経っていない。
 彼はルオーの画集を手に入れはしたが、卒業を控えてのコンパとかに出費が嵩み、その新品の画集を、どうしても手放さなければならなくなった。他の本は、それぞれ、時に応じて売ってしまい、残っているのは、その画集一冊きりだった。他にある書籍といえば、マーカーで線を引いたり、書き込みをした教科書として使用したもので、とても売り物にはならなかった。
 彼は一冊のルオーの画集を手に、日本でも古本屋街として名のある神田の神保町に出かけた。別に名の通った古本屋を選ぶつもりはなかった。そこが一番学生寮から近かっただけのことである。
 古本屋のなかでも、画集を扱っていそうな小規模な店の扉を押した。奥まったレジに、中年過ぎの店主とおぼしき女性が、梟のように眼を光らせて坐っていた。外光が乏しいせいか、女性の顔は蒼白くくすんで見えた。古書を探すのが目的ではなかったから、まっすぐその女性に向かって行き、
「これお願いします」
 とルオーの画集を出した。この画集が手に入ったときの喜びと、今それを手放さなければならない悔しさが、綯い交ぜになって脳中を駆け巡っていた。
 店主の女性の上には、外光だけではなく、室内の灯りも届いていたが、それを併せても蒼白く冴えない肌の色をしていた。痩せていることも、肌が光を反射させずに艶を奪ってしまうせいか、とも考えた。ルオーの画集の中にも、こんな女性がいたなと、よけいな感想までめぐらせていた。
 店主の女性は苦りきった表情で、画集を手に取っていた。古書店とあるからには、古書との喜びの出合いもあっていいはずなのに、彼が差し出したルオーの画集に対しては、喜んで迎え入れる態度は微塵もなかった。画集の表紙の裏表を返す手に填められた指輪だけが、異彩を放つように光っていた。
「この手の画集は、多く出回っていますからねえ」
 と彼女は洩らした。
「買ったばかりで、新品ですよ」
 彼は負けてはならじと、そう言葉を返した。
「それは分るけれど……」
 と彼女は彼の意向は認めても、本の中を調べようとはしなかった。見てもはじまらないといった見下し方だ。
 それに対して彼は、〈それなら他の店に行くから〉という、売り手側の唯一の作戦を用いようとは考えなかった。どうしてか、ここで撥ねられたら、他に引き取り手はないという絶望的な思いに縛られていたのだ。
「どうしてもお金が必要なので」
 と彼は迫った。
「分るわよ、それは。本を手放す人は、みんなそうだからね」
 こう出られると、返す言葉がなかった。
 彼が黙ってしまうと、
「必要なお金って、何なの。遊ぶお金?」
 彼は女性の不躾な言葉に腹が立って、
「いや、食事代ですよ」
 と言った。実際その通りだった。家庭教師の月謝を貰うまでには、一週間待たなければならず、それまで食い繋がなければならないのに、寮の食券を買う金もなかった。
 店主は彼の言葉の信憑性を探るためか、ちらっと面を上げて、厳しい眼を向けた。このとき、実にタイミングよく、彼の腹の虫がグーと鳴いたのだ。店主の厳しい表情が崩れていくのが分った。それに棹さすように、彼の腹の虫がまたグーと鳴いた。
「この定価の一割でだって、受取れないのよ。いくら新品同様に新しくても、それが相場なの。大家の原画なら、何億とするでしょうけど、それがコピーの哀しいところね」
 店主はそう言って、手元の金庫から二枚の紙幣を出して、彼の前に滑らせてきた。紙幣の上に硬貨をまとめて置いたので、それだけ出すという意味に取れた。それは彼が新品を購入した定価だったのだ。
「身分を証明するものは、お持ち?」
 彼は美大生の身分証明書を出した。そこには今のように草臥れた顔ではなく、希望に胸膨らませている溌剌とした顔があった。
 店主はそれを眼に近づけて確認すると、
「これからは、大切なものを売らなくていいように、しっかり勉強なさい」
 と言った。
 彼は恐縮して金を受取り、財布にしまいながら、
「突っ返されるのではないかと、はらはらしていましたが、助かりました」
 こう言ったとき、三度目の腹の虫が鳴いたのだ。食料費を調達した安心があったのか、前の二度より大きく鳴いた。昨日の夕食と、この日の朝昼と、何も食べていなかったのだ。
「ほらほら、ここでそんなデモンストレーションをされるから、黙っておけなくなるのよ。さっきお客さんが置いていったお菓子があるから、持って行って召し上がれ」
 店主はそう言って紙袋を引き寄せ、彼に渡した。
 彼は感謝を通り越して申し訳ない思いにかられ、何度も頭を下げて古本屋を出てきた。途中にあるスーパーに寄り、カップ麺や駄菓子を買い込んで寮に帰った。
 貰った菓子の包みは、寮生が押し寄せてきて、あっという間になくなってしまった。しかし画集を売った金で、カップ麺や駄菓子を買い、また寮の食券を買ったりして、食い繋ぐことができた。
 ルオーの画集を手放したことからくる、疲労感のようなものはしばらく残っていた。ルオーへの思いが強かっただけに、日が経つにつれ、古書店の店主の親切も、百パーセント善意とのみは受取れなくなっていった。今は絶版になっていて、けっこうな高値がついているのではないか。それを老練な術策に丸め込まれて、手放してしまったのではないか。そんな怪訝と懸念もどこかに燻っていた。世への不信とあいまって、その気持ちは、現在もつづいていた。

 彼はかつて手放したと同じルオーの画集を目の前にして、胸騒ぎがしたのは、愛する画集に回り逢った喜びもさることながら、店主とのやりとりが昨日のことのように蟠り、燻っていたからだった。
 さて、そのことの決着を付けるときが来たのである。画集に手を伸ばして裏表紙を開けば、歴然として価格が現われるのである。この書架には表立った価格の表示はされていなかった。客が手にとって、調べるしかないのである。
 いよいよその時が来たようである。いつまでも同じところに佇んでいるわけにはいかなかった。
 彼は意を決して、大判であり持ち重りのする画集を抜き取った。寮から古書店まで運んで行った時の感覚が甦った。それは、アルバイトをして、新品を購入して帰った時とも重なっている。
 彼は画集の重たさと心の焦りにもたつきながら、裏表紙を開いた。あろうことか、105円。0が一つ二つ霞んでいるのではない。105の数値はきっぱり刻印されている。定価の一割でも引き取れないと、店主の言ったとおり、掛け値なしの、正真正銘の105円だ。
 あまりのことに、パニックにかられたようになっていた彼は、それをレジに運んでいって確認した。
「これ、値段の0が一つか二つ抜けていませんか」
「いえ、105円です。いつもありがとうございます」
 と男の若い店員が言った。
 彼はルオーの画集を買い、持ち重りのする荷物を抱えて、独り住まいのアパートに向かった。

 翌日、会社がひけるとデパートに寄り、菓子折りを買って、地下鉄神保町駅で降りた。
 四年前の古書店に入っていくと、若い女性がノートパソコンに向かって、かしゃかしゃ打ち込んでいた。
「あの、こちらの店主の方は?」
 彼はあの蒼白く痩せた人を頭において、そう訊いた。
「別に店主はいないんですけど」
 と若い女性は、どこか腑に落ちぬ顔で、そう言った。店にいるものが店主であって何故いけないのか。そういった態度もうかがえる。
「実は四年前、こちらにルオーの画集を持ち込んで、ずいぶん高値で引き取っていただいたことがあるんです。その時はまだ、それがはっきり高値とは言い切れないでいたんですが、昨日、たまたまブック・オフで画集を見ておりましたところ、同じルオーの、新品同様の画集に105円の値がついて売られていたんですよ。それで、四年前赤字を覚悟の上で、買っていただいたのだと、胸痛む思いで信じられたんですね」
「品がだぶついておりますと、そういうこともありますでしょうね」
 若い女性は、さほどのことではないとばかりにそう言って、またパソコンの入力に取りかかった。
「そのとき大変援けられたのと、お菓子の包みまで頂戴していますので、ぜひお礼が言いたくて来たのですが、会わせていただけませんかね、その人に」
 と彼は迫った。古書店に来て、探す当てもないのに、その人が現われるのを待って、佇んでいるのは、あまりにも不自然だった。
「お菓子ですかぁ?」
 彼女ははじめて尋常でなさを感じたらしく、ノートパソコンから顔を上げ、彼をまともに見た。一冊の画集を持ち込んだ客に、菓子の包みを渡すのは普通ではない。
「お客さんに貰ったもので、自分は食べないからと、おっしゃってました」
「その人はもういません。私の母なんです」
 彼女は揺さぶられるものがあるらしく、切なそうにそう言った。もうパソコンからは、完全に目を放していた。
「もういないと、おっしゃると……」
 彼は恐るおそるそう言った。
「亡くなったんです」
 それを聴いて動転してしまい、ことばも出なくなっている彼に、母への愛惜を見たものか、椅子をすすめてきた。
「そうでしたか。お母さんでしたか。大変いたましいことです」
 彼は背凭れに体をあずけ、しばらく瞑目していた後、そう言った。
「画集をお持ちになったのは、いつごろなんですか。先程は四年前と言われましたけど」
 彼女は店の台帳を繰っていきながら、言った。
「夏が終って、というより完全に終って、寒さが募ってくる季節だったように記憶しています」
 彼女は体を横向きにして、奥の机上でページを繰っていたが、ふと指の動きを止めた。
「ありましたわ、あと二箇月で、丁度四年ですね。十一月二十八日にお持ちになっています。母が亡くなったのは、その一週間後でした」
 彼は呆然となった。蒼白くやつれた店主の顔が、目の前に浮かんできた。
「病名は?」
「急性の心臓麻痺です。以前から心臓が弱かったんです」
「お会いして、間もなかったのですね」
「ええ、私はその頃、学生でしたから、大学に電話があって、駆けつけたときはもう、虫の息でした」
 彼女はそこまで言って、「三度虫、グーって、何かしら」
 と台帳に目を近づけた。彼に関する記帳の下にメモがあるらしい。
 彼女は台帳を彼の前に運んで、その母の手になる書き込みを押さえた。
「三度虫、グー」
 彼は母のメモをそのまま口にするしかなかった。しかし謎めいた書き込みが、彼と関係していることは、間違いなさそうだった。
 彼の前では、彼女がどんな答えが飛び出てくるかと、眉を険しくして待ち構えている。今ではノートパソコンは横に押しやられて、彼と彼女は空いたデスクを挟んで、さしで向かい合っていた。
 彼女が大学から駆けつけたときには、母は虫の息だったなどと語った後に、「三度虫グー」などという言葉が母の筆記として残されていたとなると、不吉になる。たとえ四年が経過しても、眠っていたものが今飛び出てきたそのことからして不吉だ
 彼は腕組みをして考え込んだ。すると病んだ店主が語った中で、唯一とも言える、はつらつとした声が響いてきたのである。
「そんなデモンストレーションをするから、ほっとけなくなるのよ」
 そこから母は崩れたのではなかったか。いやそうではない。一度、二度と腹の虫が鳴いて、彼女が揺らいでいるところに、駄目押しのようにひときわ大きく、三度目の腹の虫が鳴いたのである。
「今思い出しましたよ。お金が必要だと言いながら、もっと具体的にお話しなかった僕が、いけなかった。
 苦しかったのは、食べるものがなくて、苦しかったのです。あまりのひもじさに、腹の虫が三度も、グーと鳴いたのですよ。お母さんの目の前で。お母さんもこうおしゃっておられた。『そんなデモンストレーションをされるから、ほっておけなくなるのよ』って。実際、前日の夕食から、その日の朝、昼と何も食べていなかったのですからね」
 恥ずかしかったが、彼は包み隠さず話してしまった。
「今のお話、リアリティーがあるわ。それで母があなたに、お菓子の包みを渡したのも納得できますもの。はじめにお菓子の話を聴いたとき、何故かあなたとお母さんは、前から逢っていたんじゃないか、なんて勘ぐったりしたんだわ」
 彼女はそう言って、愛くるしく笑った。こうして面と向かって話していると、母と娘はよく似ていた。あの蒼白いやつれを取って、張り詰めた肌を持ってくれば、艶のある美しい花が開いてくる気がした。というより、いま目の前にその花が咲いていた。彼はつい、唐突に、
「お母さんに似ていますね」
 と言ってしまった。
「親子ですもの」
 と娘は言った。
「お美しいです。お母さんに似て」
 彼は言い足りないものを、そう付け加えた。感謝するとしたら、娘を褒めるしかなく、言葉は自然に溢れてきた。病身の面やつれを脱ぎ払い、今母親が、美貌の女として目の前に登場してきたようにも思えた。

 四十分ほど話し込んでいると、探してくれと頼んでおいた書籍は見つかったかと、大学教授らしい懇意の客がやって来た。
 彼はこれが潮時と、買ってきた菓子折りを置いて、店を出てきた。最後に娘が連絡先を訊いてきたので、自分の職場とアパートの住所を併記した名刺を置いてきた。
 途中で夕食の弁当を買って帰ったが、いざ箸をつけようとして、彼は考え込んだ。
 四年前、古書店の店主に食事代を恵まれて、買って帰ったカップ麺との違いである。今は格段に豪勢になっているが、はたしてそれを食する人間のありようはどうだろう。むしろさもしく落ちぶれて、精彩を欠いているのではなかろうか。
 古書店の店主は、これからは大切な本を手放さなくていいように、しっかり勉強なさいと、死を一週間後に控えて、画学生の彼を励ましたのだ。それなのに今の自分は、まったく絵を描く情熱をなくしている。
 どうにかしなければならない。彼は自らに言い聞かせた。糊口をしのぐためにコマーシャルのイラストを書き散らしている現在の生活は、店主の画学生の困窮を見かねての励ましに、まったく応えていないと思った。
 彼は食事を済ませると、昨日手に入れたルオーの画集の解体と裁断にとりかかった。
 店主の命と引き換えに贖われたような画集が、今思いもかけない安価な値がついて戻ってきたからといって、安易に受け留めていいはずはなかった。掛け替えのない血がこの画集に付与されているのだとしたら、もっとも彼の心の深みに届くような形で活用しなければならない。
彼の胸を強く揺さぶってくる絵のグループと、それほどでもないグループに大きく分けることからはじめた。改めてルオーの絵と真正面から向かい合うことになった。鑑賞する気持ちと、先を急く思いが、彼の裡と外を掻き乱していた。あたかも囚われの動物が、己の心をどう表現してよいか分らないまま、つい檻の中を廻りはじめるかのように、二間きりの狭い室内に絵を持ち歩いて、壁に面したしかるべき場所に置いてまわった。
 次に画鋲とセロテープを用いて、絵を壁に貼り付けていくのだ。手の届かない位置には、机を引きずってきて、その上にのって貼った。
 壁だけでなく、天井にも絵を貼っていった。ベッドの上の天井には、彼の好きな聖女ヴェロニカを貼った。
 室内ががらりと変貌してしまったが、衝動に駆られてしたことで、こうでもしなければ精神の平衡が保てなかったのだ。
 ウイスキーを口にして早く床に就いたが、酒量はそれほどでもなかったのに、室内が揺れて寝つくまでには二時間ほどもかかった。
 天井のヴェロニカが、古書店の母親の顔に重なってきたりした。豆電球の暗い光の中では、母親だったが、朝の明るい光の中では、娘の顔になっていた。少し口を開いたあどけなさが、信じられないと驚いているようにも見えた。
「おはようございます」
 彼は娘の顔になっている母親に挨拶した。そして、
「明日から絵を描きはじめますよ」
 と誓って言った。
                          了

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