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文芸の里コミュのいのちの水の川

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  ☆


 群れ遊ぶ小魚たちの中に、一尾だけ背びれが紫を帯びてうすびかりしているのが交じっている。
 どうしてあの一尾だけ違うのだろう。
 その魚は昨日も群れに交じっていたし、二三日前から目にしていた気がするのである。
 男は近くの温泉宿に保養のために来ている。宿で借りてきた釣竿で、釣りを試みたが、魚たちは遊びに夢中で、釣り餌のみみずになど関心を示さなかった。釣れるのはカジカとかどじょうばかりだった。
 翌日も男はこの川に寄ったが、小魚の群れはいても、その中にあの背びれの光る魚はいない。
 気になって、散歩の帰りに寄ってみる。川はひっそりしていて、魚一尾いなかった。と、その静まり返った流れの中を、ややふらつきながら、寂しそうにたった一尾だけで遡っていく魚がある。みると背びれが紫の光を帯びたあの魚だ。
 男はとっさに釣り糸を流れに投げたが、遅かった。魚が通過して行った後だった。ところが十メートルも行き過ぎてから、きらりと腹部をきらめかせて反転し、こちらへ引き返してきたのだ。そして釣餌を見つけると、一瞬の間に飲み込んでしまった。まさにあっという間の出来事だった。男が釣竿を挙げると、手ごたえがあって夕日に魚影をきらめかせて手元に迫ってきた。
 掴んでみると、何と美しい山女なのだ。水玉模様の紫斑が魚の全身に浮いていて、背びれにまで及んでいたというわけだった。
 この小川は温泉街の中心を流れる川の支流に当たり、決して山女の棲む清流ではない。増水したときにでも、渓流から小流を伝って紛れ込んだのだろう。
 彼は宿から借りてきた小さなバケツに山女を入れた。子供がママゴトにつかうバケツだ。ここから七、八分のところに、山から真っ直ぐ流れ下っている渓流がある。そこへ放してやろうと思ったのである。
 渓流に来て山女を手に掴んだ。山女は何をするのかというように、真ん丸の目を見開いて彼を見ていた。バケツを流れに入れて放す手もあったが、言い聞かせておく必要があったのである。
「もう二度とあんなところに行くなよ。お前の生きる場所じゃないんだ、あそこは。水だって生ぬるいし、汚れている。あんなところで仲間に交わろうとしたって、無理に決まっているんだ。お前とは種類が違う魚なんだぞ。あんな所でがんばって、友だちをつくろうとか結婚相手を探そうなどと考えていると、精神科に入院しなければならなくなるぞ」
 彼はここまで言って、はたして魚の世界に病院などあるのかと、不安になった。それは自分自身の病歴を語った気がしたのである。 彼は博士号をとるために大学院に残り、そのための論文作成に当たっていたが、いくら立派な論文ができても、審査にパスするには教授陣の心証もよくしておかなければならないという裏話を耳にした。
 それを考えると極度の不眠症に陥って、精神科にかかるようになり、眠剤のハルキシンとマイスリーが欠かせなくなってしまった。当然象牙の塔は離れ、論文は燃やしてしまった。
 先程の川とは違い、ここは迸る水の速さから風が生まれて、肌に冷たく当たった。山女もそれを感じるらしく、早く放してくれと、全身を震わせて催促している。
「分ったか。ここにいれば、また会いにくるからな」
 最後にそう言って山女をせせらぎに放した。魚は彼の手を蹴るようにして水に没し、数秒後、ほぼ三十メートルも遡った辺りで、一尾の魚が水域を抜けて跳ね上がった。元気なところを彼に見せるつもりだったらしい。
                        了

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