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文芸の里コミュの世は霊の戦場

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J. S. Bach - Kantate "Wachet auf, ruft uns die Stimme", BWV 140 (Ton Koopman)


   世は霊の戦場


 たいていの街には、社(やしろ)の二つ三つはあるものである。彼の住む街にも、そんな社はあった。商店街の近くなので、その社の前を、日に何度か通ることがある。何が祀られていようと、まったく関心がない。彼は今日もその社の前を通って商店街で買物をし、今がその帰り道である。
 行きのことは記憶していない。関心がないのだから覚えていなくて当然である。おそらく街の光景の一つとして、視界のなかを行過ぎていたにちがいない。
 彼は今、買物をしたレジ袋をぶらさげて歩道の内側を歩いていた。希望に満ち満ちて胸を張るような生き方はしていないから、人より俯き加減に、歩道の十メートルほど先の路面に目がいっていたのだろう。足は例の社の敷地にさしかかっていた。虫が触覚で探り当てでもするように、前方にこのまま進んでは危ないという障害物を発見した。中年の婦人が横向きに立って、社の正面に向かい手を合わせていたのだ。彼女は歩道の内側に立ち、彼は歩道の内側に歩みを進めて行く。このまま行けば、彼女の側面に体当たりしてしまう。そうなるのを避けるために、彼は少し角度をずらした。歩行の妨害だ――そんな思いは微かにも湧かなかった。むしろめったに見かけない、ほほえましく愉快な風景だ、くらいに思っただろう。
 そんな無防備でうちとけた屈託のなさが、見事に裏切られたのは、彼女の背を通過したその一刹那だった。なんとも身の毛がよだつような、異様な不快感が彼を襲ったのである。あえて一言すれば、強烈な嫌悪感が彼を刺し貫いて走ったのである。
 彼はたまらず空いた手で胸の辺りを抑えていた。通り過ぎた後も、胸のざわめきは収まらず、大分距離が開いてから、そちらを振り返っていた。既に婦人は立ち去っていた。
 あれはいったい何だったのであろう。強烈な力に屈服したというのではない。異様としか形容できない不快感にたじろいだのである。そのとき嗅いだ臭気のようなものが、まだ鼻先に漂っていた。
 彼は興奮さめやらないまま、これに近い体験をしたことがあるのを想い出していた。それは半年も前になる。駅に隣接した地下街の書店に入ったときのことだった。買いたい本があるからではなく、時間つぶしにぶらっと立ち寄っただけである。宗教書の置いてあるコーナーに来ると、立ち止まって書架に並ぶさまざまな書籍を見ていた。手にとって中味を見るというより、並んだ背表紙を眺めているといったほうが当たっている。そこににゅっと、野武士然とした五十前後の男が現われ、本を物色しだした。宗教書のコーナーは狭かったから、彼は男の熱意に押し出されるかっこうで、男の背後に一歩引き下がった。そのときである。男から漂う異様な雰囲気に気圧されてくらくらっとなったのは。男が現われる前、一人で本の前に立ったときには、何事もなかったのに、男を間に挟むことで、俄然色めき立つ得体の知れぬ何かに圧倒されていたのである。彼はさらにさがって、完全に男の後ろ側に廻って、観察することにした。
 しかし長くは留まれなかった。地下一階の書店にはパン屋が隣接しており、そこからパンを焼く香ばしい匂いが書店中を満たして漂ってきていた。この匂いによって、書店も潤っている感じだった。ところが男の出現によって、少なくとも彼の周辺は別の臭いに変えられつつあった。男は探している本があるのか、しきりに立ち並ぶ本の背に目を近づけたり、手をかざしたりしていた。目を近づけるのは分っても、何のために手をかざすのか意味がつかめなかった。
 彼はまずそれが知りたくて、男の背後から手元を観察していた。並ぶ本の背表紙から僅かに手を浮かして、しきりに磁気のようなものが来るかどうかを測っている。
 そんな印象だった。無精ひげを生やし、髪の先を紐で束ねている。それが身動きするたびに、背で別な生物のように蠢く。
 ただならぬ臭気と気配が、濃厚になってきた。こうなるとパンを焼く香りどころではない。彼は息をしないように堪えていたが、苦しくなって息を全開にした。すると、息を止めたときより濃厚なものがぐっと迫ってきて我慢できなくなり、ついにそこを離れてエスカレーターで地上へ逃れ出た。
 燦燦と降り注ぐ太陽の光と鼻先を流れるしなやかな風の香りを、これほど尊く感じたことはなかった。

 彼は社の前で祈る婦人から受けた衝撃を、書店での野武士のような男に繋げて首を傾げていた。何だろう、あの超自然的に湧いてくるものは、いったい何に由来するのだろう。共通するのは目に見えるこの世の存在とは別な次元から湧き出てくる何かを、彼らが呼吸し、それを吐き出すとき、得体の知れない化け物じみた力となって噴出してくるというものだった。

 彼は今、急遽予定を変更して足を速めていた。婦人を通して襲ってきた怖気を奮うような恐怖の原型を探るべく、六箇月前の書店へと心が急いていた。あの時野武士のような男が現われるまでは、八百万の神々を記した宗教書の前で平常を維持して立っていられたのである。それが俄然あの男を間に挟むことで身の毛がよだつような戦場と化してしまった。
 彼が今書店を目指しているのは、男が現われる前までは維持されていたつつがなさを、実地に踏んで確認するがためである。男が介在しなくても、八百万の神々を記した書籍の背表紙から、悪霊の漂いはあったのか否か、それを検証する必要があった。
 もしなかったとすれば、悪魔は人間から発生していることになる。そうなると人間こそが悪魔なのだ。彼は半年前の奈落に引きずり込もうとする命とは対極の負の記憶が生々しく、あの後ずっとこの書店には足を向けていなかったのだ。
 鳥肌が立つとは、まさにあの時の思いのことだ。今ではテレビなどで、感動と同義語のように用いているが、それは真の意味ではない。鳥の毛を毟り取った青褪めた肌を実際に見たことがあるものなら、とても感動した場面には遣えないはずだ。
 彼はそんなことを考えながら、婦人から来た感情の余波に打ち震えつつ、地下一階の書店へ向かってエスカレーターで降りていった。
 地上の空気が薄れるにつれて、懐かしいパンの芳香がそこはかとなく湧き上がってきた。
 エスカレーターから降り、他の店の前を通過して、いざ書店に足を踏み込むと同時に、パンの香りが薄れた。しかし早まってはいけない。あれは六ヶ月も前の話だ。婦人からの余波にしても、場所が大きく違う。あそこは白昼の社の前だし、ここは地下の書店である。先入観に毒されているのなら、己の意思の弱さに起因するものであるから、自らを打ち叩いて鍛え上げなければならない。
 そんなことを考えながら書架をいくつか越えて、宗教書のコーナーまでもうすぐのところに来た。息苦しいのは知らずしらず呼吸を抑えてしまっているせいか。最後の書架を折れて、宗教書のコーナーに出た。床に這わせてきた目を上げる。
 あろうことか。目の前にさっきの婦人が立っていたのである。枯茶のワンピース姿の側面は、先ほど社の前で見たのと同じ姿勢である。このときふっと彼女の前方に目がいった。頭が錯乱しているのではないかと、本気で思った。彼女が向かい合っているのは、あの野武士の風体の男だったのである。
 こうなるともう、更なる接近は不可能である。逃げるしかない。胸を抉られるような不協和なざわめきが、早くもピークに達している。もうパンの香りなど、完全に掻き消されてしまっている。
 彼は二人と目を合わせなかったのが、せめてもの幸いと、地上に出て深呼吸をした。
 向かい合って話し込む二人の感じは、知己の仲だった。二人がそこで待ち合わせていたのか、偶然出会ったのかは知らない。しかし彼が痛烈な打撃を受けたことは確かだった。悪霊からすれば、毛嫌いするものを撃退すれば充分だったのであろう。
 彼は歩みを進めながら、彼らと顔を合わせなかったのが救いだったと自分を慰めていた。もし目を合わせてその毒牙から液を注入されでもしようものなら、癒やしにどれだけ歳月を要したことか。毒牙の美酒に酔って、彼らの傘下に吸い取られていくものは多いのである。
 彼は途中にある酒場に入り、生ビールの大盛りジョッキを傾けた。たとえ目を見合うことはなかったにせよ、近く接したことで二人から発する悪しき霊に感染するのを、先に酔うことで防ぐ必要があった。悪魔は人に入り込んで人の体を住処にする。そしてそこから甘美に装った毒液を放射し、周辺にいる人々を麻痺させて攻め、やがて魂を奪い去って行くのが彼等のやり口だ。
 すると人間こそ悪魔だ。人間は悪魔だ。彼は一人で意気込み生ビールを呷った。ビールでは飽き足らず、熱燗の酒を追加した。
 どのくらい時間の経過があったものか。銚子を三本空にして、四本目を頼むか否か迷いつつふと顔を上げた。酔眼に辺りの空気が揺れてはいたが、彼の目が捉えたものは紛れもなかった。
 対向するカウンター席に、さっきの二人が隣り合って腰掛けている。野武士が談笑していた顔を何気なく上げ、こちらの彼と眼が合った。ちりちりっと、第一波の攻撃がきた。続いて女が顔を上げた。こちらの顔も笑っていて、何気ない視線が彼に向けられる。彼の胸は第二波の攻撃を受信する。今席を立てば、逃げることになる。
「熱燗、追加してくれ!」
 彼は叫んだ。離れたレジにいる女が振り向くほどの大声で。
「へい、毎度ありィ!」
 酒場の主も、つられて声を大きくした。

               了

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