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文芸の里コミュのコモドの大トカゲの子ドモ(社会見学の巻)

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         Belle Perez - Ave Maria


   ☆


 というわけで、コモド島の大トカゲの子ドモは、浴室の窓からそうっと抜け出し、鉄筋コンクリートの建物の角から角へと伝って、地上を目指しつつ、高度を低めていった。二階分の高さを残すところまで這い下りてきた子トカゲは、下の道を赤子の乗った乳母車が若い母親に押されてやって来るのが目に留まった。というより、赤子のほうが先に子トカゲを見つけて、驚きの目を光らせていた。こんな目の輝きは、コモド島を出てはじめて目にするものだった。つい好奇心にかられて目を留めたなどというものではない。乳母車に乗った赤子の視線は、子トカゲとまっすぐ直線で結んでいた。無理に首をよじったりしなくとも、もっとも楽な姿勢で、トカゲの子を目の当たりにすることができた。劇場なら、特等席ということになる。
 赤子の目は、太陽はほとんど真上にあるにもかかわらず、いや、真上にあるからこそ、赤子の瞳に直角に反射して、その反射光が、子トカゲを直射してきた。子トカゲはその直射光に射られたと思うほどだった。しかしそれが単なる太陽の反射ではなく、赤子の瞳から発しているのは明らかだったから、こんな赤ん坊なんかにやられてたまるものかと、コモド島の大トカゲの本能が目覚めてきて、しばし足を止めての睨めっこになった。こんなとき、先に目を逸らしたほうが負けると教わったのは、何代目の大トカゲからだっただろう。目を逸らすということは、相手に食われてもいいと納得したことを意味するのだ。食われたくなければ、たとえ自信過剰の居丈高な構えであったとしても、睨みつけたままでいなければならない。そのとき先祖の大トカゲはこう言ったらしい。いま顔を上げて、太陽を睨みつけてみよ、必ずくしゃみが出て、顔を逸らすに決まっている。それは太陽に屈服したことを意味するのだ。では太陽に食われるかというと、太陽は大トカゲを食いはしない。それは太陽が偉大な神であるからだ。神であるからこそ、トカゲが負けても、大負けにして見逃してくれるのだ。他の動物の場合は、そうはいかない。必ず食われてしまう。
 子トカゲは、家訓のように伝えられているその先祖大トカゲの言葉を、日本の都会の片隅にある鉄筋コンクリートの建物の一角で、想い出していた。まさに知恵の覚醒といってよい。まさかこんな赤子に負けるとは思わなかったが、子トカゲは知恵というより、本能的に立ち止まっていた。どこにでもいる普通のトカゲが、石塀の上や、下水管の割れ目、砂利道などで、ひょいと草陰から跳び出して静止の姿勢をとるあの感じだ。あの静まりこそ、宇宙の開闢を目の当たりにして、その荘厳さに打たれて鳴りを静めている生き物の原初の姿そのものといえる。
 赤子と子トカゲは、睨み合いといっても、同じ姿勢をいつまでもとり続けることはできなかった。赤子は、母親に乳母車を押されて過ぎて行く。旅人だからである。出会った一瞬は、赤子のもっとも自然な姿勢から放たれた視線の矢であったが、赤子は乳母車の進行につれて、首を徐々に上向けなければならなかった。それは子トカゲについても言えた。乳母車の通過につれて、首が右から左へと少しずつ振られていたのだ。
 地上を行く赤子と、ビルの上に陣取った子トカゲの睨みあいは、いまやトカゲのほうが圧倒的に有利だった。子トカゲには三百六十度に近い視界が広がっているのに、赤子は乳母車が進めば進むほど、首を後ろに折らなければならないからだった。それがいよいよ無理に近くなったとき、赤子は何か喚き声を発した。それを聴き取ろうとして、母親が腰を折って背を倒していったとき、いきなり赤子が「アー!」というような単発的な声とともに、手にしていたシュークリームのカップを振り上げたのである。そのシュークリームが母親の顔を直撃した。どうしてか母親の悲鳴は上がらず、しばし密やかな時間が流れた。その後はもう、緊張は崩れて、息詰まる二匹、いや一匹対一人の対決は崩壊した。
 子トカゲはその隙にアパートの壁を駆け下り、乳母車の傍に走り寄って、暴発した赤子の食事をあさった。甘いものは太るからと、Fに厳禁されていたので、子トカゲには塩以上に必要不可欠なものになっていた。子トカゲはモナカの器ごと路傍に捨てられた味の一品を、ぴちゃぴちゃと犬のように舐めた。

 三十分後、子トカゲはどこからか地面を伝って流れてくる青山テルマの「ここにいるよ」におびき寄せられ、南西の方角へと移動していった。移動するといっても、帰りの道順をトカゲの方向感覚に記憶させながら行くのだから、そう簡単にはいかない。しかし流れてくるこの旋律にはかなわなかった。最後は、たとえ帰れなくてもいいや、そんな思いで走り出したのである。
 信号をいくつ渡ったのか、青信号、赤信号の区別もつかなかった。疾駆する車の下を掻い潜ったりもした。
 そしてとあるスーパーに侵入して、あの音楽が流れてくるのを待っていた。この種の放送では、一巡してまた同じ曲が流れてくるのを、これまでの経験から体が覚えていた。
 ここまで足を運んで来るまでの太陽の位置から、まだ退社時間までには間がある。したがって、スーパーにいる客は、主婦とか、高校生が大半で、どこか時間をもてあそんでいる風情もある。
 子トカゲのいるところには、竹箒、モップ、バケツ、またFの浴室にもある小さな腰掛け、汚れ取りの薬剤などが置いてある。相当大きなスーパーで、食料品ばかりでなく、日用雑貨、小さな家具なども置いてある。音楽は天井のスピーカーから流れてくるらしく、こうして目くるめくばかりの商品の輝きの中にいると、青山テルマの歌は、バックミュージックとして実に相応しい。しかし、今耳にしているこの歌には、聞き覚えたものより、もっと親しみをもって、懐かしく耳に迫ってくるものがある。テルマ自身にも、洗練された都会人の上品さはさほど感じられないが、今流れているこの歌は、もっと野卑というか、土俗的というか、反都会的な味とでもいう底深い郷の粘着性をもっていた。この歌手はテルマとは違うな、トカゲの子は鼻をぴくつかせながら呟いた。そして、もっと歌の調べを強く浴びるために、天井のスピーカーのありかを物色しながら場所を移動して行った。何しろ商品に身を隠しつつ移動するのだから、そうスムースにいくものではない。しかし下水管を伝ってきた経験に比べれば、このくらいは序の口、もっと言えばお茶の子さいさいだ。
 スーパーの通路を横切るときは、人に見つからないように左右に首を捻って、車に気をつける以上の注意をはらった。
 そうやって、ほぼ真上にスピーカーのある位置を確保した。ここは野菜、果物のコーナーである。バナナ、パパイヤといったおなじみの果物の香りもして、子トカゲは、はっと、望郷の念にかられたりした。だがそんな感傷に浸ってはいられないと、心をひきしめる。コモド島を出た当初の目的を貫徹しなければならないのだ。それはつまるところ、この歌の発生源を突き止めることである。ということは、青山テルマに出会うことである。出会った後は、どうするのか。それは考えていなかった。物事を決行するとは、そもそもこういうことなのである。先の先まで分かっていたら、おそらく決行自体が宙に浮いてしまうだろう。
 青山テルマの音楽に浸りこみ、その旋律や、そこから醸し出される諸々のエキスを体内にためこみ、彼女に会うエネルギーを増幅することである。けれども今、コモドの大トカゲの子は、深く迷いに落ち込んでいた。歌手が、どうも違う。普通なら目ざしてきたものと違えば、落胆に沈み込むところを、この歌は本人よりもっと深いところから揺さぶってくるのである。これは何ものだ。化け物か。子トカゲは目を白黒させ、辺りを窺った。よからぬものに填められたような感覚である。子トカゲはその犯人を突き止めるかのように、視線をさまよわる。彼の前には、レジに向けて客の行列ができていた。買い物カゴを手にして、レジに向かってつづいている。レジは五つほどあって、子トカゲのいるところは一番奥のはずれに位置している。
 その列のしんがりに、ジャンパーを引っ掛けたサラリーマン風ではない、青年というには少し老けた感じの男が列んでいた。カーキー色のジャンパーと、それに近い色のズボンをはいて、洗面道具の入ったケースを手に通し、その手に買い物カゴを提げている。カゴの中は一房のバナナと、五00ミリリットルのコーラのビンが寝かせてある。
 このとき、一方の空いた手がカゴの中に伸びてきて、あっという間もあらばこそ、バナナの一本をもぎ取ってしまったのである。あれれ、と子トカゲはその珍しい光景に見入っていた。男がしんがりなのだから、トカゲのほかに目撃したものはいない。男は瞬く間に一本を平らげてしまい、むいた皮をジャンパーのポケットに入れてしまった。その前に皮を捨てるところを探すような格好になったが、すぐ諦めて隠しにしまった。子トカゲはそのとき、自分が悪さをしたように錯覚し、それが見つかってしまうと慄いたために、男の行動の一こまが、強く焼きついたのである。男は一本では満足しなかったとばかりに、二本目をもぎ取って、手品師のようにバナナを手にしたその手で皮をむき、口に頬張った。つづいてもう一本。
 五、六本ついていた房は、もぎ取られた跡も痛々しく、店内の蛍光灯に映し出された。男の前を見ると、三人の高校生と二人の主婦が交互に並んでいて、その多くがカゴにバナナを入れている。どのバナナもまっ黄色に張り詰めていて、果物屋を彩るに相応しく、新鮮に輝いていた。それに比べると、男のカゴのバナナは、なんと見劣りすることだろう。熟れすぎて、すでに腐敗が始まって黒ずんでいるのだ。
 これではすぐにも食べずにはいられなかっただろう。早くやっつけてしまわなければ、駄目になってしまう。そんな気持ちにせかされて、食べてしまったように見えた。選りにもよって、変なものを選んでしまったものだ。これでは時間との戦いだ。すぐ食べたほうが、バナナの成り行きとして自然だ。
 子トカゲは、その風変わりな男に親しみが湧いた。うちのFに、こんな頼もしいところがあるか。ない、と子トカゲは断じて疑わなかった。もしあれば、猫との衝突を避けて、俺を外出させはしなかっただろう。やりたければ、気の済むまで戦わせるに違いない。Fには野性味が欠如している。
 母親に掃除させたりして、都会でのほほんと過ごしているうちに、あんな腑抜けになってしまったのだ。しかし、腑抜けであるからこそ、おいらは今、こうして息抜きをしていられるのだから、まあいいか、などと考えているうちに男は前へ前へとレジに近づいていった。
 子トカゲは商品のモップの陰から男を観察していたのだが、あたりの気配にちょっとした異変が起こっているのに気がついた。男の後ろには一人も並んでいないのに、その先のレジには長く列なっているからだ。どうやら、男の後ろに並んだ者たちが、男の様子に奇異を感じて、そちらへ移ってしまったらしい。というのは、トカゲは狭いところに隠れて、視野狭窄を起こしていたから、はじめ男の後ろに客がいたのかどうか、よく見ていなかったのである。
 しかし今は、男の後ろには一人も客はいず、一つ先の列、またその先の列には、長く並んでいた。そして、そこに列なる客たちの視線が、バナナを齧る男のほうへ向かってきているようなのだ。バカじゃなかろうか。内心そんなふうに思っているのかもしれない。 男と同じ列で、男の前に並ぶ客は、普通の客と変わりなかった。そのはずで、振り返ってみなければ、男のしていることに気がつくはずはないのである。そして子トカゲが他の列の客に注意を向けているうちに、男のバナナはあと一本残すのみになっていた。恐らく、正札のついた一本だけ残して、食べてしまったのだ。向こうに並ぶ客たちは、男の近くにいて、自分も同列に扱われたくないといった防衛本能にかられたのだろう。それとも、犯罪を黙って見ていた罪を指摘されたらかなわないと思ったものか。あるいはまた、これほど奇異な行動を取る男だから、どんな難癖をつけてこないともかぎらない。あまり近くにいたら、一本だけのバナナと、欠けのないバナナとを交換してくれなどと言い出しかねない。
 コモド島の大トカゲの子トカゲが、そんなことをとやかく考えているうちに、男がレジで支払いをする番になった。
 レジの女性は、一本のみのバナナの房に注意の目を落としながら、コーラと固形石鹸をレジに打ち込んだ。それからやおら、一本のバナナを軽々と持ち上げながら、
「お客さん、これは?」
 と、声を張り上げたのである。その声は確かに大きく、透き通って、密林の中で時に発せられる九官鳥が危急を告げるかのようだった。
 その声に隣の列にいた客たちの目が、いっせいにこちらのレジに振り向けられていた。何が起こるか待ち構えていた彼らなのだから、レジの女性の声は不意でもなんでもない。予期していた通りのことが起こったということだろう。
「これはって、この通りだよ。食った分を払うんだから、同じことさ」
 と男は少しどもりながらも、平静に言った。その平静さを打ち破ったのは、女性の後ろでレジを打っていた男の店員である。彼の胸には主任の名札がついている。
「何、食ったってェ! ふざけるんじゃないよ」
 主任の一喝で、スーパー全体がシーンとなった。四十半ばの男で、腹が出ている。それも貫禄の一つかもしれない。頭は角刈りで、主任としての威厳をつけるために、あえてそんな刈り方をしているのか。いや自然そんな刈り方をするところに、主任のポストがついてきたとでも言った方が当っている。こういう男はなんら苦労することなく、ポストを上っていくものだ。すべて才能とは、そういうものだろう。努力こそが才能を生むなどと、言葉を飾るものがあるが、努力で人を蹴落とすなんて、できることではない。いや、血の滲む努力でやってのける者も、中にはいるかもしれない。しかしそういう努力家は、競争社会で無慈悲をすらっとやってのけられる男と、同じレースにのぞんだときは、負けるに決まっている。
「バナナが黒ずんでいるから、急いで食わんきゃならんと、思ったんだ。思っているうちに、口に入ってしまったんだよ」
「商品にかこつけるなんて、それは道理に外れているよ。全部食ってしまえば、只ってことだ。まさか胃の中まで見透しはきかないからね」
「そんな腹黒いことするつもりはなかったよ。ちゃんと払うんだからいいだろう」
 男も窮地から這い上がろうと、言い募った。
「もし、お客さんにそんなことを始められたら、商売上がったりってことだよ。秩序も何もあったもんじゃない。甘ったれるのもいい加減にしなよ。いい歳して」
 女店員がおろおろしはじめ、今に何か起こりそうな雲行きになった。
「主任、ちゃんと値段のついた一本は残ってるんですから、お金を払わないつもりなんかなかったと思うの。私のレジのお客さんなんだから、私が注意して、そんなことしないように目を配れればよかったんだけど、それができなかった私が悪いんですから」
 女店員は、主任に何度も頭を下げていた。主任は自分のレジを他の店員に任せようと、その者を探しているようだった。代わりが来れば、主任はバナナ男を説諭のために別なところへ連れて行こうとする意気込みに見えた。そうするのが、店を取り仕切る上で必要であると、正義感がらみになって憤っている様子だった。
「店員が、レジに全神経を傾けないで、よそに目を向けていたら、どういうことになると思うの、君は? それこそ、一円たりとも、お客さんに不利な打ち込みでもしたら、店としては、一番してはいけない悪事を働いたことになるんだ……」
 結局主任はレジを出てくることもなく、バナナ男は支払いを済ませて、店を出た。
 子トカゲは、最後のところはどんな言葉で締めくくったのか、見ていなかった。子トカゲは、このどさくさに紛れて外に出たほうが、見つからずにすむと考えたのだ。おびき寄せられて侵入することになった青山テルマの音波は遠く退いて行き、青山テルマの歌ではあるが、子トカゲの耳にもっと魅力のある野性味を吹きかけてくる別な歌い手の正体は掴めないまま、今はまるで興味のない歌声が、まさしく金魚の糞のごとくに流れているだけだった。
 バナナ男がどこに消えたかと、辺りを見渡したが、トカゲの子の見える範囲に、男の姿はなかった。急に都会のど真ん中に置いていかれたような寂しさが、子トカゲの胸を走った。どうしてそんな感情になったのか、トカゲには知り得なかった。少なくとも、バナナ男に愛着に近いものを感じていなければ、起こるはずのない感情だろう。
 子トカゲはスーパー前の地面を嗅ぎ回ったが、それらしい匂いはなかった。犬ならともかく、トカゲにはそれほど鋭敏な嗅覚は具わっていない。自信があるのは、仲間たちの動きに反応して、がむしゃらに突っ走って逃げる体力と根気だけだ。
 子トカゲは、嗅覚の代りに知性を働かせるつもりで、バナナ男の辿った方角を推理した。あれだけ痛めつけられたとき、生き物はどういった行動を取るかといったトカゲなりの判断に従った。やっぱり、羞恥心から人の目を避けようとするにちがいない。すると通りよりは、公園のほうが身の隠し場所として適している。子トカゲは公園を伝って、このスーパーにやって来たので、少しばかり馴染みになっている。その公園は、スーパー前の通りと向かい合っている。
 子トカゲはバナナ男の居所を公園と直感すると同時に、飛び出していた。信号が赤になっているのを、なぜかこのとき、仲間たちの目が危機を察知して赤く点滅したように見てしまった。そこでトカゲの子はダッシュした。車の流れを避けたつもりが、急ブレーキをかられてしまった。凄まじい音とともに、車が流れてきて、トカゲを脇に押し出すようにして停車した。
 トカゲの子は半ば車のタイヤの力を借りて、公園側へ跳ね上げられ、そのまま公園の懐へと駆け込んで行った。
「鰐だな、あれは。鰐の子どもだ」
 こんな声を背後に打ち消しながら、落葉の下に身を隠した。身を隠している間にも、落葉はたえまなく降っていた。もうこんな季節になっていたのである。近くにベンチがあり、そこから人間の脚が地面に届いている。スカートではなく、ズボンだ。どうも男の脚のようだ。確かめようとしたとき、公園の石畳を靴底で打ち鳴らす音がして、走り込んでくるものがある。老若二人の男。老若といっても、それほど老人ではない。二人の年齢差が大きいというだけだ。一人は少年かもしれない。
 コモド島の大トカゲの子ドモは、落葉の下に深く体を隠す一方、恐怖を消すために目を瞑った。こうするのは、単なる慰めに過ぎないが、心臓のさらなる高鳴りを抑える効用があるのかもしれなかった。無意識に目を瞑ったのであっても、おそらく、自己保存の本能のようなものが働いて、恐怖の現実をシャットアウトしたのだろう。視界を遮れば、今度はそれだけ想像が働くようになるものだが、そこまで子トカゲの知恵は回らなかった。実際トカゲには、見ないほうが想像力を相殺して、安全なのかもしれなかった。
「今、この辺に鰐の子が逃げ込んできませんでしたか?」
 子トカゲのいる落葉の吹溜りのすぐ近くに男が立って、そう訊いた。
   ↓

コメント(3)

「鰐の子?」
 とベンチの男の声が弾んだ。声の調子から、あのスーパーのバナナ男だな、とすぐ判った。
「たった今、スーパーの前の通りを横切りましてねえ。目撃者は、私と息子の二人しかいませんでした。なあ、走ったよなあ」
 とトカゲの傍らに立つ男が、息子に言った。
「うん、鰐かどうかははっきりしなかったけど、変てこな動物だったよ」
 声の調子から、中学生くらいだ。とすれば、父親はとても老人とはいえない。壮年だ。そんな壮年に見つかりでもしたら、たまったものではない。自ら手柄を立てようとして、警察になど届けず、後ろ足を持たれて、直接交番に持ち込まれるだろう。そこにマスコミが寄ってきて、大騒ぎになる。正体を突き止めるために、動物園とか動物学者に連絡が行き、さっそく駆けつけてくることになる。その頃には、鰐ではなく、トカゲの部類にはされているが、まだ何トカゲとまでは判明していない。
「こいつは、コモドの大トカゲですね。大トカゲの子どもです」
 権威ある動物学者が、こう断言する。
「それにしても、どうしてこんなところにいるのか、もうひとつはっきりしない。首輪がついていないから、ペットにされていたとも思えないし……」
 コモドの大トカゲの子ドモが、想像をたくましくして、そんなことを考えてもはじまらなかった。想像が役に立つのは、そうならないための予防として、策をめぐらすことのほかにはない。そこで、トカゲの子は落葉の奥に身を沈めて、カサリとも音を立てないようにしていた。
「そんな生き物は見ませんでしたよ。人間なら変なのがいますけどね」
 とベンチの男が言った。
「鰐に似た人間がいるというのかね」
「形はどうあれ、僕の言うのは心の問題ですがね。鰐のように驕り高ぶったやつですよ。そこのスーパーにもね」
 トカゲの子は、バナナ事件はあれでけりがついたわけではないことが分かった。不消化なものを引きずっていたのだ。
 しかしその鰐の正体が自分であり、それがスーパーの変な男と一緒にされたとなると、穏やかではいられなかった。今度はいちじるしく自尊心が傷つけられ、歯軋りどころか、被っている落葉を振り払って立ち上がってしまいそうになるのを、何とかこらえた。
 そのうち親子は行ってしまった。バナナ男がうまくはぐらかしてくれたのを、今は感謝しなければならないのかもしれなかった。そこで、落葉を蹴散らす小鳥になったつもりで、鼻の先で落葉を掻き分け、顔を外に出していった。
 男と目が合った。まさしくあの男だ。トカゲからすれば初対面ではないが、男からすると初対面だ。おっ、というような顔になって、驚きと恐怖から、逃げ出しそうになったが、それをトカゲの子は引き留めていた。
「逃げることはねえっすよ。ここはスーパーじゃない。バナナを食ったのだって、これっぽっちも、あんたは悪さをしたわけじゃない。それをあんなに正義ぶって、高飛車にどやしつけるのがどうかしてるんだ」
 男は子トカゲがそこにいるのを認めたものの、まさかトカゲが喋るとは考えられないらしく、周囲を見回して声の主を探そうとしている。
「慌てることはないっすよ。今言ったように、あんたは悪さをしたわけじゃない。自分で買ったバナナを家に持ち帰る前に、食っただけですよ。黒ずんでいたし、今にも駄目になってしまうと思ってね。他の客のバナナと比較すると、何で自分のばっかり、貧乏くじを引いたみたいに、こんな腐敗のはじまったのを買ってしまったのかと、慙愧の念に駆られていたんだ。それですぐにも食ってしまわなければ、ますます損をしてしまうことになると思って、口に放り込んでしまったのさ。
 あと一本は残っているはずだ。それを今ここでコーラで流し込んだらいい。おいらは欲しがったりしねえよ。さっき赤ん坊からシュークリームをせしめて食ったばかりだからね」
 男はあらゆる状況から、ベンチの後ろの枯葉の中から首だけ出している奇妙な動物のほかにはいないと判断して、どもりながら言った。
  ↓
「あんたは、鰐なのかね。それともトカゲ?」
「トカゲだよ。コモド島の大トカゲのコドモ。生後六ヶ月の発育盛り。コモド島を訪れた日本の観光客と一緒に成田に着いて、下水管を伝って、ここまで逃げて来たのさ。まあ、不法侵入には違いないけど、この辺のマンションに住む人にかくまって貰っているのさ」
「コモド島の大トカゲのコドモさん? へえ!」
 バナナ男はしきりに感心して、子トカゲを観察している。「はじめトカゲにしては、あまりにも大きいので、化物じゃないかと思ったんだ。どうも鰐のようではない。トカゲのような形だけど、それにしては大きすぎる。今コモド島の大トカゲと知ってほっとしたよ。正体が分からないほど、薄気味に悪いことはないからね。トカゲの突然変異なんて、それこそぞっとするからね。それにしても、スーパーでは全部見られていたわけか、君に。恥ずかしいったらありゃせん。あんな若造に、多くの客の前でどやしつけられるなんて、はじめての経験なもんでね」
 男はそこまで言って、レジ袋からバナナとコーラの中ビンを取り出していた。バナナの皮をむくと、半分にして、二つを見比べていたが、大きいほうを子トカゲに差し出した。Fならぜったい大きいほうを取って、小さいほうか、見てくれのよくないほうを自分にくれると思った。そこからこの男は、Fより人格者だと子トカゲは判定した。Fが言うのには、人間は神のいうことを聴くために創られたが、動物は人間に従うために創られたのだそうだ。だから当然優劣はあって、人間が偉いのである。
 このバナナ男は大きいほうをくれはしたけれど、初対面の子トカゲであるし、日本語を喋ることから、敬意を払ってのサービスだったのかもしれない。長く付き合ってみなければ分からないというところだろう。しかしそんな余裕などありはしないのである。日に日に成長しており、さっきも鰐と間違えられて、危うく捕まりそうになったのである。
 子トカゲが口ではなく、両手でバナナを受け取ったので、男はますます興味をそそられたらしく、
「君はいったい、何の目的ではるばる海を渡ってきたのかね」
 と腰を折って、身を乗り出してきた。こうしたのは、半ばまで飲んだコーラのビンを、子トカゲに渡すためだった。
 子トカゲはそれを押し頂くようにして、天に感謝をささげる仕種とともに、喉に流し込んだ。どっと泡が吹き零れてきて、子トカゲはむせた。
「悪かったね、慣れないものを飲ませたりして」
「慣れないなんて、とんでもない。コモド島のキャンプ場には、あらゆるものがありまさー。あらゆるドリンク剤がね」
 と子トカゲは言って、先ほど男が言った、海を渡ってきたという言葉の訂正からはじめていった。
「海を渡ったのではなく、渡ったのは空でがーすよ」
「それで成田か」
 男はうっかりしていたとばかり、自らの頭をぽんぽんと叩いた。
「青山テルマの『傍にいるよ』という歌に惹かれましてね。とにかく、歌っている本人に会いたいという思いを、募らせていったのですよ。コモド島では、森林のカケスや九官鳥まで、あの歌の真似をしはじめましてね。ここにいるよとか、傍にいるからね、なんてあちこちでやってるんですな。そうなると、青山テルマ本人に会ってみたくもなるじゃないですか。おいらの中で、その思いが、日に日に膨らんでいったんですなあ。そんなとき、日本から観光に来た女の子が、バスケットを開きっぱなしにしていたので、そこに忍び込んでしまったんですよ」
  ↓
「なるほど、なるほど、しかしひと頃はあの歌もよく耳にしたけど、最近は別な歌がはやってきているね。それが流行なんだろうけど」
 子トカゲは、今こそ訊かなければと思って、落葉の中から体半分を立ち上がらせて言った。
「それでがーすよ。その別な歌というのは、別な人が歌っているという意味ではないですか。さっきも、同じ歌なのにどうも調子が違っているので、不思議に思っていたんです。でもこちらのほうが野性味もあるし、おいらの耳には合っている気がして、確かめようとしていたところなんですが……」
「さあ、そこまでは知らないなあ。俺たちの年齢になると、青山テルマなど相手にしてはいられないし、そもそも、音楽に浸れるなんて若者の特権だからね。俺たちの周りには、さっきの主任みたいなのが、うじゃうじゃいるのさ。ああやって、一つのあらを見つけると、頭ごなしに出て、客たちには万引きなどを予防するための見せしめ、店員には主任の力を誇示しているんだ。あの主任やり手だ。普段は気づかなかったけれど、あんな力をためていたんだわ。そしたらうかうかできない。もっと成績上げなきゃ…… となるわけで、そういう点数を狙って、あんな態度に出るわけさ。俺はそこの建設現場でおとなしく働いている平の作業員だけど、もし俺でなくうちの組長があんな目にあったとしたら、ただじゃすまんね。あばら骨の二、三本は折られただろうね」
「建設現場って、ここから見える、あのクレーンがキリンみたいな首を伸ばしているあそこ?」
 子トカゲは落葉の間から、ひと際高くそびえているクレーンの足元のごたごたを想像しながら訊いた。
「そうさ、あの建物ができれば、この辺りでは一番の、のっぽビルになる」
「あんたはあの囲いの中に住んでるの?」
『そうさ、ビルが完成すれば、あの囲いは取り除かれる。そして俺たちは、別のビルの建設現場に移るんだ」
「おいらをそれまで、あんたの住んでるところに置いてくれないかなあ」
「無理だよ。俺が住んでいるのは、仮設の住宅で、ごたごたしていて、とても住むところじゃない」
「そのごたごたしているところが、身を隠すにはいいと思うんだけどねえ」
 子トカゲは、Fよりこの男のほうが、外出も自由に認めてくれて、過ごしやすいと考えて言った。
「冗談じゃない。ごたごたしていて、紛れ込むことができるのは、どこにでもいる野良猫とか、野良犬だけさ。君は何と言っても、特殊過ぎるんだ。岩の上に立って鳴く、ナキウサギが、建設現場のごたごたしたブロックの上にいたとした場合より、もっと特殊だ。すぐ警報サイレンが鳴らされて、大騒ぎになる」
 近くの教会から五時を告げる鐘の音が響いてきた。そろそろ帰らなければならない時間だ。子トカゲはそう思った。あの猫もいなくなっただろう。
 バナナ男が首を伸ばし、神妙な面持ちで鐘の音を聞いている。
「ああ、先週の日曜日に、あの教会に行ったんだ。休日があんまり手持ち無沙汰なもんでね。しかし教会の門をくぐってびっくりしたんだが、信徒の多くが女なんだよ。そして数少ない男の信徒はどれも弱弱しくて、やっぱり女っぽいんだよ。教会ってところは何と女々しいところかと、がっかりして、二度とこんなところに足を運ぶものかと思ったんだが、今日のあのスーパーの主任を考えると、あんな奴の行けるところじゃないよな。……ということで、来週も顔を出してみるかななんて、思いを新たにしているとこよ。みんな口々に『来週もお会いしましょう』なんて言ってくれたし」
「そこでは、テルマの歌は聴けますかな」
 子トカゲはいささか同調の思いに駆られて、そう言った。
「テルマはないさ。しかし賛美歌、聖歌はあふれるほどある。俺の知らない歌ばかりだけど」
 男はそう言って立ち上がった。子トカゲも潮時と見て枯葉の中から出て、男とは反対側へ歩き出した。少しして、子トカゲは振り返って言った。
「またお会いしましょう」
「いい言葉だ」
 男はそう言って、離れて行った。
 

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