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文芸の里コミュのコモドの大トカゲの子ドモ(バトル回避の巻)

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                 Belle Perez - Ave Maria

    ☆

 朝といっても、普通のサラリーマンではないFが外出しようとして、玄関のドアを押し開けようとすると、どうしてかいつにも増して重いのだ。外側に何か荷物が置いてあるらしい。そのまま押していくと、荷物ではなく、昨日の猫がドアにはりつくようにして坐っている。そして無慈悲な力で押されるのは不当だとばかりに、Fを見上げて、ニャーと不揃いの歯を見せて鳴いた。
「何だもう来ていたのか」
 Fは昨夜の約束を思い出して、苦々しい気持ちになって言う。昨夜、トカゲにどうしても会わせろと迫るのを、何とか回避するために、また明日ね、というくらいの軽い気持で言ったのであるが、猫にしてみれば、文字通りの明日であって、明日になればトカゲに会えると、それだけを楽しみにしてきたらしい。
「だって、そう約束したジャン。日が昇れば明日になったことになるのに、その朝日が出てから、どのくらい時間が経ったというのよ。多くの人は、ちゃんとネクタイをして、もう二時間も先に出かけて行ったわ。まさかあなたが、彼らと同じように几帳面な生き方をしているとは思わなかったけれど。それにしても、今何時だと思っているのよ」
「すると君は、その頃からここに詰め掛けていたとでもいうのかね」
「詰め掛けていたなんて言い方はよしてよ。詰めるも何も、私一人なんだから。それで、彼いる?」
 猫はトカゲを彼と呼ぶとき、眉の辺りをぴくりとさせて、いかにも最愛のものとの再会を乞う表情になった。まさかとは思うが、敵意も場合によっては、恋にも愛にも変容するものかと思ったほどだ。しかしFがドアを閉めて、鍵をかけようとしたとき、そんな楽観的な見方は雲散霧消してしまった。そこにあるのは、猫が爪を研いで、塗装を剥がされた引っかき傷の跡だ。ドアの下は、剥がされたペイントが粉塵となって積もっている。
「君、君、やってくれたな。これは君たち猫族が、爪研ぎ用につかう木製のタンスとか、テーブルの脚とか、立木の幹とかじゃないんだぞ。玄関ドアといって、客が訪問したとき、最初に立つ場所なんだ。それをこんな無残な姿にしてしまって、いいと思うのかよ」
 Fは憤りを通り越して、猫の頭の中をはかりかねてそう訊いた。
「お言葉を返すようですが」
 猫は昨日から人間の言葉を遣いはじめたとも思えない流暢な物言いをして、Fの思い違いを正すのに本腰を入れはじめる。「私らはそんなタンスとか、木製のテーブルの脚なんかを、爪研ぎにつかったりしていませんよ。立木の幹だって、つかっていません。木の幹なんか、縄張り宣言に犬の尿攻めにあって、臭くて臭くて、爪なんか研いでいられるものですか。引っかけば引っかくほど、木肌にしみ込んだ尿のしみを甦らせていくんですからね」
「それではなんで研ぐのだ。わざわざ玄関のドアということもないだろうよ。それとも、家々を回っては、そこで悪さをして喜んでいるのかな」
「中にはそんな腹癒せをしている猫もいるかもしれないけど、それは今回私がしたようにほんのたまーにですね。子猫のうちは、可愛い可愛いといって飼っていたくせに、大きくなると、ふてぶてしさが己自身に見えてきて、身近において置けなくなり、遠いところまで運んでいって、おっぽり出すのよ。そんな猫が長い年月ほっつき歩いて、飼われていた家を発見する。そんなときは、そりゃあやるわよ。
 そんな復讐猫は千人に一人、いえ、千匹に一匹いるくらいのもので、大概の猫は路地に出て、石垣に向かってやっているわね。石垣だと、まったく跡がつかないし、削れるのは、石ではなく、爪のほうで、はっきり手ごたえがあるものね。時には、足ごたえのこともありますけど」
「後ろ足の爪をどういう格好をして研ぐんだよ。用を足したあと、後ろ足で土をかけているのを見たことがあるけど、あんな格好をしてやるのか」
「やる?」
 猫は自分では、やる、やると会話に多用しておきながら、Fが遣うと、不穏当な言葉に聞こえたらしく、眉のあたりを吊り上げて非難の口調になった。
「土をかけるのかね」
 とFは言い改めた。
「理屈からすれば同じことよ。ときどき日頃の習慣から、直接後足が石垣に届かず、その前に路上の土を蹴散らしてしまうけれどね。そのとき、後ろに蹴散らされた土は、石垣に撥ね返されて路上に舞い戻る。それは天罰みたいに自らの上に被ることになるわね」
「それをぶるるんとやって、もとえ、ぶるるんと体を震わせて、辺りにばら撒くんだよな」
「そう、猫の生態に詳しいジャン。それは場合によっては、気持ちよいシャワーの働きでもあるのよ。毛の中に潜り込んだダニや蚤や虱を、土と一緒にして振り払えるもの」
 なるほど、と頷く一方で、片付かない疑問も湧いてこないではない。
 そもそもこんな水掛け論ならぬ、土掛け論に発展した発端は、この茶白猫がなぜこうまで、Fの玄関ドアにやつあたりしなければならないのかという動機の糾明だ。捨てられた猫が、飼い主に復讐して玄関ドアに爪を立てると語ったが、Fがこの猫を飼ったことなどない。この猫に限らず、どんな猫も飼っていない。飼うどころか、猫が家にやって来たのも、この茶白を嚆矢とする。
 とすれば、トカゲへの並々ならぬ敵意のほかには考えられない。そのトカゲをかくまっているFにまで、憎悪を広げての反抗とみるのが妥当のようだ。
 Fと猫のいる踊場には、秋の日が射している。日がコンクリートの床を照らすのは、ほんのわずかな時間に限られている。もっと早ければ日差しは床に届かないし、もっと高くなっても、日差しは逃げていってしまう。
 茶白は陽光の恵みに目を細めながら、毛繕いにかかった。右手を舌で濡らしては、その手で顔をまんべんなく擦る。
 そんな茶白の仕種を見ていると、トカゲへの執念など、消えてしまったのではないかと思える。先ほどこの猫は、用を足した跡に、後足で土をかける話をしたが、Fにはどうもしっくりいかないものが残っていた。猫の話では、石垣に向かって放尿するようにも聞けたが、犬ならともかく、猫が地面にではなく、石垣に尿を振り掛けるだろうか。しかも雌の猫が。しかしそれは動物学者か、猫愛好家に聞くしかないだろう。下手に茶白に訊いて、「あるわよ。あなたそんなことも知らなかったの」などと一蹴されないとも限らないのである。
 茶白が敵意を忘れて、ダニ、蚤、虱、はては放尿した後の始末などと、下郎なところに逸れていったのなら、それに越したことはないのである。毛繕いがすめば、綺麗さっぱりトカゲのことなど忘れ去って、ここから離れて行くだろう。
 Fはそう期待して、
 「じゃ、またな」
 とさりげなく言って、階段を下りて行こうとした。
「約束は?」
 と猫は最初の要求を突きつけてきた。
「約束?」
 Fは惚けるわけにもいかないと思いつつも、こう言うしかなかった。猫が決着をつけたがって、夜っぴてそこに張り付いていたのだとしたら、相当な執念を燃やしているはずで、できるなら会わせずに約束を反故にしてしまうことが最善と考えた。そのためにしなくてもよい駄弁に時を費やしたのでもあったが、猫は自分がそこにいることの存在理由を少しも忘れていなかった。そうとなれば、冷却期間を大幅に長びかせる時間作戦でいくしかない。そのうち空腹に喘ぎ、食べ物をあさりに出かけ、満腹すれば怒りがおさまるかも知れないのである。
 Fはそう願って、
「ちょっと用事ができて、僕は外出しなければならないから、そのことは帰ってからな」
 と、ていよくかわして階段を下りて行った。猫は不満らしく舌を鳴らしたが、それはたんに喉の渇きを癒すための舌鳴らしだったのかもしれない。一つ下の階の踊場を通過するとき、上から猫の声が降り掛かってきた。
「用事ができたって、ひょっとして魚屋に行く?」
 ばかな、とFは猫の言葉を耳に入れるだけにして、どんどん階段を下りて行った。
児童公園にさしかかると、そこを横切って足を運んだ。砂場のブランコに、若い母親が幼い子供を乗せて、静かに押していた。ブランコを押すと、子供は親から離れて行く。しかしブランコはある高さまで昇り詰めると、すぐ引き返してきて、母親のところへ帰還するのである。
 ああ、ブランコは親離れを学ばせるかっこうの遊具だな、とFは考える。母親を離れても、すぐ戻るので、子供は不安をさほど強めずにすむのだ。そういうことを繰返しているうちに、親離れの訓練になっている。あるいは、親の子離れの訓練という見方もできる。 親離れをしたら、子供はあの猫のように今度は一対一の決戦場へ出て行くのか。
しかしあの猫対トカゲの戦いは避けねばならない。Fはそう呟くと、携帯を取り出して、留守の自宅へ電話をした。誰も出ない。当然である。トカゲの他に誰もいないのだから。今日は母親が掃除に来る日ではない。しばらくして、二度目の電話をした。誰も出ない。当然である。
 Fが家で電話をしているとき、近くにトカゲがいて、何回か見られている。携帯ではなく、備え付けの受話器を取るのも、トカゲは何回か見ているはずだった。あのトカゲのことだ。もし、機転が利けば、受話器を取るくらいはするのではないかと期待したのだが、期待のし過ぎだったようだ。
 三度目の電話をして、七回ほどコール音がしてから、かちりと密やかな音と共に受話器が持ち上げられた。 
 一呼吸、二呼吸する間に、ペたっというようなかすかな音がして、妙な静けさが訪れた。ぺたっというのは、彼ら特有の炎のような舌が受け口に触れた音なのだろう。これだけで、母親ではなく、トカゲであると判った。
「モカ、モカ」
 これがトカゲの第一声だった。モシモシなら分かるが、モカモカとは何事だ。
 それはどこでトカゲの脳中に蓄積された言葉なのだろう。分からない。コーヒーのモカなら、たまに飲むことはあるが、トカゲに飲ませた覚えはない。すると、トカゲの造語ということになるが、どんな根拠でその言葉が生まれたのであろうか。いつかFが誰かに電話をしたとき、受話器を取った先方が本人ではなく、「モシカして、あなたはミキさんではありませんか」などと先方の声から推察して言ったことがあったのかもしれない。その「モシカ」から「シ」を抜けば、モカとなり、それをもう一語続けて「モカ、モカ」の誕生となる。しかしこんな発想はとっぴ過ぎて実証性に乏しい。
 とはいうものの、Fは自分の思いつきに拘った。モカモカというトカゲの第一声は、「もしか」から派生してきたとしか思えなくなった。
 とにかく、見えないところに電話をするのである。闇の中へ突如踏み込むようなものだ。愛する女に電話する場合、本人が現れず、モシカしたら彼女の母親が出るかもしれないという状況は、たえず想定してかからなければならない。
 もしかして、もしかして……それが縮まって、「もしもし」になったのではないか。けれどもこれがトカゲの耳には収まりが悪く、いきおいモカとなってしまったのだ。
 だが、待てよ。Fはトカゲの奇妙な物言いが覚めやらぬままに考え込んだ。「もしもし」は電話をしたFの発すべき言葉ではないのか。どうも本末転倒があったようでならない。そこで改めて、
「モシカして君は、コモド島の大トカゲの子ドモじゃないのかね」と言ってみる。
「は、そうでがーすよ。そのお声は、だんな様じゃありませんか。ああびっくりした。あんまり電話が鳴るものでして、モ…シ…カだんな様に事故でもあって、緊急連絡かもしれないと思ったので出たんですよ」
「分かった。緊急を要するのは、そっちだ。お前のほうだ」
「何ですかな。俺様に緊急連絡とは。早くここを立ち去れとは、耳にたこができるほど聴かされておりますが。わざわざそれを言うために、電話をされることもないでしょうから」
「これから、それを言うけど、テーブルの上の描きかけの絵を踏みつけないでくれよ。それは明日編集者に見せる雑誌の表紙なんだからな」
 Fはふと、しまわずに来たその絵のことを思い出したのだった。迂闊だった。電話をするまで、それを忘れていたのだ。得てして物事は、こんな形で運ぶのであろう。初めから気づいていれば、失敗など起こるはずはないのである。
 Fの注意に対してトカゲの反応がなかった。ということは、すでに被害に遭っていると考えるのが自然だ。
「おい!」
 Fは鳴りを静めてしまったトカゲに呼びかける。「すでにお前は、絵の上にのっているな。のったまま電話しているな」
「だって、きれいな山の絵があったので、そのてっぺんが気になって気になってならなくなり、つい足が誘われてしまったんですな。乗ってみると、壮快感この上もない。山のてっぺんから電話するなんて、世界に向けて発信しているようなもんじゃないですか。バスタブの下と山の頂上では、雲泥の差がありますよ」
 Fは怒りを通り過ぎ、切歯扼腕して悔しがり、叫んだ。
「つべこべ言わずに、そく立ち退け! その山は活火山で、いつ噴火するか分からない山なんだ。ぐずぐずしていると、お前なんか粉々になってぶっ飛ぶぞ」
 トカゲの慌てふためきが、受話器を通して伝わってくる。
「いま立ち退いたところです。少し濡らしましたが、たいしたことないですよ。トカゲの子どもの足跡なんて、そんなもんでがーすよ」
 とトカゲは言った。
「これから緊急の要件を話すが、大きな声では言えないのだ。まさか電話の声が猫の耳に届くとは思えないが、絶対に猫に知られてはならないのだ。茶白猫はまだそこにいそうか?」
「あの猫でしたら、ドアをしきりにひっかいてましたよ。きーきーきーきー、鉄板を引っ掻くあの音を聞くと、ゆっくり寝てもいられませんよ」
「その音というのは、昨夜のことじゃないのか」
「いいえ、つい、二十分ほど前のことですよ」
「昨夜も、そんな音はしなかったか?」
「ぜーんぜん」
「おかしいなあ。あの猫がひっかいて、ドアのペイントを剥ぎ取ったのは、夜のはずなんだが。それにお前は気づかないで、いま気づくというのは」
「その説明はたやすいです。爪を持って地面を這い回っております我々にとりましては、毎度体験していることでありまして。つまり、引っ掻き落とす実体があるうちは、音はしないのです。空のものほど音が出るというものです。音を吸収する母体が欠如しているからでしょうなあ。そうでしたか。あの猫め、玄関ドアを裸にしましたですか」
「あれほど引っ掻いて、なお足りないとしたら、よほどの執念だ。俺が電話をしたのも、そのことに関わっているのだが、あの茶白は何が何でも、お前と決着をつけたがっている。お前にコケにされたことを、よほど根に持っている。
 お前に居候をさせている俺としては、その戦いは何とか回避しなければならない。さっきもそのつもりで、「また後でね」なんて猫の気持ちを逸らすつもりだったけど、どうもそんなことではすみそうもないので、電話したわけだ。ひょっとしたら、お前が電話に出るんじゃないかと思ってね」
「ブラボー!」
 トカゲは電話に出たことが正しかったとみて叫んだ。
「よく聴け」
 Fはそのトカゲをいさめて続けた。
「俺が用を済ませて帰ったとき、猫がいるようだと、お前に会わせなければならないだろう。会わせなければ、会わせるまで粘って、次に何をしでかすか分かったものではない。俺としても、約束した以上、猫を家に入れて、バスルームに連れて行かなければならない。そこにトカゲのお前がいたら、いきなり喧嘩だ。体と体でぶつかり合って、決着をつけなければ、感情が治まらないのだ。お前たち下等な動物はな。高等な人間だって、肉体は使わない代わりに、頭を使って、決着をつけようとする。人間世界はそのバランスの上に成り立っているようなものだ。野蛮なことに変わりはない。その変りのない野蛮なことを、人間も動物も四六時中やっているわけだ。野蛮と気づけば、即刻やめなければならないのだ。
 お前たちが体と体でぶつかり合って決着をつけるといったって、それが有効なのはほんの短い間のことだろう。茶白猫とお前の戦力としての肉体が、互角に見えるのは。あと一箇月もすれば、お前は明らかに大きくなって、戦わずして猫が敗北を認め、すごすごと退いて行くことになるさ。猫が忌み嫌ってきたトカゲというのは、もっと細くて、貧弱で、プライドばかり高いへんちくりんな生き物だったはずだけど。これはどういうことなの。ちょっと見ない間に、一回りも二まわりも大きくなって、これでは化け猫ならぬ、化けトカゲじゃん。猫は退いて行きながら、確認のために、振り返ってみるだろう。やはり予想外にお前は大きくなっている。そこで猫は、背中からずっこけるような格好で走って逃げるだろう。そのときお前は、かつてのように、高らかに笑ったりしてはならないのだ。逃げ出した猫を見て、ケケケケと笑ったことが、そもそも紛争の原因になっているんだからなあ」
 トカゲは自分が褒められているのか、諌められているのか分からなくなった。そこでそのどちらとも受け取れるような、
「へい」
 と曖昧な受答えをした。しかしこれでは満足いかず、Fの言い足りなかったところを補うつもりで、語りだした。「それにしても、あの猫は少々頭が足りませんな。目先のことばかり見て、未来の俺様を予見できなかったというのは」
「黙れ!」
 Fはトカゲの自信過剰な饒舌が飛び出すのを、押さえ込もうとして一喝する。「オオトカゲが猫に勝つのは、自然の理だ。。もともと戦うべき相手ではなかったのだ。人間の格闘技のボクシングにしても、柔道にしても、体重無制限で戦えば、重量の多い方が勝つのははじめから分かりきっている。だから階級制ということになっている。レスリングだって同じだ」
「ではどうすればいいんですか。自然のままでは、猫にはるかに優っております、わが大トカゲの子孫としては」
 トカゲの子は意気揚々としてそう言った。
「勘違いするな。図体が大きいゆえに、牙も大きく、大が小を組み伏せるごくごく当り前の力を備えているというだけだ。いのちある生き物として優れているなんて、金輪際言えないのだ。分かったか」
「へい、分かりました。あの猫を見て食いたいと思わないあたりは、俺様がそれだけ紳士であるというわけなんでしょうなあ。本性があるにもかかわらず、それが牙を剥かないところが」
「本性も、成長と共に芽生えてくるのさ。芽生えてくれば、猫どころか、人間の俺も食われてしまう。そうなる前に出て行って貰わねばならない。しかし俺が今言おうとしているのは、その永遠の旅立ちではなく、その前に一時的に仮の外出をしてもらいたいということなんだ。理由は言わなくても分かるよな。トラブルを避けるためだ。もしここでお前が、家の中の別な場所へ隠れたとしても、あの猫のことだ。匂いを嗅ぎまわって、見つけ出してしまうだろう。だから居留守をつかうのではなく、本当にここから出るんだ。猫がお前の不在を認めるまで、家を出てどこかに身を隠しているんだよ」
「それはおやすい御用ですよ。言われなくても、出たくて、出たくて、うずうずしていたくらいですからね。下水管を伝っているうちに、あの歌が耳に届いてきたときの、あのうっとりした気分は忘れられませんよ」
「あの歌って、青山テルマの『ココニイルヨ』ってやつか」
「それもいいけど、『ソバニイルネ』ってのがあって、その中で、ココニイルヨって、歌ってるんです。だからおれは勘違いしていたかもしれない。他にも、ワスレナイヨ、とか、one way とか、ナンドモ、とか、えーと、あれは何ていう歌だったかなあー」」
「もういい、もういい。歌に気をとられて、自分が密入国トカゲだということを忘れるな」
「へい、すぐ外出の支度をしますので、失礼しまーす」
 トカゲはそう言うと、がしゃんと受話器を置いてしまった。まだ外出時間を取り決めていないのだ。追いかけて電話しようと思ったが、Fが帰宅する前に帰ってくるなどと、考える必要はなさそうだった。

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