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文芸の里コミュの「メルヘン」 黄色いパン (連載第四回) 

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                          シューマン:流浪の民




   ◇黄色いパン


 五助さんは、かまど作りを終えたところでした。穴を掘ってレンガを積み、ブリキを丸めて煙出しまでつけてあります。
「変な物を引っぱり出してきて、どうするつもりなんだ」
 メグ子がくわえている物に目を留めて言います。
「泉の水を汲んできて、それで粉を練るんだって……。そうしたら、いつになっても腐らないんだわ」
「なるほど、あの水ならな」
 五助さんも、まんざらでもなさそうに言いました。
 麻袋を二つ紐で結んで、メグ子の背にぶら下げました。これに木の実を入れてくるのです。五助さんは長い棒と水の容器を持ちました。
 二人は使命感に燃えて、いそいそと山径を登って行きました。それは後ろ姿からもうかがえるのでした。

 さて、二人は黄色い木の実を麻袋にいっぱいにし、泉の水を容器に汲んで帰って来ると、メグ子は木の実を碾き、五助さんは粉になったものから練って、手製のオーブンに載せました。すぐ香ばしい煙が立ち昇り、小鳥や動物たちの動きが活発になりました。いたずらカケスはもちろん、モズも、オナガもやって来て、ずらりと屋根に並びました。
 次があの狸たちでした。まず縁の下に駆け付けて、そこから目を光らせていました。イタチもやって来ました。イタチは日頃の自分の行いがうしろめたいのか、葱畑の畝から畝へ、こちらをうかがいつつ身を隠し、行ったり来たりしています。リスも樹から樹へ跳び移って来ましたが、イタチが怖いのと、鋭い嘴を持った鳥を恐れて、全身を震わせています。
 黄色い木の実のパンは、パン作りの手順も踏まず、イーストも入れず、ただ粉を練って焼いただけなのに、何とも見事に膨らみ生地の黄をさらに奥ゆかしい色にして、辺りに香ばしいにおいをみなぎらせました。
「では、一つまみと」
 五助さんは、パンをちぎって口に入れました。熱さと、思いがけない豊かな味にどぎもを抜かれた様で、「これはうめえや!」
 と叫びました。
 小鳥たちは、屋根にじっとしていられなくなり、逆に後ろを向いてしまう鳥もいます。狸たちも、舌なめずりをしつつ、二歩、三歩と庭へ踏み出して来ました。その狸の中には、毛にうどん粉をこびりつかせたのもいるのです。
 そんな鳥や動物たちのどよめきをよそに、メグ子は粉碾きに熱中していました。五助さんのように試食してみるまでもなく、おいしいに違いないと信じていたのです。
「おいメグ子、できたぞ! できたぞ!」
 と五助さんが叫びました。
「うるさいわね、さっきから」
 メグ子はそっけなく言って、なおも石臼を碾きました。
 遮りはしたものの、メグ子もそこは人の子、いえ動物の娘。ほんわかとパンの焦げるにおいが漂ってくると、唾液がたまってきてならないのです。
 おやおや、ぶーぶー鼻を鳴らすものがいると思っていると、豚が二匹現れたではありませんか。野生豚などいるわけはないので、これは一キロも先の家から柵を飛びこして来たのでしょう。三羽の鶏までが、数羽ずつの雛を従えて顔を出しました。屋根に雛を狙う野鳥がいると知ると、親鶏は雛を翼の下に隠して、屋根に嘴を向けて睨みつけました。けれども野鳥たちは、パンの香りに当てられて、他の餌はあっても無きに等しくなっていました。
 そうとは知らない親鶏は、パンの香りをしきりに気にしながら、屋根を睨んでいます。そのうち、雛たちが、翼の下から転げるように五助さんの方へ駆け出して行ったのです。パンの色と、雛は何と似ているのでしょう。雛たちはそこで、自分の仲間たちがおいしいご馳走にありついていると錯覚したものでしょうか。
 これを見ると、メグ子もたまらなくなって雛の後を追いました。黄色いパンと黄色い雛と、二つながらメグ子の心をいっぱいにしていました。
「おやおや、これはどこのひよこだ?」
 五助さんは、パンをかじりながら首をかしげます。
「ひよこにパンをやってちようだい」
 メグ子が言いました。
「そうかそうか、おまえたちも、はるばる駆けつけたというわけか」
 五助さんが、パンをちぎってまいてやると、屋根にすさまじい羽撃きが起こって、そこにいた鳥たちがいっせいに向かって来たのです。
 てっきり、雛を襲うと見た親鶏が、頭の毛を逆立て、けたたましく叫びつつ突進して来ました。この慌ただしさに乗じて、縁の下の狸たちも突進し、豚までがつられて走り寄りました。
 こうなると、鳥も動物もありません。気がついたときは、庭にまいたパンくずは一粒もなく、鉄板の上のパンまできれいに消えてしまっていたのです。
 葱畑の畝を伝い、イタチの茶に比べてひときわ美しい黄色が、何かの信号でもあるかのように、ひょいひょいと見え隠れしながら運ばれていきました。
 鶏の親子と豚だけが、呆気に取られた様で庭を歩き回っていました。
「結局、パンにありつけなかったのは、私と豚と鶏の親子だけなのよ」
 メグ子が言いました。
「さすが、野性は見上げたもんだ」
 五助さんは感心しています。
「すぐまた焼かなきゃ。今夜は私、徹夜で粉を碾くわ。この、のろまさんたちにやらなきゃならないし、パンにありつけなかった小鳥だっているかもしれない。ほら、屋根に四羽留まっているのがそうだわ」
 メグ子が見上げた屋根には、一羽のカケスと三羽のムクドリが、こちらを向いて目をきょときょとさせ、落着きなく嘴を揺すっています。
「他の動物にしたって、食べた量はわずかのはずだが、どうして姿が見えないんだ。食べてみてがっかりしたのかね」
 五助さんが、家の周りに視線をさまよわせて言いました。
「このパンは、何といっても心を満たすのよ。不思議なパンなのよ」
「そういえば、ぼくも幾分心がうっとりとして、安らかになってきたよ。少ししか食べなかったのにね」
「そんなあなたを見ていると、私まで心安らぐわ。ここに買われてきた意味があったというわけなのよね。それはそうと、あの動物たちが可哀相」
 豚は、残り香を嗅ぎ回って、鼻をうごめかせて庭を歩き回り、雛たちも、あまりにあっけなく消えてしまったので、夢でも見たのかと、変な気分に陥っているようでした。
 メグ子は石臼の所に戻り、ベルトを肩にかけるとぐるぐると巡り始めました。

 五助さんとメグ子は、出来上がったパンを町に売りに行くようになりました。
 村人の間には、あらかたいきわたっていました。食べた村人は、口を揃えて「うまい」とほめました。のろまで、うだつの上がらぬ五助さんらしくないので、胡散臭い目を向ける者もいましたが、それも間もなく認めるようになりました。また、材料の在りかを問い詰めて、自分も作ってひと儲けしようとする者は現れませんでした。黄色い木の実のパンが、食べた者の心に働きかけて、邪な思いを消してしまったのです。とにかく、そこはかとない満足と安らぎを与えたのでした。食べた者は、いつまでも満ち足りた気持になっていました。
 あのオートバイの二人の高校生は、今度もメグ子の背中からパンを取って逃げたのですが、それを食べてからというもの、オートバイの爆音を聞かなくなりましたし、そもそも彼等の姿を見かけないのです。ということは、心を入れ替えて、町の高校へ毎朝出かけているからなのです。  
 五助さんとメグ子は、この日も人々の心を豊かにするパンを分けてやりたくなって、はるばるやって来たのでした。
 メグ子の背中には、左右二つずつ、都合四つの麻袋が下がっていました。朝、三時に起きて焼いたのです。メグ子は粉碾き専門でした。五助さんは粉を練り、パンの型に丸め、焼けると、一つ一つビニール袋に納めていきました。
 見ていられないほどの忙しさでしたが、ロバの足では手伝おうにもなりませんでした。もし山にアラヒグマでもいてくれたら、メグ子はどんなに頭を下げてでも応援を頼みに行ったでしょう。アラヒグマは食物を洗って食べるというだけあって、パンを扱うのにも信用がおけたのです。

 狸はその後、数度にわたりパンを貰って、人が変わったように優しく穏やかになっていましたが、衛生という点を考えると、袋入れを頼むわけにもいかなかったのです。
 さて、二人は前にセリのあった公園の裏手にさしかかりました。
「私、あなたに買われていって、本当によかったわ」
 メグ子がしみじみと語りました。「もし見世物か、サーカスにでも買われていたら、どんなにみじめな気持で全国を回っていたか……」
「メグ子にそう言われると、ぼくも嬉しいよ。この黄色い木の実パンにしたって、君の発案なんだからなあ。もっともメグ子に言わせると、自分の考えではなく、姿なき奇しき声に聴いたというんだろうがね……」
「あなたとめぐり合っていなければ、きっとこんなパンは与えられなかったでしょうね。私今なんだか変なのよ。お腹に触れるパンが、ふっくらとあたたかくて、体の中に赤ちゃんがいるみたいな気分なの。
 私の代で、自分の家系は終るはずだったのに、このパンのおかげでそうじゃなくなったのよ。これを食べた者が、豊かな心になって、天国を待ち望む者が出てくると思うだけで、歌い出したい気持だわ」
「メグ子の家系について、詳しくは聞かなかったけど、君にはもう肉親はいないのか?」
「そう、みんな天国に行ってしまったし、子供は私一人だったから」
「それじゃ、メグ子は相手を見つけて、種族を増やしていかなければならないわけだな」
「そんなつもりはないわ。必要とされないロバが、どうして子供を産む必要があるのよ。それに、たとえ、どこかの観光地に物好きな村長がいて、ロバの背に子供を乗せる教育の効用を説いたとしても、私は自分の体験から、分かり過ぎるほど分かってしまったわ。
 子供たちは、従順なロバにまたがった記憶を、やがていじいじしているとか、愚かしいとか、愚鈍なものの象徴として受け取るようになるだけなのよ。何年かして、次に子供たちが観光地にやって来たときには、石つぶてになって返ってくるばかり。
 それに比べると、こんなふくよかな木の実パンを売って歩けるなんて……」 
 かつてメグ子や馬たちが繋がれていた、杭の立っている所に来ていました。
「これ、私がつけたしるしよ」
 メグ子の示す、横に渡した丸太には、歯でえぐられた跡がついていました。「どこに連れられて行くか分からないし、自分が地上に残す唯一のしるしのつもりだったわ」
 しるしは四度、縦、横、右斜め、左斜めと咬み取ったらしく、込み入ったバッテンの形にえぐられています。
「何の形のつもりだったんだ」
「さあて、何に見えるかしら」
 メグ子は、五助さんのこたえに期待を寄せる目付きになりました。
「バッテンにしては、線が多いし」
 と五助さんは首をひねりました。
「ここに遊びに来た子供たちが見つけて、永遠とか天国に思いを馳せてくれればいいと、いじけた気持でかじっていたのよ」
「すると、星か。うん、星に見えないわけじゃないよ。見える、見える」
 五助さんは、メグ子のそのときの気持を汲んで、労わり包むように言いました。
「時間もなくて、歯で傷つけるしか出来ない私に、一番簡単なのが、星のしるしだったなんて。天国はもっとも遠いはずなのにね……」
 二人は公園を離れて、住宅地に入って行きました。
 いつの間にか、犬と猫と鳩が一定の距離を保ってついて来ていました。
「黄色い木の実パンよ。ほかほかで、とっても得した気持になるよ」
 外に人が出ていないので、メグ子が叫びました。人のいない所では、メグ子が叫ぶように取り決めてありました。
 ロバが人間の口を利いたので、犬と猫と鳩が、びっくりして跳び上がりました。犬は後ろへ逃げ、鳩は空中に飛び上がり、猫は近くの柏の木によじ登りました。
 七、八歳の男の子と、妹らしい四、五歳の女の子が、一軒の家から飛び出て来ました。
「あれ? 女の人の声がしたのに、男のパン屋さんだ」
 二人は目をしぱしぱさせて、メグ子と五助さんを見上げています。
「はい、パンかね。いくつ?  二人だから、二つかな」
 五助さんは言って、ロバの背からビニール袋に入れた二つのパンを取出して渡しました。
「あっ、黄色いパン!」
 二人は、まずパンを見て驚き、その目を五助さんとメグ子に向けました。
「一つ二十円。だから、二つで四十円。おや、一人ひとり別かね」
 二人は、それぞれ百円硬貨を差出していました。五助さんがそれを受け取って、おつりを数えていると、二人はくるっと回れ右をして、家に入って行こうとしました。
 たまらずメグ子が、
「おつりよ!」
 と声を張り上げました。二人の子供は、女の声にぎょっとして振り返りました。でも、メグ子の口はすでに閉じられています。二人の子供は、パンが意外に安いことも上の空で、おつりを受け取ると、ロバを振り向き振り向き家に消えて行きます。
 パンの値段は、五助さんとメグ子が相談して決めました。安いのは、原料の木の実も、パンを焼くまきも、泉の水も、すべて只であるからです。ビニール袋は買いましたが、しれたものです。いっそパンも只にすればいいのですが、それでは同業者から文句がでるでしょうし、まだ暗いうちに起きだして仕事をするために、蛍光灯が必要になり、一度にもっと多く焼くには、オーブンも買わなければならないのです。またパン作りに精を出すと、畑仕事がおろそかになり、そうなると、最小限の生活費もなければなりません。そんなこんなで、一個二十円という数字を割り出したのでした。
「黄色い木の実パンはいかがですか。ふっくらこっこで、天然の味がするよ」
 道に人が出ているので、五助さんが叫びました。
 若い母親に抱かれた女の子が、指を立ててメグ子の目に伸ばしてきました。そうやったところを母親が、
「ロバちゃんねえ」
 と子供ぐるみ体を傾けたものですから、メグ子は指で目をつつかれてしまったのです。痛い! と叫ぶわけにもいかず、歯を食いしばったまま、体を斜めにして子供から逃れました。
 このときです。後ろから、聞き覚えのある男の子と女の子の声が、耳に飛び込んできたのです。最初にパンを買ってくれた二人の子供のようです。
「ロバを連れたパン屋さん」というところを、下の女の子が、
「ロバパンちゃん」
 と、ただでさえよく回らない舌で、叫びつつ走るものですから、意味の通じる方が無理なのです。
「ロバパンちや、ロバパンちや」
 二人は息を喘がせて駆け付けると、上の男の子が、
「とてもうまかったから、お母さんも、おばあちゃんも欲しいんだって」
 と言うなり、百円硬貨をつきつけました。傍らから、女の子も百円硬貨をつきつけました。
「おばあちゃんとお母さんの分なら、そんなにはいらないんだが……」
 五助さんがためらっていると、女の子が、
「あたいの明日のおやつなの」
 と言い張ります。
 パンをどのように分配するのかは知る由もありませんが、二百円全部買って戻って行きました。
 さて、それからが大変でした。メグ子の目をつついた子供の母親が、
「そんなにおいしいんなら、私も貰おうかしら。一個二十円なんて、今どき安いわねえ」
 とエプロンのポケットから百円硬貨を出して、五個買って行くと、他にもロバ珍しさに寄って来ていた少年や少女、子供のお守りをしていたお祖母さんやお祖父さんが、覗き込むように寄って来て、お金を差し出すのです。ベランダで洗濯物を干していた奥さんまで、この有様を見て飛び出てくるしまつです。
 またたく間にパンはさばけていきました。三つの麻袋は空になり、残り一つも半分ほどになったとき、五助さんとメグ子は、目で合図をして一目散に逃げだしました。
 パンの売行きがよいのは嬉しいのですが、一箇所だけで固め売りをするのは、あまりかんばしいこととは思わなかったからです。太陽は恵みを遍く行き渡らせています。太陽の色をしたパンも、広くたくさんの人々に食べて貰いたかったのです。
 後ろからは人々が、叫びどよめきながら列をなして追ってきます。中には、
「まだお金をあげてなかったよお!」
 と叫ぶ声もありますが、構ってはいられません。
 二人は途中から路地へ折れ、空地に出て、そこに一軒だけ寂しく建っているあばら屋に、木戸を押して飛び込みました。古い造りで、中は土間になっているので、ロバのメグ子も一緒にはいれたのです。
 ごたごたした薄暗がりに、おばあさんが一人寝ていて、目だけをこちらに向けました。
「病気なんだわ。おばあちゃんにパンをあげて」
 とメグ子が言いました。
「何か言いなすったかね」
 おばあさんが、たいぎそうに口を開きました。
「ちょっと失礼して……」
 五助さんが、パンを一つ手に取って上がりこみ、おばあさんに食べさせようと口に持っていきました。おばあさんは一瞬、何をするのかというように顔を強ばらせましたが、口に触れたものが、柔らかでふくいくとしたパンと知って、むにゃむにゃと二口ほど噛みました。
 おばあさんの皺々の顔が、にわかにパンのようにふくらんで、明るく輝いたかと見るや、上半身を起こしてきたのです。
「こりゃ、何だか、踊り出したくなるような味だよ」
 こう言うが早いか、もっこり立ち上がってしまいました。そして本当に踊るような仕草で、台所へお茶をいれに行きました。
「踊り出して、人にお茶でもふるまいたくなる気分だよ、まったく。まさか、天国から迎えがきたわけでもあるまいに」
 メグ子が五助さんに目で合図をしました。五助さんが土間に下りると、メグ子は小声で、パンをもう一個置いて、おいとました方がいいと言いました。
 パンをテーブルに載せ、二人はそっと家を出ました。
 明るい光の下に、先程の追っ手の姿はありません。ところが少し歩いたところで、呼び止められました。
「ロバと若いだんな。お茶がはいったというのに!」
 おばあさんが、家の前に立って叫んでいたのです。
「急いでいるから、また後でね」
 思わずメグ子が言ってしまいました。おばあさんが、おやという顔をしましたが、しきりに頭を振って、天国にいるわけではないと思い直したらしく、
「病気を直して貰って、ただで帰すわけにはいかんよおお……」
 とだだっ子のように声を震わせました。
「おばあちゃん、一箇月くらいしたら、また寄ってみるから」
 と今度は五助さんが言いました。
 それから二人は、町のもう一方の外れまで歩いて、残りのパンを売り、いそいそと帰りの道を辿りました。帰りは住宅地をさけて、少し遠回りでも新しい道を行きました。

 二人は毎日パンを売り歩いていました。一度行った町内には、足を向けないようにしました。パンはどこでも、またたく間にさばけました。
 そうなると、麻袋に少し残して逃げだしました。いつものことながら二人を追いかけてきましたが、走っているうちにパンが薬のように効き始めて、一人一人満足して引き返して行くのでした。
 二人は残したパンを、病人や、幼い子に分けてやり、また足の悪い鳩や、年寄り猫にもちぎってやりました。
 そうして二週間もした頃、五助さんはパンを売った帰りに、蛍光灯を買おうとして電気店に寄りました。
 メグ子はひとりで路地に立ち、五助さんを待っていました。蛍光灯の売場は二階なので、まさか四つ足で階段を上がって行くわけにはいかなかったのです。
 電気店の中では、テレビやラジオのさまざまな音が反響していました。その中に一つ、テレビのニュースと思しき声が、メグ子の耳を捉えました。
「エチオピアでは、折からのかんばつで難民があふれ、飢餓に苦しんでおります。各国から食糧援助がなされているものの、物資が乏しく、とてもまかないきれない状態……」
 メグ子は、やるせない気持にかられ、狭い路地を二度三度回りました。それから、後ろ足で立ち上ると、電気店の外壁に足をかけて、格子窓から中を覗きこみました。
 ちかちかといくつかテレビの映像を流している中に、先祖から伝え聞いてきたアフリカが映されていました。見る影もなく痩せ細って、お腹だけ脹らんでいる子供たち。若い母親のしわしわのおっぱいにしがみつく乳飲み子。乳の出ないその母親のせつない顔つき。その周りをハエだけが肥え太って、ぶんぶん飛び回っています。南国、ことに高地エチオピアの空は焦げ付くばかりに青く、不毛の岩肌がつややかに輝いています……。
 エチオピアの映像はすぐ他のものに変わってしまい、メグ子の先祖の土地は、再び遠いかなたに切り離されてしまいました。メグ子は地面に足を下ろしましたが、じっとしていられず、路地の一点を回り続けていました。
「メグ子、いいのを買ったぞ」
 五助さんがダンボール箱を手に、浮かれ顔で現れましたが、逆にメグ子は浮かぬ顔でした。
 メグ子の背にダンボール箱をくくりつけると、五助さんは先になって歩き出しました。
 家に着くと、五助さんはさっそく蛍光灯を取り付けました。紐スイッチを引いて、これまでの裸電球とはうって変わって白い光が行き渡ったとき、メグ子はその明るさに背を向けるように、庭を回り始めました。
「メグ子、蛍光ランプがついたぞ。我が家の文明開化だ」
 五助さんが声を弾ませました。そしてこのときようやく、メグ子の異変に気づいたのです。
「おいメグ子、君はこの明るさが嬉しくないのか。そういえば、だいぶ前から様子が変だったなあ。木の実パンの効き目は外の者にだけ働いて、製造する者には及ばないということかな」
 五助さんは、庭に下りてきて、メグ子をのぞきこみました。
「そうじゃないのよ……」
 メグ子は、力なくそれだけ言って、なおも回り続けました。
「そうじゃなければ、何が原因なんだ。君はまさか、嫁に行きたくなったんじゃないんだろうな? 人間でいえば、妙齢というところだし。最近、毛並みもよくなってきたもんな」
「そんなんじゃないのよ!」
 メグ子は、それには強く反発して、「私、結婚はしないって、前に話したでしょう」
「それじゃ、どうしてそんなに沈んでいるんだよ。ぼくばっかり元気づいて、悪いみたいじゃないか」
 五助さんはふところ手にして、家の中を見上げました。日没にはまだ間があるのですが、室内の新しい明かりは、うるわしいばかりに目に映ってくるのです。この喜びをメグ子と分かち合うつもりでいたのが、はぐらかされてみると、解せない思いは募るばかりです。
 なほも問い詰めると、ついにメグ子は先程テレビニユースで見た祖国の有様を報告したのです。そして帰る道々考えつづけ、自分でもどうしようもないジレンマに陥っていることを。
 五助さんは、いきおい険しい表情になり、腕組みをして考えこみます。
「ふーん」
 と溜息もつきました。
「ねえ、こんなこと、あなたに買われてきた私が言える筋合じゃないんだけど、私をいなかったと諦めて、エチオピアに送り出してくれない? 一生に一度のお願いだわ」
 庭を回っていたメグ子は、途中からまっすぐ向かってきて、すっかり大人びた口調で言いました。
「買われたなんて言い方はよしてくれ。そんなことが問題じゃない。感情の、いや心の問題だ。せっかく良い友が出来たと思っていたのに、もう別れるなんて……」
 五助さんは、腹立たしさを叩きつけるように言い放ちました。

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