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文芸の里コミュの人魚の話

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            Rhapsody on a Theme of Paganini Op. 43: Variation XVIII - [HD]




        ◇人魚の話



 大村真は久山市の観光協会に勤めるようになって、三箇月になった。彼はこの土地の言い伝えや奇譚をまとめて、協会のWEBページに載せるように言われていた。それが担当というわけではないが、ホームワークのような形で受け持たされていた。
「何かないかなあ」
 真はミユキに相談を持ちかけるように言った。
「あるわ、でもあまりにも暗い話だから、どうかしら。市の観光ピーアールには向かないかもしれないわ」
 ミユキはそう言って、いかにもその話の中味がビターであることを匂わせる顔つきになった。
「何でも晴れがましいものだけが、観光に役立つと考えるのは間違っている。そんなきんきらきんの美談ばかりで飾り立てようとすると、人はそっぽを向くようになる」
「人生は、綺麗ごとばかりじゃないものね」
 ミユキは言って、ストローでアイスティーのグラスの底にある氷片をかき回した。
 街の片隅の明るい喫茶店だった。ミユキの家から七分、大村真のアパートから十分の距離にあった。この店は真が見つけて、ミユキに教えたのだ。これまで彼女は、喫茶店になど入ったことがなかった。
 真はこの市に赴任したばかりなのに、物知りだとミユキは言った。一方真からすると、喫茶店の数の多い少ないによって、その街の文明の度合いが占えると考えているほどだった。そしてこの街には、純喫茶であるか否かはともかくとして、そういった類の店が多いほうだと見ていた。それは協会にあるパンフレットやデータだけでなく、街を歩いてみての感想だった。
 ミユキはそんなことで、真を物知りだと驚いているが、彼女が高校一年生になったばかりであると考えれば、知らなくて当たり前といえたのである。
 白い半袖のヴラウスが首から胸の辺りにかけて、肌の色を透かしている。奥まった窓際の席で、開いた窓から涼しい風が吹き込んでいた。その風に、ミユキのヴラウスが肌にぴったりくっついたり、離れたりしているのだ。通学用のヴラウスではなく、それでもよそ行きに着る一枚であるらしかった。襟元に大きなカーマインのリボンがついていた。
「それ、君の高校のリボン?」
 と真は訊いた。
「いえ、お母さんに貰ったものよ。ふつうは付けないんだけど、今日は付けてきたの」
「お母さんか、僕はもっと早く来るべきだったのかなあ。クリスマスの翌日では、遅すぎたんだなあ」
「あなたは」
 そう言いかけて、ミユキは言い直した。「大村さんは、十分して下さったわ。早く進んだ病気が悪かっただけよ。大村さんは、私にして下さったわ。今もして下さっているわ。それを母に見せるために、してきたの。
 ミユキはリボンに手をかざして、そう言った。
 ミユキは昨年の花火の夜に比べて、痩せてほっそりしていた。それだけで、大変なところを通ってきたことが判るのだ。もしこんなに印象が変わっていなければ、今年になって、湖畔ですれ違ったときにも、一目で分かったはずなのだ。いや、そう断言できる自信はない。何しろ、花火の夜の三十分の道行きだったのだから。それも暗い森の中の道を、お互いに鎮み込んで歩いていたのだから。時々花火の轟音と、その少し前に花火の閃光が辺りを照らして、二人は花火の余光に染められていただけなのだから。
「少し食べたほうがいいね」
 大村は言って、ウェートレスを呼び、ケーキを注文した。流行のダイエットなどということばは、ミユキには通用しなかった。
 彼女はケーキが来ると、目を輝かせ、
「お母さん、大村さんにデラックスなケーキをご馳走してもらってるわ」
 そう報告した。
 ケーキを口に運びながら、ミユキは自分の頭の中にある暗い言い伝えの話を、思い出し、思い出ししながら、語っていった。それは悲惨な人魚の話だった。
 
 私の家から四十分ばかり奥に入ったところに、人の目に隠されるようにして小さな湖があるのよ。知られていない湖だから、名前もないのよ。

 そう言ってミユキは話しはじめた。ミユキが小学生の頃、母から聞いた話らしい。その湖から、五、六十メートル離れたところに独り寂しく暮らす老婆がいて、その老婆から、母が聴いてきた話を、ミユキに語り聞かせたらしかった。
 
 老婆の家の傍らの山道を、見かけない中年夫婦が、リヤカーを引いて通った。彼らはリヤカーを道に残して、老婆の庭に入って来ると、しきりに湖のほうを眺めていた。老婆の庭からは、草木に隠れて、湖はまったく見えなかった。それで安心したらしく、二人はリヤカーを引いて、また山道を進み出した。リヤカーには、毛布にくるんだようなものが、横になっていた。
「何をしに行きなさるかね」
 老婆は疑念にかられて、そう声をかけた。
「庭に植えるクヌギの幼木を探しているんです」
 と夫が言った。リヤカーにある毛布にくるまれたものは、幼木の一本と思えた。木々に囲まれている老婆からすると、庭に木を植えるなど、まったく考えも及ばなかった。
 それから一週間ばかりして、湖で鳥たちが普段よりけたたましく、鳴き交わしているのを老婆は耳にした。何だろうと、彼女は首を傾げた。そっと湖に寄っていくと、湖に一人の女が浮かんで、寄ってくる鳥たちを追い払っているのだった。女と見たのは、目の迷いだったのだろうか。一瞬後には、人影はなく、水面に大きな波紋ができて、岸へと広がっていくところだった。しかし目を凝らすと、水の奥深く、白っぽいものがすーっと流れるのが、仄かに見えた。あの喚き立てていた鳥たちは、湖岸の木に舞い戻って、静かにしていた。それは侵入者を追い払って、ほっとしている鳥の姿だった。
 老婆は自分の見たものが、夢とか幻とはどうしても思えなかったから、その後湖に注目するようになった。
 翌日木立に身を隠して、顔だけ出して湖に視線を配っていくと、一箇所に鳥が群れていた。老婆はそちらへ身をずらしていき、近い距離で観察した。鳥の群れる中心に、あの女がいた。女は大きな魚を手にして、自ら魚を頬張るだけでなく、鳥たちにも与えているのだった。鳥たちがそれを奪い合うとき、ちょっとした諍いが起きるだけで、けたたましく鳴き立てたりはしなかった。昨日は女を鳥たちの猟場を荒らす侵入者と見て、敵対したが、今は餌を与えてくれるものと見なして、態度を変えたらしかった。
 このときはっきり人間の艶めかしい女の声で、
「今日はこれでおしまい、帰りなさい!」
 片手を挙げて命令するのを聞いた。片手と言ったが、老婆がこのとき目にしたのは、魚の鰓が変形したようなものだった。明らかに人間の手とは違う、しかし扁平な魚の鰓でもない。人間と動物の中間にあるような奇妙な器官としか名付けようのない、体の一部だった。顔も、首筋から連なる胸への線も、美しい女のもので、それは腰の下までうねっていた。
 だが、次の一瞬、老婆はまた、異様なものを目にしてしまった。鳥たちを帰した後、女も自らの塒に帰るべく、そこで宙返りを打ち、何と、イルカかアシカのような尾鰭が水面からのぞいてしまったのである。その後は水中の魚となり、長い黒髪が女の背を流れるままに覆い隠して、深く深く水底へと霞んでいった。
 この湖に魚がいるとは、老婆は考えてもいなかった。たまに魚が跳ね上がるのか、水輪ができたりして、ごく少数の魚がいるのだろうくらいに思っていた。
 昔は釣り人が立ち寄って、釣り糸を垂れてみたりもしたが、当たりはなく、以後魚の棲まない湖と見なされ、山の奥深く存在するというだけで、景観が優れているのでもなく、名前すら付けられずに見捨てられていった。
 ところが、今垣間見た女の振る舞いはどうだ。魚は貧しいどころか、豊漁をうかがわせるばかりに躍動して、死の湖を一時甦らせたのである。どう考えても、湖の底には、魚の群れているところがあるらしい。女はそこを察知していて、苦もなく捕まえてくるのだ。鳥たちも、少数の魚が水面に出て来るのは知っていたが、女にはかなわなかった。
 老婆はこの人魚の話を誰にも教えなかった。女がここに連れて来られた時のことを知っているだけに、人に話してはならないと、自らに言い聞かせた。あの中年夫婦が引いてきたリヤカーに毛布にくるまれて横たわっていたのが、この人魚にちがいなかった。
 あの夫婦には、天のいたずらによるのか、人魚が生まれてしまったのだ。我が子ゆえに不憫で、可愛くもあり、今までは浴槽で育ててきたが、もっと大きな自然の中で生かせてやりたいと思うようになった。
 おそらくあの夫婦は、娘を放す場所探しを、懸命になってはじめたに違いない。美しい場所にこしたことはないが、それでは人が寄ってきて、娘に危険が迫る。魚がいてもならない。しかしまったくいないと、娘の食料が確保できない。そこで見つけだしたのが、この名前もない小さな湖だったのだろう。

「ここからはまたぎが登場するのよ」
 とミユキは言った。「たぶんにフィクションが混じっているみたい。だって、おばあさんは、最初に人魚とまたぎが出会った時なんか、知るはずもないのに、いかにもそこにいたみたいに、話すんですもの。人魚がおばあさんにのりうつったみたいよ。お母さんも、それを話すときのおばあさんの様子を、まるで恋でもしているみたいに顔が輝いていたんですって」
 そう言って、真を見たミユキも、恋という言葉にあてられたのか、薄紅に染まった。

 ある日娘が岸に寄って、しだれ柳の下で木漏れ日を浴びていると、ふと近くに男がいるのに気づいた。男はまたぎを生業とするもので、手に銃を持っていた。
 男は顔中髭をたくわえ、見るからに剛健という感じだった。五十を過ぎているようにも見えたが、なりがそう見えるだけで、三十を出たばかりなのかも知れなかった。
 いったい男はいつから、そこにいたのだろう。そして自分は、いつから見られていたのだろう。女は自分が完全に男の術中にはまっていると自覚した。
 女は観念して、男のほうに体を向けると、両手を挙げた。獲物と見れば、必ず撃ってくるだろう。それがまたぎを生業とするものの務めだ。この道一本で生きてきたのであれば、本能といってもよい。
 男は奇怪な両手から、足の先まで透視してしまった。しかしそれを表情に出すような男ではない。いや、ここで水に浸かっている女を見たときから、見抜いていたのかも知れない。
 男は草むらに銃を投げおくと、ゆっくり大股で岸に寄ってきた。
「そこで寒くはないか?」
 言葉は粗野でも、言外に優しさがあった。
「ええ、慣れていますもの」
 と女は言って、位置を保つために尾鰭をかすかに振った。水が捩れて、水草の作る水泡が水面に浮かんできた。
 これが老婆の語った女と男の馴れ初めである。それから何回か岸に寄って、男と女が睦言めいて語り合うのを、老婆は目撃している。しかし老婆は、本能的にまたぎを怖れるようになった。女を庇うあまり、もし見つかったとき、男が何をしでかすか不安になった。そんなことから、老婆は湖に寄りつかないようになった。
 ある日、湖の外れの方で槌音が起こった。三日たっても槌音はやまなかった。老婆は気になって、そっと湖岸に近づいていった。何と、湖の向こう岸に近く、掘っ立て小屋が出来かかっているではないか。そして小屋に向けて小さな水路が掘られ、早くも水を湛えて光っているのだ。女が小屋への出入りを簡単に出来る水路であると分かった。
 この後は老婆の想像だけである。しかしここまでくれば、それが決して空想でないことは十分理解できる。実際は老婆の想像力が乏しいだけ、もっと濃密な男と女、いや人魚との逢瀬が展開していったのであろう。
 間もなくバブルの全盛期を迎え、この辺り一帯をゴルフ場にするという話が持ち上がった。国有地が払い下げられ、測量技師が入って、測量が行われた。老婆の家も、やまがつの家も、許可を得て建てた家ではなかったから、立ち退かなければならなくなった。本来なら、不法に建てた家なので、何の補償もなく出なければならないのだが、土地を購入した資産家のはからいで、応分の立退き料が支払われることになった。後腐れを残してはならないというのだろう。老婆はそこに住んで、山菜や茸をとって、街に売りに出たり、自給自足の農作物をつくって細々と生活していたが、そこを出るとなると、生活の目処が立たなくなった。そう遠くないところに、やはり国有地を探して、移ったと思えるが、それはまったく秘密のうちになされた。移ったにせよ、国有地を無断借用することは変わりなかったからである。
 老婆は他に移っていくところがあったからいいが、またぎと人魚にしてみると、そう簡単にいくはずはなかった。立ち退きを命ずるほうからすれば、またぎ一人で生きていくのなら、どこにだってあると考えたが、隠された人魚のことは、当然眼中になかった。移って行くにも、湖など他にはどこにもなかった。それはまたぎが、誰よりもよく知っていた。そうかといって、人魚を一人残していく気持ちにはなれなかった。人魚を置いていけば、物語の世界でしか知らなかった人魚が実在したというので、大騒ぎになることは分かりきっていた。そこでしかるべき処置がこうじられ、人魚を世に広く知らしめて、悲劇のヒロインの役を演じていくかもしれないと思えたが、またぎは女を手放すことは出来なかった。見初めてからというもの、一心同体のように愛していたのである。それは女にしても同じだった。彼女の生涯で知った男は、このまたぎのほかにはいなかった。またほかの男が現れるとも考えなかった。男は世界にまたぎ以外には存在しなかった。
 女にとって、またぎと結ばれた二箇月が、何と輝くばかりの黄金の歳月であっただろう。絶頂期の煌めきが、ぽきりと折られたようなものだ。
「私はあなたのおかげで、人生を愉しませて貰ったから、もういいの。私さえいなければ、あなたはどこでだって、生きていけるんだから、私をここに残して行きなさい」
 女は尾ひれを男の後ろに回し、人間の体をした腿から胸にかけて、またぎにしな垂れるようにして言った。
「そんなことを言って、おまえは有名になりたいのか。おまえのその美しさなら、世界中でひっぱりだこになるだろう。人権擁護委員が騒ぎ出して、ゆくゆくは秘密裏に動くことになるだろうが、ヒーローになることは間違いない」
 女は尾ひれで男の背をびしっと打った。いつも重く水を打ち叩いて、反動を利して活動しているだけに、男は骨身にしみるほど痛かった。女の愛が、非情な力を生んだともいえる。
「どうしてそんなこと言うのよ。あなたは私の気持ちなんか、少しも分かっていない。私には、あなた以外には何もないのよ。あなたがすべて。あなたと出会ったときから、そうだった。撃つと思って手を挙げたのに、あなたは撃たなかった。銃を草叢に捨てて、私に近づいてきた時、何と言ったか覚えている?『そこで寒くはないか?』って言ってくれたのよ。あたたかかった、あなたの言葉。それまでは、パパとママの言葉が、私を慰めてくれていたけど、あなたにそう言われてから、私にとってパパもママも遠くなっていったの。今回だって、この辺りがゴルフ場になるのを知っているくせに、両親は何も言ってこないでしょう。たぶん二人も、あなたがさっき言ったのと同じことを考えているのよね。世界に出るチャンスになるかもしれないって。家に連れ戻して、浴槽に入れることが、もうたまらなかったのよね。そうなったら、私はここに放される前よりも、もっと惨めになるのよ。何といっても、あなたを失うんだもの。私にとって世界は、パパとママの希望のない会話と、ときどき聞こえてきた『鬼さんめっけた』って叫ぶ子どもの声しかなくなるんだわ。前には『鬼さんめっけた』って叫ぶ声に怯えて、私は浴槽に蓋をして、じっと息を殺していたものだわ。私はいつの間にか、鬼になっていたのよ」
 男は女の話を、別のことを考えながら聞いていた。別のこととは、女がこれから生きていこうとしている選択肢のことだ。ここに残って、ヒーローにならずして生き残るどんな方法があるというのだろう。この湖の奥深く、それこそ竜宮城のような隠れ家があるというのか。ゴルフ場になれば、湖の有効利用とばかりに、ボートを浮かべもするだろう。ボート上でのアベックの語らいを、水底深く身を潜めて聞いているというのか。たまにゴルフボールが、ぴちゃっと水面に飛び込んでくるのを、どんな思いで聞くのだろう。
「それでおまえはどうするつもりなんだ」
「私……」
 またぎは女が何を考えているのか、今こそ本音を聴かなければならないと思った。「私はね、もう十分人生を愉しませてもらったわ。あなたのおかげよ。感謝してるわ。半分人間だから、ここまで生きてこられたけれど、魚にとっては寿命なのよ。だからここでおしまいにするの。あなたが出て行って、この峠を越える辺りで、振り返ってみてね。この小屋が、美しい炎に包まれているから。その中に私がいると思ってちょうだい。焼き魚をあなたに食べさせてあげられないのは残念だけれど」
 またぎは女の話を聞きながら、とてもそんなことはさせられないと思った。

 老婆はそこから三キロ離れた山腹に、誰かが昔炭焼きに使っていた小屋を見つけて、そこに移ることになった。小屋を修復して、何とか人が住めるようにし、荷物を少しずつ運んだ。リヤカーの通れる道が途中までついているが、その先は背負って運ばなければならなかった。
 その荷物運びをほぼ終えて、老婆が後片付けに湖畔の家に戻ってきたとき、またぎの家がいきなり白煙を噴き出し、中に赤い舌のようなものがちらっとのぞいた。老婆はとっさに大変な事態を察知して駆けつけようとしたが、見てはいけないものを見てしまう罪の意識のようなものに打ちのめされ、身動きがとれなくなった。そのうち白煙は赤い炎にうって変わり、たちまちまたぎの小屋を嘗め尽くして、間もなく鎮火した。家財道具とてない、粗末な家は、あっけなく全焼してしまったのである。おそらく火事を目撃したのは、老婆のほかにはいなかったであろう。
 山の方へ逃げて行く人影はなかったし,またぎが女を置いて逃げるとはとうてい考えられなかった。老婆の目にも、人魚は麗しく、尾びれと奇怪な手さえなければ、絶世の美女と映ったくらいである。またぎは女を失うくらいなら、死を選ぶに違いないと、立ち退きの話が出た後、考えていたのである。老婆にも、この場所をおいて、ほかに人魚の住めるところはないと思えた。

 以上はミユキが感じるところを補い、大村がさらに補足した人魚の話のあらましである。
 大村はここで、昔ミユキの母親に語ったという老婆と、母親との接点があやふやになっていた。その不安に助けを求めるように、大村はミユキに訊いた。大村の顔によほど苦渋があったと見えて、ミユキもさりげなくは語れなくなっていた。そうであれば、大村はよけい、この不明なものに突っ込んでいかなければいられなかった。それはもう、インターネットの観光案内に、地方の奇譚を載せるという責をこえていた。
「どうして、そのお婆さんは君の母親に、そんな大変な話を打明けることができたんだろう。わざわざそのために君の家を訪ねてくるというのも変だ」
「それは」
 ミユキはそう発声して、顔面蒼白となり、大村を見つめたまま、先が続かなくなった。組み合わせた左右の手は、指を硬直させたまま動きを止めていた。
「それは?」
 大村はますます不安になって、先を促した。ミユキはなお呼吸を止めるようにして押し黙っていたが、一度閉じた目を開くと、
「おばあさんが住むことになった炭焼き小屋というのは、昔私の家で使っていた小屋なの」
 と言った。
「君の家は、炭焼きをしていたんだ」
 大村は、人魚の話からミユキの身の上に飛び火していくのを感じながら言った。ミユキの父についてまだ聞いていなかったし、当然話はそちらへ及んでいくと思えた。
「そう昔ね。今のようにガスとか電気とか、便利な固形燃料に押される前のことよ。その頃だって、炭はもうすたれてきていて、レバは炭で焼いたほうがおいしいとか、炭焼きコーヒーなどと、密かに言われている程度だったわ」
 とミユキは言って、本論には入っていきたくない口ぶりだった。炭を焼いていたのなら、当然焼く者がいなければならないはずである。大村の問いかけは、その土壇場まで追い詰めるものだった。
「お母さんが、炭を焼いていたの?」
 大村は不自然なものを感じながら、そう訊かざるを得なかった。
「そう」
 とミユキはぎこちなく言って、そこで言葉が詰まって先へ進めなくなった。グラスの水で喉を潤そうとしたが、そんなことで解決されるものではなかった。
「女の手で炭を焼くなんて、大変だったね」
 と大村は言った。ミユキの父親について訊けないことが、もどかしくはあっても、彼女に拘りがある限り、直接訊くのもはばかられた。
「……」
「その小屋に、おばあさんが住み着いてしまったわけだ。そして、君のお母さんに人魚の話しをした。そうだよね」
「お母さんが茸をとりに行って、昔の小屋に寄ってみたら、おばあさんがいたの。まさか人がいるなんて思わなかったから、びっくりしたって言ってたわ。そのときのお母さんの期待と幻滅がどんなものだったか、私よく分かるの」
 ミユキはそこまで言って、胸を撫で下ろすような呼吸を一つした。
「期待と幻滅?」
 大村はにわかに頭をもたげてくる未知なる感覚に呼び覚まされながら、そう訊いた。ミユキはぽかんとして、大村を見ていたが、これではいけないと思い直したらしく、
「いいえ、私の勝手な憶測よ。ふっとそのときのお母さんの気持ちを考えたら、そんな気がしたの。お母さんがいるときは、一度もそんな気持ちにはならなかったんだけれど、いなくなった今だから、こんな気持ちになるんだわ」
 何か隠しているな、と大村は睨んだ。女が一人で炭を焼くなんて、異常すぎる。
 ミユキは自らの失言を取り繕うように、
「あのね」
 と会話の切り替えをはかるべく、そう言った。大村はそこに疑惑の目を向ける。「さっきのまたぎなんだけれど、おばあさんがそこに移ってしばらくして、小屋を覗きに来たって言うのよ。おばあさんが外に出ると、西山の方角へ立ち去ったんですって」
「おい、ちょっと待ってくれよ。さっきは君の想像をまじえてはいたけど、二人とも死を選んだんじゃなかったのか」
 と大村は言った。大村の推測でも、またぎと人魚の死で、完結したはずだった。
「だっておばあさんが、お母さんに最後の最後まで、またぎが現れた話をしなかったからよ。私はその前までを話しただけだわ」
「では、人魚だけ残して、またぎは出て行ったんじゃないのか。さっき話した筋書き通りに」
「そうよね。神話とか、風土記の中に残っている奇譚なんて、みんなそんなものよね。そうやって、心の中だけに残っているんだわ。人魚だって、そうよ。でも、人魚は実際に生きて存在するんだわ。お婆さんの話では、またぎが生きているっていうことは、人魚も必ず一緒に生きているってきかないんですって。考えてみると、またぎが一緒なら、魚の棲む湖なんかなくったってよかったのよ。川で魚を獲って来て、食べさせたっていいんだし、他の動物の肉だって食べるでしょうし、木の実や山の果物だって、とってきて食べさせるわよ。人魚だから、水は必要でしょうけど、川の近くに小屋を建てれば、水を引くことだってできるものね」
「なるほど、その通りだ。何でさっきは、狭く考えてしまったんだろう。魚の棲む湖がなければ、生きていけないなんて」
「人間って、そういう脆い生き物なんだわ。絶望から這い上がれるのに、そこを行き止まりにしてしまうのよね」
「すると、人魚は生きているんだね」
「生きているわ、世界中に」

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コメント(1)


「世界中だって!」
「そうよ。世界中に実在するわ。でもそうは書けないから、炎に包んで終わらせてしまうんだわ。美を完結させてしまうの。もし人魚が生きていると分かったら、いたるところから人が探しに来て、大騒動どころか収拾がつかないことになるもの」
「人の目に見えないように、隠しておくんだね」
「そう、大切なものだから隠しておくの」
 ミユキは先ほど沈んでいたのとはうって変わって、表情が明るくなっていた。にわか雨が通り過ぎた後の、アスファルトの路上のようだ。この調子なら、ずっと引きずってきた疑問について、訊けるかもしれない。
「人魚の話とは別に、引っ掛かっているものがあるんだけれど、訊いてもいい?」
 大村はそう話を向けた。するとミユキは一変した。
「何かしら」
 彼女はテーブルに肘をつけた手を組み合わせ、さっきと同じ防御の姿勢をとった。しかし彼は言いかけて引っ込めるわけにはいかない。もし自分の前に大敵として現われてくるとしたら、男に違いなかった。それも、血を分けた男性。今は隠れていても、顕現してくるに違いない父親だ。
「少し前から気になっていたんだけれど、君の父親の顔がちらついてならないんだ。君は一度も父親の話をしないしね。さっき、炭焼き小屋を覗きに来たって言ったとき、ぎくっとしたんだけど、もしかして、その小屋にはまたぎが住んでいたんじゃないのかなんて、勘繰ってしまったのさ。女手一つで炭を焼くなんて大変だという思いと重なってしまってね。そうだとしたら、またぎが君のお父さんということになるんじゃないかって」
「違うわ」
 何故かミユキはきっぱりと否定した。「そんな疑いを持って、私を探ろうとする真さんって、嫌い」
 ミユキはこれまで一度も遣ったことのない名前を、声を震わせて呼んで、泣き出してしまった。
「悪かった。謝るよ。疑っていたわけじゃないけど、一度も君が父親の話をしないから」
 大村はミユキの肩を押さえてなだめたが、涙は止めどなく零れてきて、お絞りを目に当てたままだった。その涙が収まるいとまもなく、ミユキは席を立ってしまった。
 大村はそのミユキについて喫茶店を出たが、彼女を引き止めることはできなかった。ミユキは鉄の固まりのようになって、態度を硬化させ、大村から逃れ出て行った。送っていくのは禁物だった。伯母の家族の目を逃れて、暗黙の密会だったのである。

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