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文芸の里コミュの林檎をわれにあたへしは・止まった時計(長編連載)12

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                           Exsultate, jubilate




 二月に入ると、内木は土曜日に年休を取つて、王子のポエムクラブGの集會に向かつて行つた。その前に主宰の清水と二人だけで會ふ必要を感じ、一時間半をそのために充てる豫定で早めに王子驛に著いた。
 清水と驛前で待ち合はせるなど、學生時代に戻つたやうな氣分だ。はたしてお互ひに分かるかどうか氣になつたが、詩を書くなどといふのは特殊な分野だから、匂ひでなりと嗅ぎ當てられるだらうと、高をくくつてゐた。何のことはない。あつさり分かつて、拍子拔けの氣分を味はつてゐた。新宿邊りの雜踏を想像してゐたのがそもそもの過ちで、ひつそりした街だつたのだ。
 お互ひに風貌こそ世の波に洗はれてやつれ、草臥れてゐたが、變はらないものを殘してもゐた。その不屈のものこそ、詩魂とでもいへれば、評價に値するのだらうが、自信はなかつた。單なる世間知らずの若さ、もつといへば無邪氣な情熱なのかもしれなかつた。
「老けたね」
 清水は驛のアーケードを日の下に出るなり、さう言つた。マフラーを背に跳ね上げる仕種は、學生時代と變はらなかつた。「俺もだらうけど」
「まあ、お互ひに」
 と内木は穩やかに肯つてゐた。
 ポエムクラブGの集會が持たれる喫茶店に近い、イタリアンレストランに入つて、向ひ合つた。
「ずいぶん會はなかつたね」
 と清水は言つた。
「いつでも會へると思つてゐたんだけれど、やはり世のしきたりに、嵌められてゐたのかもしれない」
 内木は告白するやうな口調になつてゐた。それを突き崩したのが、秋山トモカであることを今更のやうに感じてゐた。もし秋山がゐなければ、依然足を向けようとしなかつたのではないか。しかし秋山に會ふために來たのではなかつた。彼女の動向を探るためでもなかつた。
「俺は最近思ふんだが、詩を書く人間つて、正直だよね。毎日毎日、眞情を吐露するみたいに綴つてゐるうちに、人間もさうなつてしまふのかもしれない。何といつても、詩には嘘は書けないもの。
 その詩の精神に引きずられて、おのづと正直にならざるを得ないのかもしれない」
「それだから、この世的には成功しないのかもしれないね」
 と内木は言つた。
 そろそろ秋山トモカのことを持ち出さなければならなかつた。清水もそれを感じてゐるらしいのだが、なぜか言ひ出せないでゐた。いつたい彼女の何がわざはひして、二人の疎通を缺いてゐるのだらうか。まさか清水が、トモカに横戀慕してゐるわけではあるまいに。
 内木がぼんやりそんなことを考へてゐるとき、窓の外を秋山トモカと里崎淳が通り過ぎたのである。窓際の席だつたためすぐ分かつた。
 冬の日にきらめいた一瞬の秋山トモカとの出會ひに、内木はあつと、小さく叫んでゐた。
その聲に、清水も二人に目を留めた。
 内木が里崎を見るのははじめてだが、不思議なことに、想像裡の里崎淳と、秋山トモカと連れ立つて通り過ぎた彼は、さう變はつてゐなかつた。舊知の男に見えたのはそのせゐだつた。
「今日、里崎君は缺席だね。二人で食事をして、秋山君は一人だけで來る」
 不審顏をしてゐると、清水はその説明をはじめた。
「あの二人の關係つて、他人の忖度を許さないね。まつたく超然として、二人だけの世界を築いてしまつてゐるんだ。かう言つたからつて、一口に相思相愛だなんて片付けられるもんぢやない」
 清水はそんな前置きをしてから、その後の二人の樣子を語つて聞かせた。
「秋山トモカさんは、まつたくのお姫さまなんだよ。それが日に日に増長していくのが目に見えるんだな。里崎君は秋山さんを見初めた後、見違へるやうに變はつたよ。大學も卒業の目處をつけたし、すつかり明るくなつた。しかし詩は書かなくなつた。その分彼女に吸ひ取られた感じだ。彼女のはうは、相變はらず奔放の詩を書きなぐつて、朗讀してゐるんだ。赤裸々に、戀とか、愛とか、愛欲のシーンを取り込んで、それが里崎君のことかといふと、さうではないんだな。彼女自身、想像上の理想の男だといふんだから處置なしだ。
彼女の中を淫蕩のデモンが這ひ囘つてゐる氣がしてくる。
 また二人を觀察してゐると、詩に登場する男性が里崎君ぢやないと、容易に頷けるときてゐる。そしてそんなベッドシーンを、彼女が他で持つてゐるなんて、考へられもしないんだ。やはり彼女の言ふ、理想の男としかいひやうがない。
 現實の彼女はお姫さまになつていくし、里崎君は、下僕のやうになつてしまつてゐる。それでゐて、彼女なしには生きられないといふのは確かなんだ。彼は秋山さんに滿足して生きていかうとしてゐる。男と女の關係は不可解だ」
 清水は言つて、前囘の朗讀會でつかつた會員の詩のテキストを出した。八名の詩の一つに秋山トモカの詩はあつた。
 内木は秋山トモカの詩にざつと目を通して、
「なるほど」
 と脣を噛んでゐた。
 もしカウンセラーなら、この詩から彼女の頭の中をどのやうに解剖するだらうかと考へ込んでゐた。あくまでも空想の男であるのは救ひだが、清水の言ふデモンが、生々しく彼女の中を這ひ囘つてゐるやうにも思へた。
 そしてもし、彼女から詩作を取り除いたら、生活自體が里崎をはみ出て、詩を地で行くやうな淫靡を極めた愛欲に埋められていくのではないかと不安になつた。
 もし智に長けた聰明な市長がゐたら、犯罪を増やさないために、落書きしやすい環境をどこかに殘しておくだらう。
「荒れてるね、彼女」
 と清水は言つた。詩からだけでなく、彼なりに含むところがあるといふやうな口吻だ。
「現代人すべてが、荒れてゐるといふ意味なら分かるけど」
 と内木は言つた。理解はできても、生きることの絶望や哀しみを抱へてゐる内木元介としては、彼女一人を甘やかすわけにはいかないといふ思ひがあつた。
「ちよつとアブノーマルだよ」
 と清水は言つた。「よくあれで、里崎君が支へてゐられる。今にその絲が切れたら、どうなるのか。ポエムクラブGを主宰するものとしても危惧を感じる。それを現代人の不安だなどと、暢氣も言つてゐられないんだ」
「さつき、里崎君は缺席と言つたけど、バイトでもしてゐるのかな」
「けつこう生活が大變らしい、彼女ができてからといふもの。生きるはりが出て、卒業はできたものの、二人の關係を守るために、仕事に追ひまくられてゐる。それは同性として、氣の毒なくらいだ。しかし里崎君からすれば、はりあひなんだ。だから默つて見てゐる。詩を書けなくなるなんて、どうつてことないからね。自發的に書かずにはゐられないつていふのが、詩作の本來の姿だから」
「たしかに書かなくても、どうつてことない」
 と内木は相槌を打つた。だから生活が一番ともいへなかつた。そんな氣がするのも、秋山トモカによつて、ぱかつと口を開けられたやうなものだからだ。それがやるせなく、致し方ないものだつた。
 間もなく二人は、ポエムクラブGの會場へ席を移した。一人秋山トモカだけが來て、煙草をふかしてゐた。内木を認めると、狼狽して煙草をもみ消し、やや取り亂した挨拶をした。
 厚手の毛絲のガウンがぬくぬくと暖かさうだつた。里崎にねだつて買つて貰つたのだらう。ブーツも、喫茶店のほの暗い床にはそぐはない、新品の光を放つてゐた。
 今トモカが、インターネットの掲示板にどんな書き込みをしてゐるのか、内木はエリコにいちいち訊いてゐなかつた。ただトモカの性格として、一度男の心を手に入れようとして、途中で引き下がるやうな女ではないとエリコの語つた言葉が、實感を伴はずに宙に浮いてゐた。それはいはば、止まつてしまつた時計なのだ。
 大學時代、戀のなかばにして途絶した女のやうに。そしてナミに引き繼がれた時計も、止まつたまま、宙にぶら下がつてゐた。それは夜の月のやうに、ときめくやうな光を放ちはしない。が、靜かな死んだ時間を掲げてゐることはたしかだつた。それらは、どう足掻いても動き出さない過去の時間だ。それが枯枝のやうに宙に浮かんでゐた。
 人が集まつてきて、内木は一人一人に挨拶をした。詩は雜誌に載つたものを讀んでゐたので、ああ、あの詩の母體がここにゐると、獨りで合點してゐた。納得してみたり、意外の感に打たれてみたり。納得しても、先程里崎を見たときのやうに、ぴたつと詩と本人が重なることはなかつた。里崎淳とは、いつたいどういふ男なのだらう。逆にそんな疑問すら湧き上がつてきた。
「彼は?」
 知つてゐて訊くのにやや引つ掛かりを感じたが、社會一般の行き方に乘つた。いくらポエムが僞りのない純粹さに立脚してゐるにしても、このくらゐは容認されてしかるべきだ。そもそもトモカ自體が、その内木の社會たる圖書館から送り出されてここにゐるのである。
「里崎さんはね、今日はバイトなの」
 トモカはしをらしく答へた。内木の問ひかけを受けて、「彼はね」と言はなかつたのは、どうしてなのだらう、と内木は詮索してみる。「里崎はね」でもよかつたのである。それこそ社會一般でも通用する行き方なのだ。顧客からの電話に「社長さんは」とは言はない。まるで他人のやうに扱ふことで、内木に近くあることを暗示しようとしたのか。
「夜のバイトか、大變だねえ」
 と内木は言つた。つい今しがた見てゐるのに、バイトの歸りにここに寄るのか、とも訊けなかつた。
 エリコから、その後のトモカの行状が傳へられてゐるからには、「二人とも幸せにやつてゐる?」と訊ねるのも躊躇はれる。そんなことから、言葉は濕りがちになり、どうしても沈默に傾いていく。トモカは煙草を吸ふ動作でなりとごまかさうにも、内木の前ではそれもできなかつた。女子高校生に伍して、公共圖書館を學校の延長のやうに見てゐたからだらうか。
 それにしてもトモカは、以前と印象が變はつてゐた。家出と、それに連なる退學といふ試練が、重なつて彼女に影を落としたのか。いやそれより以前に、トモカは妻子ある男性との悲戀を引きずり、祖父の家に避難して來てゐたのではなかつたか。そして現在は第二の避難場所に潛り込んでゐるわけだ。
 詩を朗讀する順番を鬮引きで決めることになつた。内木は最初に、今日は詩の發表は遠慮して、見學するだけにしてくれと言つてあつた。主宰の清水が鬮を引くやうにトモカを呼んだ。
「私、今日は遠慮します」
 周圍がどつとざわめいた。これで彼女の詩朗讀が、どんな役割を擔つてゐたかが窺へるといふものだ。
「秋山さんの詩が出ないとなると、つまらないねえ」
 一人が言ふと、同調する聲がはじけた。
「秋山さん、どうしてよ」
 と清水が首を伸ばして、權威ある發言を飛ばしてきた。「せつかく内木さんが來てゐるつていふのに」
「浮かんでこなかつたんです。どうしても」
 とトモカが悲鳴を上げさうになつて言つた。實際それは悲鳴に聞こえた。放恣な愛欲の詩を書いてきて、それが行き詰るとなると、事は大きいぞと、内木は宙に浮かした表情をきつくした。脣を噛みこそしなかつたが、額には皺が刻まれてゐたはずだ。
 その内木に、斜め前の席からトモカの視線が屆いてゐた。内木はそれに氣づいてゐたが、そのまま宙に目を留めたままだつた。わざとらしく逸らしたりするのに疲れてゐた。ここは職場ではないのだ。心にしこりを殘さないためにも、素直なままでゐたかつた。
 そんな覺悟で臨んだポエム會であつたから、内木は思ひのまま存分に振舞つたと言つてよい。會が進行して、感想を述べる段になると、當然内木も感想を求められた。はじめだから、これも見學だけなどと、初心者めいたことを言つてはゐられなかつた。同人雜誌には毎囘、詩を發表してきたのだから。
 内木は長い沈默の生活に綻びができたかのやうに、一言のつもりが、火が點いたかのやうに舌鋒鋭く言ひまくつてゐた。自分でも思ふやうに口の囘るのが意外だつた。滑らかな言ひ囘しの中に、時に鋭利な刄が交叉するので效き目があつた。
 傍らのトモカは、ここに内木元介の眞價を見たとでもいふやうに、熱い視線を向けてゐた。内木はそこに秋山トモカのゐるのを、まつたく忘れてしまつてゐた。長らく閉ぢ込めてきたものに、今開放のときが訪れたとでもいふやうに、内木は戰慄いてゐた。かうなると、聽衆などゐてもゐなくてもよかつた。言葉に火が點いてしまつたのだ。準備もなくまくしたてたものが、どうしてか論旨が連なつてきた。論文などといふものは、語つてゐるうちにまとまつてくると斷じたほどである。
 詩を發表するものは次々と替はつていつたが、内木はいづれの詩にもいつぱしのことを語つた。時間の經つのも忘れてゐた。何を話したのかも覺えてゐなかつた。
 お開きの時間となり、居酒屋に場所を移して反省會といふことになつた。ここでも内木は語つた。アルコールが入つたので、その醉ひも手傳ひ、言葉はリズムに乘り、躍動するやうだつた。
「今日は内木君の獨り舞臺だつたな」
 清水のこの一言で、内木元介はふと我に返つた。内木は拳でぽんと自分の頭を叩いた。この日のことが、一列になつて浮かんできた。
「さうだつた。僕はいつたいどうしたといふことだ」
 彼は自分にとも、周りにともなく洩らした。隅の席からは、秋山トモカが竦んだやうにして内木を見据ゑてゐた。彼女と目が合ふと、羞恥の念にかられた。一部始終を觀察されてゐた氣がしたのだ。さうだ。秋山トモカは、はじめからそこにゐた。前の朗讀の會でも、ほぼ同じやうな位置にゐて、内木を見つめてゐた。あたかも、内木が被寫體になつたやうなものだ。それを今、冷靜になると同時に思ひ知つた。
「これからは、内木君に毎囘出て貰はないといかんね」
 と清水が言つた。
「いや、まつたく恥づかしい。酒が入る前から醉つてゐたよ、今日の僕は」
 と内木は惡びれて言つた。
「醉ふやうに話せるなんて、最高ですよ」
 と今日朗讀した一人の會員が言つた。長らく溜めすぎてゐたなと、内木は呟いてゐた。溜めて詩として吐き出せるものもあるが、すべてといふわけにはいかない。その澱みのやうなものが、どつと溢れ出てきたのかもしれなかつた。
 それからの内木は、目を瞑つてしまつて話さなかつた。周りの話し聲が大きくなつていき、はじめは話の筋を掴まうとしてゐたが、途中から斷念した。會に出てゐないことを思ひ知らされるばかりで、頭に入つてこなかつた。そんな他愛のない疎外感から、眠つてしまつたらしい。
 といふのは、肩に人の手が置かれて、聞き覺えのある女の聲が、呼びかけてゐたからである。隣の者が席を空けた隙に秋山トモカが來て、内木にビール瓶を傾けてゐたのである。
「あつ、秋山君。これは失禮しました」
「お疲れのやうですね」
 と秋山トモカは大人びた聲色を遣つた。近く見ると、髮に淡くウェーブがかかつてゐた。面變はりして映つたのは、このせゐもあつたか。内木は一人合點して、トモカに注がれたビールを口に運んだ。
「里崎さんが缺席とは殘念だね」
 と内木は言つた。
「いいんです。里崎さんは里崎さん、私は私ですから」
 トモカは聞きやうによつては、里崎の名を何度も出されるのは、鬱陶しいといふやうに言つた。内木は深く追究はしなかつた。これ以上自分たちの事に觸れないでくれ、といふ態度が仄見えたからだ。一方で、秋山トモカがここにゐるのは、自分の責任だといふ思ひが内木にはあつて、責められてゐる氣もした。もし内木がポエムクラブGを紹介しなければ、秋山がここにゐるわけはなかつた。また女子高校を中退することもなかつただらう。成り行きとはいへ、これが最善の道だつたのだらうか。
「秋山さんの詩の朗讀を聽けなかつたのも殘念だつたな」
 と内木は話題を轉じた。
「いいんです、私詩なんか大切だと思つてゐないから」
 とトモカは言つた。内木が彼女に目をやると、赤い脣が戰慄いたやうに見えた。それでは何が大切なのだらう。さう問へば、單刀直入に「愛です」と答へが返つてきさうで、内木は自分から問ふのを避けた。その言葉がきた場合に、内木はそれを否定できるだらうか。その思ひが蟠つてゐた。その答へが正しかつたとしても、内木がトモカを愛してゐることにはならなかつた。
 居酒屋には相應しくないラテンのジャズが高鳴つてゐた。それが別のジャズに切り替るとき、急に靜けさが邊りを領し、夜が更けてゐることを知つた。客が減つてゐたのだ。
 主宰者も、このへんでお開きにするといつてゐる。内木は散會の流れに乘つて、寒さを増してゐる星空の下に出ると、なんとなく挨拶を交はして王子驛の方角へと歩いた。この驛で降りたものもゐるはずだが、周圍を見囘して確認するゆとりはなかつた。醉ひが囘つてゐたのである。
 王子驛も迫つたとき、小走りに近づいてくる靴音がした。隣に來て竝んだのは、秋山トモカだつた。
「君の家はこつちだつた?」
 内木は意外の感にかられて訊いた。
「私、おぢいちやんの家に泊まるんです」
 と彼女はあつさり言つた。
「だつて、里崎君が心配するだらう」
 内木は呆れたといふものいひになつた。里崎から電話があつたとき、トモカとの馴れ初めを聞いてゐるので、ここで彼女の我儘を許していいのかといふ思ひがあつた。里崎はトモカとの生活のために、苦勞をして働いてゐるのである。
「さつき、お店でも言ひました。里崎さんは里崎さん、私は私です。今日はおぢいちやんのところに泊るの。お布團もいいのがあるし、コアちやんが待つてゐるから」
「何、そのコアちやんていふのは」
「コアラの縫ひぐるみよ。コアちやんを抱いて寢るのよ」
 かう言つたとき王子驛に來た。二人は竝んで乘車劵を買つた。改札はトモカが先に通つた。内木は相當醉つてゐたが、しつかり見定めていかなければいけないと、愼重な足取りで階段を上つた。四十分は同乘しなければならない。早くも職場に向かふときの、司書の足取りになつてゐた。何と儚い夢だつたことだらう。いつたいあの浮き立つやうな開放感は、どこへ消えてしまつたのだらう。
 土曜日で、通勤時間でもないので、電車は空いてゐた。二人は長いシートに隣り合つて腰掛けた。トモカの新しいブーツが、黒光りして隣にあつた。そのブーツの置かれ方が、トモカの心のありやうを示してゐるやうで、内木は落ち著かなかつた。
「里崎君は、定時制とか話してゐたけど、四月から高校行くね?」
 内木は隣のトモカに目をやつた。トモカは怯えたやうに内木を見つめて、默つてゐる。彼は頷くだけでもしてほしくて、しばらく目を逸らさなかつた。その内木元介に向かつて、
「内木さん」
 と逆にトモカが問ひかけてきた。いや問ひかけられると思つたが、さうではなく、話は別な方向へ展開していつた。「私、今日の内木さんを見てゐたら、私が高校生になつたときから、あなたの近くにゐたらなあ、と思つちやつた。さうしたら、私寄り道なんかしなかつたわ。ねえ、今からぢや遲い?」
 内木はもう、トモカを見てはゐなかつた。彼女もその言葉を發すると同時に、電車の窓に目を轉じてゐた。ときどきネオンが流れ去つたが、闇の面積の方が大きかつた。いやそれだけ、夜が更けてゐたのかもしれない。
 内木は外の闇にやつてゐた目を、床に移して、それから瞑目した。目を開いてゐるより、瞑つてゐるはうが自然だつた。疲れてゐたし、何より秋山トモカとの時間を、貴重なものにしたくなかつた。そのくせ、彼女の口をついて出た言葉を内木なりに反芻してゐた。もし彼女との間が、何もないところから出發してゐたら。さう考へようとしても、情況を設定することからして無理だつた。里崎をゐなかつたことにするなんて、想像するだに不可能な話だつた。そんな空想は馬鹿げたことだ。里崎淳はトモカを愛するあまり、土曜の夜にアルバイトまでしてゐるのだ。ひとりの人に入れ込むことができるといふのも、幸せなことだ。自分には人の幸せを壞す資格はない。
「君、秋山さん。惡いことは言はないから、今日はおぢいさんのところへ行かないで、里崎君のアパートへ歸つたはうがいいよ」
 トモカは何を言ふのか、といふ顏になつて内木を睨み据ゑた。顏面蒼白とはかういふ顏をさすのかと、新たな認識を與へられたといへるほどだつた。血の色がまつたくなかつた。
「だつて、私Dまでの乘車劵買つたのよ」
 さう訴へるトモカには憎しみが浮いて見えた。
「その分僕が罰金として拂ふから」
 財布を出した内木の手を、トモカは爪を立てて押さへ込んだ。
「里崎さん、里崎さんて、あなたは言ふけど、私を里崎のところに追ひやつたのは、内木さんなのよ。そんなこと言ふんなら、私死んでやるから」
 トモカがかう言ふのと同時に、電車が次の驛のホームに滑り込んだ。ドアが開くとトモカは飛び出して行つた。内木はとんだことになつたと、後を追つて電車を出た。
「秋山!」
 どこかでこんな場面に出合つた氣がする。内木はほろ醉ひ加減も消えて、ホームにトモカを追つた。夜のこととてホームに人數は少なく、彼は大股に驅けて、難なくトモカを捕縛した。捕縛といふ言葉がしつくりするほど、手應へがあつた。彼女の身も心もすつぽり捉へた氣がしたせゐかもしれない。しかし内木の心が捉へられたわけではなかつた。そこがやるせなく寂しかつた。が、今そんな繰言を竝べてゐるときではない。
 傍らの空いたベンチにトモカを無理に坐らせると、内木は隣に腰掛けた。息切れが激しく、彼はトモカの腕を押さへながら大きく息をついた。彼女とて心亂れて、はち切れさうになつてゐたが、内木が押さへ込んでゐる限り、安全と思へた。
 二人はお互ひの心が鎭まるまで、默つてベンチに腰掛けてゐた。次の電車がやつてきたが、乘らなかつた。電車が行つてしまふと、ひつそりしたホームには二人だけが取り殘されてゐた。夜は冷えて、そぐはない心を寄せて坐つてゐるのは侘しかつた。ホームとホームに挾まれた狹い空間には、幽かに星の瞬くのが見えたが、そこからよい知惠など屆いてこなかつた。


  ↓

コメント(1)

 二臺目の電車が來たとき、内木は解決のないまま、
「ぢや乘らうか」
 とトモカを促して立ち上がつた。結論などあるはずはなかつた。いつたい何のために自分は出かけて來たのだらう。長らく携はつてきて、苦勞の割に實りを得てゐるとはいへない詩について、醉ふやうに話すことはできた。詩そのものが美酒であるかのやうに、充實の時の間を持つことはできた。だが、今ははや桎梏に囚はれてゐた。
 トモカはしをらしく隣に坐つてゐた。もう手を握つてはゐなかつた。内木が追ひ返さない限り、隣に留まつてゐるのは明らかだつた。しかし解決は何もなかつた。人生に目的がないのと同じやうに、男と女の間にも、答へなどありはしない。解決を保留しながら、電車に搖られていくしかなかつた。
 さつきトモカの口走つた、内木さんが私を里崎に追ひやつたといふ言葉は手嚴しかつた。成り行きでさうなつたのではあつても、全否定することはできなかつた。そもそも、圖書館司書としては、手に負ひかねてポエム會Gを與へたからだつた。たまたまそこに里崎がゐたといつても、トモカからすると、溺れる者は藁をも掴む思ひで、里崎淳にすがつたことになるからだ。その生存權を否定する資格を、内木は持ち合はせてゐなかつた。
 だが、待てよ、と内木元介は翻つて頭を廻らせてみる。そんな義務感から、男が女を救へると考へること自體が、崇高な愛を打ち消しにしてゐるとはいへないか。はつきり愛してはゐないと言へないばかりに、逃げてゐるに過ぎないのだ。
 さうは言ふものの、小心者の常として、突き放した後の秋山トモカの内に起こるパニックが怖かつた。もしホームから飛び降りでもされたら――その恐怖が危險信號の赤い點滅と重なり合つて、心臟の慄きを煽つた。運命に任せて突き放すといふ勇氣は出てこなかつた。
 默りこくつたまま、三つほど驛が過ぎたとき、
「ごめんね」
 とトモカが口走つた。「はじめて出席したつていふのに、私の我儘を聞かせてしまつて」
 内木は何も言はなかつた。默つて耳にをさめてゐる素振りをしてゐるだけだつた。トモカは内木の沈默を、別に苦にしてゐる樣子もなく、語つていつた。追ひ返しさへしなければ、内木を赦してやるといつた態度がありありと見えた。さうすれば、希望が完全に絶たれたことを意味しないのだ。
 内木元介はそこにささやかな猶豫の時を置くのが最善であり、他に道はないと考へた。
 トモカは、高校であつたさまざまな事柄について、教師、學友、PTAの反應まで、竝べていつた。父と母のことになると、どうしてか話すトーンが落ちた。男と女のことについては、詳しくは觸れたくないといふやうにも聞こえた。そのくせ、自分のこととなると、戀にせよ、愛にせよ自己中心的に直進するのだ。
「結局、みんな綺麗事を言ふけど、私を近くには置いておきたくなかつたのよ」
 とトモカは締めくくつた。最後には追ひ返さなかつた内木を、それだから、内木さんだけは違ふのよ、と言ひたいらしかつた。
 トモカの降りる驛が近づいてきた。内木が降りるのは、その一つ先になる。
「内木さん」
 と秋山トモカはいくぶん惡びれて呼びかけた。彼はどうなることかと思つてゐたので、心を落ち著かせようとして次の言葉を待つた。「この次も來てね。私、それだけを愉しみにして生きていくね」
 深刻に盡きる口上だが、先ほどの取り亂し方の後と考へてみれば、むしろ穩やかな約束のとり方といつてよい。
「できたらね」
 と内木はなほざりな言ひ方を避けたつもりで、さう言つた。
「できたらぢやなくて、本當によ。來なかつたら、私圖書館に行くからね」
 トモカは内木の手に爪を立てて、さう言ふと電車を降りて行つた。もう里崎のことは言ひ出せなかつた。
 今日の交渉では、トモカのはうに軍配が上がつたといふことではないのか。内木元介は迫つてくる闇の重さを噛みしめながら、さう呟いてみる。今電車は空席が目立ち、線路を打つ車輪の響きも輕快だつた。しかし闇をバックにした窓ガラスには、また一つ、時を刻まない時計がぶら下がつてゐる。
                つづく
 

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