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文芸の里コミュの月を釣り上げるクレーン

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 〜贈物はさまざまな形をとって〜

 クリスマス・イブを明日にひかえた休日。大村は気晴らしに少し遠くまで出かけようと思ったが、その足をとどめるものがあって、断念した。
 誰にもこのような経験はあるものだろう。自分の中にもう一人、相容れないものがいるかのように、なかなか決断のつかないということが。そして、すぐに決断を下せない者を、優柔不断などという。
 しかしまよいを抱え込んだまま、最初の思いに引き摺られて行った場合、とんだ災禍に遭わないともかぎらない。
 気が重いのを無視して決行すると、ろくなことにならない。それは大村が何度か痛い目にあって学んだ教訓のようなものだった。大雨に見舞われるくらいならまだいい。山で道に迷ってしまい、泊まる宿も見つからず、虫に刺され、闇に光る動物の目に怯えて一夜を明かしたこともある。
 そんなことから気が進まないときは、予定を変更して、地元に踏みとどまることになる。
 遠出をするつもりだったといっても、正午を過ぎているから、それほど遠隔の地へ行けるわけではない。せいぜい一時間半ほど、電車を乗り継いで行くくらいのものだ。
 しかし予定を変更して地元にいるとなると、時間は溢れるほどある。おめおめと自宅に舞い戻る気にはなれない。
 自宅を出てくるだけでも、一種の決起の振る舞いであるといえるのだ。せっかくそれだけの思いをして出てきたのに、すごすごと引き返していくわけにはいかない。帰って洗濯でもするかというのでは、あまりにも心気臭いではないか。
 そうとなれば、踏みとどまって、街をうろつくことになる。特に脱出を阻んだ駅の周辺を、恨みがましくさまようことになる。
 まず、駅ビル内のハンバーガー・ショップに入って、軽い昼食をとる。時間があるから、普段は流し見るだけのメニューに、つぶさに目を通す。エビバーガーなんてのもあったのか。じゃ、それにするか。彼はひとりごちて、店員に告げる。
「お飲みものは」大村は女店員の言葉をそのまま受けて、そう言う。「珈琲を、ロングサイズで貰おうか」
 彼はカウンター席について、あたふたと家を出てきたいきさつについて、思いをめぐらせる。なぜかそうしないと、ますます時代に取り残されていくというように、急いで来たのだ。
 それでいながら、そうする彼を引き戻そうとする気持ちも、わずかながら働いていた。それが何であるのか、分からないまま駅まで来てしまったが、いざ乗車券売場にさしかかる前に、後退する思いのほうが勝ってしまった。金縛りにあったかのように、前へ進めなくなった。
 その結果として、ハンバーグ・ショップに入ってしまったのだが、意味がわからないまでは承服できない。原因を解明しなければならなかった。しかしこんなとき、いくら頭をひねってみても、そう簡単に解答が得られるものではなかった。不消化なものを抱え込んだまま、一日を過ごすことになる。
 なぜだろう。どうして自分は、電車に乗らなかったのだろう。幾度となく、その自問を繰り返すことになる。
 大村はエビ・バーガーを平らげ、紙コップの珈琲を飲み干すと、店を出て、目的もなく歩いて行く。
 退嬰的な気分に浸されて街をさまよっていても、たえずあの疑問は発信されている。どうして行けなかったのか。何が足を引っ張ったのか。自宅にし残してきたものがあったのだろうか。
 アーケードの下を通っていくと、ミュージック・ショップの前で、CDやDVDを並べていた。それを見るともなく見ていく。
 往年の女優たちが、最も美しい姿をさらしている。怒っていても、憔悴しきっていても、それが彼女の一番の顔なのだ。理由なんかない。
 ミュージック・ショップを横切って、階上の書店へとエスカレーターに足をかける。はっきりした目標はなくとも、足を置くだけで、上へと運び上げてくれる。今の気分からすると、この安易な選択がふさわしい。いやおうなく、書籍の山が目に飛び込んでくる。書物の山に登るようにして、エスカレーターを降りる。
 大村は一つのコーナーに導かれて、書架の前に立つ。何か反応があるとしたら、このコーナーだ。
 多くの宗教関係の書物が、書架に背文字を見せて並んでいる。その下には、平積みにされたさらに多くの書物。
『まったきものが来たときには、部分的なものはすたれる』
 ずいぶん長いタイトルだ。聖書からの引用。
――そのときには、いくらこの世の権威を振り回しても、意味がないのだ。聖書中のことばさえ、すたれてしまう。まったきものに向かって、聖書のここにこう記されていると、いくら反論しても、役に立たない。部分として効力がなくなっているのだ。
 今日この街を脱出できなかったのは、この本を読ませるためであったのか。いや違う。大村は自らの力の限界を知っているからだ。部分でしかないことを知っている。何をやっても、風にさらわれる落葉のようなものだった。役に立たなかった。人間の努力なんて、しれたものだ。自分は人並みの努力なら、してきたつもりだ。
 それでは今日、この街を出られなかった意味とは。
 彼は書物の山をひとわたり流し見て、書店を後にする。今それを手にして、闘う武器となりうるものは、一冊もなかった。大村をこの街に押しとどめる、その事由の解明に手がかりとなるようなものはなかった。すべてが部分的なものに過ぎなかった。全部合せても、部分でしかない。
 人は何をするために生まれてきたのだろうか。それこそ、赤裸のまったき形をして。それが年功を積んで、部分的なものにされ、たとえば今目の前にいる守衛のように、各ビルに置かれる。ビルの大きさに見合って、小さなビルには一人。大きなビルには複数。彼らに尋ねても、部分的だから、何も分からない。
「さあ、それは」
 などと言って、逃げるだけだ。守衛のくせに逃げる。自分の置かれている店内のことさえ分からない。
 大村は書店のあるビルを後にして、アーケードの下に足を運ぶ。
 そうやって彼は、パチンコを弾き、それに厭きると、電気店に寄って、だいぶ古くなったので、次に買い換える予定のPCを物色する。
 依然として、この日遠出を阻まれた事由らしきものは見つからなかった。

 気分すぐれないまま、帰宅するしかないのかと、そちらの方向へ足を運んでいくと、ボールペンのスペア・インクを探していたのを思い出した。どうしてもなければならないというものではないが、筆記用具にややマニアックなところのある彼には、手に入れたい品物だった。
 決して飾りとしてではなく、それだけ品質がすぐれていることを、思いがけず発見したのである。それはこんな事情による。
 最近部屋を片づけていると、上質の紙がまとまって五百枚ばかり出てきた。昔、写真入のチラシの作成を頼まれて、印刷用紙を購入したことがあった。しかし企画が変更になって、チラシの必要がなくなった。そんなことから、使われずに五百枚の用紙が手元に残った。
 片づけていて、その用紙が出てきたので、何か役に立たないかと、万年筆で筆記してみた。滑らかに書ければ、原稿用紙を作成して、原稿執筆に使えばいいわけである。
 しかし写真の印刷も可能な高級品質の紙は、特別な表面処理が施されているだけに、インクが滲んでしまい、万年筆の手書きには不向きだった。
 そこで登場したのが、先ほどのボールペンだった。ためしに使ってみると、ボールペンは滑らかに走って、書き易かった。インクの滲みもまったくなかった。
 この紙は、このボールペンのためにあるような気がしたほどだ。ボールペンなど、雑記に使用するだけで、どこにでも捨てて置かれているようなものだった。
 ところがこの紙に関してなら、万年筆は役立たずで、このボールペンにしくものはなかった。しかしボールペンなら、どれでもいいというものではなかった。いつも彼の身近に捨て置かれて、雑記に使用していた軸の太いボールペンに限られるようだった。
 雑記といっても、もう何年も使ってきたらしく、インクは残り少なかった。五百枚の原稿用紙に書くとしたら、とても足りるものではない。
 このボールペンは、六、七年前に、疲れないペンとして売り出されて購入した記憶がある。そのとき交換するスペアインキも合わせて買ったような気がする。
 スペアインキを買うとしたら、この現物を持っていって見せれば、簡単なのだろうが、わざわざこの太い本体を運んでいくのは、少々躊躇いがあった。それでインキのパッケージでもないかと、机の引出しを探していると、それらしきものが出てきた。PILOT新時代のニュータイプボールペン。替シン0.4?。アルミ箔のようにきらきら光るパッケージに、そんな文句が書いてある。
 いつか文具店の前でも通りかかったら、これを見せて買えばいいと、鞄にこの空のパッケージを忍ばせておいた。

 駅ビルに差し掛かると、大村はその七階に進出してきた文房具や事務用品を扱うハンズに寄ってみる気になった。
 人は文具という小物に、どんな夢を重ね見ているのだろう。書店よりも客が多く集まっている。
 大村は筆記用品のコーナーに行き、スペアインキを物色する。目の届く範囲にそれらしきものはない。
 そのうちに見つかるかと、手帳のコーナーに移動する。
 手帳の種類の多さ。一人ひとり手相が違うように、手帳もそれだけの種類を揃えようというのか。買うつもりはない。見るだけだ。もし気に入ったものがあれば、中身を交換してもよい。そんなつもりだった。
 手帳を見ているうちに、日記帳のコーナーに出てしまった。手帳も日記も似たようなものだが、はっきりした違いは、大きさのようだ。持ち運びのできる小さなものが手帳。家に置くのが日記。いやそれも判然としたものではない。はっきり日記の体裁を取った手帳もあった。
 ひととおり、インキのありそうな所を見て回ってから、大村はレジの女性に訊いてみることにする。そのためにショルダーバックからパッケージを取り出した。
「このスペアインキはありませんか」
 大柄な女店員は大村の差し出すパッケージを手にして、すぐ携帯で店内のものと連絡を取った。大村に背を向けると、何か言っている。
「少々お待ちください。係りのものが来ますので」
 ここにもいた。部分的なものが。小さな文房具店の店員なら、おそらくこのくらいは把握しているところだ。スペアがどこにあるかくらいは。
 現れた店員は小柄で、見かけはこちらのほうが後輩だが、口の利き方からすると、どうやらポストが上らしいのだ。
 ひと通りレジの店員から説明を受けていたが、
「こちらのお客さんです」
 そう言われて、大村の所へ来ると、ぺこんと頭を下げた。
「調べてまいりますので、お待ちいただけますか」
 と愛くるしい瞳を向けた。高卒で入社して間もないといった初々しさだが、レジの女性とのやりとりを見る限り、ベテランらしいのだ。
 二十分ほど待たせて、小柄な店員は戻ってきた。手には彼が持ってきたあのパッケージが握られている。彼女のせわしない息遣いから見て、どうも目的の品は探し出せていないようだ。そのことをまず、
「長らくお待たせしていて、すみません」
 と謝った。大村からすると、謝りたいのは自分のほうだった。安いボールペンの替え芯ともなると、実に薄利なものだ。それを二十分も探させているのである。
「いやいや、見つからないようでしたら、いいんですよ」
 そう言っても、女店員は上の空で、
「これはいつごろご購入されたのですか」
 とパッケージを見つめながら訊いた。
「六、七年、前と思います。はっきりとは分かりませんが。もちろんこの店ではありませんよ。その頃はまだ、この店はなかったですからね」
 責任を軽減すべくそう言っても、とりあう様子もなく、
「六、七年ですか」
 彼女は首を一つひねってみて、またこま鼠のようにせかせかと行ってしまった。
 彼女が二度目に消えてから、かれこれ十五、六分になるが、まだ戻って来ない。大村はレジの前に都合四十分ちかくも立っているとなると、気詰まりになってきた。幸い、レジには客が次々とやって来るので、レジの女店員と顔を合わせるようなことはなかった。
 ただ、ひとり女店員を自分のために働かせていると思うと、大村は気が咎めてくるのだった。この店では、商品の高い安いにはかかわりなく、客に尽くせと指導していて、それにのっとって動き回っているのか。その指導理念はよろしい。善意を持って尽くしておけば、必ずや客は心に留めてここを訪れるようになるからだ。大村としても、わが家に欠けている文具について、あれこれ思いを廻らせはじめていたからだ。
 それにしても、遅いのだ。動作がのろいというのでは決してない。物腰は機敏に見えたし、要領が悪いとも映らなかった。ただすべての客にこれほどサービスしていたら、体がいくつあっても足りないのではないかと、はたから見て、やきもきさせるということなのだ。
 大村は黙って立っているのに忍びなくて、ガラスケースに収まって陳列されている万年筆を覗き込んだ。
 二万円、三万円はざらで、七万なんてのもある。彼の探している替え芯の本体であるボールペンは、五百円そこそこなのだ。そのボールペンの替え芯を探し回って、かれこれ四十分になるのに、まだ女子店員は現れない。
 万年筆を覗き込みながら、気を揉んでいると、何やら分厚いものを抱えて、彼女が戻ってきた。それは文具のカタログだった。
「お待たせしてしまって」
 彼女はレジの傍らのカウンターで、そのカタログを開いては、彼が持参したパッケージのメーカーや番号と照合していく。
 大村は隣に立って、それを覗き込んでいる。気の遠くなるほどの数の多さだ。スペアといっても、こんなに多くの種類があるのだ。
 女店員は一つ一つ、白いか細い指で、確認していく。一行すめば、また一行。
「すごい数ですね」
 大村は女子店員が気の毒になって、そう声をかける。気の毒であっても、これほど真剣に探してくれているのに、もういいですよとは言えない。それは何といっても、礼儀に反する。
「これでしょうか」
 女子店員が一箇所に指を止めて、パッケージと見比べた。彼も確認に加勢して、隣から手を伸ばした。そのとき彼女の指に触れてしまった。その感触がはっとするほど冷たいのだ。貧血症でもなければ、暖房のない倉庫の奥から、カタログを引っ張り出してきたからだろう。
「ごめんなさい、違ってました。これは0.5ミリですから」
 女子店員はそう言って、ページを繰っていくのだ。
 大村は一歩引き下がって、女子店員の集中ぶりを観察するかたちになった。彼の中では、スペアインキはどうでもよくなっていた。いかにすれば、この女子店員に、作業を中止させるかにかかっていた。
 ひょっとするとこの女は、手帳や日記帳を買うあてもなく眺めていたとき、どこかから自分のことを見ていて、好意を寄せていたのかもしれないぞ。大村はそんなふうに勘繰ってもみた。しかし自信家ではない彼は、ほんのかりそめにそんな疑問を抱いただけである。たちどころにそんな夢のような思いは雲散霧消して、何故、何故という懐疑の矢だけが、彼女に向かうことになった。
 女子店員はたえず伏せ気味にしていて、まだ一度も大村と真正面から顔を合わせていない。したがって大村も、彼女の真剣に働く横顔を盗み見るように眺めているだけなのである。
 そのうち、とんでもない思いつきに揺さぶられて、まさか、と大村は自問自答することになった。全国に支店が散らばっているとなると、秘密裏に監視員が送り出されているだろう。大村をその一人と睨んだのではないかという発想だ。
 しかし、その懸念はあっけなく斥けられた。なんとなれば、いかに善意が売り物の店とはいえ、ものには限度というものがある。しかも客の心が読めないようでは、失格というものだ。現に、大村自身がいつ「もういいですよ」と撤退宣言をだそうかと、じりじりしていたのだから。
 かように横顔しか見てはいないが、彼女の一つの商品を探していく面差しは美しいものだった。できることなら、このままずっと、美しい映画のシーンでも見るように鑑賞していたかった。
 このときである。はたと合点のいくものがあった。今日この街を脱出できなかった理由についてである。目の前の女性は、そのことと関わっているのではないかと思ったのだ。
 深くは分からない。しかしそう考えた。ほかに事由らしきものがないから、そう考えたわけではない。なぜか直感的にそう感じた。
「ほかに書いても疲れないような、お勧めのものはありませんかね」
 探すことにとりつかれてしまっているらしい女店員に接近すると、そう言った。言わされたといったほうが当たっている。
「それでしたら」
 女店員は、カタログの探索に思いを残しながら、カウンターを離れると、一つの方角へ歩き出した。大村はそれにつづく。とてつもなく高額な商品の前に、連れて行かれる不安が、頭をもたげる。
「それはボールペンですか」
 まさか、舶来のブランド物の万年筆を薦められたのでは、たまったものではない。
「ええ」
「なんというメーカーの」
「パイロットの,ドクター・グリップです」
 女店員は自分の好みだけを押し付けていいものかと、やや自信なげに言った。
「これだな」
 大村はピンとくるものがあったが、口にはしなかった。目前の薄幕が除かれて、くっきりとした地平が開けたような気になった。それこそ、彼の探しているものだ。そう思った。
 口で言われることで、六、七年前購入したときの記憶が甦ってきた。
「それじゃないかな。きっとそれですよ。僕が欲しいのは」
 今度は言葉にしながら、女店員の後につづいて行った。
 ボールペンのコーナーにくると、彼女はお勧めの商品を棚から外して見せた。形状は極似しているが、やや短い感じがする。インキも油性となっているが、家にあるのは水性ではなかったか。しかし独特の形と、名称からして、間違いなく同じものだ。六、七年経っているので、いくらか新型になっていると見える。
「これがインキの芯ですよ」
 女子店員は腰をこごめた姿勢で、ボールペンからインキ芯を抜き出して示す。大村も腰を低くして、それを見る。二人は線香花火をはさんで、向かい合っている感じだ。彼はこのときとばかり、花火を無視して、その先の乙女を正視する。向こうの目もこちらへ来ている。
 瞳がきらきらして、口元にあどけなさを残している。思いなしか、吐く息に乳のにおいがする。
 大村は咎められた気がして、インクの芯に視線を移す。家にあるものより、やや短い気がする。
「ちょっと短いようですね。インクだけ貰っていって、合わなかったら、本体を買いに来ますよ。だから、替え芯を、黒と青と三本づつください」
 女店員は替えインキの在庫を調べに立つ。大村はボールペンの本体を手にとって、家にあるものと想像裡に比べている。やはり六、七年の歳月は、こんなところにも及んでいる。そうなると、時代の変化は間違いなく進んでいると思われ、怖くなる。
 まったきものが来るときには、部分的なものはすたれるのだ。彼はそのことばを反芻してみる。やはりことばは成就するのだろうか。
「お客さん、探してみたのですけれど、青を切らせているんです。黒はありますけれど」
「では、黒三本でけっこうです。家に帰って、これを入れてみて、合わなければ、このボールペンを買いに来ますから」
 同種のものなら入ると思えるが、しかし、入らない不安もあった。だからこそ、カタログの商品が増えていくのだ。
 メーカーは次々と新製品を製造していく。一方ボールペンを購入した客が、スペアインキを求めてきたら、あれは旧いのでもう扱っていないと、断るわけにはいかない。ボールペンの本体がある限り、スペアは用意しておかなければならないのだろう。かくして、新製品を出せば出すほど、カタログの記載は増えつづけていくのだ。
 大村のことばに、女子店員の見せた反応はというと、それはそれは気の毒というか、哀れというか、情けないものだった。
 これだけ一生懸命にやったのに、徒労に終わったというようなものではない。
 商品が売れた売れないの問題ではない。金銭など、どうでもよい。もともと五百円そこそこのものなのである。
 これだけ待たして、この客に何もしてやれずに帰すということが、彼女からすれば耐えられないほどせつなく、やりきれなかったのである。薄いピンクののった唇をわななかせて、ことばが出てこないのだ。しかしボールペン本体を渡したいという彼女の思いは痛いほど伝わってきた。
「まあしかし、入らないということがあるから、これもついでに貰っていこうかなあ」
 大村は独り言のようにもらした。情にほだされて、そう言わされたといったほうが当たっている。
 女子店員は、にわかによみがえった。顔の全面春の輝きになって、
「ありがとうございます。お役に立ちませんで」
 と、とうに客の忘れているスペア・インキを探し出せなかったことを詫びた。しかしそう言うピンクの唇は、今釣り上げた魚のようになまめいていた。
「いや、とんだお手数をかけました」
 大村はボールペンとスペアインキを受けとって、レジに向かって行く。レジは前の小さなレジではなく、店の中央に位置していた。そこで包装された商品を鞄にしまい、下りのエスカレータ口に来ると、近いところに先程の女店員に似た様子の人が立っていた。それとなく立っている感じだったが、大村と視線が合うと、慌てて逸らしてしまった。そのことで、彼女と分かった。
 ベテランなら、こういう場合どうするのだろう。白を切って立っているか、軽く頭を下げるくらいはするだろう。これだけでも、全国を回っている監視員の目には失格と映るにちがいない。
 それにしても、ずいぶん寄り道をしたものだ。このデパートに入ったときは、まだ夕闇に包まれていくところだったが、今ではすっかり夜になっている。
 イブを明日に控えたイルミネーションが、三階で陸橋に出た大村の目を捉えた。その目を、夜空に転じたときだった。
 建造中の高層ホテルから首を伸べているクレーンの下、丁度フックの辺りに満月が懸かっていたのだ。今まさに月を釣り上げていくというように。
 誰も見ているものはいない。ひとり大村だけが、その光景を見ていた。自分のために繰り広げられている一大ページェントだった。
 クレーンのフックの位置に満月を配置することで、釣り上げられていく女性を示している。その女性は、大村にボールペンを贈りたかったのだ。形はどうあれ、贈物にしたかったのだ。
 大村は一日のわだかまりも消え、軽い足取りで夜道を歩いていった。
 帰宅して、旧いボールペンにスペアのインキを入れようとしても、太すぎて入らなかった。やはり、新しいものを手に入れてきてよかったのだ。
 大村は彼女からの贈物で、この短編を書き上げた。あの用紙を使って。
                                  了

コメント(3)

この気品ある妙齢の女(ひと)の像はすばらしいです。
ヒロヒロさん

女性を描かせると、一頭地を抜けているヒロヒロさんに
褒められて、ゆきずりのこのひとも悦びひとしおでしょう。W。

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