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文芸の里コミュの高原列車・長編連載(19)

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 新年も五日になって、田坂宗彦から歌子に届いた年賀状は、そっけないものだった。それは歌子が、田坂に会えるのを楽しみにしているとしたためて出した賀状の、返事でもあった。

 同じ場所を二度訪問するのも、つまらないと思います。
 将来を託せる友と、新しい土地へ出向かれることをお勧めします。

 歌子は冷ややかなものを突きつけられたようで、とても保育士の資格を習得するのを待つどころではなかった。
 園長に頼んで、二泊三日の許可を貰うと、慌てて支度にかかった。美容院に駆け込み、髪をセットした。その足で、旅に必要な細々したしたものを買ってきた。
 出発の朝、田坂に会う心づもりで揃えてきたものを身につけていく。淡いブルーのブラウス、ベージュのスーツ、ブラウンのオーバーコート。
 これらは、今年のバザーで手に入れた掘り出し物だ。蕨学園では毎年バザーを行うが、その前に近くの民家や商店街に、品物の供出を依頼して回る。集まった品々を区分して、陳列していく。そのとき歌子は、サイズも、形も自分にぴったりのいい品を見つけて、着てみたりしていた。
 女性副園長の富崎さんは、それを知っていて、特別安い値段をつけてくれた。バザーの当日、歌子はいち早くそれを買ってしまった。田坂に会うとき、着て行きたいと思った。
 どうしてこんなに新しくて、素晴らしいものが出されたのか、不思議でならなかった。気の毒に、持ち主が亡くなったのかもしれないと、考えたりしていた。新品同様の旅行鞄も、そうして手に入れたものだった。
 歌子の向かう先は、例年になく雪が多いと報道されていた。田坂の靴を履いていきたかったが、それは降りてみた具合ということで、鞄に忍ばせ、ブーツを履いて出た。
 歌子は列車の振動に身をあずけながら、自分はもしかして、とんだ勘違いをしているのではないかと、思いをめぐらせていた。つまり、田坂は独身ではなく、あの店の奥に妻がいたのではないかという疑問だ。あそこにはいなくても、時間になれば戸締りをして、自宅に帰るのではないかという懸念もあった。
 それではなぜ自分は、田坂を独り身だと決め付けてしまったのだろう。そのほうが都合がいいからだろう。一度そう考えて好意を寄せたら、独身であったほうがいいに決まっているのだ。その思いに殉じて、田坂は独り者になってしまった。
 しかし、と歌子は首を捻った。送られてきた靴に添えられていた手紙の文面からは、とても妻帯しているとは思えなかった。
 どうしても靴を受け取らせようとする気持ちが先に立って、歌子は読んでいて気の毒になるほどだった。自分は絶対受け取ると分かっていたからである。どうして突っ返すことがあり得ただろう。田坂はしかし、突き返されるのではないかと、おどおどしていた。そう読まれても仕方のない文面だった。
 もし、妻がいたなら、あんなにも追い立てられることはない。きっとこの人は、突き放されるのではないかと、怯えているのだ。歌子はそう取った。そして彼女は、これが生まれてはじめて貰ったラブレターだと思ったのである。
 歌子のこの推断は、大筋で田坂の心を汲み取ってはいるが、やや一面的なきらいがある。というのは、もし突っ返されでもしようものなら、田坂にとって歌子を探しつづけた二年に及ぶ煩悶が、まったく無駄であったばかりか、物笑いに終わってしまう事情もあったからだ。
「私、あれはもういらなくなったから、取りに行かなかったのよ」
 にべもなくそう言われたとき、二年間の緊張の日々が一度に瓦解するばかりか、これまでの人生さえ、似たようなものになってしまうのだ。一つの恋を失うことは、人生のすべてを無にしてしまうに等しい。
 そうはなりたくなかった。たとえ歌子に、田坂への感情の流れは望めなくても、婦人靴は喜んで受け取ってもらいたかった。
 いっぽう歌子にとっては、二年の間形のなしようもなく、眠っていたものが、婦人靴の出現によって、一度に燃え上がったといってよかった。赤い靴が現れないことには、青春の捌け口たるものは、永久保存的に靴屋の棚に眠らされているだけだったのである。

 田坂さんに奥さんがいるのだとしたら、私はいったい何の夢を見ていたのかしら。そして何という失礼なことをしていたのだろう。わざわざ会いに行きたいなんて、電話だけでなく、手紙やハガキにまで書いて。
 歌子の不安材料は、もう一つある。それは前に見た夢で、新幹線の列車の隣席にいた男性が、田坂でなかったことだ。ただの夢として片付けようとしても、消えていかなかった。
 今にして思うに、あれは田坂とは結ばれないことを、隣に見知らぬ男を置くことで教えようとしたのではなかったか。
 そう考えると、歌子はますます滅入っていく。田坂の葉書といい、夢といい、いいところがなかった。
 よく受け取れば、田坂の年齢を考えて、熟慮を促しているようにも見える。歌子はその線で考えようとしていた。
 年齢は関係ない――と自分に言い聞かせた。若い者に惹かれない性情が、不純だとは思わなかった。歪んでいるとも思わなかった。人間、とりわけ男女は、惹かれるほうにいくのが自然の理なのだ。野山のあの鳥にしても、一組のカップルが誕生するのに、莫大なエネルギーを費やしているではないか。
 それにしても、あの隣の男性は、誰なのだろう。どうしても思い出せず、過去に出会った顔ではなく、別の世界から、突如現れてきたようでもあった。しかも五箇月にもなるのに、夢は消えていかず、脳裏にしっかりととどまっているのだ。いくら遠ざけようとしても、隣にいる。それでいながら、厭な感じはない。邪魔にならないように、静かにそっといる。
 歌子は目を瞑った。少しでも頭を休めておこうとした。けれどもうっかり眠り込んでしまうと、また夢にあの男性が現れる心配があった。今度出てきたら、田坂の席は完全に奪われてしまう強迫観念に囚われていた。しかも今は、夢に現れたと同じ、新幹線の列車内にいるのだ。
 そんなことから、頭と目は休めても、睡魔に負けてはならないと、闘っていた。それでも幾度かは、うとうとっとした。その度にぐらっとした体をもちこたえ、隣に誰もいないことを確認した。新年の六日ともなれば、東京を離れる列車はがら空きだった。歌子は窓際の席で、この列にはほかに乗客はいなかった。
 高原列車に乗り換えると、歌子の胸の慄きは烈しくなってきた。愛する人に会う胸のときめきではなかった。予期せざる証拠を突きつけられて、冷たく追い帰される不安があった。
 朝施設を出るときはちらついている程度だった雪は、ここに来ると、降る嵩も多く、ほとんど吹き降りだった。窓ガラスにまとまってぶつかってきたりした。
 多くがスキーに向かう若者で、彼等が二箇所ほどの駅で降りてしまうと、列車は空席だらけになった。乗客が減ると、寒気が増して、歌子を体の芯から竦みあがらせた。
 いくら内側から蒸気の曇りを拭っても、外の風景は見えてこなかった。窓を雪が塞ぐだけでなく、視界を掻き消すほどの大降りになっていたのだ。とても、赤い靴を履くどころではなかった。
 歌子が運び込まれた病院のある町を過ぎた。ここから二つ目だ。オーバーコートを合わせて、棚の荷物を確認する。
 列車を降り、駅前に立つと、どちらへ向かったらいいか分からないほどの吹き降りだった。二年半前は、灼熱の太陽に焼かれて、熱中症にかかり、今度は雪の中で凍死するほどの吹雪だ。故郷でも、これほどの雪に見舞われたことはない。
 それでも歌子は、二年半前の記憶を頼りに足を踏み出した。青く輝いていた葵湖は、雪に覆われて姿を消しているが、木がないことから位置は確認できた。突き当たって、左に折れていけば、靴屋は近い。

 二十分後、歌子は靴屋のガラス戸の前に立って、身悶えていた。かつてこのガラス戸は、西日を受けて赫々と輝いていた。それを押し開いて入るのは、勇気がいったものだ。FM放送がビバルディの音楽を軽快に流していた。
 今は何もない。音楽どころか、仕事をする気配もない。しかし靴屋がなくなったわけではない。ちゃんと看板が出ている。人の気配がしないというだけだ。

 しばらく休業いたします。田坂靴店 
                     店主。

 とある隣に、「御用の方は、左記へ電話してください」と読めた。
 店の前には、雪を踏んだそう古くない跡がある。そのことに励まされて、歌子は手帳に電話番号を写し取った。数字の一つ一つを確認して、、オーバーコートのポケットにしまう。
 歌子はやってきた道を、引き返していく。彼女が通った後、ひとりも踏んでいなかった。自分の足跡の上に積もっているのは、新しい雪だ。不思議だ。時間の後先は、ちゃんとある。田坂はあそこにいた。そして二年半を経た現在は、留守だ。店がはやらなくて、転業したのか。それとも‥‥。それは電話をすれば分かることだ。
 駅に戻って来ると、公衆電話でメモしてきた番号を押していく。
「はい、谷田部です」
 と声からみて、若い女が出た。
「私、仙台の方から来た関口というものですけど、田坂さんはどうされたんでしょう。今お店の前まで行って、貼り紙を見てお電話したんですけれど」
「ああ」
 と相手はやや口ごもって、「宗彦おじさんは入院してるんです。それでは母は、宗彦おじさんの家から病院に通ってるんです」
「だいぶお悪いんですか」
「ええ―」
 そこまでで黙った。
「では、病院はどちらでしょうか」
「宗彦おじさんの駅から、二つ目の町にある総合病院です」
 歌子は愕然として、受話器をしばらく塞いでいた。二年半前、彼女が運び込まれた病院ではないか。しかし地方のこととて、病院がそうあるはずもなく、病気になればその病院に行くのが順当なのであろう。
「何号室」
「一階の一〇七号室です」
 手帳に控えながら、その病院への道順を思い出そうとしていた。その前に、訊いておくべきことはないか。心を落ち着かせて、浮かんでくるものを口にしていた。
「宗彦おじさんは、お母さんの弟さんなんですか」
「そうです」
「それで、お宅は遠いんでしょうか」
「いいえ、宗彦おじさんの家から、こちらに三つ来た村です」
「村?」
「ええ」
 電話に牛の鳴き声が入っているような気がした。たぶん酪農家なのだろう。
 歌子が靴を注文してから、取りに行く約束の日まで、そちらのほうへも足を伸ばしている。サチの家があるのは、一つ手前の無人駅だ。
 こんな電話の応答などしている余裕はないはずだった。無意識裡に時間かせぎをしているのかもしれなかった。
 いやそれだけではない。最悪の情況から免れたという安心があった。田坂に妻があって、追い返されるのではないかという、危惧は去ったのである。
 田坂さんは病気のために気弱になって、あんな葉書をよこしたんだわ。若くて将来を託せる友と行けなんて。可哀想な田坂さん。
「では私、これから病院に行きますので」
「すいません」
 と相手は言った。中学生か、あるいは高校生とみた。
                           つづく(次回完結)
 

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