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文芸の里コミュの高原列車・長編連載〈16〉

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 二年の時が流れた。
 高原の葵湖畔では、今年もテントが目立つようになった。空は抜けるような青さだが、風があるのか、白雲の流れが速かった。湖周辺は林が風を防いでくれて、穏やかなキャンプ日和といってもよかった。
 地上に風がまったくないかというと、そうでもなく、時折上空から吹き降ろすのか、湖面がさーっと波立った。その白いさざ波の輝きはまぶしく、目を細めてしまうほどだ。
 ヨットの帆も五つ、六つさまよっているが、速度が一律とはいえなかった。思わずスピードに乗って、疾走するヨットもある。
 そんな風のいたずらは湖面だけではなく、キャンプ場でも起こった。
 突風が来て、テントの裾をはためかせた。風を孕んだテント地は、地面に打ち込んだ楔を抜き取り、空中にテントの一端を泳がせた。
 そのとき、テントの周りに置いた子供の靴をはね飛ばしたのだ。慌てて拾い集めたが、一足のスニーカーの片割れだけは、子供の背の立たないところまで流されてしまい、間もなく沈んで見えなくなった。赤い縁取りのついた女性用のスニーカーだった。
 そのスニーカーの持主である女子中学生は、片方を手にして泣きべそをかいている。引率者がやってきて、片方の靴を女子中学生の手から取って、思案顔だったが、じきに何か思いついた足取りで、湖畔を離れて歩きだした。
 しかしすぐ振り返ると、声を張り上げた。
「みんな、先生はちょっと靴を探してくるから、勝手に山へ入ったりしたら駄目だよ。村木伝道師に言って、おとなしくアメーズイング・グレイスでも合唱していなさい」
 何と、この半白の男こそ、歌子が訪れた教会の清水牧師で、教会学校の子供たちを引き連れてキャンプに来ていたのである。アメーズイング・グレイスと聖歌の名が飛び出したのは、近くゴスペルの大会が持たれるので、それに参加するための練習もかねてキャンプに来ていたのである。
 清水牧師は片方の靴を手にして、かつて歌子が辿った方へ道を行った。こちらに小さな店が幾つか並んでいて、そこに靴屋もあったように記憶していたのである。
 清水は歌子のことなど、まったく頭になかった。ただ必要に迫られて、体を運んで行った。
 スニーカーが風に飛ばされて、湖面を流れ、沈んでいった光景が目に映っていた。騒ぎを聞きつけた清水が湖面に目をやったときには、スニーカーはそれと識別できないほど小さくなって、水鳥が水に浮いているようにしか見えなかった。それが、水の中に消えたとき、彼は何故か非情なものを感じて、スニーカーの持主に視線をやった。彼女は泣き出してしまった。
 平穏な日々に、このようなことが起こり得るのだと、思いを新たにして事に処さねばと、自らを引き締めた。
 幸い靴屋は店を開いていた。ガラス戸にやや傾いた日が強く弾けている。
 戸を開くと、田坂の眼鏡が光って、客を迎える。彼は靴ではなく、鞄を抱え込んで修理していた。
「いらっしゃい」
 声に戸惑いがあるのは、清水がスニーカーの片割れを手にしていたからだろうか。牧師という職業柄が、特異な雰囲気を醸していたからか。
「そこのキャンプ場にきているんですが、片方の靴を風に飛ばされてしまいましてね、湖に。それで、これと似たようなのをと思いまして」
 田坂はスニーカーの片割れを手にすると、くるっと目を一巡させて、
「女の子となると、デリケートだから大変だ」
 とお世辞でもなく言った。
「似通ったものがなければ、間に合わせにどんなものでも構いませんが」
 と清水は棚の靴に目を走らせながら言う。
「湖に流れていってしまったんでしょう。それなら、品質を落とすとなると、後に響くと思いますがね。マイナスイメージが」
 田坂はいきなり腰を伸ばして、そう言い放った。
「なるほど、そこまでは考えなかった」
「女の子の方が、ずっと時間をかけて履き比べていますからね。たとえ二足くらいしか種類がなくても」
「そういうもんですか。私も教会学校で子供を扱っていても、そこまでは見ていなかった。それどころか、娘までありながら」
 清水はそう言って苦笑った。
 田坂は片割れを持って、奥へ探しに行った。
 清水はその間、店内の棚に並んでいる靴を見て回る。スニーカーなど数えるほどしかないが、三足ほど女性用のがあった。それらに手を伸ばしているうちに、陳列というよりは、保管かたがた飾ってあるといった感じの婦人靴に注目した。 渋い朱色のハイヒール。札がついており、注文品、売約済み、関口歌子様、と読める。清水はそのスマートな線と、渋い赤の調和の妙に圧倒され、手にとって鑑賞する。
 彼は来春高校を卒業する娘のことを考えた。こんな靴を卒業祝にプレゼントしたら、どんなに喜ぶだろう。そんな父親の欲目にかられて眺めているうちに、意外な書き込みがあるのに気づいた。売約済みの年月日が、二年前なのである。どうしたことだ。注文はしたが、取りに来なかったということか。それならまけてくれるかもしれない。サイズも24と書いてある。これは妻の足のサイズだ。そして娘は妻の靴をよく履いているのだ。
 あのとき歌子に、赤い靴は世の誘惑に嵌まりやすいと諌めた、まさにその靴を、清水牧師は今、娘の贈り物にしたいと考えたのである。これを悪魔の囁きとでもいうのか。いや、そこまでは問わないことにしよう、牧師とて普通の人間なのだから。
 田坂が、二足ほど抱えて現れた。清水はまだ赤い靴を手にしていた。田坂はそれに、何をするのかとばかりのきつい目を向けた。清水は善は急げとばかりに口を切った。「この婦人靴、期限が切れているようですが、譲ってくれませんかね。高価なものなら、少し値引きして。娘の卒業祝に贈りたいんですが」
「できません。それだけは勘弁してください」
「しかし、売約といっても、二年も前じゃないですか」
 清水はひとまず赤い靴を棚に戻すと、身を乗り出してきた。
「それより、スニーカーのほうはどうするんです? 色はブルーがかっていますが、この片割れよりは質が上です」
「そうそう、ありましたね、上等のが。ああ、これで結構」
 清水は言って財布を出す。
「これは返品するはずのものですから、まけておきますよ。しかしあの婦人靴は、ああして、取りに現れるのを待っているんです。話せば長くなりますが、二年前のこと‥‥」
 田坂は今がチャンスとばかりに話し出すのだった。これまでその靴に興味を示すものには、同じ話をしてきた。そのため語部の口調すら身についてしまった。
 話を聞くうちに、清水の表情が険しくなってきた。そして途中で田坂の話の腰を折らなければならなくなった。
「関口歌子さんなら知っています」
 清水牧師はたまらなくなって言い放った。「そこの婦人靴の札を見たときは気づかなかったのですが、お話を聞いているうちに、どうやら、関口歌子その人だと思い出しました」
 田坂の動きが止まって、相手に見入った。田坂の話しは前段だったため、探し回った虚しい日々が、吐き出されずに胸に残されたままだった。しかし、問題はそんな苦労話を聴かせることではない。歌子の生死だ。
「で、本人は今?」
 単刀直入にそう訊いた。清水を見据える目が厳しく、面が引き攣ってさえいる。
「生きているはずですよ」
 こう言って、牧師は田坂を観察した。職業柄、話を聞いて相手の心のありようを読むことには慣れていた。田坂の眼鏡の裏を一筋涙が伝った。やや遅れてもう一方の目からも涙が伝うのを清水は見逃さなかった。教会を訪れたものが、打ち明け話をして涙ぐむことはよくあるが、教会の外で涙を見るのは久しぶりのことだ。しかも相手が青年ではなく、自分の世代に入れてもいい壮年となると、記憶を辿るかぎりなかった。そこに牧師は一通りでないものを見た。純真、純情、いやそんなものではない、愛、しかも神からくる愛の焔のようなものを見た。
 この男なら、住所を教えても大丈夫だろうと思った。生きていたと分っただけで、こんなに喜べるのなら、どうして犯罪に結びつくことがあろうか。
「住所も、教会に記入して行ったのがありますから、後から教えますよ」
 清水牧師はこう言って、歌子が現れたときの様子と、経緯を記憶を手繰り寄せながら語っていった。何しろあの後、教会学校でしたものも含めると、この二年の間に二百回近い説教をしてきたので、思い出すのも容易ではなかった。
 はっきりしているのは、当日の説教題が「ここは聖なる場所である。あなたの靴を脱ぎなさい」という聖句から取ったものであったこと。そして靴を注文したのだが、頭痛に襲われて、取りに行けなくなったと、歌子が飛び込んできたこと。
 また歌子が帰ってしまった後、歌子を最初に案内した婦人会員から、歌子が教会に入るのに靴を脱ごうとしていたとの報告があった。
「『靴のままでよろしいんですのよ』そう申しましたら、『でも外に、あなたの靴を脱ぎなさいって、貼り紙がありましたから』って、なお脱ごうとしておりますの。だから私が、もう一度下りて、自分が外履きのままであることを示して」
 そんな歌子のエピソードを、清水は今思い出していた。
 メッセージの後、牧師と少し話して歌子は帰ったのだが、靴がここに残っているということは、彼女が取りにこなかったことを意味する。
 自分がどんな内容のメッセージをしたか、覚えていないが、彼女には赤い靴を欲してはいけないと思えたのだろう。そこに二年後、自分が現れて、我が娘のためにこの靴を欲しいと思ワセラレタ。悪霊のそそのかしだったとすれば、実に巧妙なすりかえになるが、牧師とは絶えずそのような善と悪との闘いをしているものなのだ。
 いずれにせよ、牧師が我が娘のためにその赤い靴を欲しくなった。それはとりもなおさず、神が歌子に靴を渡してよろしいと語っている――そう解釈した。
 あのときは、駄目でも、今はいいのだ。清水はそう受け取った。この仕事一筋に打ち込んできた男の愛を、これ以上落とし入れてはならない。何となれば、神は愛なのである。そもそも、あのとき、何故、あんな風が吹き起こったのか。そして、女の子の靴を湖に沈めてしまったのか。風とは、聖書で聖霊を意味する。聖霊とは、三位一体の神の一位格である。その神のされたことだ。何故そうされたか。決まりきっている。この靴屋に牧師の足を運ばせるためにほかならない。ここに連れて来て、歌子の過去と遭遇させた。田坂の血のにじむ手作業と、それが歌子の手に渡らなかったときの、不安と焦り、そして失望。何としても、その傷は癒されなければならなかった。
 清水牧師は四十分ほど話し込んだ後、子供たちが心配するからとキャンプ地へ戻って行った。今夕キャンプを解散して教会へ帰るので、過去の来会者名簿を調べて、歌子の住所を教えると約束した。
 
 田坂は一人になると、鞄の修理も手につかなくなり、狭い店内を動物のようにぐるぐる回っていた。かつて歌子が現れるのを待ったときもそうだった。いくら回っても現れず、ついに捜索を開始したのであった。協力者など出るはずはなく、山登りからはじめなければならなかった。山へ登れば、太陽をいちはやく確実に摑めるように、歌子の消息が分るとでもいうように。山登りは別な峰へと移っていき、二週間は店を閉めたまま歩き回った。
 民宿に記載された住所にも問い合わせてみたが、付箋がついて戻されてきた。
 夜、八時になって電話が鳴った。
「ありましたよ」
 とまだ耳に新しい清水の声が弾けた。声の周りは静かだった。
「これから言いますよ。いいですか」
「どうぞ、よろしく」
 田坂は慎重に身構えて写し取っていった。最後はこちらから読み上げ、確認した。
「何かありましたら、お出かけください。いつでも門は開いておりますので。それから、関口歌子さんに連絡がつきましたら、私からもよろしくとお伝えください」
 田坂はことばが不十分と知りつつ、何度もうなずき、礼を言った。電話は先方で切った。
                         つづく


 

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