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文芸の里コミュの高原列車・長編連載〈12〉

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 暗くなっても歌子は現れなかった。ふと今日が日曜日であることに田坂は気づいた。一人暮らしをしていると、週日も休日もない。その感覚で店も開いている。この辺りは休日の方が人出があって、客の入りも多かったりするので、たいてい休日も開いている。しかし大都市では、閉店のところも多いだろう。歌子がやって来なかったのも、そのせいではないのだろうか。
 領収書を渡すとき、日曜日でも店をやっているからね、と言ってやるべきだった。
 休みと思ったのなら、月曜日にはやって来るだろう。それならと、田坂は気が楽になった。待ち疲れを取るために、ワインの量を増やした。それからカセットテープで、英会話の勉強をはじめた。
 田坂の語学学習の経歴について触れると、最初は英語だった。英語がつづかずに、ロシア語に手を出した。これも取り付きづらくて、韓国語に変えた。しかし長つづきはしなかった。やっぱり英語かというわけで、ほぼ五年ぶりに英語に戻ってきた。もう後戻りはできない。語学を習うために、あまりに色々なところに出入りしたので、国際派の田坂さんなどと言われるようになった。半分以上からかいであることを知っている。国際派などといわれても、外国人どころか、日本人とさえ親身の付き合いなど一つもないのである。
 四時を過ぎても歌子は姿を見せなかった。田坂の中で、年甲斐もなくキーンと胸に痛みが走る。デートの約束をしておいて、相手が来なかったようだ。あの女はこちらの心を読んでいて、危険を察知して避けたのだろうか。しかしそれなら、わざわざ靴を作ってくれなどと言わなくても、小さな店内の既製品の靴を手にとって、田坂の説明を求めるなりすれば、人間の識別はできるはずだ。その上で、安全と判れば手作りの靴へと向えばよかったのだ。
 関口歌子の内心をこのように詮索することこそ、彼女に拘わりすぎて抱くことになった被害妄想というやつだ。こういうときこそ、客観視が大切なのだ。少なくはない金を前払いしてまで、誰がそんな杞憂に等しい思いを抱くか。それは自分の妄想の裏返しなのだ。注意しなければならない。
 これは彼女の身に何かあったぞ。どうしてもその線で考えなければならない。冷静に、人道主義の立場で対策を講じなければならない。
 田坂は手を後ろに組んで、狭い店内を歩き回った。こうなると、昨日一日待ったことも、間違っていたかもしれない。今日現れないということは、昨日も「休日につき閉店」を意味しないのだ。危機は、昨日のうちに彼女の上に臨んでいたと受け取るべきだ。
 田坂はそこに思い至ると、電話帳をめくって、近い民宿から電話をしていった。
 田坂靴店だが、婦人靴を注文して取りに来ないので探している、と要件を告げた。関口歌子の名前で投宿しているものはいなかった。
「女子大生と見たけど、もしかしたら、そうではなく二十五、六になっているかもしれない」
 と田坂は言った。話していて、歌子の表情のどこかに翳がちらついていて、それが年齢からくるのではないかと思ったのである。また田坂が、女子大学生ではないかもしれないと踏んだのは、先日列車の中で、女子大生を観察しながら、その中に歌子を置いてみると、いささか馴染まないものを感じたからだった。
 歌子が学生でないことを知っている読者からすると、こんな田坂の観察は、もどかしいばかりでつまらないと思う。作者からしても、本意ではない。そこで、極力このような迂遠なやり方は排除していくつもりだ。
 年齢については、まだはっきりした記述をしたわけではないが、高校卒業と同時に施設を出て、スーパーで働きだしてから二年を経ているだけである。したがって、田坂が歌子の表情によぎった翳を、年齢と見たのは当たっていない。いずれこれは、田坂自身考えを改めていくはずである。
 さて、電話で探した結果、一軒だけ、若い女性が一人だけで泊まっていった民宿があった。五日前で、日時も田坂にもらしていた歌子の旅程と符合する。
 宿帳には東京北区東十条三丁目、南国美那子とあった。
「宿を出るとき、何と言ってました? これからどちらへ向かうと」
「はっきりと決まってはいないようでしたよ。どこがいいかしらなんて訊いてましたから」
 と民宿のおかみさんは言った。それから思いついたように、靴を作らせて取りに来ないなんて、大きな損失をしたのね」
 と言葉を重ねた。
「いえ、そうじゃなく、全額払って、取りに来ないので、心配しているんですよ。結構値の張る靴だったから」
「前金で払っておいて、取りに来ないって、日にちを勘違いしているんじゃない?」
「私もそれは考えてみたんですが、話のやり取りから、どうもそうではないんですね。帰りに受け取っていくつもりだったようなので」
 おかみさんはしばらく沈黙して、歌子について思い出そうとしているらしかった。
「うちに泊まっているお客さんとも、話すようなことはなかったし、なんとなく寂しそうなところがあったわねえ」
「寂しそう?」
 田坂は聞き捨てにできない言葉を耳にしていた。
「ええ、言われてみると、そう感じるだけですけどね。だって、変ですものね。わざわざ注文しておいて、あてつけるみたいに取りに来ないなんて。田坂さんその女性と以前に面識は?」
「私と? ないですよ、まったく知らない初対面の人です。以前からスマートな赤い靴に惹かれていたらしいんですが、私の店の前を通ったら衝動的に欲しくなったというんですね。赤といっても、そんなに派手じゃないですよ」
「じゃ、面識のないあなたに、今まではとにかく、この世に生きていたという証人になってもらおうとしたのかしら」
「いやだなあ、そんな言い方しないでくださいよ。ますますこちらは被害妄想に落ち込んでしまいます。彼女はいったい、私に何をあてつけようっていうんですか」
「ごめんなさいね。そうですよね、こんな山に来て、見ず知らずの靴屋さんを巻き込むなんて、どうかしてますものね。では、どうして現れなかったの」
「それは、私が訊きたいことですよ」
「そうでしたね。もうすこし待ってみることよ。ひよっこり現れるかもしれないでしょう。今の若い子って、そんなところがあるから」
 これ以上話しても埒が明かないから、田坂は電話を切った。他に事件に巻き込まれたとか、その方向での可能性を探ることは不可能だった。たとえば、同じ民宿に泊まった客が、言い寄っていたとか。歌子に付け狙われる隙があったとか。宿帳に本名を書かなかったくらいだから、その民宿が災いの元になっているとはちょっと考えられなかった。
 だが、待てよ。と田坂は腕組みして考え込んだ。今浮かんだ疑念だ。靴を注文した関口歌子が偽名で、民宿の書き込みが真実ではないかという思いだ。では何故あんなにさりげなく、関口歌子と名乗れたのか。また偽名とした場合、なぜ田坂にだけ警戒したのか。
 いずれにしても、もしこのまま歌子が現れず、また探し出せなかったとき、もう一度民宿のおかみさんから歌子の住所の確認を取って、紹介状を出してみるつもりだ。
 民宿のおかみさんはもう少し待ってみたらと言ったが、田坂はそうしてはいられなかった。
 この町の警察に電話を入れ、事情を話した。山の遭難の連絡は入っていないと、巡査は言った。歌子のおおよその年齢や特徴を言った。交番に出向いて詳しく話したかったが、その間にひよっこり現れてはならないので、それは差し控えた。
「美人かいな、その娘さんは?」
 定年も間近いその巡査は訊いた。
「好みによって感想は違うでしょうが、私から見て可愛いとは言えるでしょうね」
「んにゃあー」
 巡査は舌で口内を掻き回すような妙な発声をした。可愛いのなら、事件に遭う可能性も濃くなると読んだのかもしれなかった。
「まあ、心にはおいておくけど、親の方から捜索願いが出されるのを待つしかないね」
 田坂は自分にだけ責任がかかってきているような気持ちになって、電話を切った。
 もう一つ新たに浮かんできた疑問がある。それは、民宿で本名を記載しなかったのであれば、どうして靴を注文するときもそれで通さなかったのかということだ。
 するとふっと、歌子は口で頼みこそしなかったが、靴に名前を入れて貰いたかったのではないかと思いついた。
 そのうち歌子がひょっこり靴を取りにやって来たときには、彼女に渡した靴をひったくってイニシャルをいれ、こう言ってやるだろう。
 ―いいか、足に履くものだからといって、馬鹿にしてはならない。これは機械による大量生産の品物じゃないんだ。いやしくも手作りの靴なんだぞ。履く者の事を考えながら、全工程をこの手で作り上げたんだ。こんなことは照れくさくて口にしたことはないが、この靴には職人の魂が入っているんだ―
 田坂は正義感に火がついたかのように、言葉が次々と噴出してきた。明日から捜索を開始する、雄叫びなのかもしれなかった。
 火曜日早朝、まだ薄暗いうちに起きだすと、パンとコーヒーで軽い食事をした。登山靴を履き、リュックを背負い、久しぶりに登山の身支度をした。それから昨夜のうちに書いておいた貼り紙をした。

勝手ながら本日休業いたします。
関口歌子様、ご注文の婦人靴できております。お送りしますので、住所をメモして、戸の隙間から店内へ押し込んでおいてください。送料は当方で持ちますのでご心配なく。
    田坂靴店 田坂宗彦

 田坂は道に出て、店を振り返って見る。これでよし。そう呟いて、明けそめる山をめざして歩きだす。季節はずれているが、護身用にピッケルを手にした。リックのポケットにのぞいているのはメガホンだ。
 早朝の葵湖は霧に蔽われていて、水面は見えなかった。登山道も少し先は霞んでいる。歌子が湖岸に鞄を置き、膝をついて憩んだ場所を過ぎた。むろん、田坂が知るはずもない。
 間もなく、歌子が意識を失っていったベンチの前も通った。今は誰も腰掛けてはいない。木の葉が一枚のっているだけだ。
 田坂は四時間かけて、まっすぐ山頂を目ざすか、横道へ入って山裾を当たってみるか、まだ決められないでいた。
 ここでヒントを与えてくれたのは、こんな過去の一齣である。もう十年も前になるが、P市に出たとき、デパートで革製の手帳を買った。皮革を見ることには長けているので、その革製の手帳は掘出し物といえた。
 田坂はその手帳を手にしてレジに行き、代金を払った。それから化粧室に直行して用を足していた。そのときだ。
「手帳をお買い上げのお客様! ただ今手帳をお買い上げのお客様! 商品をお忘れに‥‥」
 店内を声が駈けていった。
 彼ははっとして、立ったまま、上着のポケットに手をやった。そんな所にあるはずはない。そうかといって、鞄に入れた記憶はまったくなかった。
 彼が文房具売場に戻ったとき、女店員は受話器を手に、放送係りへ店内放送を依頼しているところだった。
「手帳をお買い上げのお客様が忘れていかれたので、すぐ場内アナウンスお願い」
 そこで田坂に気づくと、「あっ、いまいらっしゃいました」
 そう言って受話器を置いた。
 彼は悪びれ、何度も頭を下げて文房具売場を後にした。その手帳は、バインダーになっているので、用紙は何回も入れ換えているが、現在も使っている。
 田坂は今、靴と手帳と品物こそ違うが、商品を忘れていったという同じ状況に立ち至っていたのである。
 あの女子店員がすぐ追いかけて叫んだように、今こそ田坂がそれをしなければならないのだと思った。それにはまず、近いところからはじめなければならない。彼女は客がまだそう離れてはいないと信じて、叫びながら走ったのだ。その声を彼は聴いていた。
 すぐしなければということなら、昨日のうちに動かなければならなかった。彼はその立ち遅れを痛いほど意識しながら、広葉樹林の木立の中へと分け入って進んだ。
 野鳥がけたたましく啼き交わしている。彼はメガホンを取り出すと、叫んだ。
「関口歌子さーん! 関口歌子さーん!」
 野鳥はぴたりと啼き声を断った。民宿のおかみさんが、寂しそうな翳、と言っていたのが気になっていた。彼はそれを、表に現れていない年齢とみたが、それを改めなければならないとすると、歌子はどうなってしまうのか。若いとはいえ、寂しい生涯を歩んできて、それが表情に刻まれてしまい、ふとしたときに面に現れてくるのだ。その寂しさの根本が、衝動的に赤い靴を求め、あげくは、田坂を彼女の人生の証人にしてしまおうとした。
 民宿のおかみさんのことばが、生々しく蘇ってくる。若い肉体にしみついてしまった苦しみの翳。それが若さを裏切るようにときどき浮上してくる。
 田坂は人の見方が甘かったのだろうか。それとも、その昔、エリ子のために作った赤い靴を笹薮に投げ込んでしまったが、その復讐を受けているのだろうか。はたしてエリ子は、今生きているのだろうか。あのとき、どんな理由があったにせよ、こしらえた靴を届けていたら、田坂の人生も今とは大きく変わっていたのだろうか。一時の迷いではみ出てしまったエリ子を、引き戻せたのだろうか。その復讐を今受けているのだろうか。
 田坂はメガホンを口にあてがい、喘ぎつつ叫んで行った。しまいに歌子が、エリ子になっていなかったかと、不安がよぎった。
 
                       つづく

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