ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

文芸の里コミュの高原列車 長編連載〈1〉

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 山麓の観光地、元木平は歌子の一度来てみたい町だった。
 二時近く着いて、国民宿舎とユースホステルに電話をすると、空室はなくなっていた。シーズン前の時期を選んで、休暇を取ってきたのにと思った。
 仕方なく、町を一望できる辺りまで山を登り、民宿を見つけて、今荷物を置いてきたところだ。
 周囲は畑と雑木林で、畑には、唐黍が歌子をすっぽり隠すほどに伸びており、トマトが熟れて赤い実をつけている。
 民宿は農業のかたわらやっているらしい。点在する家々に向かって、径が縦横に伸びており、四辻には所々立て看板が目につく。民宿の他、レストラン、酒店、珈琲ショップなど。
 この土地は昔、イギリスの宣教師が自然の美しいのに目を留めて、研修施設をつくったり、教会を建てたのがきっかけで開けていったと、旅行案内には紹介してあった。
 そのせいか、町並みもどこかエキゾチックに、モダンで明るいイメージがあった。宣教師は後を日本の牧師に任せて引き揚げて行ったらしいが、これだけの町ができたのだから、宣教の目的は達せられたということなのだろうか。信仰を持たない歌子には、深くは分からなかった。
 この町について間もなく、鐘の響きを耳にしたが、陰々滅々とした寺の鐘ではなく、賑やかに高鳴る教会のものらしかった。
 日はいくらか傾いているが、まだ真昼の内である。歌子は両翼のやや広くなったクローシュを目深にかぶった。畑の植物、木立、道端の雑草、いたるところから緑の光線が襲いかかってくる。
  久しぶりに履いたスニーカーは、いくら静かな田舎道を歩いても鳴らなかった。そう思って、ふと顔を上げると、前方に数軒の店が現れ、手前の一軒には、A SHOEMAKER,S
 と板に書かれたものが軒下に掛かって風に揺れていた。
 外国人の店かと近づいてみると、普通の民家に横文字の看板を掲げただけで、ガラス戸には、手作り靴・修理、と貼り紙がしてあった。
 歌子は〈手作り靴〉の貼り紙に些か胸を荒立てながら、店の前を足早に通り過ぎた。靴屋から目を逸らそうとして、別の店に視線をさまよわせた。
 フイルム、薬局、焼き肉、次々と店は目に飛び込んできた。離れた位置からは固まって見えたが、どれもが畑の中に別個に建っていた。
 歌子は山に沿った径を家のないところまで進んでから、振り返っていた。意識したわけでもないが、靴屋に目がいった。ガラス戸に西日が強く反照して、目が眩むほどだった。
「どうして、あのガラス戸ばかり、あんなに光るのかしら」
 知らず知らずとは言いながら、歌子の目がことさら靴屋に向かっていれば、そこが光って見えるのは当然だった。
 彼女は再び前へ歩みを進めながら、かねてより拘っているもののほうへ傾いて行きそうになっていた。それは靴に関してに他ならなかった。それも一瞬の間に見た母親のピンクのハイヒールだった。

 その頃、歌子は故郷から百キロ離れたY市の養護施設に入っていた。はじめは岩手県の久慈に近い寒村に父母と三人で住んでいたが、父親が出稼ぎ先の建設現場で事故死して、
母親が働きに出るようになり、施設に預けられたのだった。
 母親の緑は東京のレストランで働いており、夏と冬の休みには、歌子を呼び寄せて、故郷の家で母娘二人だけの憩いのひと時を持った。小学四年生から二年ほどは、母親から娘の外泊願いが施設に届いて、実家に戻れるのが何よりの楽しみだった。
 施設の子供達も、多くはそういった家族とのかかわりを持っていた。夏と冬の二回きりではなく、こまめに足を運んで我が子に会いに来る親もあった。しかし歌子が母親の緑に期待できるのは、夏と冬の休みの時だけだった。
 歌子が帰省を許可されて実家に着くと、緑は先に帰って家の掃除や、娘と数日を過ごすための食事の用意に甲斐甲斐しく働いていた。そんな母は、働きに出る前とは見違えるほど若々しく美しくなっていた。歌子がかいだこともないような香水の香りもしたし、母の耳にはルビーの入ったイヤリングも光っていた。歌子の記憶にある母は、地味でいかにも田舎に埋もれているといった印象しかなかった。
 歌子は、会う度に艶を加えて若やいでいく母を見るのは好きだった。水入らずのひとときの後、娘を施設へ送り出すときには、職員や仲間達への土産物も持たせてくれた。それらは東京から買ってきたものだった。
 その母親は、ある夏の休暇に歌子が故郷に戻ってみると、家は戸締まりがしたままで、まだ帰っていなかった。いつもなら、窓を開け放って風を入れているところだった。
 歌子は泣きたい気持ちをこらえて、家の前の踏み石に腰掛けて待っていた。こんなにも、いるはずの者のいないことを悲しく感じた記憶はなかった。不安というか、焦りというか、戦慄きというか、そういった感情が押し寄せてきて、小さな胸を抑えているのがやっとだった。
庭には雑草が生え、彼女の背の二倍ほどにも伸びていた。去年の夏には、先に帰った母親が草を刈って、もっと庭らしく見えたものだった。黙っていると藪蚊が襲ってくるので、歌子は絶えず体を動かし、手で追っていた。
 駅前のスーパーに寄って買い物でもしているのかしら。そう思ったとき、草に蔽われた道に人影が動いた。歌子が駆け寄ろうとしたとき、
「何だね、歌子さんけってたのかね。草で人が見えねえもんで、来てみたら、ちゃんと帰っておったでねえの」
 こう言って現れたのは、八十メートルほど離れている前田さんの家の小母さんだった。
小母さんの後ろには、二年前まで同級生だったミサちゃんがついて来ていた。暫く会わないうちに、ミサちゃんは歌子にも人見知りするようになっていた。
「歌子さんの母さん、用事が出来て来るのが明日になるらしいよ。預かっていた鍵を渡してくれるように連絡があったんだけど、ここで独りで泊まるのは心細いよねえ。歌子さん今日は家に来なさい。母さんが来るまでの用意にと、お金も送ってきて預かってるけど、それはまあ後で渡すとして」
 歌子は次々と飛び出す小母さんの言葉を耳に納めようとするが、あまりに呆気に取られる内容なので、聞き止めることが出来なかった。来ているはずの母がいず、しかも今日来ないで明日来るなど、とても受け付けられるものではなかった。
 歌子は戻って行く小母さんの後に渋々つづいたが、心は虚ろだった。何といっても、母親の行動が信じられなかった。
 そもそもこの半年というもの、この日を心待ちにしてきたのであった。三度母親と手紙のやりとりがあったが、そのどれにも、夏休みの再会を楽しみにしていると書いたし、緑もそう書いていた。
 ミサ子の父親は、大阪へ出稼ぎに行っていた。ミサ子には弟が一人いて、父親が健在なのと、弟がいることと、二つながら歌子にはないものだった。
 その弟の正紀は、どこかに遊びに出ていた。ミサ子は目立たない女の子だった。二年前も、同級生としては小さいほうだったが、この時も歌子より大分背が低かった。ここで生活していた頃、歌子はめったにミサ子と遊んだりしなかった。距離では一番近かったが、歌子には他に何人も友達がいたのである。
 そんな昔のことがあるので、歌子はミサ子に済まない気がしていた。ミサ子が馴染んでこないのは、もっぱら自分のせいだと思えたのだった。それでもミサ子はこの時、歌子が弱い立場にあることを知って、近づいてこようとしているらしかった。母親の後について来たあたりが、それを物語っている。
 ミサ子の家で西瓜をご馳走になった。今年になって施設で二度ほどデザートに出たが、こんなに沢山食べたことはなかった。
「家の畑で穫れたのよ」
 とミサ子は言って、その西瓜畑へ歌子を連れて行った。大きな西瓜が、蔓や葉の茂みと
は違った丸さを見せて転がっていた。
「これはもう赤いよ」
 ミサ子は重量感のある一つを指で弾いてみせた。
 自慢しているように見えたが、歌子は厭な気はしなかった。
「西瓜いっぱい食べられていいね」
 歌子は羨ましさにかられて言った。「私のいる所では、今年になってまだ二切れ食べただけよ」
 歌子は四切れ目を頬張りながらミサ子について出て来たのだった。
 この時男の子の声がして、ミサ子の弟が帰ってきた。

 その弟の正紀の声を、ふと今聞いたような気がしたのである。
 耳を澄ますと、辺りは灌木の林で、木の葉越しに湖面が光っており、ほとりでは子供達がキャンプをしているのだった。湖からは涼しい風も湧いていた。
 歌子は湖へと下りていった。この湖は火山の爆発によって出来たものだと、パンフレットに説明してあった。何千万年も昔のことである。人造湖にはない自然さも、そのせいであろう。
 湖に向かって右側の岸辺がキャンプ場になっており、黄色いテントが五つほど張ってある。子供達が散らばって、夕食の準備でもしているのだろうか。喚き声の中には、女の子も混じっている。
 歌子は自分の少女時代を垣間見る思いがした。けれども、小学校のキャンプだったのか、施設の子供達としたキャンプだったのか、区別がつかなくなっていた。施設でも、休みに皆が揃ったとき、近くの沼に行って、こういったひと時を過ごしたものだった。
 学校の仲間と一緒の時は、そこに混じっている施設の子供達に対して、どこかつっけんどんで、つれない態度を取っていた。それは歌子だけでなく、施設の子供達は、大概がそうだった。そのほうが学校で仲間外れにされにくいと、誰に教えられなくとも知っていたのだ。いわば施設の子供達は、学校で本当の兄弟姉妹として振る舞っていたのかも知れない。
 ミサ子につれない態度を取っていたのも、あるいは、それに近い気持ちの働きがあったからではないのだろうか。歌子はこんなふうに、自らの非を正当化しようとしているのに気づいた。
 あのとき、歌子はミサ子の母親から鍵を貰って実家へ出向いたのだった。ミサ子も、弟の正紀もついてきた。ミサ子は、父親を亡くし、半年振りに帰ったのに、母親にも会えない歌子を哀れんでいるらしかった。そんなミサ子の親切さが身にしみて、かつての自分のつれなさがしきりに思い返されていた。
 玄関の戸は錆び付いて、ミサ子と力を合わせてようやく開いた。
 家の中は埃ばかりか、至る所に蜘蛛が巣を張って待ち構えていた。蜘蛛の巣には、色々
な虫が引っかかっていた。蛾や大きな蚊やトンボのような虫もかかっていた。
「閉め切っているのに、どこから入ったのかしら」
 歌子は自分の家が荒らされてしまっているのに狼狽えて呟いた。
「縁の下から這ってきて、飛び上がったんだよ」
 正紀が言った。彼は賢くて、小学一年生とは思えないほどだった。
「でも、蛾が這ってくるかしら」
 歌子は家の荒み振りに打ちのめされながら、口ではそんなことを言っていた。
「それは去年の蛾が、卵を産んで孵ったんだよ」
 正紀の知恵には敵わなかった。彼はフマキラーを見付けてきて、蜘蛛退治にかかった。三人は戸と窓を開け放ち、家に入り込んでいる悪魔の掃滅作戦に掛かった。蜘蛛よりも、もっと大きな悪魔が忍び込んでいるような気がしてならなかった。目に見えはしなくても、人を不幸せにして喜んでいるものがあるとしたら、残らず追い出してしまわなければならなかった。
 蜘蛛の巣に狙いをつけ、殺虫剤を噴射する正紀は頼もしかった。歌子とミサ子は井戸から水を汲んできて、新聞紙に含ませ、それを千切って床にばらまき、竹箒で掃き出した。
埃は夜具といい、食器といい、至る所に積もっていた。
 電気は切られてしまっていた。冬には電気もついて、テレビを視たことを思い出し、母親はどういうつもりなのかと一瞬不安にかられた。
「明日も、来ないのではないかしらん」
 ふとかすめた疑念が、歌子の中で悔しさへと形を変えていった。
 埃を掃き出して雑巾を掛けると、何とか家らしくなった。けれども今夜独りで泊まる気にはなれなかった。
ミサ子の母親も、ミサ子の部屋に泊まるように言ってくれていたので、そうすることにした。施設に入って仲間達と生活するようになってから、特に一人でいるのが心細く、やりきれない思いがするようになっていた。
 三人は綺麗になった床に大の字に寝て、外からの青葉の匂いと、かび臭い家の匂いを、小鼻をひくひくさせて嗅いでいた。
 歌子はこの家にはもう戻ることがないような予感がして、暫くこうしていたかった。しかも今では、本当の兄弟姉妹になれた気がしている二人に側にいて貰って、こうしていたかった。
「施設ではね、六年生まではこうやって、ずらっと並んで寝るのよ」
 と歌子は言った。皆それぞれの寂しさを囲って入ってきているので、いつも一緒にいるほうが紛れるのだった。入ってきたばかりの子は、なかなか寝付かれずに、泣いているものもあった。
 実家の押入には、色々な物が押し込められていた。歌子の物も多く入っていた。休みに帰ってくる度に持っていった物もあるが、施設では場所の関係で、制限があった。大切な物で、持ち込めないのもあった。ペディーベアは父親のおみやげで、自分の近くに置いておきたかったが、皆に引っ張られてさんざんな目に遭うと分かっていたので、休暇で戻った時だけ、抱いて寝ることにしていたのだった。
 歌子はその熊を、ミサ子に貰ってもらおうと思った。突然そんな気持ちになったのが意外だった。
「ミサちゃん、これあげる。私の代わりに可愛がってね」
 歌子はペディベアの頭を撫でてから、そう言った。
「あら、私のよりずっと大きい」
「ミサちゃんも、これ持ってたの?」
「ううん、私のは猫のぬいぐるみ。私熊がほしかったんよ」
 ミサ子は嬉しそうに抱き取った。正紀が不満そうにミサ子の横から熊をつついている。
 歌子は、これはあまり好きではなかったが、犬のぬいぐるみを引っぱり出して正紀に与えた。彼は熊と比べてみて、やはり浮かない顔だったので、歌子は絵本を何冊か出してきて、正紀に渡した。
 クマのぷーさんやグリとグラなど、昔買って貰って、汚さないように大切にしていた絵本だった。
 歌子は正紀にはこっそりと、光る小石を貼り付けて作った壁掛けをミサ子に渡した。
 その夜は、ミサ子の部屋に泊めて貰うことにした。ミサ子の母親は、わざわざ歌子のために山菜の天ぷらを揚げてくれた。
 翌朝、ミサ子と正紀と三人で、近くの小川に出掛けて水浴びをしていた。
 呼ぶ声がして、腰を伸ばすと、ミサ子の母親が肥った体を運んできた。
「どうしたの」
 ミサ子が顔をしかめて訊いた。
「歌子ちゃんのお母さんから、今電話があって、休みが取れなくなったそうだよ。団体客の予約が入ったとかで」
「それで、来られないの?」
 歌子はもう一日遅れるくらいに考えて、そう訊いた。
「そうらしいよ。この夏は一日も休めないんだとさ。半年振りに歌子ちゃんも帰って来てるというのに、気の毒にねえ」
 歌子はすぐには呑み込めなくて、ミサ子と並んで顔をしかめて立っていた。
「よかったら、家に何日でも泊まっていきな。おっ母さんからも、お金預かってるしね。はじめは一日遅れるからって、それまでの買い物と思って送ってきたんだろうけれど‥‥」
 ミサ子の母親の口振りから、もしかして母は、この夏帰って来ないつもりだったのではないだろうかと疑念が湧いた。
 もう川遊びをしている気持ちにはなれなかった。ミサ子の家に戻って、庭にいるとき、ミサ子にこっそり、歌子の母親からの手紙を見せてくれるように頼んだ。どうしても住所が知りたかったのである。歌子は母親の勤務先も、住んでいるところも知らなかった。たまに電話があったときは、東京品川のホテルと言うだけだった。
 ミサ子の母はさいわい畑に出ていた。弟も、ミサ子が与えた絵本に見入っていた。
 ミサ子は現金書留の封書を見つけてきた。
「これでしょう」
 と緑と名前のあるところを押さえた。歌子は母親からの封書を両手に抱えて住所に見入った。神奈川県川口市〇〇とある。よく口にする品川とは、随分離れている。母親が住んでいるところだろうと思えた。ミサ子に紙切れを貰って、その住所を写し取った。「ミサちゃんのお母さんに内緒だよ」
 とミサ子に言った。彼女は仲間に持ち上がっているらしい苦しみを読みとって、深々と顎を引いた。
「私これから、ここに行ってみようと思うの」
と歌子は言った。「詳しいことが分かったら、ミサちゃんにはこっそり教えるわね」
ミサ子は母親に歌子が帰ると告げに行った。ミサ子の母親が慌ただしくやって来て、井戸水で手を洗った。
「どうしてよ、そんなに急に」
 ミサ子の母親はさかんに引き留めたが、歌子の思いが固いと見て取ると、ミサ子に駅まで送っていくように言いつけてから、家に上がり込んでいった。
「これはお母さんから預かっているお金だ。それに私からの餞別が少し。電車代だってないと困るだろうから」
 と白い紙に包んだものを歌子に渡した。「何かみやげでもと思ったけど、こんなに急ではねえ」
 歌子は礼を言って、ミサ子と一緒に歩き出した。弟もついて来た。
 家畜小屋から二頭の羊が顔を出して鳴いた。歌子はとっさに小戻りして、羊の鼻面を撫でてやった。生温かな羊の息が、歌子の手を擽ってきた。手だけでは物足らず、首を抱いて自分の頬を羊の鼻面にくっつけてしまった。
 ミサ子の母親は、家の前に立って、歌子の一部始終を見ていた。歌子が小屋を離れたとき、母親は安心したように笑顔を見せた。
 三人は田舎の駅で列車の来るのを待っていた。到着が少し遅れているらしかった。歌子はミサ子の母親から餞別を貰ったこともあり、送らせた済まなさも手伝って、売店でアイスクリームを買って二人に渡した。
 三人は駅の玄関に立って、アイスクリームを食べた。そうやって口をつかっていると、歌子はあまり話さなくていいので助かった。歌子の気持ちは、母親の現れなかった悔しさで塞がれており、話すとなるとすべてがそのことに繋がっていくように思われた。母親の居所に出向いて、その結果を友達に報せるというのも、どんなことになっていくのか見当がつかないとあっては、気が重かった。そもそもどうなっていくものか歌子の頭の中はがんがん鳴り響くだけで、想像すらつかなかった。駅の周りではやたら蝉が鳴いていた。その蝉の声と歌子の頭の中は共鳴し合っているようだった。
「あっ、来たみたいよ」
 とミサ子が線路を打つらしい音に耳を留めて言った。弟が建物の角まで走っていき、線路に視線を放った。彼はこちらを振り向き、来た、という合図をした。
「帰ったら、手紙書くわね」
 と歌子は言った。
「私も書くわ」
 とミサ子が言った。歌子は再びこの土地で会うという約束が出来なかった。それはミサ子も同じらしく、そこに言い及ぼうとしながら口には出来ないといった表情になっていた。明るい夏の日に、歌子の鬱屈が幼なじみの心まで曇らせていることは確かだった。
 ホームには、三人の大人が立っているだけだった。レールを打つ車輪の響きが迫ってきた。改札係が急ぐように言っている。
 歌子は二人に手を振って、ホームに吸い込まれていった。
 二人は駅から五十メートルも離れた線路縁に立って手を振っていた。
歌子が列車に乗ってすぐ駅の方を窺うと、早くも二人が消えているのでこらえようもないほど淋しさに襲われたが、ここで見送るために駆けたのだと分かって、また二人への情愛が募った。
 二人は歌子の辛い気持ちを理解できるだけに、笑顔は禁物と、さりとて不幸を先取りしたような顔をしても失礼になると思うのか、白い歯を仄かにのぞかせながら真剣に歪み崩れた顔になって手を振り続けていた。 歌子もまけずに手を振り続けた。
 列車は速度を上げていき、二人を豆粒ほどにして、古里に置き去りにした。歌子はそれっきり、二人に会うことはなかった。

                               つづく

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

文芸の里 更新情報

文芸の里のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング