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japoeirandoコミュのMestre João Grande

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Mestre João Grande

Nome: João Oliveira dos Santos
Grupo: Capoeira Angola Center of Mestre João Grande
URL: http://www.joaogrande.org/
Nascimento: 15 de janeiro de 1933
Naturalidade: Itagi, BA
Mestre(s): Pastinha(CECA)



ンジンガ・カポエイラ・アンゴラ団体(Instituto Nzinga de Capoeira Angola - INCAB)

2004年9月1日イタパリカ島ポンタ・デ・アレイア海岸にて、アベリャ(ポロカ)記者により行われたメストリ・ジョアン・グランジの取材。

第1部

ンゴロとングンゾ

 メストリ・ジョアン・グランジがサルヴァドール市を訪れた8月下旬に感じたことを言葉で表現するのが難しい。しかし心を開き、素直な気持ちに導かれれば容易である。清らかで奥深く、動きの正確さは彼の純粋な心を写しだす。著名人である前に、メストリのングンゾ(力)は我々を祝福して、彼のマンジンガはその場所を洗礼してくれた。
 色んな場面において彼に同行することができて光栄に思います。彼は8月12日(金曜日)に到着し、スケジュールの空きを見て15 日(日曜日)午後2時にグループ・ンジンガを訪問したいことを私とパウリンニャに伝えた。彼は14日(土曜日)午後にメストリ・ヘネのホーダへ行き、夜 はメストリ・モラエスとメストリ・ジョアン・ペケノのホーダへも行かれました。やる気満々であった。日曜の午後2時には、ンジンガのホーダに参加するため、彼は準備万端だった。
 彼は幸福に満ちており、一緒にたくさん笑いました。そして積極的で小さなホーダを行い、良いエネルギーが充満しました。ホーダが終わると印象に残ったのは、始まったときより皆は喜びに満ちていたこと、メストリも含めて。その後はテヘイロ(カンドンブレの聖地)・タヌリ・ジュンサラ(アンゴラ)で行われていた行事に参加しまし、あまりの素晴らしさに魅了された。メストリによると今回の旅で忘れられない出来事の一つでしたと。
 18 日(水曜日)は私の誕生日で、翌日の夜7時にホーダを予定していました。メストリにも歓迎していただきたく招待しましたが、サルヴァドール市で行われるイベントのため時間的に不可能との様子。しかし幸運に恵まれ、彼は他の招待客よりも先に出席してくれました。2度も我々の道場に足を運んでいただき、感激しました。ホーダはとても美しく、そして楽しかった。メストリ・ヴァウミール(FICA)、コントラ・メストレ・ボカ・ド・ヒオ(グルーポ・ジンバ)、クリス (Acanne)、マルコ・アウレリオ、ジャナイナ、リンダなども出席していました。最後にバースデイ・ケーキまで。
 翌日は、ブラジル・カポエイラ・アンゴラ連合(ABCA)にて行われたセレモニーでメストリ・ジョアン・グランジがニューヨークのカポエイラ・アンゴラ大使として任命されまし た。任命式ではメストリ・パスチンニャが絵を描いた布、カポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センター(CECA()のシャツそして杖が紹介された際にメストリ・ ジウドは感動して涙を流した。そこで行われたメストリ・ジョアン・グランジとの唯一のジョーゴに私が招待され、光栄に思いました。
 その後、メストリは美しいイタパリカ島にある自宅で平和な時間を過ごされた。自然の品物、日常品、宗教、バイーアのなまり、ハチドリの歌声や家の前を通るアイピン(キャッサバ)を売る人の掛け声のようなささやかな出来事にメストリは耳を傾いていた。次の取材はメストリの自宅にて行われ、残念に思うのは彼の笑い声とその理由を聞かせることが出来ないこと。

コメント(16)

第2部

取材

P. あなたはどのようにカポエイラ・アンゴラと出会いましたか。カポエイラに対する初印象は。
JG. コルタ・カピン(カポエイラの技)だった!19歳くらいの男2人が道を通り過ぎてコルタ・カピンやるとこを見かけた。ある店の前に2人の老人がいて、「ペドロ、 あれはニグロ・ナゴ族の踊りだよ。人にやれば倒せる。」とシコはペドロに言った。説明していた老人はその場に残り聞いていた方は帰って行った。私は好奇心が強いから、その会話を全部聞いていた。当時は10才 だった。その場に残った方に「ナゴ族の踊りは何?」と聞いたら彼は「知らない、砂糖農園の製糖工場で働いているアフリカら来た者がやっている。」と答えた。そしたらコルタ・カピンは何であるかを知るために探し回った。家畜農場とか、農家としてフェイジョ ン・マンガロ(マメ科の一種)・米・コーヒ・ココアなど色んな物を栽培して働いた。カウボーイの助手もやった。コルタ・カピンを探したけど誰も知らなかった。1953年には20歳になり、サルヴァドール市のアンパロ・ド・トトロ通り19番に引っ越した。ある家族の使用人として掃除洗濯とかやって1年働いた。

P. その家族とは。
JG. 主人はエジガールでその妻ジュリアでした。

P. 彼らは裕福でした?
JG. いいえ、貧乏だったが主人は物売りをやっていた。そこで1年働いて、ヴァスコ・ダ・ガマ大通りに在ったスペイン人の酒造庫に住み込みで働いた。カシャサ (酒)とビネガーの配達をしていた。ある日にホサ・ド・ロボ地区の近くのトロロとガルシア地区を結ぶ橋を渡っていたら、そこのマンゴの木の下でカポエイラのホーダをやっている人たちを見かけた。行ってみたらジョアン・ペケノ、バルボザ、ゴルド、コブリンニャ・ヴェルジ、チブルシノ、マノエウ・カヘガドルがいた。ホーダが行われていて、3つのベリンバウが見えた。「これは何?」とバルボザとジョアン・ペケノに聞いて彼らは「これはカポエイラ!」と答えた。聞いていた時に誰かコルタ・カピンをやって、私は10才だったころのことを思い出した。どこで習えるかと聞いたら、ジョアン・ペケノはパスチンニャ氏が教えるブロタス地区に私を連れてってくれると言った。

P. 当時は何歳でしたか。
JG. 20歳 だった。そこでジョアン・ペケノは「パスチンニャ氏、ここにカポエイラを習いたい男がいます。」と言って、「そこに座れ。名前は?」と(パスチン ニャ氏に)言われ「ジョアンです。」と答え、「仕事は?」、「私はボールを使ってやる・・・」、「そんなのは駄目だからカポエイラをやりなさい。そうすれば成長できる」(図星だった!)と言われた。その場で思ったのは「この人は何もわかっていない・・・」(笑い)。20ミヘイス(当時の貨幣)を払って座っていたら、先輩たちのトライラ、ヴァウデマル、トトンニョ・デ・マレ、リヴィノ、ダニエルが来た。古株全員がいた。そしたらパスチンニャ氏がジョーゴをやって・・・見てから「この老人はただ者じゃない」と彼のことを信じた。彼は「火曜日に練習しに来い」と言った。パスチンニャ氏とジョアン・ペケノが私を鍛えてくれた。ある日メス トリはもっと大きいとこ引っ越したく、船乗りをやっていた人がイアラの舞踏会が行われていたペロウリンニョ坂19番で館を見つけてくれた。その舞踏会には船乗り、港の人、労働者、庶民が通っていた。少しずつ、他の古株カポエイリスタが館に通い始めた。
P. あなたはパスチンニャ氏以外のメストリに教わったことはありますか。
JG. メストリ・コブリンニャ・ヴェルジのとこで午前中の間に習っていた、シャメシャメ地区にあった道場で。日曜の午前中はそこに通っていた。午前中そこでカポエイラを練習した。私と古ガト・プレト、ジジ、ボン・カブリト、ヘジェ・デ・サント・アマロ・・・

P. コブンニャ・ヴェルジとメストリ・パスチンニャに教わったということですね。
JG. その通り。コブリンニャ・ヴェルジと正午まで居て、家でファリンニャ(穀物の粉)を食べてメストリ・パスチンニャのとこに午後2時から通った。そこでは肉を食べられた。トライラも私に教えたくれた。ヴァウデマル、古リヴィノ、ノロンニャからも言葉によって教わった。

P. メストリ・ヴァウデマルのバハコン(道場)に通っていたのですか。
JG. あそこにはいつも行っていた。激しかった。すごかったよ!そこには蛇(つわもの)しか居なかったな。エヴァニル、タタ、ボン・カベロ、シタ・マカリオ、セチ・モラ ス、ザカリアスとか。全員出来る蛇(つわもの)だった。カポエイラを始めてまだ3ヶ月のときにホーダから吹っ飛ばされた。アントニオ・カベセイロは悪者だった。私はエアヴァニルとジョーゴをしていて、ちょうどメイア・ルア・デ・コスタスをやって見ていなかった時に彼(アントニオ・カベセイロ)が割り込み、ホーダの外の道まで吹っ飛ばされた。一瞬だった。全身汚れて帰るしかなかった。次の日曜にそこへまた行き、エヴァニルのジョーゴを見てから彼とまたジョーゴをした。彼が入ったときハステイラ(足払い)を掛けて、ハステイラを返された時に足を踏みつけて彼のズボンを破けた。彼は怒り狂って「ピー」とホーダを止めるためにホイッスルを鳴らされた。そこにはホイッスルがあった。

P. 誰がホイッスルを鳴らす役目をしていた。メストリ・ヴァウデマルでしたか。
JG. いいえ、そこに居た年寄り。彼は止めるときと始めるときにホイッスルを鳴らしていた。あれから12月8日にコンセイソン・ダ・プライアでホーダがあった。ヴァウデマル所の連中10人位が来ていた。私と共には神様と守護天使しか居なかった。ホーダに入ったらすぐボン・カベロが割り込んだ。メイア・ルアをやったら彼もメイア・ルアで帰した、それをよけてカベサダ(頭突き)をやったら彼は軽く膝を私のあごに当てた。ジョーゴを慎重に仕掛けていって、隙が出たときに頭を彼に触れた。そしたらエヴァニルが割り込んだ。バハコン(ヴァウミルの道場)での借りがあって、床を這いながらこっちへホレー、あっちにホレー・・・私はひものないモカシンを履いていた。メストリ・パスチンニャは両腕で原と胸を守るようにいつも私に言っていた。そしたら彼はテゾウラに入り、外れそうになった靴を直すために片腕をガードからはずした瞬間にエヴァニルは振り返ってシャーパ・デ・フレンチでつま先を私の目のすぐ下に当てた。私の顔は傷ついた が、ジョーゴは続けられた。メストリ・ブガリョはベリンバウを弾きながら口の片隅に葉巻をくわえ、吸っていた。早いサン・ベント・グランジだけ弾いていた。あっちこっちに動いて倒れ、相手も倒れた時にベリンバウが止まり、バテリアも止まった。怪我に塩を付けて、消毒した。私とエヴァニルは一年も互いに口を利かなかった。カルナヴァウ(カーニバル)に行く時、カンチナ・ダ・ルア食堂の近くの道に居た。坂を上っていたらナチヴィダデと言うパスチンニャの弟子がホーデでエヴァニルにやられていたと聞いた。そこに行ってみたら、「次は誰だ?やりたい奴は来い」と挑発された。彼がまたジョーゴを始めた時に私は割り込んだ。厳しかった!彼はから上がって来なく、ジョーゴはすべて床でやっていた。時計で数えて2時間も激しく続けた。終わった時に挨拶をしたら不快感は消えて友達になった。
P. メストリが一番驚いた昔と現在のカポエイリスタを教えてください。
JG. 古株は全員。若いのでは、1950年そこらでヴァウデマルの弟子のジオゴ、シタ、エヴァニルが良かった。ヴィルジリオも居た・・・

P. メストレ・ヴァウデマルのバハコン(道場)は偉大なカポエイリスタが通っていた。「カポエイラ屋」フレジ・アブレウ(Frede Abreu)の本「メストリ・ヴァウデマルのバハコン」(O Barracão de M.Valdemar)では、そこに通っていた者は玄関でメストリが信頼する人に武器を預けなければならなかったと書いてある。そういった光景を見られましたか。
JG. よくあったことだ。そこにはシタ、マカリオ、ジオゴとかとジョーゴしに行った。そいつらはうまかった!ヴィルジリオもとても良かった。コブリンニャと言う奴もいた・・・アウーの際にジョアン・ペケノはハステイラを掛けられたし。そいつはもう亡くなった。コブリンニャと呼ばれていた。パスチンニャの道場でジョーゴした時に奴は同じことをやろうとしたが、彼を吹っ飛ばした。そしたら彼のお父さんが割り込んできた。彼はエスピホ・ヘモゾの息子だった。コブリンニャ、エスピホ・ ヘモゾとジオゴの3人が居た。厳しいジョーゴで勝者は無かった。

P. 現在と昔のカポエイラと何か違いを感じますか。
JG. たくさんの違いがある!ジョーゴも歌もリズムにも。今ではあまりラダインニャは歌わない。時々ホーダの初めに一つ歌って終わり。シューラでは忘れていけない フレーズがある「Iê volta do mundo」、「Iê Pue o mundo dá」、「Iê Pue menino é bom」、「Iê é cabeceiro」、「Iê é mandingueiro」とか。それによりカポエイラはルーツを失いかけている。アタバキよりも高くパンデイロが叩かれ、楽器の上下関係が守られていない。リズムが早すぎる。ジョーゴが加速して美しさを失う。唯一ジョーゴが美しくなるのはベリンバウに合わせる時だ。ヴァウデマルがベリンバウを弾いていた時、私はとてもいいジョーゴが出来た。ベリンバウが動き方を示してくれた。

P. 今日ではベリンバウの元にカポエイリスタのペアーを呼び戻し、指摘をしたりアドバイスをするメストリは少ない。これに付いてどう思われますか。
JG. 本当だね。呼ばないね。時には相手の服を踏んでいるのにも関わらず、ベリンバウは呼ばない。ジョーゴで少しでもぶつかったら、拍手をするためにベリンバウの元に呼びつける。何もしなくても、最低は呼びつけなくては。
P. アメリカ人に黒人文化を教えることはどうですか。
JG. うん!満足を感じるよ。いい感じだ。カポエイラはみんなのもの。男も、子供も、女も。黒も、赤も、青も、黄色も。我々の血にある。「カポエイラは黒人がやるもの」と言う人もいる・・・それは違う、習いたい人のものだ。カポエイラは生まれつき体に組み込まれている、白だろうが、黒だろうが、赤だろうが、青だろうが。ヒザジンニャの息子なんか青い目をした金髪の5才の子で、もうカポエイラがうまいよ。みんなとやっている。

P. アメリカ人はカポエイラを大切にしていますか。
JG. カポエイラを大切にしている。特に女性たちとても努力している。男も練習するけど女ほどじゃない。ヨーロッパとかでは、イベントがあると女がたくさん参加してみんな自分のベリンバウを持参する。

P. なぜあなたのグルーポ(団体)ではコントラ・メストリまたはトレイネウの照合を与えていないのですか。
JP. まだその時ではないから・・・

P. あんたは過去にカポエイラをやっている女性が居たか思えだせますか。
JP. 一度ジョーゴする女を見かけた・・・セルジッペ州出身で・・・1952年だった。古ダニエウの弟子のジョエウとジョーゴをした。背の低い女で、ズボンを履いて上手だった。

P. CECA(Centro Esportivo de Capoeira Angola)とGCAP(Grupo de Capoeira Angola Pelourinho)の他、バイーア州のどこで教える機会がありましたか。
JG. 1987年にGCAPを抜けた後、3年間所属してから、リセウ・デ・アルテス・エ・オフィシオ教育機関の協力を得て70名の若者に教えていた。フレジ・アブレウ、メストリ・イタポアンとセザル・バルビエリの助けがあった。

P. あなたはカポエイラから5年間も離れていました。GCAPはあなたが復帰するためにどの位重要でしたか。
JG. 昔のメストリたちを復帰させるために力になった。イベントとワークショップはカポエイラを大きくした。GCAPが費用を負担して協力してくれた時期もあった。

P. アメリカでカポエイラを教えるほうが難しいですか、それとも簡単ですか。
JG. 同じだよ。こっちもあっちでも。見たでしょ?私が参加したイベント。200名が予約をしたが、その場で何人いたかな?少かった。しかも全部無料にもかかわらず、誰も行かなかった。ヨーロッパだったらきっと満員だね。
P. あなたはカポエイラの歌の源でもあり、アンゴラのホーダで歌われる主な歌はあなたから来ています。あなたが作詞するのですか。どのようにして思いつくのですか。
JP. ときどき思い出すことがある・・・でもほとんどは自作。

P. 我々が歌う時、歌の内容にいつも注意しています。これに付いて何か語ってください。
JG. 音楽の基本的なことに気を付けなければと思う。悪口ではないが、そこら辺ではカポエイラのホーダでサンバ・ジ・ホーダしか歌わないメストリがいる。伝統を忘れている。パンデイロが目立つのも好きだよ、バリエーションしながら。しかしパンデイロを強く叩くのは好きでない。本当のアンゴレイロは教育に厳しくな いといけない、習っている人の為に。

P. あなたはニューヨーク市でアフロ・アメリカン関連の団体などに活躍する人とつながりはありますか。
JG. 向こうではそういう人沢山いる。彼らは練習に来て、私を手伝ってくれる。学校とかで活動して、私の参加を依頼することがある。あるショーに呼ばれて、グループには白人が多かった。私は何も言われなかったが、メストリが白人をたくさん連れてきた・・・と言う感じの噂があった。その後また呼ばれたが、白人を連れて来ないでとか言われないように断った。3ヶ月前に黒人キャストしか居ない映画に出演した。有名な映画で今頃公開される。有名な役者さん出ている。映画館で公開される。ハーレム地区で撮影され、寒い中にホーダを行った。私はベリンバウと歌だけだが、何人かの弟子はジョーゴをした。

P. ニューヨークへの引越しはどの様に実現しましたか。
JP. 行く機会はダニエウ・ダウソン(Daniel Dawson)が作ってくれた。私、モラエス、コブラ・マンサ、ノとルア・デ・ボボがアトランタ市で行われた黒人美術フェスティバルに参加した。そしたら私は帰らないで、そのまま向こうに居座った・・・1990年頃だったかな。

P. ガト・プレトはどう関係しているのですか。彼が場所と生徒などを手配したのですか。
JG. その通り。彼はハーレムで場所を持っていた。そこで教えていた。彼の家に泊まって日曜日に教えていた。

P. ハーレムの後はどこへ行かれましたか。マンハッタンですか。
JG. ガトの所から出た。マンハッタンの69ストリートに場所を作った。ヒザジンニャも一緒にいた。家賃を地道に払いながら、広くしていった。そしたカポエイラの場所の隣にダンス・ホールを開いて、そこを貸していた。そしたらまた引っ越した、あそこら辺に。5年もそこ居て、契約をまた5年間に更新したばかり。

P. メストリ・ジョアン・グランジ、取材を受けていただいてありがとうございます!
この取材は「Instituto Nzinga de Estudos da Capoeira Angola
e de Tradições Educativas Banto no Brasil」が発行する「Toques D'Angola」誌3号にてポルトガル語で紹介され、INCABのURL「http://www.nzinga.org.br/」かダウン・ロードできます。

ふむ、なかなか面白かったよ。
昔の雰囲気がちょっとわかった気がする。

ごくろうさん!

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