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数学史・数学者コミュの数学は「発見」?それとも「発明」?

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ひさびさのトピですが、

少し前ですが、スラッシュドットにこんな記事がありましたね。

数学は「発見」?それとも「発明」?
http://slashdot.jp/science/article.pl?sid=08/05/01/0229243

Science Newsで取り上げられた記事は、こちらです。

Still debating with Plato
By Julie Rehmeyer
April 25th, 2008
Web edition
Where do mathematical objects live?
http://www.sciencenews.org/view/generic/id/31392/title/Still_debating_with_Plato

みなさんはどう思われますか?

コメント(42)

>そこにある物は、確かにありますよね

いえ。。、これは誰にとっても確かに、あるものでしょうか?
たとえば、北京原人にはなかった(何か別のモノガ彼らにはあった)、とか。

>イヌという言葉は発見ではなく発明ですね

イヌに限らず、コトバや記号は全て発見、ですという理屈になりますね。人類の。。

>で、数学的真実というのは、そのそこにある物なのか、それに名付けた名前に過ぎないのかという問いです。


新種のウニ、を海で見つけた生物学者は論文に発表する、彼が、発見者、となる。しかし、海に住む人々はそれを食べていた(丁度米国大陸をコロンブスが発見したようなもの。そこにインディアンは住んでいた)ということはありえますね。


>上との関連でいいますと、言葉や記号を用いて得た(証明された)数学的(学問的)真実は、言葉や記号がないときから存在していたのか、言葉や記号があって初めて証明できるものですから、その真実は言葉や記号がなければ存在しえないのかという問いです。

結局こういうことになりますね。コトバにしたとたん、現実から離れる、ということになりますね。三角形、とか、円、とか イヌ、猫、人間。。とコトバにしたとたん、現実の目の前にあるモノとは異なった抽象世界に入ります。

三角形(完全な)という概念は、三角形というコトバを誰かが付与する前に存在したか、ということでしょうか。これは、数学だけに限ることはないと思いますが。

たとえば、日食、月食、岩、風、大雨、霧雨。。これは太古の昔から人々はその存在を知っていたが、命名はしていなかったかもしれない、ということはありますね。0や1,あるいは数、というものも、人類の経験なくしては発明も発見もなしえなかった。。

0とか1とか最もシンプルな概念にしても、エライ数学者と小学生ではその内包、外延まで含めて一致した理解というのはないとおもいます。

>言葉や記号を用いて得た(証明された)数学的(学問的)真実は、言葉や記号がないときから存在していたのか。。

ここでいわれる存在とは、人々の(誰かの)心の内に想起された、ということではないですね。

言語に変換されて(あるいは、伝達可能なサムシング)、人々に共有される、ことが前提です。したがって、言語(あるいは伝達可能ななにか)なしに概念というのはありえないでしょうね。

特定の人の頭だけにある概念、というのはありでしょうか。個人言語を使って定義し、証明できる。

やはり数学だけのハナシではないと思いますが。
> 3 古井戸さん、こんにちは。

話がそれていますので、元に戻りましょう。

長くなりますので2つに分けますが。

>> そこにある物は、確かにありますよね

> いえ。。、これは誰にとっても確かに、あるものでしょうか?
たとえば、北京原人にはなかった(何か別のモノガ彼らにはあった)、とか。

それでは、数学的真実は、そこにあるのでしょうか、それともないのでしょうか?
そこにあるのであれば、数学的真実は発見されるでしょうし、そこにないのであれば、発明されたのかもしれません。

発見だというのなら、どこに数学的真実はあるのかというのが、Where do mathematical objects live? という記事のタイトルの意味では?

>> イヌという言葉は発見ではなく発明ですね

> イヌに限らず、コトバや記号は全て発見、ですという理屈になりますね。人類の。。

言葉や記号はすべて発明という理屈です。

では、数学的真実は?

>> で、数学的真実というのは、そのそこにある物なのか、それに名付けた名前に過ぎないのかという問いです。

> 新種のウニ、を海で見つけた生物学者は論文に発表する、彼が、発見者、となる。しかし、海に住む人々はそれを食べていた(丁度米国大陸をコロンブスが発見したようなもの。そこにインディアンは住んでいた)ということはありえますね。

新種のウニは、確かにそこに存在しますね。生物学者が発見した。また、インディアンが、はるか以前にそのウニを食べるようになったのも発見したからですね。数学的真実は、物質あるいは現象としてどこかに存在するものではないですね。物理学的、生物学的発見とは、意味が違います。繰り返しになりますが、数学的真実は、どこにあるのでしょう?(そもそも数学的真実とは何?)

>> 上との関連でいいますと、言葉や記号を用いて得た(証明された)数学的(学問的)真実は、言葉や記号がないときから存在していたのか、言葉や記号があって初めて証明できるものですから、その真実は言葉や記号がなければ存在しえないのかという問いです。

> 結局こういうことになりますね。コトバにしたとたん、現実から離れる、ということになりますね。三角形、とか、円、とか イヌ、猫、人間。。とコトバにしたとたん、現実の目の前にあるモノとは異なった抽象世界に入ります。

そうですね。その抽象世界で、純粋に論理(理性の働き)だけを使って導かれたのが、数学的真実ですね。その数学的真実は、発見されたのでしょうか、発明されたのでしょうか。

==続く==
続きですが、

> 三角形(完全な)という概念は、三角形というコトバを誰かが付与する前に存在したか、ということでしょうか。これは、数学だけに限ることはないと思いますが。

数学で使う言葉(単語)の問題は、それは、数学だけに限る問題ではないかも知れません。言葉共通の問題かもしれませんが、そうした数学的用語を駆使して、純粋な論理のみによって導かれた数学的真実は、言葉が生まれる前から存在したのでしょうか、存在しなかったのでしょうかという問いですね。

> たとえば、日食、月食、岩、風、大雨、霧雨。。これは太古の昔から人々はその存在を知っていたが、命名はしていなかったかもしれない、ということはありますね。0や1,あるいは数、というものも、人類の経験なくしては発明も発見もなしえなかった。。

物理的現象は、現実にそこに存在します。言い方が悪いでしょうか。人間の五感を通して現実に認識できます。命名していなかったこともあるでしょう。だから最初に知ったのは発見です。発明ではありません。0や1、数字も同じく、人類の経験なくしては発見されえなかった、ということでは? 普通、0や1、数字は、認識していたかどうかを問いますね。0をインド人が初めて認識したことを、0の発見と一般には言うでしょう。0の発明ではありませんね。では、0の概念はどこにあったのでしょう。どこにもないものを発見したのでしょうか。

> 0とか1とか最もシンプルな概念にしても、エライ数学者と小学生ではその内包、外延まで含めて一致した理解というのはないとおもいます。

その通りでしょう。では、初めてその複雑な概念を理解した偉い数学者たちは、その概念を発見したのでしょうか、発明したのでしょうか。(間違っても学習したのではありませんね)

発見したというなら、その真実はどこにあったのでしょう? 単に頭の中で発明しただけでしょうか。

>> 言葉や記号を用いて得た(証明された)数学的(学問的)真実は、言葉や記号がないときから存在していたのか。。

> ここでいわれる存在とは、人々の(誰かの)心の内に想起された、ということではないですね。

心の内に想起されただけなら、発明かもしれません。どこか別のところにあるものを、捉えた(認識した)のなら発見です。数学的真実が得られるのは、どちらでしょう?

> 言語に変換されて(あるいは、伝達可能なサムシング)、人々に共有される、ことが前提です。したがって、言語(あるいは伝達可能ななにか)なしに概念というのはありえないでしょうね。

現代では、そうかも知れませんが、古代ギリシアでは、数学は幾何学で代表されますが、そこでは、言語に変換されるというより、図形を描いて直感的に理解したことの方が多かったかも知れません。これも伝達可能ななにかかも知れませんが。

> 特定の人の頭だけにある概念、というのはありでしょうか。個人言語を使って定義し、証明できる。

数学的真実は、一般的には、特定の限られた才能のある人々(数学者など)だけにしか理解できないものではないですか。(私など理解できないことが多すぎたりしますが)

それはともかく、ヨーロッパの数学の歴史の流れからは、ほとんど無関係になんらかの数学的真実を獲得した数学者もたまにはいるようです。日本の関孝和なんかは、そうかも知れません。ただ、西洋数学の影響も示唆されているようですが。

それでは、その関孝和が得た数学的真実(積分ですか)は、発見したのでしょうか、発明したのでしょうか。
ちょっと追加。

> 物理的現象は、現実にそこに存在します。言い方が悪いでしょうか。人間の五感を通して現実に認識できます。

失礼!! 現代の物理学は人間の五感では認識できませんね。あくまでも、日食、月食、岩、風、大雨、霧雨などのような現象のことです。
 数学の「歴史的始まり」は、「数えること」でしょう。
「数」で数える前の段階として、羊の頭数を刻み線や小石と一対一対応させて確認した段階も想定されるようですが、「数で数える」ことから自然数が生まれた。
 自然数は、神が創り給うた、自然に実在する物ではなく、人間が、外界を「量」として捉えて、その量を表すために「発明」した文化的所産である。
「量」と「数」の区別については、How muchで問われる計るものが量、How manyで問われる数えるものが数とする考え方もありますが、私は、「量」の下位分類が、How muchの「連続量」とHow manyの「分離量」であり、「量」を数値表現するものが「数」であるという考え方に立っています。
 つまり、量とは、外界を「大きさ」(多さ、長さ、広さ、重さ、・・・)という観点から捉えた(抽象化した)ものであり、その「大きさ」を比較して、大小の序列を表すために「数」が発明された。
 数えることから、自然数が生まれ、数えることをつなげることから、加法が生まれ、加法の逆演算として減法が生まれ、同じ数を何回も数えることの簡便算として乗法が生まれ、乗法の逆演算として除法が生まれた。
 連続量も単位量1を決めると、数えることができ、単位量1の端を表す数として、分数と小数も「発明」された。
減法からは、負の数も「発明」された。
「0」は、位取り記数法の必要から発明・使用され、やがて、同じ数の減法の答として、また連続量の原点として、一つの独立した数として認められるようになっていった。
 除法からは、合成数、素数という区別も生まれ、素数についての定理も「発見」されていった。
 一方、長さという連続量も、単位量1を決めて数値として表すことができるようになると、測量術が発達し、幾何学も生まれた。
 幾何学は、対象を「三角形」や「正方形」として認識することから始まり、「イデア」(理念的存在)としての「三角形」「正方形」「直線」などを「発明」していく。幾何学のイデア界で、直角三角形における「ピタゴラスの定理」が「発見」され、それは無理数の「発見」にもつながる。

 つまり、人間は、数や図形という数学的対象を、外界から抽象化し理念化して「発明」したが、その後の定理は、数学的対象自体の持つ論理に従って、「発見」していった。
少し頭を整理してみますが。。とりあえず、

5>数学的真実は、物質あるいは現象としてどこかに存在するものではないですね。物理学的、生物学的発見とは、意味が違います。

どこにも存在しない、という意味では、概念、はほとんどそうでしょう。

たとえば、水。H20としての水はどこにも存在しません(混ざりモノがあります)。
人間の(物理を学んだ)頭にしか存在しません。0や1と同じです。

猫、も現実世界には存在しません。cat は、現実に存在せず、存在するのは a cat です。

>物理的現象は、現実にそこに存在します。言い方が悪いでしょうか。人間の五感を通して現実に認識できます。命名していなかったこともあるでしょう。だから最初に知ったのは発見です。発明ではありません。

個々が微妙になりますね。。私の頭の中では。
物理的現象、といっても、人間の感覚で見られた現象、でしかありません。
存在、といっても、心に中に言語とかシンボルとかイメージとか、存在しないと(存在という意味は人間の脳のビットマップとして存在する、という意味です)。
たとえば、虹をみても、日本の大人は7色、というでしょう。米国人は6色、といいます(数えたこともないのに。。)。しかし、ニッポンの生意気な中学生どもは、5万色、というでしょう。

円とか三角形に<近い>図形は太古の昔から人間は知っていたはずです(認識)。しかしこれは、近代以降、数学の教科書で学ぶ、純粋な、概念としての円とか三角形とは違っていたはずですね(概念などなくても生活に困らない)。内角の和が180度、などと知らず、角度、というものも知らず、頂点、内角、外角。。など知らずとも、三角形のようなものをグルーピングはできたとおもいます。

>0や1、数字も同じく、人類の経験なくしては発見されえなかった、ということでは? 普通、0や1、数字は、認識していたかどうかを問いますね。0をインド人が初めて認識したことを、0の発見と一般には言うでしょう。0の発明ではありませんね。では、0の概念はどこにあったのでしょう。どこにもないものを発見したのでしょうか。

わたしは、0の発明、といってもいいと思いますが。0らしきものは頭の中にあったでしょう、それまで。非存在、として。それを、明示的に記号で〜非存在を、存在として、表現する、というところが偉大である!と、私は理解しましたが、これは、発見か、というと、どうなんでしょうか。明確に区別できない気がします。

いま、アルゴリズムが特許になるか、ならぬかという問題が起こっています(というか。。古い話題ですが)。これは特許になったようです。アルゴリズムは発見でしょうか、発明でしょうか。

三角形の内角の和が180度である、という事実を証明するとき、中学で、補助線というのを習います。補助線は、発明でしょうか、発見でしょうか。両方を兼ねていると思いますが。(ついでにいえば、補助線は何百年以上前に、誰かが考えついたのでしょうが、これを習う現代の個々の中学生は、発明ないし発見を行っていると思います。ただ、おれは0を発見した!補助線を発見・発明した、と独力で考えついた日本の子供が、大騒ぎしていると、教師が、きみ、それは、何万年前にインドのエラいひとがすでに発見・発明したんだよ。。なあんだ。。ということになります)
>>007
数学的対象が「発明」され、定理が「発見」される。に同感です。
「発見」された自然法則を利用した技術的思想の創作である「発明」、と順序が逆なのが面白いですね。

しかし、無理数を「発見」とすると、先の見極めにあいませんね。
ピタゴラス教の人たちが、無理数の存在に驚愕して、重要な秘密にしてたそうですが。
「(辺が1,1,√2の三角形のような)ある長さは有理数であらわせない事」を発見し、数学的対象として無理数を発明した。になるのかな。
普遍論争(実在論と唯名論)、フレーゲの分析哲学が関係してきそうですけど…、不勉強ではっきりわかりません。
>9

そか。
 「無理数」は、もともとは、「無比量」と訳す方が正確だったようです。(確か…)
 比(分数)の形で書けない長さ(量)の「発見」、ということで良いのでは、と考えたのでした。で、これを√の形で表すことについては、確かに「発明」でしょうね。
> 8 古井戸さん、こんにちは。

 ずいぶん返答が遅れてしまいましたが、


> 少し頭を整理してみますが。。とりあえず、

>> 数学的真実は、物質あるいは現象としてどこかに存在するものではないですね。物理学的、生物学的発見とは、意味が違います。

> どこにも存在しない、という意味では、概念、はほとんどそうでしょう。

> たとえば、水。H20としての水はどこにも存在しません(混ざりモノがあります)。
人間の(物理を学んだ)頭にしか存在しません。0や1と同じです。

確かに、概念はそうでしょう。ただ、水を電気分解しますと、2H2O -> 2H2 + O2 になりますね。それらは確かに、純粋な水でも水素でも酸素でもありませんが、ぞれに近い物質は存在するわけですね。

では、1 + 0 = 1 の場合、1も 0も存在しませんね。存在するのは、一匹のイヌであったり一匹のネコであったり、一個のりんごであったりするわけで、微妙に違いますよね。

> 猫、も現実世界には存在しません。cat は、現実に存在せず、存在するのは a cat です。

意図するところが少しわかりにくいのですが、現実を言葉で表現しようとしますとカテゴリーに切り分けなければならなくなります。言葉の世界では、それは、言語や文化によって大きくことなることもありますし、極端な場合、個人によっても異なることもあるでしょう。

ただ、その人が猫(あるいは cat)というカテゴリーに分類したものに対応する現実(のもの)は存在すると思いますが…。(aが付くかどうかというのは、その言語内での話でしょう)

> 物理的現象は、現実にそこに存在します。言い方が悪いでしょうか。人間の五感を通して現実に認識できます。命名していなかったこともあるでしょう。だから最初に知ったのは発見です。発明ではありません。

>> 個々が微妙になりますね。。私の頭の中では。
物理的現象、といっても、人間の感覚で見られた現象、でしかありません。
存在、といっても、心に中に言語とかシンボルとかイメージとか、存在しないと(存在という意味は人間の脳のビットマップとして存在する、という意味です)。

うーん、そういう考えもありますね。あれですか、いわゆる「物自体(Ding an sich)」を認めないということですか。そうなるとプラトン主義的な「イデア」はどう説明されるのですか。そもそも存在しない?

> たとえば、虹をみても、日本の大人は7色、というでしょう。米国人は6色、といいます(数えたこともないのに。。)。しかし、ニッポンの生意気な中学生どもは、5万色、というでしょう。

これは、認識の違いですね。日本人が7色だというもの、アメリカ人が6色と言うものは存在する(認識されている)わけですから。

> 円とか三角形に<近い>図形は太古の昔から人間は知っていたはずです(認識)。しかしこれは、近代以降、数学の教科書で学ぶ、純粋な、概念としての円とか三角形とは違っていたはずですね(概念などなくても生活に困らない)。内角の和が180度、などと知らず、角度、というものも知らず、頂点、内角、外角。。など知らずとも、三角形のようなものをグルーピングはできたとおもいます。

そうです。円とか三角形に〈近い〉図形は太古の昔から人間は知っていたはずです。認識され、先に述べたようにカテゴリー化されたものです。これは、数学的な意味での円でも三角形でもありません。数学は、そのカテゴリー化された言語をさらに厳密に定義付けすることで、言語の持つ曖昧さをできるだけなくそうとします。いわゆる専門用語が難解なのはそのためです。日常の言葉でやさしく言い替えますと、厳密な意味での学問ではなくなります。

つまり、グルーピングと言われていますが、それが言語の持つ重要な機能、カテゴリー化です。しかし、繰り返しますが、数学(学問)で使われる言葉は違います。

== 続く ==
== 続きです ==

>> 0や1、数字も同じく、人類の経験なくしては発見されえなかった、ということでは?普通、0や1、数字は、認識していたかどうかを問いますね。0をインド人が初めて認識したことを、0の発見と一般には言うでしょう。0の発明ではありませんね。では、0の概念はどこにあったのでしょう。どこにもないものを発見したのでしょうか。

> わたしは、0の発明、といってもいいと思いますが。0らしきものは頭の中にあったでしょう、それまで。非存在、として。それを、明示的に記号で〜非存在を、存在として、表現する、というところが偉大である!と、私は理解しましたが、これは、発見か、というと、どうなんでしょうか。明確に区別できない気がします。

0という概念はなかったと思います。「零の歴史」にも書いてありますが、バビロニアの時代には、数が存在しないことを示す記号はあったそうですが、それは0を発見したとはみなされていませんね。位取り記数法で、その桁に数字がないことを示すだけの記号でしたから。インド人は、零を数字として扱ったということですが、それが、単なる存在しないことを表す記号ではないことは明らかですよね。だから0はインド人が発見した。

> いま、アルゴリズムが特許になるか、ならぬかという問題が起こっています(というか。。古い話題ですが)。これは特許になったようです。アルゴリズムは発見でしょうか、発明でしょうか。

特許になるかならないかは、このトピックのテーマではないので、深入りしませんが(あまり考えたことはないもので)、アルゴリズムというのは計算法のことですよね。プラトン主義的に言えば、アルゴリズムが発見なら、アルゴリズムはどこに存在するのでしょうか。数式は存在するかも知れませんが、そのリアリティ(数式が表象する実体)ともいうべきものです。

プラトン(主義者)は、それが「イデア界」に現実(リアリティ)として存在すると考えたわけです。つまり、発見と考える人は、プラトン的なものを想定していると考えられるわけですが、その Still debating with Plato - Where do mathematical objects live? という記事の中に面白いことが載っていますので、書いておきますね。

== 引用はじめ ==

「事実、ロンドンのキングズ・カレッジの数学者Brian Daviesは、プラトン主義は、「現代の科学より神秘的宗教とに多くの共通点を持っている」と書いている。また、現代科学は、プラトン主義的な観点は単なる単純な間違いに過ぎないことを示す証拠を提供していると彼は信じている。それでその論文のタイトルを「プラトン主義に死を」と彼は名付けた。

もし、数学がこの純粋なイデアの王国を認知することであるのなら、数学をすることは、私たちの脳になんらかの仕方で物理的世界を超えたところに到達することを要求する。Daviesは、脳の画像化(brain-imaging)研究は、この信仰を次第に本当らしいものではなくしている。彼は指摘している。私たちの脳は、視覚の様々な多くの局面を記憶や先入観と統合し、- 錯覚が明らかにするように、常に正しく創造するとは限らないが、単一のイメージを創造する。彼は、また、脳の画像化(イメージング)研究は、私たちの数の感覚の生物的基礎を示し始めているとも言う。

しかし、ニューメキシコ大学の Reuben Hershは、こうした研究が数学を理解する上での直感的能力であるプラトン的概念を論理的に破壊するとは確信していない。にもかかわらず、彼はプラトンの観点を拒絶する。代わりに、数学は人間の文化の産物であり、根本的に音楽や法律やお金のような他の人間が創った創造物と異ならないと主張して。」

== 引用終わり ==


> 三角形の内角の和が180度である、という事実を証明するとき、中学で、補助線というのを習います。補助線は、発明でしょうか、発見でしょうか。両方を兼ねていると思いますが。

プラトン(主義)的に言いますと、補助線は数学的真実にはならないでしょうね。なくても証明される真実(定理)は変わらないでしょうから。一つの解法ということになるでしょう。つまり、イデア界にあるというよりは、イデア界に至る途上にあるということで、発明にされるのではないでしょうか。
>代わりに、数学は人間の文化の産物であり、根本的に音楽や法律やお金のような他の人間が創った創造物と異ならないと主張して。。

私もこれに共感しますが、プラトン主義、というのも人間の経験から出たモノだとおもっています。だから、最終的に等価です。 人間が複数(歴史をまたがって)いれば、共有観念がある、と思いたくなるのも当然です。これがある共同体内で通用する言語というものでしょう。たとえ、宇宙に一人しか人間(生物)がいなくても、言語はそれなりに便利ですが。

補助線は。。ちょっと、どうでもよかったですね。。

プラトンのイデア、を想定しないと言語は存立しませんか?
たとえば、lion とか cat とか tree などというものは現実に存在しません。生物学の定義集に書いてあるだけでそれから、具体的な眼前の猫や、動物園にいるライオンとは別です。別というか。。定義からはみ出るモノをたくさん付加されています。これを a cat とか the cat で表しました(英語の文法ですが。。)。 a と the は 観念から現実への<転換子>です。

たとえば、太平洋の誰も知らぬ絶海の孤島で数十人が別個の歴史を歩み、サイエンスを体系立てていたり、あるいは、宇宙の彼方である生物が学問体系を起こしていた場合、いまわれわれがもっている数学や物理と同一な部分、異なる部分があるとおもいます。分子、原子、素粒子(超ヒモ)などは 宇宙人も保有するかも知れませんが、数学の大系はかなり異なるのではないでしょうか。。地球上の数学と、等価かもしれませんが。

 あるいは、ビッグバン以後の地球の歴史から、人間を抹消しましょう。そうしたとき、やはり、プラトン的なイデアは存在しますか?

。。ところで、Roger Penrose の The road to reality をどなたか読まれたでしょうか。。第一章、The roots of science と、最終章 Where lies the road to reality に、面白そうな図が掲載されていますので、掲載しておきます(拡大してみてください)。 

Mental world, Physical world、Platonic/mathematical world の相互関係をあらわしているようです。Penrose にとって、platonic=mathematical なのでしょうか。

私はパラパラと眺めただけで。。解説はイマできませんが。今週末読んでみます(理解できるかどうかはわかりませんが)。この本の和訳はあるのでしょうか。
> 14 古井戸さん、こんにちは。

> プラトンのイデア、を想定しないと言語は存立しませんか?

ここは、数学史の話ですので、言語論は別にしましょう。

プラトン(主義者)のイデア論は、西洋の哲学・数学では重要なものですので、西洋の数学史では、それを抜きに考えることはできないでしょう。これは歴史的にそうだということです。

ギリシアで「論証数学」が生まれます。プラトンが学問の基礎としたのは、その論証数学でした。そこから彼のイデア論が生まれてくるわけです。

> あるいは、ビッグバン以後の地球の歴史から、人間を抹消しましょう。そうしたとき、やはり、プラトン的なイデアは存在しますか?

人間の存在(意識)抜きに存在するものを、「イデア」とか「物自体」と呼んでいるのですよ。だから、プラトン(主義者)は、「数学をすることは、私たちの脳になんらかの仕方で物理的世界を超えたところに到達することを要求する。」という表現になるのです。

物理学と違うところは、物理学では、どんなに論理的に整合性があってもそれが真実だとは認められないですね。何かの観測機器でその理論が正しいことが実験で確かめられなければなりません。一方、数学では、論理的整合性があれば、それで真実と認められます。

つまり数学的真実は、その論理的な整合性なんですね。なにかがどこかにあるわけではない。実験では確かめられない。というより確かめるべきものではない。それなのに、なぜ数学的真実は「発見」されるのかというと、プラトン(主義)的なイデアの世界が存在すると歴史的に信じられてきたからです。イデアの世界(キリスト教思想世界では神といってもいいかも知れませんが)を極めようとする中で数学も発達してきたという経緯があるからです。

じゃあ、日本の数学(和算)は? というと、そうしたイデア論の呪縛はありませんね。公理的論証数学とか、学問の基礎だとかいうものではなく、生け花や茶道に近い文化だったのかもしれません。皆さん、どうですか?

Where do mathematical objects live?の記事の中で、私が一番興味を抱いたのは、脳のイメージング(brain-imaging)研究というものです。どんなものなんでしょう。もう少し詳しく知りたいですね。(誰か教えて!)

では。
>それなのに、なぜ数学的真実は「発見」されるのかというと、プラトン(主義)的なイデアの世界が存在すると歴史的。。

数学的真実、ならば、和算にもあるでしょう?
呼称としてイデア、と呼ぶかどうかです。

その範囲では異議はありません。発見か発明か、という問いかたが捻れているのであって、 数学的真実は、経験を越えたものであるかどうか、と問うならば、越えたものでしょうね。 雨は、明日、下から降る(舞い上がる)可能性を否定できないが、0とか1やその計算法は、経験に依存しない、ということです。

で、私の言いたかったのは、そのイデアの枠組みは、人間の作り物である、ということです。が、これは、このスレッドの問題の範囲外のことですね。
> 16 古井戸さん、

こんにちは。

> で、私の言いたかったのは、そのイデアの枠組みは、人間の作り物である、ということです。が、これは、このスレッドの問題の範囲外のことですね。

いいえ、ここだけ取り上げれば、数学的真実は発明ですという明確な反プラトン主義的主張ですよ。ただ、いささか根拠が私にはわかりにくいのですが…。
数学史コミュの皆さん、こんにちは。

少し思うところがあって、

Where do mathematical objects live?
http://www.sciencenews.org/view/generic/id/31392/title/Still_debating_with_Plato

訳してみますね。(内容についての意見ありましたら、いつでもどうぞ)


数学は「発見」?それとも「発明」?
http://slashdot.jp/science/article.pl?sid=08/05/01/0229243

「数学の対象はどこにあるのか?

「それについて突き詰めて考えると、数学は非常に奇妙な学問であるように思い始める。例えば、新たな数学的真実は、発見されるのかそれとも発明されるのか? 十分単純な問いのように思えるが、何千年もの間、数学者や哲学者たちに議論のネタを提供してきた。

「発見だと主張する人々は、数学的な命題は個人的な信仰信念にかかわらず真か偽であり、それは外部世界になんらかのリアリティを持っているのだと言う。しかし、これはある奇妙な概念に導かれる。これらの数学的真実は、一体どこに存在するのか? 数学の真実は、誰かがそれを思い付く以前に本当に存在しえるのか?

「一方、数学は発明されるのなら、なぜ数学者は合法的に 2 + 2 = 5ということを発明できないのか?

「多くの数学者たちは、このような煩わしい問題は無視して、定理の証明といったより楽な仕事に戻っていく。しかし、それでも、その問いは幾度となく繰り返し頭をもたげ続け、折を見ては人々の関心を引く。6月のヨーロッパ数学学会会報では、数学は発明されるのか発見されるのかの問いを数人の数学者がじっくり考えることになっている。


==コメント==
外部世界になんらかのリアリティを持っているので「発見」というわけです。頭の中で考えただけのものであれば「発明」です。(外部の世界も人間の意識があって初めて存在する、つまり外部の世界も人間の意識内のことにすぎないという考え(思想)もあるのですが、それを持ち出されますと、ここでの議論そのものが成り立たなくなる可能性があります)

つまり「発見」するためには、外部の世界に何かものがなければなりません。

これまでの議論の中で、数学的真実というのは、物理学などとは違って、外部の世界に観測なり実験なりで確かめられる対象ではないという議論をしてきました。いわゆる純粋な論理の世界です。論理は外部の現実世界で目に見ることはできませんし、耳で聞くこともできません。記号を使って目に見えるようにすることはできますが。つまり、数学的真実というのは、外部世界になんらリアリティを持たないのではないか、頭の中で考えた(作りあげた)だけのものではないのか、という疑問が生じます。(ここでも、言語が現実を切り取るということに、それは人間が認識しているだけで、切り取った言語に対応する現実は存在するかどうか分からない(存在しない)という議論もありえるのですが、それでは目に見え耳に聞こえている現実世界が意識内の出来事に過ぎない(外部世界ではない)ことになって、ここでの議論が成立しなくなる可能性がありますので、考えないことにします)

これに対しては、プラトン(主義)的イデアの世界として数学的真実は外部世界にリアリティとして存在するという議論があることは、もう既に述べてきました。このプラトン的イデア世界というのは、宇宙が存在する以前、人類が誕生する以前、人類が認識する以前から存在するもので、数学的真実はそこに厳然と存在し、歴史の中で啓示の如く人類は数学的真実を得る(発見する)のだという考えです。
==コメント終わり==

==続く==
発明か、発見か、のニュアンスは日本語だけなのかも知れないが、
すくなくとも、ペンローズが、Platonic mathematical world という言い方をしているということは、イデア〜数学、と考えていることはアキラかです。
それはそれでかまわないとおもいます。

ある時期、教科書に間違ったことが書いてあるかも知れないが、それは人間のエラーであって、<本来>数学とは、不変=普遍的に妥当なものをあつかうのである!現実に円はなくても、理想的な円はあるのだ、現実にいる猫は純粋な猫じゃないが、理想として猫の原型はあるのだ!。。こういう思考はあってヨイです。

では、いつからいつまでその愛である、もとい、アイデアル思考が有効なのでしょうか? 人間の発生の有無とは関係なく? つまり、ビッグバンの昔から?

わたしは、人間の発生以後だとおもっています。あるいは、祖、祖、ソクラテスとプラトン・アリストテレス以後。

。。。つまり、人間の作り物だとおもっています。人間以前にも、イデア、はあった。という思考ににプラクチカルな意味がないから(わたしはプラグマチストです)。
さらに、
人間の発生以前に数学はあった、いや、なかった、ということに反論できない以上(つまり、ポッパー流の反証可能性がない以上)意味のあると問いとはおもいません。
> しろがね さん
> こうちゃん さん
> 亜由子 さん
> 古井戸 さん
> maoyam さん

皆さん、御意見、コメントありがとうございます。

私が、興味を抱いたのは、しろがねさんの

> 存在するけれど求められない、ここが私が数学にひきつけられた要因でもあります

とか、

maoyam さんのリンク先:ゲーデルを超えて オメガ数が示す数学の限界

にあった、

「ゲーデルは,数学が不完全であり,きちんと証明できないにもかかわらず正しい記述を含んでいることを示した。ところが「オメガ」という特別な数は,数学にさらに大きな不完全性が存在することを明らかにした。有限個の公理をいかに組み合わせても証明できない定理が,無数にあるのだ。したがって数学の「万物理論」はありえない。」

です。

なんとなくカントの「物自体」(存在するが人間には認識できない)を思い浮かべてしまうのですが、どうでしょう。この感覚正しいのでしょうか…。

> 亜由子 さん
> 紀元前450年にヒトザルが立って猿人になった。

これは、どこから出てきているのですか。

数の認識については、

一進法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E9%80%B2%E6%B3%95

なんか考えてみると面白いと思ったりします。最も原始的な数の認識ではないのかなと思ったりします。

一方、犬とか猫とかは、単数か複数かの区別はついているようだなどという話をどこかで読んだことがありますが、数の認識までにはたどり着いていないでしょうね、多分。

> 古井戸 さん
> わたしは、人間の発生以後だとおもっています。

現代哲学では、プラトンのイデア論とかカントの「物自体」といった考えは主流でないようですが、古典的思想としては根強い考え方ではありますね。
さて、訳の続きです。

「プラトンは、発見であると信じる者たちの旗手である。プラトンの概念は、数学は宇宙のあらゆる構造物の下に横たわる揺らぐことのない基盤である。数学の内なる論理に従うことで、数学者は人間の観察からは独立した、一時的な性質の物理学的現実(現象)にとらわれない永遠の真実を発見する。「数学者が仕事をする抽象的王国は、数学者たちにとっては、その詳細な知識に長く慣れ親しんでいるがために、たまたまその上に座る椅子より具体的なものである」と、自らプラトン主義者を自認するスウェーデンの Chalmers技術大学の Ulf Perssonは語る。

「プラトンの考え方は、数学を考えているとき経験する状況によく合致すると、自らをプラトン主義者であるとまでは言わないが、ハーバード大学の数学者 Barry Mazurは語る。定理と取り組んでいるときの感覚が、「数学の概念の狩猟採集者」であるような感覚であると、彼は言う。

「しかし、その狩猟場はどこにあるのか? もし数学的イデアがそこにあって、発見されるのを待っているというのなら、人類がそれまで心に描いたことが一度もなくても、とにかく純粋に抽象的概念が存在しなければならない。このため、Mazurは、プラトンの観点を「成熟した有神論の立場」であると考えている。それは、伝統的な意味でのどんな神をも要求するのではなく、「純粋なイデアの、純粋な存在の構造体」を要求すると彼は言う。そうした立場を擁護することは、「理性の武器貯蔵庫を放棄し預言者たちの資源に依存する」ことを要求する。

「事実、ロンドンのキングズ・カレッジの数学者Brian Daviesは、プラトン主義は、「現代の科学より神秘的宗教とに多くの共通点を持っている」と書いている。また、現代科学は、プラトン主義的な観点は単に単純な間違いに過ぎないことを示す証拠を提供していると彼は信じている。その論文のタイトルを「プラトン主義に死を」と彼は付けている。

「もし、数学がこの純粋なイデアの王国を認知することであるのなら、数学をすることは、私たちの脳になんらかの仕方で物理的世界を超えたところに到達することを要求する。Daviesは、脳の画像化(イメージング)(brain-imaging)研究は、この信仰を次第に本当らしいものではなくしていると、彼は指摘している。私たちの脳は、視覚の様々な多くの局面を記憶や先入観と統合し - 錯覚が明らかにするように常に正しく創造するとは限らないが - 単一のイメージを創造する。彼は、また、脳のイメージング研究は、私たちの数の感覚の生物的基盤を示し始めているとも言う。

「しかし、ニューメキシコ大学の Reuben Hershは、こうした研究が数学を理解する直感的能力のプラトン的概念を論理的に打破するとは確信していない。にもかかわらず、彼はプラトンの観点を拒絶する。代わりに、数学は人間の文化の産物であり、根本的に音楽や法律やお金のような他の人間が創った創造物と異ならないと主張して。


今回はコメントなしで、よろしく。
さて、最後までいきます。


「課題は、数学的命題が、好みや一時の気まぐれに影響されることなく、決定的に真か偽でありうるのは何故なのか説明することだと、彼は認めている。「2 + 2 = 4」のような単純な命題では、これは、数学と物理学との関係のためだと彼は言う。例えば、そのような命題は、コインやボタンの振る舞い方を叙述する。さらに物理学的世界から切り離されたより抽象的な命題のためには、彼は、私たちの脳の構造や論理への思考傾向を指摘する。

「しかし、Mazurは、その説明では満足できないと思っている。「私たちは、目立たない存在だが「私たちの(our)」という言葉に目を凝らさなければならない」と彼は書いている。「「私たち(we)」は、個別に存在し恐らく一人一人異なりしばしば欠陥のある能力しか与えられていない私たちの一人一人であり、私たちみんなであるという意味でなければならないのか? 」 この場合、個々人が皆違うように、数学自体が様々に異なっていなければならない。

「一方、もし「私たち」が、私たち個々人の才能の一種の抽象概念 - 実際に私たちの誰でもなく、私たちを結び付けている共通のもの - であるのなら、私たちは、抽象的なイデアの王国というプラトンの概念と隣合わせのところにいると彼は言う。

「しかし、発明という概念も、また、彼の見方では、数学をする経験の中で真実と捉えられる。「ときどき」と彼は言う。「私は、数学をしている間に、私の思考過程や他の人々の思考過程を分析をしているように思えるときがある。」こうした経験のあらゆる局面が、こうした議論には含まれなければならないと、彼は議論する。

「一つのことだけは、議論の余地はない - と私は信じる」と彼は書いている。「もしあなたが十分長い間数学と取り組んでいるのなら、いつかその問いとばったり出会うだろう。そして、その問いは、なかなか立ち去ろうとしないだろう。もし、私たちが、数学を考えることは非常に素晴らしいことだと熱烈に感じた経験に敬意を払いたいのなら、私たちは、その問いに注意を払った方がよい。」
>26 公平な感覚でいえば、「数学をするとは発見するということ」が、しっくりきます。

さいきん 、小平博士の授業のビデオを科学博物館でみました。
博士は発見というニュアンスではなしていました。
数学を xx(発見、発明)というのはおおざっぱすぎませんか。

数体系を発見、といえるでしょうか?
ゼロ、を発見、と、(厳密に)いえるでしょうか?
虚数、を発見、といえるか?

数(も、ましてやゼロ)も発明だと、おもいます。自然に長さはある(量)はある、というのはタシカらしいが、数、が存在する、というのはどうでしょうか?
思考の産物、とおもいます。産物、すなわち、作った物。則ち、発明。

数学に限らず、学問や概念、は発見、なのか、発明なのか、ということです。
数学は、概念の一分野ですね。

アル分野の学問は、世界を解釈するための道具であり、発明だとわたしはおもうが、その分野を固定したうえで、個別の手法を編み出すのは、発見、といってもいいとおもいますが。。意味は発明と同じです。

たとえば、将棋(人間が編み出したアソビ)の世界で 振り飛車戦法は、発明なのか発見なのか? どっちともいえます。しかし、将棋は発明か、発見か?といわれると。。 発明でしょうね(発見、と言いくるめるキスマークこともできますが)

虚数も発見、といいくるめることもできますが。。発明でしょう。レンチ
物理の世界では?

「ビッグバン」や「ダークマター」は発見でしょうね。
”0”や”零”、”ー:マイナス”や”I”の記号は発明でしょう。しかし概念は発見と思います。
物理、と、数学は、対照的ですね。
物理は、観測と一致しないと意味を成しません。
 中間子、は、発見であり発明とは言いにくいですね。
ユカワ、がいなくても、存在する。。のだろうから。

数学は、将棋や囲碁、おおなじで、一種のゲームです。
ある、ルール(定義、公理。。)を決めておき、そのなかで、何が可能か、
を探る。 現実世界(物理世界)と一致してもソレは偶然。

概念(空間、数、量)は、カントに言わせると人間以前にあった枠組み、ということになるが、それは一種のストーリ=作り事、ですね。言語、とおなじで、人間とともに発生した、といってもよい。

量や空間の認識は、言語を持たないから記述はできないとはいえ、動物も当然もっています。言語=抽象化手段、を獲得して以後、一種のアソビとして数学、が発展した。 言語(最初は音声のみだが、手が自由に使える人間は文字は約束されていた。つまり、記号操作ができる)と数学の歴史は同じだとおもいます。
>数学は、将棋や囲碁、おおなじで、一種のゲームです。

囲碁や将棋の新手・新定石/定跡は発見であり、発明とはいいません。詰問題は著作物ですが


>概念(空間、数、量)は、カントに言わせると人間以前にあった枠組み、ということになるが、それは一種のストーリ=作り事、ですね。

このあたりのことは、哲学者フレーゲルが考察しています。
>囲碁や将棋の新手・新定石/定跡は発見であり、発明とはいいません。

物の見方の差、ですね。

漱石『夢十夜』に運慶のハナシがあります。運慶の彫刻は彼が作ったのではなく、像は、元もと、木の中に埋まっていた、それを掘り出すのだ、と。

>漱石『夢十夜』に運慶のハナシがあります。

漱石の主観であり客観的記述とはいえないのでしょう、確かめることが困難。
.>主観でない個々人の物の見方って何でしょう。

客観となんでしょう。
” 1+1=2 ”という発言は客観性があるといえるのではないでしょうか?
>ダメット的な反実在論を取るか、プラトニズムを採るか
wikipediaで検索してみましたが、なかなか難しい論議ですね

>像は、元もと、木の中に埋まっていた
第3者が検証することはできそうにもありません。たとえ話なら納得できますが。

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