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NHK大河ドラマ紀行「光る君へ」コミュの【龍馬伝】京都府

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【龍馬伝】にまつわる京都府の史跡写真館です。

コメント(22)

本間精一郎遭難の地(京都市中京区)。

本間精一郎は、新潟県寺泊に生まれた。京に上り尊王攘夷運動に身を投じるが、寺田屋事件で挫折し、やがて酒色に溺れていく。そのころから公家に接近して薩摩藩の悪口を吹聴するようになり、勤王派から佐幕派に変節したと噂された。
1862年、先斗町で遊んだ帰りに薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵らに斬殺された。
坂本龍馬・お龍結婚式場跡(金蔵寺跡)(京都市東山区)。

海援隊士安岡金馬の子秀峰が、お龍から聞いた話をまとめた「反魂香」によると、お龍の父楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師だった縁で、二人は青蓮院塔頭金蔵寺で1864年、内祝言を挙げたという。
横井小楠殉節地(京都市中京区)。

熊本に生まれる。諱は時存。
私塾「四時軒」で教えていたが、1864年坂本龍馬が訪ねてきたとき、小楠はのちの「船中八策」の原案となる「国是七条」を説いたという。
松平春嶽の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕政改革に関わった。小楠は鎖国と幕藩体制を批判し、統一国家の必要性を説いた。
明治新政府の参与となった彼は1868年、御所参内の帰途に十津川郷士らによって暗殺された。その理由は「横井は開国を進め日本をキリスト教化しようとしている」というものだった。
木戸孝允別邸(木戸孝允最期の地)(京都市中京区)。

元は近衛家の別邸。西南戦争中、天皇の関西巡幸に随行した木戸孝允は、1877年京都で倒れた。危篤に陥った木戸孝允を、明治天皇が見舞いにこの地を訪れている。木戸は最後に大久保利通の手を握り締め「西郷もいいかげんにしないか」と言って亡くなった。
現在は職員会館かもがわの敷地内に移築され、跡地はホテル石長となっている。
京都霊山護国神社にある坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓です。

http://www.gokoku.or.jp/

明治維新に尽くした長州藩の志士達のお墓が立ち並んでいます。
有名な桂小五郎(木戸孝允)の石碑もありました。
急な坂を登ってお墓まで行くのは結構しんどいですがお墓から眺める京都の町並みは最高なロケーションです。
龍馬ファンの方でしたら一度は訪れるべき処ではないでしょうか。
写真の鳥居が曲がっているのは、坂になっている為です。
左が龍馬で右が中岡ですが、お墓の周りには大河ドラマの影響でたくさんの観光客が訪れ石板みたいな物にメッセージを残してありました。
歴女が何人か訪れていましたが、私も歴女だと思われたのかもしれませんw
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地(近江屋跡)(京都市中京区)。

近江屋は、石碑が立っている地の南隣で醤油屋を営んでいた。1927年に石碑を建立する際、土地所有者の同意を得られなかったため北隣に立てられた。
当時の河原町通りは今よりずっと狭く、東側歩道が当時の道幅だったようだ。坂本らは近江屋の奥に潜んでいたため、現在石碑が立っている西側歩道辺りの、南隣がちょうど彼らの最期の地に該当する。
坂本龍馬避難の材木小屋跡(京都市伏見区)。

寺田屋で伏見奉行所役人に襲われた坂本龍馬は、右手に重傷を負いつつ脱出した。三吉慎蔵は龍馬を大手橋そばの材木小屋に隠し、薩摩藩邸へ助けを呼んだ。
石碑は橋の西詰・北側に建てられているが、実際の小屋は東詰の南側にあったという。
薩土討幕之密約紀念碑(近安楼跡)(京都市東山区)

1867年5月18日、土佐藩の乾(板垣)退助・福岡孝弟・中岡慎太郎と広島藩の船越洋之助が、武力討幕について料亭近安楼で会談したことを記念している。その3日後には、薩長同盟が締結された同じ小松帯刀寓居で「薩土討幕の密約」が締結されている。
乾は土佐に戻り出兵に備えるが、同じころ坂本龍馬らが推進する大政奉還論に基づく「薩土同盟」が、後藤象二郎によって締結された。乾らは大政奉還に反対したが、山内容堂に解任されてしまう。
西郷隆盛は12月28日、土佐藩に対し「薩土討幕の密約」に基づく出兵を要請。容堂は「薩長と会桑との私闘であり参加してはならない」と厳命したが、土佐藩は翌年1月4日伏見の戦いに参戦した。これにより土佐藩は、明治新政府で薩長肥とともに主要な一角を占めることができた。
吉田屋跡(薩土盟約締結の地)(京都市上京区)

吉田屋は勤皇の志士たちの密会の場として使用され、薩土盟約はここで1867年6月22日に締結された。幕府と薩摩藩の対立が深刻化する中、土佐藩が大政奉還・王政復古により平和裏に公議政体へ移行すべく提起した連携案に、薩摩藩が同調した。薩摩藩が盟約に反し挙兵することになったため、9月9日に解消された。
吉田屋は後に清輝楼と名を改め、1900年に設立された京都法政学校(後の立命館大学)が、この地を仮校舎と定め授業を行っている。
清輝楼は1997年に閉店し、現在は駐車場に「立命館草創の地」記念碑が建てられている。
池田屋事件もうひとつの舞台地(京都市東山区)

この地に河原屋五兵衛の隠居所があり、土佐藩士が寄宿していた。池田屋事件の当日、ここも襲撃され、坂本龍馬は不在で事無きを得たが、北添佶摩は討ち死にした。
武市瑞山先生寓居跡(京都市中京区)

武市瑞山は土佐藩郷士で、尊王攘夷を志し土佐勤王党を結成した。藩の主流であった公武合体派を退け、藩論を尊王攘夷に導いた。
1862年山内容堂に従い上洛し、この地にあった料亭「丹虎」に暮らし、応接役として諸藩の藩士と交わった。翌年京都留守居役となるが、八月十八日の政変以降は尊王攘夷派は弾圧され、土佐で投獄され後に切腹を命じられた。
久坂玄瑞・吉田稔麿・寺島忠三郎等ゆかりの地(法雲寺)(京都市中京区)
吉田稔麿所縁塩屋兵助宅跡伝承地(京都市中京区)
此南池田屋事件望月亀弥太終焉伝承地(京都市中京区)

1862年長井雅楽殺害に失敗した久坂は自首し、寺島忠三郎・野村和作(靖)・堀真五郎・福原乙之進とともに法雲寺で謹慎した。吉田栄太郎(稔麿)も、同年自首し謹慎した。
なお稔麿が懇意にしていた塩屋兵助方も、至近の二条寺町東入ルにあったという。
望月亀弥太は池田屋事件で深手を負い、この地の南にあった角倉与一邸まで逃れたが、力尽き切腹した。
酢屋・坂本龍馬寓居之趾(京都市中京区)

酢屋は1721年この地に創業した材木商で、屋号・所在地ともに変わらず、今も子孫が材木商を営んでいる。
坂本龍馬は、酢屋の2階に海援隊京都本部を置き、2階の表通りに面した部屋を使っていた。2階は現在、龍馬と酢屋の歴史を紹介する「ギャラリー龍馬」、1階は木工芸品の制作・販売を行う「創作木工芸酢屋」となっている。

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