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お城めぐりしよう!コミュのお城に行ってきました【13】

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トピ12が、間もなく1000件を超えるので、新しくトピ13を立ち上げました*\(^o^)/*
トピ12が、1000件を超えてからお使いください。

本トピの趣旨、書き込み方法については以下の通りです。

尚、「ご報告、ご感想や現地情報の交換などのやり取り」を超える個別のやり取りは、過度にならない方が良いのかなぁと思いますが。

---------------------------------------------------------------------
こちらは皆様がお城に行ったご報告、ご感想や現地情報の交換などのやり取りをして頂く場所です。
何処の城の報告・感想など、きれい、大きい、大変だったなど気軽にお城の感想を書き込んで下さい。

形式にはこだわりませんが、書き込みの際には『お城の日』フォームをつかうと、どこにある何という城かわかりやすいとは思いますので、下記フォームを例として挙げておきます。

【県名】○○県
【城名】××城
【感想】・・・・・・・・・・・

---------------------------------------------------------------------

それでは、これまで同様どしどし書き込み頂きますよう、よろしくお願い申し上げます!

【参考】

お城に行ってきました【12】
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=90297211

お城に行ってきました【11】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=86669675

お城に行ってきました【10】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=82699860

お城に行ってきました【9'】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=80449723

お城に行ってきました【8】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=78483046

お城に行ってきました【7】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=77535093

お城に行ってきました【6】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=76558188

お城に行ってきました【5】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=74650988

お城に行ってきました【4】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=69408322

お城に行ってきました【3】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=62214944

お城に行ってきました【2】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=53707419

お城に行ってきました【1】
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=46321392

コメント(1000)

若狭 若王子山城 ピーク山城(50m/30m)
福井県小浜市北塩屋 

駐車は道の反対側のゲートボール場のPが使えます。
若狭守護一色氏の山城(詰城?)

写真 主郭辺り、尾根連郭の残骸、 出る見たいです(登り口)
若狭 沼田氏城 尾根先端ピーク城(212m/130m) <熊川城出城>
福井県三方上中郡若狭町新道

ほぼ単郭で後方三段堀切、前方三段腰曲輪
当日、雨に降られて一城目をココに、ココは林道を使って徒歩ですが上がれます。
帰りは北西の尾根を通って下山
労力的には元来た林道と同じで危険度考えたら林道をおススメ致します。
一城目から得体の知れない有るか無いか解らない山で
葉の濡れた藪を進むのは嫌だったものですから急遽草木が乾くまでこちらを登城しました。

写真 全景と降りて来た所、林道風景、後方の二段堀切
長野県小諸城址懐古園にて

島崎藤村像、藤村記念館です
湯築城跡に行ってきました。土塁を切削して断面構造を見学できるようにしてあったり、武家屋敷が復元してあったり。今度ゆっくり見てみたい
松山城に行ってきました
山上の塁線上に建ち並ぶ櫓群が難攻不落の要塞感あっていいですね
高知城に行ってきました
時間が無くて中まで行けなかった。涙
山城 上植野城 平城 <遺構はありません>
京都府向日市上植野町北小路

城主は足利将軍家直属家臣団の1つ横大路(被官)衆の城館と考えられている。
約60m四方の国衆城館跡
桓武天皇の都「長岡京」三条朱雀近くに当たる地元には、坂上田村麻呂将軍の居城跡という伝承があります。

某アプリサイトに横大路城、菱川城と共に新規に登録されたので再訪問しました。
この辺りって遺構が何も無いお城の団子状態なので暇な時に、また回りますけど
今回は他に男山城、鳩ヶ峰城(仮)、久貝城、富ノ森城も回っていますので後日UP致します。
山城 菱川城 平城<遺構はありません>
京都府京都市伏見区羽束師菱川町

この一帯は室町時代、足利将軍直轄軍の役割を担った「西岡被官衆」がそれぞれ居館を構えた地ですから、この菱川城も恐らくは、西岡被官衆の関係者が居館を構えたものの跡ではないかと考えられています。
地形も完全な平城ではありますが、水路の多い一帯で、かつ東側には桂川があるため軍事的な目的のみならず、その桂川の交通の抑えの役目も担っていたのかもしれません。
本郷の観音寺境内が西南隅に位置し、ここを起点に約100m四方の方形居館形式の城と推定される。城の遺構は何も残っていないが、寺の境内西側の用水路は堀の跡と考えられます。
岐阜県
 岐阜城城

約20年振りに登城して来ました。
眼下に観える景色は、今も昔も一緒
斎藤道三も観たexclamation か わーい(嬉しい顔)
岐阜県大垣市
大垣城

初めて裏手から入ったので、商店街の途中から急に現れた立派な門にビックリしましたΣ(゚Д゚)exclamation雨に濡れた石垣や櫓門もカッコ良かったです城ぴかぴか(新しい)ちゃんと正面に回って戸田氏鉄甲にも挨拶しました電球
山城 横大路城 平城 <遺構はありません>
京都府京都市伏見区横大路柿ノ本町

築城年代や築城者については定かではないが、室町時代に細川京兆家の被官であった横大路衆の城であったと考えられている。
桂川に面した水上交通の要衝に築かれていた横大路衆のお城。
足利将軍家直属家臣団の1つ横大路(被官)衆の城館と考えられている。

写真 1.お城の南掘りと思われる水路
    2.南東端の水路
    3.南端神社横の水路
山城 男山城 山頂山城 120m
京都府八幡市平ノ山(石清水八幡宮)

文和元年二月に後村上天皇が石清水八幡宮が鎮座する男山に陣取り、行宮を男山城と称され、南朝方の興廃をかけた合戦は足利義詮に勝利した。
 しかし、三月には足利義詮は京を奪い返し、南朝方は再び男山城へと退いたが、北朝方の攻撃を受け落城、後村上天皇は再び吉野賀名生へと逃れた

遺構は平郭、腰曲輪、櫓台が、社の後方にあります。

写真 主郭の本殿、 案内図、 眺望(大山崎、愛宕山が見えます)
山城 鳩ヶ峰城(仮) 山城(143m)
上記、男山城と姉妹城と考えられるので連記します。

男山城の東隣の主山で山の接続位置から城跡だと思われますが
藪化、特に倒木放置が多くて侵入は困難で行かない方がよいです。
私は散々登山道への脱出に彷徨って結局引き返して侵入口から脱出する事に。

写真 山頂主郭、北東副郭見張り台、縄張り図
山城 江戸期勝竜寺城 平城 <遺構はありません>
長岡京市勝竜寺12−1

前置きの歴史
山城守護畠山義就が郡代役所として築城したと推定されている。更に応仁の乱の応仁2年(1470年)に、「四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす」(『野田泰忠軍忠状』)と記しているので、この頃には軍事施設して使用されていた。
観音寺城の戦いで勝利した織田信長VS三好三人衆
信長自身が5万兵を率いて勝龍寺城の攻略に出陣、三好三人衆は織田方の軍を前に降伏・開城する。
(その後信長は芥川山城、越水城、高屋城を攻城、降伏させていき、三人衆を阿波に追放し畿内から掃討する)
足利義昭が征夷大将軍に任じられた後、勝龍寺城は槇島城と共に信長の二大前線拠点としての役割を担っていたと思われる。
天正6年(1578年)8月、藤孝の嫡男忠興と明智光秀の娘お玉(細川ガラシャ)が勝龍寺城で結婚式を挙げ、新婚時代を過ごしたとされている。
羽柴氏以降、勝龍寺城はあまり重要視されず、石材が淀古城の修築に使用されるなどして一旦荒廃した。

ここからが本の城の話
江戸時代に入った寛永10年(1633年)、永井直清が山城長岡藩へ封ぜられた。永井は荒廃していた勝龍寺城の修築を行うが、江戸幕府より「堀はさわらない、勝龍寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命を受けた。この際に不完全ながらも近世城郭としての勝龍寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短期間のもので、慶安2年(1649年)に直清が摂津高槻藩に転封されると同時に完全に廃城となった。

現在(前勝竜寺城)
本丸および沼田丸趾が1992年(平成4年)に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、北門に当時の石垣の一部が残る。また当城の北東に位置する神足神社境内に土塁・空堀を復元している。

写真 1.JR長岡京駅前にある石碑
    2.その場に現在ある村田製作所本社ビル
    3.信長以降の位置にある平成築城の模擬天守
コメント入力忘れです。
<977>の写真3は私自身の写真が見つからなかった為
ネットから引っ張って来たものです。トラブルなきよう追記しておきます。
ついでになのでお城も書き込みます。

山城 富ノ森城 平城(富森の津、渡し船の守り城です。対岸は一口城) <遺構はありません>
京都市伏見区横大路六反畑地内(横大路公園の南側です。)

2021年2月に道路工事に伴う発掘調査が行われた様です。(以下の文章)
富ノ森城は室町幕府奉公衆のひとつである横大路被官衆が在城した平城と推定されているが、築造年代や築造者については不明である。
遺跡名の由来となった富ノ森(富森)は、古くは『山槐記』治承4年(1180)8月22日条にその名が見える、「山城八森」のひとつであったと伝えられ鳥羽と淀を繋ぐ街道沿いに位置していたものと考えられる。
また『群書類従』合戦部『明徳記』によると、明徳2年(1391)の乱の際
に、山名氏清方の軍勢の一隊が京へ攻め上ろうと、「淀ノ中島」から鳥羽の秋の山を目標に「富森」を目指したが、深田にはまって身動きがとれなくなったとある。当時は街道沿いといえども富ノ森
周辺には深田が広がり、周辺の地理に疎い集団であれば移動が難しい地勢であったと考えられる。
富ノ森という呼称が、森自体としてではなく、集落を指す名称として用いられ室町時代後期には富ノ森(富森)が三条西家の所領として、年貢米や若菜・飯粽・芋・大根の他、庭掃除の人夫や臨時の人馬の徴発がなされたことが『実隆公記』からわかる。
その後、富ノ森(富森村)は慶長6年(1601)に豊国神社領となるが、同20年(1615)の神社破却に伴い領地は没収、江戸幕府の蔵入地となる。そして文久2年(1862)に京都守護職中の役知
として会津藩が治めるところとなり、明治7年(1874)横大路村と合併した。
山城 久貝城 平城  <勝竜寺城支城>
京都府長岡京市久貝

善峰川(小畑川)の西岸、舌状台地の先端部に位置する。
在地の土豪・久貝氏代々の居城。
築城時期・築城主は不明。
久貝氏は寛正年間に藤原兼寛が山城国乙訓郡を拝領し、久貝村に居住して久貝姓を称したことに始まる。
その子孫は代々に渡って久貝村を領し、江戸時代には隣の勝龍寺村に移って庄屋を務めた。
二度目の赤木城です。雲海目的で行ったのですが、雲海は見れず(笑)
しかも深夜の山道で狸に突っ込まれて車に傷とヘコみ(笑)


『シンプルな城郭が分かりやすいお城城

赤木城はそんな印象ですね!さすが藤堂高虎ですね!
>>[982]
狸でも凹みましたか?
私の友達は雄鹿とぶつかって大破、廃車になりました。
棚田も刈り取りが終わったころですねぇ。
登嶽城(下城・出城) < 瓜生下砦(下砦の下段)> 尾根先端ピーク城(120m)
福井県三方上中郡若狭町瓜生

城主は『若狭郡県志』では萩野某と伝えらていますけど膳部山城の松宮玄蕃だったのではと思うんですけど?

表記がややこしいのは、縄張り的には3区画あるので上中下と成るんですが中城がどちらと連携取っているか?距離的には下城なんですけど
高低差が大きくて距離は少しあるけど中城と上城を一つにしてた方がまとまり良くて下砦を出城の位置付けにしましたが
ややこしいので、3つに分けました。

写真 入り口(お城は左の斜面の上です)
    主郭後方堀切
    縄張り図 三方を川に囲まれているのと尾根の先端は崖の様な急斜面です。
>>[983]
今日は帰宅してからお世話になってるディーラーさんに行きましたが、この時期、動物との衝突事故多いようですあせあせ(飛び散る汗)


仰るように_山道で鹿と衝突して、自走不能のお客さんの車が明日入るとも言ってましたあせあせ(飛び散る汗)

このコミュニティに参加されてる皆さんは、山道を走行する事も多いと思います。

気をつけてください!とは言えません。気をつけようがないですねあせあせ(飛び散る汗)

動物の飛び出しと落石はあせあせ(飛び散る汗) 
登嶽城(中城) < 瓜生中砦> 尾根城(150m)
福井県三方上中郡若狭町瓜生

写真 主郭、主郭後方堀切、縄張り図
>>[973]

戸田氏鉄公の騎馬像は、いつごろできたかわかりますか。
僕が行った時にはまだなかったような気がしますので。
>>[987]
この銅像は1994年(平成6年)3月に建てられそうです。
実は私も訪問時、見落としていて同じ質問をした事があるんですあせあせ(飛び散る汗)
写真を見直すと木の陰に隠れて写ってる見たいな感じでした。うまい!

建詞
 戸田氏鉄公は大垣戸田藩の初代藩主として寛永十二年大垣に転封となり二百三十余年に亘る大垣藩政の基礎を固められました
 氏鉄公は幼時より父君近江膳所の藩主一西公の許にあって武勇殊のほか逞ましく成長され、十四才にして徳川家康公に仕えられ関原の役に参戦しては家康公の傍に在って武功をたてられました
 父君一西公の跡を受けて近江膳所城主となり、その後摂津尼崎に転封され五万石の城主として治水事業に格別の手腕を発揮されました
 美濃大垣十万石の藩守となってからは島原の役への出陣領内の新田開発藩政の基本となる諸法整備に努められ揺るぎない財政基盤を確立領民の生活の安泰を計られました
 氏鉄公に始まる戸田十一代の藩政は明治維新の後も郷土大垣の繁栄の糧として脉々として受け継がれ今日の豊かな暮しに息づいております
 この氏鉄公の偉業を永く後世に伝えて顕彰するとともに豊かな郷土への恩恵に感謝し相計って騎馬銅像を建立するものであります
平成六年三月二十七日
戸田氏鉄公顕彰銅像建立委員会委員長 土屋斉 識
>>[989]

調べて下さり、ありがとうございましたぴかぴか(新しい)
 岡崎日帰り旅行

 22日(日)岡崎日帰り旅行に行きました

 7:30名古屋発、岡崎公園の近くの駐車場に8:30着
公園内の数か所で写真を撮り、9:00前に「三河武士のやかた家康館<どうする家康 岡崎 大河ドラマ館>」
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/ieyasukan/top/
https://okazaki-kanko.jp/dousuru-taiga

 岡崎城との共通入場券を購入して入館
大河ドラマ館は静岡、浜松と観に行き、岡崎が最後になりました
9:00に入館したので空いてましたが出てくる頃には、結構混雑してました
館内の内容は岡崎が一番充実してました

 静岡と浜松は開催期間が終われば取り壊されると思いますが、岡崎は三河武士のやかた家康館として使用されるので展示内容が充実しているのでは
1時間くらいかけて館内をゆっくり見学、映像が多く良かった

 次に岡崎公園内を見学しながら岡崎城へ
45年以上前に来ましたが2023年1月21日(土)にリニューアルオープン
混雑しててじっくり見て廻ることはできませんでしたが、それでも見応ありました
https://okazaki-kanko.jp/okazaki-park/feature/okazakijo/top

 11:30を過ぎたのでランチを食べに移動
名古屋では食べられない岡崎の名物料理ということで「もろこしうどん」に決めました
https://okazaki-kanko.jp/feature/question/morokoshi

 人気のある大正庵釜春本店へ
http://www.kamahalu.co.jp/

 駐車場は着いた時に1台出たので、すんなり駐車できましたが満車状態でした
待ちは7組、15分くらい待って席に案内され「もろこしうどん」を注文
料理が運ばれるまで同じく15分くらい待ちました
周りの席を見ると釜揚げうどんが圧倒的に多く、もろこしうどんはチラホラでした

 もろこしうどん、初めて食べました、汁が濃いのがいまいちでしたが
釜揚げうどんの人気があるようで、うどんは美味かった
コーンの数は多く、あんかけ汁なので熱くて最初はなかなか食べにくかった
想像より食べ応えのある、うどん料理でした

 食後は大樹寺に初めて行きました
https://daijuji.jp/access/

 本堂、多宝塔、鐘楼、松平八代・家康公墓地、山門、徳川家康公お手植えのしいの木
松平家徳川家位牌、貫木神等々、見応えのあるものが多く、色々勉強になりました
3時少し前のおやつとして、五平餅を食べました
帰路の豊田上郷SA(下り)でお土産買って午後4時頃帰宅

 岡崎は県内ですが近場ではないので滅多に行くことはありません
半日の旅行でしたが充実した日になりました
登嶽城(上城) < 瓜生上砦> 山頂山城(210m/160m)
福井県三方上中郡若狭町瓜生

図の縮尺からも解るように凄く小さい縄張りです。

写真 2-3郭堀切、眺望、縄張り図
登嶽城西城 (仮) 尾根先端ピーク城(159m)
福井県三方上中郡若狭町瓜生

 平郭以外には堀切も切岸もありませんが、ここを守っておかないと
上城が無防備に成ります。
 この城群ですけど、上城が非常に小さい事から
中城、西城、上城、北の連絡郭-切り通しまでが一つの城として機能して
下城だけを出城とした様な位置付けだったのかも知れません。(写真3)

写真 主郭からの連郭、井戸跡、縄張り図
若狭 膳部山城 山頂山城(292m/240m)
福井県三方上中郡若狭町脇袋(脇袋公民館に駐車して登山道があるそうです)
城主は『若狭郡県志』では松宮玄蕃。

写真 主郭、眺望、縄張り図
日曜日の夜、宮津方面からのツーリング帰り道、空に浮かぶ白い波のような物を発見!近づいて行くと竹田城でした、黄色ではなく白い照明なのでLEDでしょうか、なかなか幻想的でした。
こないだ登城した自宅前の某城(笑)大河コラボじゃないけど、特別展示が『上方の家康』まあ館蔵品がわんさかある大阪城だけあって名品揃い。来月展示変えで今度は関ヶ原関連も。展望台からは家康が陣取ったあたりも一望のうち。また来月行こうかな(^^ゞ
若狭 安賀里城  尾根先端ピーク城(130m/80m) <畝堀の城>
福井県三方上中郡若狭町安賀里(膳部山山系の北端の城です。)

城主は北の川を越えたエリアを支配していた、山内城の山内一族一つ粟屋氏で山内城の出城に成るそうです。
この事からこの辺りの北のエリアは山内氏、南は萩野某氏で
その後の時代に成って武田氏が守護と成り、その後ろ盾で松宮玄蕃が膳部山城を築き、熊川城を攻め落とし瓜生・井ノ口・天徳寺、熊川を領したのではないかと思いましす?

登り口は、南の諦応寺の参道北側にあるお地蔵さんが並んでいるあたりから尾根に上りました。

この後は西隣の山系の吉田4砦に成ります。
記載は『城砦寺院部』へ https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=22348&id=24396586

写真 登り口、主郭、縄張り図
山城 菱川城(平城) <再調査>
城郭の位置がハッキリしたので再調査です。
と言っても1/4の北東部に掘りっぽい形状の溝があるんですけど
100m角の館城だったと言う事でこの範囲で良いかと。

写真 城内の現公園、西堀(北西角より)、地図表示
山城 横大路城(平城) <再調査>
城郭の位置がハッキリしたので再調査です。

写真 北東角の暗渠出口、北城外の風景、地図表示

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