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山谷えり子コミュの唄いつぐ 親から子へ 1

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産経新聞に掲載された山谷えり子さんのコラムです。

■柳行李に“入れ”父母はダンスホールへ

 「ヤマもタニもあるがシンペイするな」。父、山谷親平は母に、こうプロポーズして見合い結婚した。

 占領時代の国会担当記者の娘として私は生まれた。結婚当時は窓もない4畳半一間の社員寮で昼間でも陽があたらず電灯をつけっぱなし。もちろん風呂、トイレ、台所もないところで、父は机に肩ひじついてパイプを気障(きざ)にプカリプカリとやっていたという。

 若い夫婦はダンス好きで、オッパイの匂(にお)いのする私がネズミに鼻をかじられないようにと柳行李(やなぎごうり)の中に入れてふたをし、ダンスホールにしばしば踊りに出かけたという。そんなわけで当時、米ニューヨークでオープンしたばかりのジャズクラブで流行した『バードランドの子守歌』やサテンドール、ミスティは、私の幼少時代の子守唄のひとつであったらしい。

 GHQ(連合国軍総司令部)本部の近くに新聞社があったため、父は、GHQの人が日本女性に非礼な態度をとっているのを目にすると、時にケンカとなり、傷だらけで帰宅したこともあったという。

 また、経済安定の原則プランをもって来日したドッジと、税制の枠組みを作ったシャウプの名を飼い犬の名にして“ドッジ”“シャウプ”としかったり、飼い慣らしていたというから、柔軟性とともに反骨心を胸に私の耳元で『ララバイ・オブ・バードランド』をハミングしていたのだろう。

 私は夜泣きの激しいタフな赤ん坊だったらしく、父は睡眠不足と仕事の過労が重なって倒れ、福井県鯖江(さばえ)市の母の実家に身をよせることになる。しばらくの間、私のオモチャ、椅子(いす)、机を器用に手づくりしながら養生し、福井新聞社の記者となると、再び連日、部下を連れ帰って、飲めや歌えやの大騒ぎの生活に戻ったのだった。マージャンをしながら天下国家を論じる男たちの声は子守唄であった。

 あのころの新聞記者たちは粋で余裕があったのだろう。時折ヒマをもてあました父の仲間たちから、私は“都々逸(どどいつ)”や奴(やっこ)さん、かっぽれ、黒田節などのお座敷芸をしこまれた。父も三味線で深川や越後獅子、端唄、長唄を弾いていた。『ゴンベさんの赤ちゃん』のメロディーで

 新聞記者は人のキシャ
 機械のキシャではないわいな
 それが何より証拠には
 記事も書くし恋もする

 という替え歌もよく歌われた。
 この欄を書くにあたり78歳の母に“私によく歌った子守唄は?”と聞くと「ねんねんころりよ、なども歌ったけれど、とにかく古今東西まぜこぜ。いろんな人がアナタに歌っていたわ」と破顔一笑した。

 占領時代、鬱屈(うっくつ)と、明るいエネルギーの爆発の時代の中にあって私の耳元の子守唄はさぞ“おにぎやか”だったのだろう。

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