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真田信之と真田一族コミュの【探訪】岩櫃城

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 先日18日の(土)信濃・上野国境鳥居峠を越えて、上州吾妻郡にある岩櫃城へ行ってきました。
 岩櫃城はご存知真田家ゆかりの城です。
 武田信玄の命を受けた真田幸隆、海野幸光らが西上野に進出、永禄8年(1565)の嶽山合戦などを得て、この地を治めていた鎌倉武士吾妻氏を先祖に持つ、斎藤基国(斎藤憲広)を攻めて、これを攻略、以後真田幸隆、真田信綱が岩櫃城の城主に治まり、上州吾妻郡を支配しました。
 天正3年(1575)の長篠の合戦で長男信綱と次男昌輝が戦死した後、幸隆の三男、真田昌幸が真田家の家督を継ぎ、上杉景勝と上杉景虎の間で跡継ぎ争いが起こった天正7年(1579)御館(おたて)の乱を契機に景勝方に味方した武田勝頼と上杉景勝との間に和睦が成立、昌幸が翌年に沼田城も攻略し利根郡も支配下におき、上州における武田家の支配が固められました。
 その後、織田軍に攻められた武田勝頼を真田昌幸が上州岩櫃城に招いて、織田軍と戦おうとしたことは有名です。しかし、その願いは叶わず、結局岩殿城の小山田信茂を頼ったがために裏切りに遭い、滝川一益を先鋒隊とする織田軍に追い詰められ、勝頼は天目山の麓で自害し、武田家は天正10年(1582)3月滅亡してしまいます。
 天正11年(1583年)に、昌幸が上田城を築城、政治の本拠地を信州上田に移すと、沼田を中心とした上州の支配を長男真田信之に任せました。
 江戸時代に入ると徳川幕府の命に従い、一国一城令により岩櫃城は廃城となりました。
写真左:岩櫃城本丸跡
写真中央:岩櫃城の歴史の説明書き
写真左:麓から見た岩櫃山

コメント(4)

 かわちゃん様

 アップ有難うございます!この城は昌幸にとってのターニングポイントでもあり、武田勝頼の運命の別れ道だったということには深い感慨を覚えます。。。
 皆様も真田関係史跡のレポートをぜひ宜しくお願いします。
信濃・上野両国にまたがる鳥居峠(標高1,363m)です。ここからは真田家が代々信仰した四阿山(標高2,354m:今年3月6日の市町村合併により上田市の最高峰となった)を望むことができます。古くから守が宿る山とされ、真田幸隆や真田昌幸も四阿山の管理に関するお触れをたくさん出しています。ちょっと雪が1mも積もっている状態でしたので、鳥居のあったといわれる昔の鳥居峠だった場所までは行かれませんでした。看板にもあるとおり猿飛佐助が修行した土地という伝説もある峠です。また方言がこの峠を境に「そうでしょう?」という意味の言葉、信州「そうずら?、そうだらず?」上州(信州でも軽井沢など一部では使われる)「そうだんべえ?」の国境でもあります。
鳥居峠から見た四阿山のアップです。
貼りつけたのは、岩櫃山麓の東吾妻町郷原古谷(こや)地区にある潜竜院跡の写真です。武田勝頼を迎えるべく真田昌幸が造成させた御殿跡です。天目山で武田が滅亡後は、寺院として、明治の廃仏毀釈で廃寺になるまで存在していました。

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