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SONGSコミュのスペシャル(11/23) 財津和夫

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  語り:守本アナウンサー>財津和夫、ここに財津が音楽を志す大きなきっかけを
  作った場所があった。

ここですね。ちょうどあの信号の下あたりに映画館があったんですけどね。

  高校時代友人に誘われて何気なく見た日本の映画が財津の人生を変えた。
  上映されていたのはビートルズが主演するドキュメンタリー仕立ての映画だった。
  革新的なサウンドで若者達を瞬く間にとりこにしたビートルズ。
  イギリスの港町から世界に躍り出た5人の姿は、同じように地方の町に住む財津に
  とって衝撃的だった。とにかく音楽活動したい。
  財津は大学に進学、フォーシンガーズというバンドを結成した。
  母校福岡市の西南学院大学にはその思い出が刻まれている。

可愛い子がいっぱい いますね。あっ本当だ

  授業そっちのけでひたすら練習に励む日々をここで送った。

昔の僕らが現代になればああいう感じだったんですかね。
向こうもギター弾いてね。何か懐かしいにおいがどんどんしてきた。

  当時バンドの練習場所は放課後の教室だった。
  ここである人物が財津を待っていた。
あ〜どうも久しぶり。
どうもどうも。
田中くん
どうも久しぶり。
  待っていたのはフォーシンガーズを組んでいた田中孝二さん。
  練習場所やコンサートの出演交渉等を取り仕切っていた。田中さんは44年前
  使っていた1冊のノートもってきてくれていた。

探し出してきました。これフォーシンガーズ
すごいこれ。もう辛口だったんですよ。いやいやいや。
ほんとに。
  当時財津は全国に通用するバンドを作りたいと考えていた。理想の音を目指し
  メンバーと切磋琢磨した日々が蘇る。
ほらこんな感じで。
Oh,Miss Mary
そうそう歌ったね。
そうそう
歌ったね。すげえ懐かしい。
これはよくやったよ
  当時奏でた音楽は財津の中に今も残っていた。
思い出すもんだなぁちょっと。 44年ぶりに口ずさんでしまいました。
これきれいな曲だったもんね。
きれいな曲。ほんとにきれいな曲
また。
お元気で。
どうもありがとうございました。久しぶりに会えてよかったです
。懐かしいって事はこういうことを言うんだなって、もろ当時歌っていた自分がって
いうのがよみがえってきて何か不思議な感覚でしたね。

  しかし財津自身はプロを目指すことを決意した。そこで憧れのビートルズと同じ
  スタイルのバンドを結成。それがチューリップだった。
  そして23歳の冬、財津は1つの曲をデモテープに収め1人上京した。
  訪ねたのは当時大手レコード会社の敏腕ディレクターだった新田和長。
  新田はその曲を聴いた瞬間に心奪われた。テープに入っていたのは後にデビュー曲
  となる「魔法の黄色い靴」それまでの日本にはなかった全く新しいメロディーだった。
 
若いせいかもう全くネガティブな事は考えませんでしたね。こんないい曲作ったんだか
らダメだって言われるはずがないって思ってましたね。 100%思ってました。

  その翌年に新田の後押しでついにデビューが決定。
  財津は「決してふるさとに戻らない」と心に決め上京した。

福岡から東京に出て行って後ろ振り返ったら里心がついいけないって言うのがあって。
自分の中にはもう福岡ないんだと。切り捨てようとしてましたからねふるさと。

  しかしそんな財津の前に厳しい現実が次々と立ちはだかっていく。
   1枚目のシングル「魔法の黄色い靴」の売り上げ枚数はわずかに2200枚。
  続く「一人の部屋」はさらに振るわず。
  「次ヒットしなければ福岡に帰す」という声が財津の耳に漏れ聞こえだす。
  自分が作ってきた斬新なサウンド。それがなぜ受けられないのか悩み始めていた。

もうちょっとこうわかりやすくって言う事はよく言われましたし。自分の目指していた
あるいは自分が得意とする自分の好きな曲じゃないものを作んなきゃいけないような気
になってきて、アレどうしたらいいのかなっていうのが、ホント正直わかんなかったで
すね。

  「このまま福岡に帰るわけにはいかない。なんとしてもヒット曲を作る。」
  悩みながらも財津が死に物狂いで書き上げたのが「心の旅」だった。
  ところがこのレコーディング当日財津はスタッフから思わぬことを告げられる。
  メインボーカルを交代。最年少の姫野に担当させると言うものだった。

はっ!?て言う感じですよ正直心の中ではもうこれで終わったなんて思いました。
この曲もヒットしないって思いましたね。彼が歌い出す前は。でも僕が間違っていた
のは、彼が歌うと甘酸っぱい感じの声だからそれがいいんでしょうね。当時は僕は分
かんなかったです。そこをちゃんと見抜いていて、ヒットとはそういうものなんだなっ
て思いました。今となってはほんとにそれでよかったなと思いますね。

  「心の旅」はヒットチャート1位を獲得。財津の才能を広く知らしめる作品となった。
  チューリップ40周年のライブ

  「心の旅」のヒットでチューリップは人気バンドの階段を駆け上った。各地で開く
  コンサートには若い女性が殺到し埋め尽くした。しかしそんな中、財津の心は乱れ
  ていた。テレビや雑誌の出演が増え音楽とは直接関係のない仕事が次々と舞い込ん
  でくる。さながらアイドルのような存在になっていた。

いや〜もうほんとに最悪な気分でしたよね。そんなつもりで上京したわけじゃないし。
バンド作ったわけでもないのでかっこいいロックかフォークか分かんないけども少なく
ともアイドルでは無い。こういうバンドは3年で終わりだろうな。飽きられるだろうなっ
て思ってましたね。

  そんな時、財津は自分が本当に歌いと思うもう1つの曲を作り上げる。
  そしてその曲はシングルではなくアルバムの片隅に置かれた。
♪君の心に続く長い一本道は〜
ポップな感じのアップテンポの曲が多くあって、こんなバラード作ってみたいっていう
のを作ったんですよね。ですからそれをシングルにしない。シングル曲をつくるために
バラードを作ったわけでは無い。

  一時の流行にとどまりたくない。純粋に自分の曲の良さを感じてほしい。
  財津はこの曲をひたすらライブで歌い続けた。次第に「青春の影」が人々の心を
  とらえ始める。曲が生まれてからおよそ40年。今や時代を超えてスタンダードナ
  ンバーとなった。
    
  アイドル的なイメージから抜け出そうとしたチューリップ。テレビの出演などを
  極力減らし音楽活動をライブ中心にしていった。多い年は年間150回の単独ライブ
  をこなすことも。ライブバンドとしてのチューリップの地位を確かなものとした。
  そして1978年には岐阜県の鈴蘭高原に野外ステージを設け大規模な単独ライブを
  開催。現代のJ-POPシーンに引き継がれる新たな試みを次々と打ち出していった。

新しいことをやらなきゃいけなかった世代だと思うんですね。歌謡曲と言われていた
ジャンルの中に学生あがりのバンドとかニューミュージックって言われることになり
ましたけど、宿命づけられていたんですね。何か新しい事やらないといけないって言
うのがね。

  さらに財津にはある重圧がのしかかっていた。それはバンドをまとめ上げるリーダ
  ーとしての責任だった。
  財津は理想とするバンド姿を追い求め決して妥協を許さなかった。そんな姿を間近
  で見ていた人物がいる。財津がDJを務めるラジオ番組を長年制作してきた人物。

かなり辛辣な発言をいっぱいしたんだと思いますけど、できるならばそこまで言って謝
りたいことばっかりですね僕は。チームワークの楽しさあるいは一緒にやった仕事をた
たえあう。そういう何かそういう事ができたらよかったのにななんて思いますけどね。

  しかし当時の財津はメンバーに厳しく向かい合うしかなかった。
  やがてメンバーとの間に溝が生まれ、1979年には2人が脱退。その後姫野と安部が
  脱退し結成当初のメンバーは気がつけば財津一人になっていた。

バンドって「じゃ作ろうね」ってできるものじゃないですよね。家族みたいなもんです
からね。気がついたらできていたって言うような感じがするのがバンドじゃないですか
ね。

  成功を夢見て福岡から共に上京してきたチューリップの仲間たち。
  それこそが財津にとってのバンドだった。そのメンバーがそろって歌った曲は
  1979年に大ヒットした「虹とスニーカーの頃」が最後となった。

  財津以外のオリジナルメンバーがいなくなったチューリップ。
  デビューから17年ついに財津は解散を決意した。

ほんとにチューリップは最高でした幸せでした。どうもありがとう。

  財津にとって自分の全てをかけた唯一無二のバンドそれがチューリップだった。

青春時代を引きずりながらデビューしてやってきて私そんなグループですからかんかん
がくじゃなくて、 ケンケンガクガクですからね青春時代のバンドは。何か本気が入って
ますからそこに。だから忘れられないんですよね。

  チューリップ解散後財津はソロアーティストとして新たなスタートを切った。
  解散の翌年にはメロディーメーカーとしての財津の実力があらためて評価されるよう
  になっていく。そんな中チューリップ時代に作った曲をセルフカバーし1993年に大
  ヒットが生まれた。

  ソロアーティストとして活動の幅を広げていた大津。50歳を過ぎてからは大阪の大学
  で教授の職の勤めている。若い学生たちと接することで自分にはなかった感性に触れ
  新たな音楽の可能性を探そうとしたからだった。
  しかし、50代半ば走り続けたいという思いとは裏腹に体と心が思うようにコントロー
  ルできなくなっていた。更年期障害だった。

体に力が入らない。仕事をしたくない。人にも会いたくない。何もしたくない。ほんとに
驚きましたね。自分がこんな風になるなんていうのはほんとに驚きでしたよ。

  バンドのリーダーとして背負ってきた重圧。そして止むことのない音楽へのこだわり。
  さまざまな事がストレスに。50代になった財津の体が耐え切れなくなっていた。
  しかしこの経験は財津にとってこれまでの人生を見つめ直す大きなきっかけとなった。

ふ〜。ですから悩みが生まれ、辛いものがあっても人とこう分け合ったりとか人に相談
したりとかって言うことができないんですね。おそらく。まぁ自分に自信がありすぎた
のか何でも自分で解決できるんだって思いましたしそんな生意気さでずっと生きてきた
んで、きっと神様が「お前ちょっとここで反省しろ」なんて言って、「他人の優しさと
か親切とかそういうものでお前が一度救われてみろ」とそんなことを言われたような気
がしますね。

  散歩すること好きな音楽を聴くこと仕事以外の時間が、財津を少しずつ回復に導い
  ていった。
エルモ
はい
エルモ、エルモ、エルモ。人懐っこいね。
ふふふ

  自らを縛り付けていた様々な重荷。それを少しずつ解き放とうとしていた。
  病を経験して以来財津は福岡にたびたび足を運ぶようになった。中でもよく訪ねる
  のは博多湾を望む名島の浜。幼い頃毎日のように通っていた財津の原風景だ。

海ってやっぱり・・海のそばで育った人間としてはほんとに何かいいですよね。
  悩んだ時必ず来ていたのはこの場所だった。
空気がいいですね。気持ちいい。いくらでも深呼吸できるじゃないですか。
  ビートルズに憧れ東京に飛び出していった青春時代。成功をつかむため自分に戻る
  場所はないと言いきかせ、ふるさとへの思いは心の中で切り捨ててきた。
  しかし、今自分の気持ちに寄り添うのはすふるさとの景色を歌った一つの曲。
  チューリップのデビューから6年後に作った曲。都会に出て音楽と戦っていた財津。
  その苦しみの中 ふと心に湧き上がったふるさとを思い出す曲だ。

ふるさとで過ごしたこの空間に戻ってくることだけで、なんだか後自分がすっぽり子宮
の中に戻っていくようなそういう穏やかな感覚に包まれるのかなって思ったりもしまし
たね。もう斬り捨てなくていいんだって言うような感じなんでしょうかね。

おはようございます。

  65歳の今 心からふるさとを愛しいと思えるようになった財津。
  秋からのソロツアーではより自分の気持ちを素直に表現したいと考えている。

みんな僕が間違ってた。ごめんね。
嘲笑ってすみませんでした。(笑い声)

  財津はこれまでライブでほとんど歌ってこなかった「夕陽を追いかけて」を歌う
  ことにした。
  財津は今このため情景に老いていく自分の姿を重ねている。

自分の本当に適した自分に適当なその道が自然とできてくるんだよね。まぁそういう
道を歩いていけばいいんじゃないですかね。
  沈む夕陽を手を取り合い歩んでいく。年を重ねた財津がたどりついたのは
  「夕陽を追いかけて」を歌うことだった。

  財津和夫65歳。長い戦いの果てに自分自身と向き合うことで、手したのは楽しむ
  自由。
  そこからまた財津の新たな音楽が生まれていく。

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