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SONGSコミュの第153回 郷ひろみ

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 (映像:10/18 日本武道館 バースデイ・ライブ)
 僕の55歳のバースデイライブにようこそお越しくださいました! 
 カモン!!

 語り・森山アナウンサー>10月18日、この日55歳を迎えた郷ひろみさんの
 今年55本目となる記念コンサートが日本武道館で行われました。
 「SONGS」今夜は、これまで郷さんがどんな思いで音楽を続けてきたのかを
 貴重な映像とともにつづってゆきます。

こんばんは 郷ひろみです。ここは東京の大井町。
僕が少年時代に過ごしだ原点ともいえる町です。

 びっくりですね!

今日は久しぶりに、帰ってきました。

 あの阪急で、時給120円ですよ。皿洗いをしたよ。僕あそこで。
 友達野球仲間何人かと、それでみんなで集めて野球ネットとかを買ったり
 べースを買ったりした記憶あるもん。

僕は福岡県で生まれ、国鉄職員だった父の転勤で4歳で東京へ。
6歳から中学校までここ大井町で暮らしました。

 これ僕が住んでいたところかも。
 うわ〜 確か・・・
 ここら辺に野原があったような気がするな〜。
 こらら辺が全部僕が住んでいた家だったんだろうな。

僕は小学校の頃ここに家族4人で住んでいました、
友達もたくさんいてみんなて家の周りでよく遊びました。

 僕の記憶では缶けりをしてるんだけど、僕が一番小学1年生で小さいんで
 大体鬼になるんですよ。何度やっても鬼になるから、バカからしくって
 みんなが缶をけってパッと隠れた時に、もう鬼はやめて一人で帰っちゃう。
 帰ってくるのがここら辺の自分の家。
  そうするとみんながあいつまた帰ったなみたいな事でみんな迎えに来て
 くれて、それにつられてまた僕も出て行って、じゃあもう一回やろうねと
 いう事で遊んで、また結局鬼にさせられるんですけど。
 
 びっくり。ずっと坂になってて学校行く時も帰る時も・・・ここだよ。
 うわ〜、あれだ。僕がコロッケを買いにいってたコロッケ屋さんというか・・
 あれが残ってるって事ですか?


僕は小学生の時以来、久しぶりにお店を訪ねてみる事にしました。

 こんちには。僕当時5円でここでコロッケを買いによく来た記憶があるん
 ですけど。
  そうなんですよ。頑張って作りましたよ。

ここでずっとコロッケをつくっていた大八木和子さん、80歳です。
30年前に病気になってやめてしまったそうですが、今回特別昔ながらの
コロッケを作ってくれました。

 手でいいんですか?
  ええ。これに包んで召し上がって。ちょっとね失敗しちゃったのね。
 じゃこれ失敗作ですか?
  そうです。
 う〜ん。
  思い出した?
 この味この味。コロッケにお肉が少しは入ってて。
  またやろうかしら。
 僕これで、ミートコロッケというかポテトというか、僕にはクリームコロッケ
 とかっていうのはないんです。僕のコロッケはこれなんです。
  じゃがいものね
 いまだにそうなんです。
  ありがとうございます。
 僕のこと覚えてましたか?
  今もかわいいけど、もう少しふっくらして本当にかわいい子だった。
  眉毛が濃くてね。ファン第一号よ。
 ありがとうございます。

ここ大井町には僕が子供のころから変わらない懐かしい味と人のぬくもりが
残っていました。

(映像:「新平家物語」大河ドラマ・平経盛役 )
   
 語り>1972年、16歳の時郷ひろみさんは大河ドラマで
 芸能界デビューを果たします。

僕はもともと芸能界に入りたかったわけではないのですが、近所のおばさんの
勧めでデビューすることになり、あれよあれよという間に人生が変わっていき
ました。

るんるん男の子女の子(72年紅白)
 花とみつばち(74年紅白)

 デビューした時には、僕はそれまでに習い事をしてなければ、劇団に入っ
 たわけでもないし、そのどおどおどした何もわからないようなそういう
 感覚が人にはかわいく見えたりしたのかなと思いますけどね。

 語り>郷さんはかわいらしいルックスとたぐいまれな歌声を武器にヒット
 曲を連発。一躍トップアイドルへと上り詰めます。

るんるん誘われてフラメンコ(79年ビッグショー)
 禁猟区(78年レツゴーヤング)
 バイブレーション(78年紅白)
 林檎殺人事件(78年レッツゴーヤング)
 ハリウッド・スキャンダル(78年レッツゴーヤング)
 マイレディー(79年紅白)


70年代、僕は脇目も振らずに走り続けてきました。
でも、実はステージで歌ったり踊ったりすればするほど、自分のパフォー
マンスはこのままでいいのか、疑問を持ち始めていました。

 2年3年たっていくうちに自分が歌えてない、動けてない、踊れてない
 というのが明らかになってわかってくるわけです。
 この程度の力量であれば、遅かれ早かれ僕はいずれ終わるだろう。
 自分の中でそう思ってそこを変えていくしかない。
 力をつけていくしかない、絶対に歌えるようになる、動けるようになる
 というふうに思ってました。

僕はショービジネスの本場の技を学びたいと思い、この頃から毎年アメリカに
行きダンスやボーカルレッスンを受け自分を磨いていくことを決めました。

るんるんセクシ・ーユー(80年レッツゴーヤング)
 お嫁サンバ(81年紅白)
 哀愁のカサブランカ(82年レッツゴーヤング)
 2億4千万の瞳(84年紅白)


しかし、80年代の終わりごろになると僕は自分の音楽に迷いが出てきました。
そして、過去のヒット曲を歌うことがだんだん嫌になっていきました。

 30代で結婚して例えば子供が出来てたりする事によって、僕って
 「お嫁サンバ」でいいのかな〜って、自問自答していくんです。
 そうする事によって自分のやっている音楽と聴いている音楽とのギャップが
 更に広がっていって、僕ってもっと洋楽っぽくしたいなとかって思う時期も
 あったし。

自分の歌を模索していた僕は、90年代に入ると3曲のすばらしいバラードと
出会うことができました。

るんるん僕がどんなに君を好きか、君は知らない(93年 PV)
 言えないよ(94年紅白)
 逢いたくてしかたない(95年紅白)

 ちょうど35〜36で僕がデビューしてから20年たってる。
 だからよく言うんですが、オギャーと生まれた時赤ん坊が成人する年齢。
 だから僕にしてみれは、「これからか!」みたいな感覚です。

僕はこの曲に出会い。大人のシンガーとして自信がもてるようになりました。
僕の大好きな曲です。聴いてください。

るんるん言えないよ

 語り>90年代の終わりには、バラードから一転、郷さんらしいパフォー
 マンスが話題を呼びました。

るんるんGOLDFINGER'99 (99年紅白)

 
2002年、僕は46歳の時に歌手として更に高いレベルにを目指すために
活動を休止し、ニュ−ヨークに渡りました。
3年間とことんボーカルレッスンに励みました。そして日本を離れて自分を
みつめ直したことで歌に対する思いも変わってきたのです。

 今まで見えてなかったものが、いろいろ見えてきたんですよね。 
 それがたぶん・・やっぱり僕は「お嫁サンバ」だなと。
 やっぱり僕は「ジャパン」でいいんだな。僕にしかできないもの、
 そして今まで僕が作ったきた楽曲という絶対になくなる事のない財産。
 それを、僕が否定するのではなく、僕が本当に大事にしていかなきゃいけ
 ないんだなというふうに考える時間もあったという事かなと思いますけど。

よろしく哀愁(79年ビッグショー)

僕が大事にしている曲の一つは、18歳のときに発表した「よろしく哀愁」
です。

 ほんとに僕を代表する1曲でもあるし、それが10代で最初に歌ったころと
 20代、30代、40代、そして現在の50代という中で同じ詞が歌えると
 いうのも、とてつなく詞に力があったり曲に力があるんだろなという事は感
 じますよね。

10代の頃には歌詞の意味もよく分からず歌っていましたが、年を重ねるに
つれて、その意味が染み込んできました。
今日はこの曲を55歳の僕にふさわしいアレンジで歌いたいと思います。
聴いてください。

るんるんよろしく哀愁

 僕は50代をいかに充実させようかと思って40代にアメリカに行かなきゃ
 いけなかった。それで今の僕があるんです。今は自分がやってきた40代の
 成果を見ながら、なおかつ60代の準備を同時にしているわけです。
 だから、僕が郷ひろみでやってる以上ずっとそういう意識は持ってますね。

僕はこれからも前を見据えながら、自分にしか歌えない歌を歌い、自分らしく
正直に生きていきたいと思っています。
そんな思いを今ストレートなラブソングをに込めて歌いました。
聴いてください。

るんるん愛してる

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