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雑賀孫市(鈴木孫一)コミュの雑賀衆・織田軍の本陣はどこにあったのか?

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雑賀衆の居城は、雑賀城跡(和歌浦にある消防署の辺り)だったようですが、本陣なのかは不明。秋葉山に雑賀衆の砦があったそうですが。
一方、織田軍は、そのほぼ反対側に本陣があった?

■紀ノ川はかなり広くてとても深いし、当時は橋も無かった?だろうし、例えあっても、当然?!壊したはずだから、少なくとも和歌山市辺りで渡った可能性は低かったと思われます。
ですので、紀北のどっか(岩出市〜紀ノ川市辺り?)浅い所で渡ったのだろう?(船で渡った可能性も否定出来ませんが。)

■「尻啖え孫市」(司馬遼太郎)に書かれてあったように、実際に織田軍が和歌川を渡ろうとしたとしたら、雑賀城や秋葉山に砦があったことからしても、今の小雑賀・雑賀辺り(ダイエー和歌山店周辺)に本陣があったと思われる。仮に、その通りだとしても、正確な場所まではわかりかねます。(名草山の方なのか不明ですし。)

また、何度か攻めたらしいので、その都度、本陣の場所が変わっていると思いますが。(豊臣秀吉による紀州征討の時も含めて ※今の和歌山城がある虎伏山に陣を置いていたそうですが)どなたか、ご存知の方、おられましたら、教えて下さい。


■秋葉山には砦があったそうだが、山上にある広場・展望台からは、北(和歌山城 ※展望台からのみ)・西(和歌山港)・南(和歌浦)が見えますが、東部は広場しか見えません。ということは、広場の別の所にあったのか、もっと大きな砦を築いていたのかのどっちかでしょうか?

秋葉山の東部(梅園→笹の間の道を通り抜けた所のそば)からだと、ダイエー和歌山店辺りがよく見えますので、小雑賀・雑賀辺りに織田軍の本陣があった?と思いますが。


あと、和歌山城天守閣か市立博物館のどっちか忘れましたが、大昔の地図(予想図)によると、和歌山市南部はいくつかの島で成り立っていたそうですが、当時もそうな地形だったのだろうか?だから、攻めにくかった?
どなたか、戦国〜江戸時代の頃の和歌山市南部の地図をご存知でしたら、紹介して下さい。

コメント(18)

雑賀衆の本陣は御坊山(弥勒寺山)で、防御線は南は紀三井寺
布引、和歌浦津屋、和歌川より北は岡山(吹上の峰)とあります。
結構長いラインみたいですね。
信長の本陣はわかりませんが、堀久太郎に関する記述で
「岸高く候て馬上がらずここを専に弓・鉄砲を以て相塞候間」
(「信長記」)とあるので、そのような地形に該当する場所の
付近で激戦が行われたのかもしれません。
雑賀側は弥勒寺山の他、妙見山や玉津島砦なども使用していたそうですね。現在の和歌川が雑賀の防衛ラインで小高い山はほぼすべて砦を置いたようです。

対岸の織田軍が紀三井寺を使わないはずがないと思うんですよ。雑賀南郷、宮郷なども織田側だったし。
ただ信長本人は信達(泉南市)にいたのじゃなかったかな。
追記です。雑賀衆の防御ライン北端は小雑賀中津城のようです。当時の川筋はどうだったのでしょうね。。。あと、雑賀衆の塁として他に原見坂、宇須山、東禅寺山、甲崎、玉津島などが見えます。
信長の足取りは和泉信達を発って後、淡輪〜若宮神社までがわかっていますが、そこからが不明です。軍を返した日に「香庄」に陣を置いていますが、ここから一日で若江城へ戻っているところを見ると、どうも信長自身は紀州へ入っていないようです。ということは、雑賀衆との激戦があった時には信長の本陣は若宮神社(和泉鳥取郷・大阪府阪南市)にあった可能性が高いですね。
>Masaさん

現在の和歌川が当時の紀ノ川の本流でこの川を挟んで西に雑賀衆、東が信長軍で対峙。川の東側は雑賀衆とは対立し信長側について信長の軍勢を案内した宮郷、雑賀南郷などの領地であり、信長軍側が陣を張れそうなところといえば紀三井寺あたりが考えられるんですよ。

 川で激戦ということだったから今の和歌山県立医大のあたりなどは戦場になってたのではないかと思います。
>平成の孫市さん
 今の秋葉山公園ではとても遺構なども見つけられないですが、あの頂上の公園に弥勒寺山城があったってことでしょうね。

 また山の崎の最も和歌川寄りに甲崎砦があり、その周辺が例の川に蛸壺を埋めたなどという記述のある激戦地だったのではないかと思います。
>のぶさん

そうですね。信長勢は結構数が多かったようなんで、県立医大〜ダイエー〜本州化学工場あたりで縦長の陣を張ったのでしょうね。堀久太郎以外にも竹中半兵衛と大崎玄蕃(長行)が「小雑賀がきが瀬」(場所不明)で戦ったと覚書にあるので、数カ所で戦いが行われていたのでしょう。「小雑賀がきが瀬」については知りませんので、これに近い小字名などがあるようでしたら、ご教示頂ければ幸いです。
ただ、小雑賀中津城(JR紀和駅付近)が微妙な位置にあるので、当時の川筋がどうだったかなと思ったわけです。
>Masaさん
 信長側と戦った雑賀衆とはおそらく土入川と和歌川の間の三角州(雑賀荘)の真宗門徒達が中心なのだろうと思います。
土入川沿いの中野城は交易拠点でここを雑賀衆が抑えることで鉄砲の入手が困難になった根来寺との対立の構図があるということですし。

そして和歌川の東岸は雑賀衆と敵対することになった日前宮や根来寺と関わりが深かったのでしょうね。それで信長の軍勢を案内したのでしょう。紀三井寺も織田側の陣所になっていたのではないかと思います。

小雑賀ですが国体道路沿いにその地名があり(ダイエーの北寄り)
和歌川の東岸ですがそのあたりは雑賀衆側の土地でもあったそうです。
>のぶさん

この時の「雑賀衆」は五緘の分類で言うと、三月十五日付信長朱印状の宛名から概ね「雑賀荘・十ヶ郷」のいわゆる海賊門徒衆で、残る「三緘(宮郷・中郷・南郷)」衆は大半が信長方についていたようです。
信長の浜手軍による中野城落城が二月二十八日で、三月一日以降に平井館が落とされてますが、信長は二十二日に信達で軍を二手に分け進発させているので、小雑賀の戦いがいつ行われたのかが微妙ですね。小雑賀の字名は普通に地図に載っていますが、「がきが瀬」がわかりません。ただ「小雑賀」は中津城にも冠されてますから、結構南北に広い縦長な地名のようです。和歌川東岸の三緘衆は地理的に根来と近い関係にあり、石山合戦でも両者は信長方についています。

三緘衆の中心は宮郷太田党の太田左近宗正ですが、元々この戦い(紀州征伐)は雑賀荘鈴木氏との対立が原因で、左近が信長の出陣を請うたようです。以下、ご参考まで。文中の「本国雑賀之党(太田党)外援をなすに由る」というのがそうです。

「時に織田将軍信長、屡本願寺を攻れとも意を得ることあたはす、本国雑賀之党外援をなすに由るを以て、雑賀を討て其巣穴を払はゝ本願寺計り易からんと、(中略) 太田党その郷導をなせり、中にも太田左近中津ノ城(雑賀ノ荘中野島村の城なり)に
先登して雑賀権太夫を討取しかは雑賀党大に敗れ、主将鈴木孫一降参す(織田氏より賜ふ赦状あり)」
(『紀伊続風土記』)

左近が中津城を落としたとするのは少々疑問ですが、中津城が当時川の東にあったなら理解は出来ます。
>Masaさん
 中津城といえば紀和駅のあたりですね。当時の川との関係はどうでしょうね。
>Masaさん・のぶさん

どうも、遅くなりました。
いやあ、お2人とも、詳しいですね。古文書を読んでるようですが、何というタイトルなのでしょうか?また、図書館にあるのか、所有しているのでしょうか?といっても、古文書の字が読めないですが・・・。

勿論、昔の地形と今の地形とではたいぶ変わっているでしょうから、今の地形からそのまま考えてはダメでしょうね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

和歌山城辺りから秋葉山は同じ山脈だったとか?(つまり、虎伏山や岡山・秋葉山は繋がっていた?)
防衛するには長いかも知れませんが、雑賀の地・住民を守るためでしょうし、昔の人にとってはそれ位の距離を走るのは普通だった・もしくは馬で移動していたのでしょうし、当時の人は声が大きかったとか狼煙で連絡出来たと思います。ま、一定間隔ごとに砦・兵士を置いていたのでしょうが。

>「岸高く候て馬上がらずここを専に弓・鉄砲を以て相塞候間」

江戸時代の頃の和歌山市南部の絵図を見てみると、和歌川は秋葉山のふもと辺りまで川があり、岸高くて・・・のように見えなくも無いです。また、ダイエーの辺りも、昔からあったことがわかります。(岸か浅瀬か、よくわかりませんでしたが。)

火縄銃の射撃距離がよくわかりませんが、医大の前にある和歌川は湾口に位置するので、雑賀城から医大まではかなり距離があるので、玉が届いたのか疑問ですね。例え届いたとしても、命中率が下がるはずですし。
ちなみに、医大前の和歌川は普段、浅いので、攻め渡れたと思いがちだが、ダイエーの横辺りに堰があって、水を止めているからでは?
とはいえ、和歌浦湾は干潟と言われる程、水が引くから、渡れそうだしなあ。もし堰が無い・あるいは堰を開放したままにしたら、和歌川各所の水位がわかると思いますが。

雑賀衆が蛸壺を埋めた・織田軍が馬に乗ったまま渡ろうとしたのも、ダイエーの南にある和田川の底や和歌浦湾の砂浜は掘りやすい泥みたいな砂であることや、埋めたらわかりにくいことから裏付けられるだろうし。
尚、蛸壺を埋めておくと、砂が溜まらないのかどうか・馬上から見えるかは不明ですが。

もしくは、和歌川沿いに進行中、雑賀衆に煽られて、和歌川を攻め渡ろうとしたため、そこを狙い撃ちされて、パニックになったから、陣を敷く暇が無かった?

■小雑賀がきが瀬?

「が」を「の」に置き換えて、小雑賀のきの瀬?で、(大きな?・木が沢山ある)木の側にある瀬、もしくは浅い所?
ダイエー近くの和田川を見てみますと、和歌川よりも水位が浅いし、絵図からしても、ダイエー辺りだと思いますが。
また、近くに杭ノ瀬があるが、伝言リレーで当初の言葉が別の言葉に変わっていくように、地元の人→織田軍の兵士ら→家臣→織田信長→執筆者と、読み方が変わっていった?
織田信長が和歌山に来てないということですが、負け戦だったから、来てないと誤魔化した可能性は?
まあ、堺のどっかのお寺に信長の本陣があったそうで、孫市?が信長を狙撃したという話がありますね。それだけでも、十分ですが。

大阪に本陣があったとしても、戦う以上、和歌山のどっかに陣を置いたはずだし、信長がいなかったとしても、(その代わりの?)大将(もしくは福将)・その他の武将らは誰だったんでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それにしても、根来衆や太田衆が織田軍を案内したとするなら、何故、根来寺や太田城は豊臣秀吉に攻められたんでしょうか?その戦いの後、豊臣秀吉と利害とかで対立したというのなら、まあわかりますが。これらの出来事が混合しているようで、混乱しているので、その辺り、時系列順に整理してもらえませんか?

織田軍の陣は、紀三井寺・名草山辺りだと、秋葉山までちと遠過ぎますし、北から攻めてきた軍隊がわざわざ南まで行って陣を置くのでしょうか?
紀三井寺に陣があったのなら、紀三井寺に古文書や武具などがあるはずでしょう?今だに、その事実を隠してる?
また、撤退のことも考えたら、撤退しやすい平野の方に展開していたと考えるべきでしょうから、どんなに南の方でも、三葛(正行寺・金蔵院・西方寺・高皇神社辺りに置いたと思いますが。

■中津城

北新(真田掘川)辺りでしょうか?それとも、大門川の方?

それにしても、太田城は日本三大水攻めの1つで有名ですが、太田左近は何故、知名度では上であるはずの雑賀孫市よりも、いち早く和駅の東口に銅像が置かれたのでしょうか?何か美談とか実績があるのですか?

■以下の地名、地図を見てもわかりませんが、どこにあるのでしょうか?どうも、すいません。

・原見坂、宇須山、東禅寺山
・香庄 ・若江城
・山の崎の最も和歌川寄りに甲崎砦・・・山の崎って?
・土入川と和歌川の間の三角州(雑賀荘)・・・和歌山市南部全体?
・平井館・・・紀ノ川南部にある中津城を攻めてから、北部にある平井館を攻めたということ?
とりあえず秀吉が根来、太田を攻めたことについてですが、1585年の小牧・長久手の戦いの時に家康側についたからです。それをきっかけに秀吉側は紀州制圧のチャンスと見たのかもしれないですね。

三葛の金蔵院は今でこそ無住の寺ですが中世には大きなお寺だったようですね。
 
>平成の孫市さん


織田軍の陣は、紀三井寺・名草山辺りだと、秋葉山までちと遠過ぎますし、北から攻めてきた軍隊がわざわざ南まで行って陣を置くのでしょうか?
紀三井寺に陣があったのなら、紀三井寺に古文書や武具などがあるはずでしょう?今だに、その事実を隠してる?
また、撤退のことも考えたら、撤退しやすい平野の方に展開していたと考えるべきでしょうから、どんなに南の方でも、三葛(正行寺・金蔵院・西方寺・高皇神社辺りに置いたと思いますが。

ここの質問についてですが雑賀衆側の防備の南端が玉津島砦です。そして甲崎砦は秋葉山の山塊の西端。塩屋バイパスのレンタルビデオ店付近の山あたりがあたりそうですね。


紀三井寺ですが当時それなりの大寺で玉津島砦、妙見山砦のほぼ対岸にある。陣所になったかどうかはっきり記載されていませんし、史料というのも見つかってないようですが、位置関係からして無視できないようなところですね。まあおそらく史料がないにしろ織田軍に抵抗する意思を見せていれば焼き討ちされてしまったんじゃないかと思います。

私も東禅寺砦跡がどこなのかまだわかりません。ただ秋葉山から北に向かっての小高い地域に砦を築きもちろん狼煙なども使って雑賀衆同志での連絡はとりあっていたのではないかと思います。

と裏付ける史料が手元になく想像的な答えになってしまってすいません。
北から攻めてきた軍隊ですが山手側を進んだ軍勢はこうして現在の和歌川で雑賀衆と戦ったのでそこから北上しています。

浜手軍が中野城までの進軍だったのでしょうね。
>平成の孫市さん

>織田信長が和歌山に来てないということですが、負け戦
>だったから、来てないと誤魔化した可能性は?

誓詞を提出して降伏を申し出たのは孫一側ですから、信長は
戦いには負けていないです。降伏を余儀なくされたのは中野
城を落とされ、また平井館をも攻められたか落とされたかした
からではないかと思います。

>まあ、堺のどっかのお寺に信長の本陣があったそうで、
>孫市?が信長を狙撃したという話がありますね。それだけ
>でも、十分ですが。
>
>大阪に本陣があったとしても、戦う以上、和歌山のどっかに
>陣を置いたはずだし、

発言番号3に書いてありますよ。

>信長がいなかったとしても、(その代わりの?)大将(もし
>くは福将)・その他の武将らは誰だったんでしょうか?

信長は上記の通り。他は
【浜手軍】滝川一益・明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆・細川藤孝・筒井順慶・織田信忠・織田信雄・織田信包・織田信孝ら
【山手軍】佐久間信盛・羽柴秀吉・荒木村重・別所長治・別所重宗・堀秀政ら

>それにしても、根来衆や太田衆が織田軍を案内したとする
>なら、何故、根来寺や太田城は豊臣秀吉に攻められたんで
>しょうか?

のぶさんの書かれた通りです。小牧長久手役の際に家康は
井上主計頭を紀州に派遣、根来・雑賀衆を徳川方に付くよう
説得したところ、孫一を含む雑賀衆36人と根来衆5人の計
41人が血判連署状を提出して家康に付いています。
これが秀吉の疳に障ったわけです。
今日和歌山市立博物館で地形分類の専門家の学芸員さんと話をしてきました。

16世紀当時の和歌川はもっと川幅が広く塩屋バイパスのあたりも川だったそうです。

 そして引き潮の時には干潟になった。攻め渡るのなら引き潮時だったかもしれません。でもぬかるんでいるから人も馬も進むのには一苦労するでしょう。そういう意味でも防御ラインとしては適当だったのでしょうね。

 蛸壺はだから今の川底ではなくて塩屋バイパスあたりを掘ったら出てきたりして(笑)。
>のぶさん・Masaさん

そういうことでしたか。

>発言番号3に書いてありますよ。

信長が大阪の本陣にいたのはわかりましたが、信長を除いた織田軍は、和歌山のどっかに陣もしくはそれに準するものを置かずに、戦闘になったということですか?

香庄と若江城の場所を検索してみた所、香庄が滋賀県蒲生郡安土町香庄339、若江城が今の大阪府東大阪市だそうですが、これは奇妙ですね。
紀州征討のために、信長が若宮神社・阪南市まで行って、その日に香庄(滋賀県安土)に陣を置いて(戻って)、また1日で若江城(大阪府東大阪市)に戻ったそうだが、普通なら若江城→香庄と移動するはずだし、そう書くはずだけど?!
また、実際、馬で大阪南部(・和歌山市北部?)〜滋賀まで1日で移動出来るんでしょうか?出来たとしても、途中で休憩とかするだろうし、朝から1日で移動したんだろうか?!戦闘がいつ起きたとか、何時頃、撤退したかにも因りますし。

>信長は上記の通り。他は

これは凄い顔ぶれですね。

信長は戦いには負けてないそうだが、何故、雑賀の地は支配されなかった?普通なら、殺されたはずの孫市らは殺されてませんし。また、織田側が勝ったというのは、権力者の立場で書かれた可能性があるのでは?
雑賀衆にしたら、誓紙を出した=負けを認めたのだろうが、織田軍が撤退した・支配されなかった→領土を守れたのは、実質的に勝ちに等しいのでは?勿論、他地域で騒動が起きたとかで、織田軍が撤退したため、運が良かったとも言えますが。
更に、降伏後、またすぐ抵抗していますし、信長にしては珍しく寛大であったことからして、何かの理由があって大目に見ざるを得なかったのでは?
それに、そういう文書があっても、事実通りに書かれているとは限りませんし、織田軍は戦闘で負けたが、軍事力で勝ってたからかも知れませんし、都合良く改ざんされている可能性もありますし。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>16世紀当時の和歌川はもっと川幅が広く塩屋バイパスのあたりも川だったそうです。

前日、ダイエーの西側にある道路から秋葉山の方を見てみましたが、秋葉山など小山が連なって見えるし、かなり近いですね。
今の和歌川を見てると、かなり深そうなので、馬に乗っても渡れそうに無いし、潮が引かないようですが、昔の和歌川は堤防が無かっただろうから、もっと浅かっただろうし、潮が引いていたんでしょうけど。
また、塩屋街道の交差点の西の方(塩屋自治会の辺り)で道路拡張?の大規模工事をしていますが、あの辺りに蛸壺とかがあるんでしょう?となると、織田軍は和歌川を渡った直後に、蛸壺にはまってパニックになった所を、あの近くにある山々から狙撃されて、戦死者がいっぱい出たんだろうな。

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↓軍は、どこを移動したのか?
現時点で分かる範囲及び推測したのを表示したもの。指摘及び修正可能。

■浜手軍

堺市→信達(泉南市)→淡輪〜若宮神社→みさき公園方面から?(孝子峠?)→紀ノ川北部→平井館?→??

■山手軍

堺市?→信達(泉南市)→風吹峠・根来寺?→紀ノ川沿いに移動し、太田城に入る?→雑賀・和歌川→秋葉山を攻める→雑賀衆の射撃に遭い、撤退?→紀の川北部→平井館?→??
浜手軍ですが木の本峠を越えてやってきたようです。木の本警察学校の下のため池の隣に城山遺跡がありここは別名宗箇城とも呼ばれていました。

 浜手軍の1人だった上田宗箇が築城したという意味なのかもしれないですね。

 そして中野城(貴志南小学校付近が城跡)を攻めて孫市らが降伏文書を出す。しかし降伏文書ではないという説もありますね。
 軍勢の数などから雑賀側が勝ったとは考えにくいのですが、毛利の軍勢が動きだした(本願寺側が雑賀衆を助けるためのものだったかもしれません)ために信長軍は雑賀衆を完全に制圧できずに引き返すことになったということだと思います。
>平成の孫市さん

 香庄の場所ですが岸和田市神於が比定されております。地名も戦国期と現在では表記が異なりますもんね。

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