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聖書研究 福音派版コミュの聖絶について

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これは実は、私の日記の方に一度乗っけたんですけど。
聖書研究っぽいんで載せます。
例によって学校の課題で調べたものです。

-------------------------------
聖絶


― 目次 ―
?.はじめに
?.新改訳聖書においての聖絶
?.古代中近東においての聖絶
?.旧約聖書用例からの聖絶
?.十戒からみた聖絶
?.新約聖書からの聖絶
?.聖絶する神は愛であるか
?.現在においての聖絶

?.はじめに
 聖書は神の啓示の書である。多くの人が新約聖書を読むときにイエスのその忍耐とへりくだり、そして十字架の上で現されるその愛に深く感動し、パウロの手紙を通して多くの生きる指針を見出し、神に愛され神の子とされた者として愛を実践するために悔い改め、神にゆだねて生きていこうと決心する。
 しかし、旧約聖書に目を向けるときにそこには実に血なまぐさい戦いの歴史があり、人を殺してはいけない。と言う神が戦争を引き起こし、人殺しの推進をしているかのように見える。また、歴史の中で聖戦と称して多くの戦いがなされている。それは国に留まらずテロリストや宗教団体が戦う理由として用いている現実がある。
 このような現実の中で「神は愛なり」と言われるキリスト教の神は、本当に愛なのだろうか? 旧約聖書で主の戦いと称して、異邦人の多様性を認めず、まして聖絶と称して女子どもに至るまでの徹底的な殺戮を強いる神が愛の神と言うことができるのだろうか? このような疑問が当然でてくる。 特に宗教同士の争い、民族同士の争い、聖書を立てに戦争を推進する国がある今、その争いに心痛める人はいくら新約聖書の十字架を教えられたとしても、この旧約聖書の記事のゆえに受け入れられないという人もいる。
 また、旧約聖書の読み方としてその時代、その背景にそった読み方をするという一方、新約聖書の光で読む。聖書を聖書によって解釈するという読み方が当然あるが、戦争や聖絶について新約の光をあてようとすると直接黙示録の引用につなげる者が多く、そういった終末的思想にたって神の聖戦と称して戦っている者もいる。本来ならば終末的解釈の前の解釈つまり、イエス・キリストによってもたらされた救済的解釈が必要であるが、事実、新改訳聖書の新約聖書には聖絶という用語はでてくることはなく、直接的、救済史的に旧約聖書の聖絶に対して新約聖書の光を当てることが難しいという現実がある。
 そこで本研究レポートでは聖書が言う聖絶とは何なのか、その意味はなんであるのか、聖絶されるべきものとは何なのか、人を殺してはならないという律法に反していないのか、神は愛であるという神の神性に反していないのか、現代においても聖絶とは起こりえるものなのか? ということを考察する。

?.新改訳聖書においての聖絶
 聖絶とは日本語のしかも新改訳聖書独自の造語である。新キリスト教辞典によると、『「聖絶」という語は、新改訳聖書翻訳作業の折、「完全に滅ぼして神にささげる、神のものとして完全に絶ち滅ぼす、人の使用を禁じ完全に神のものとして神にささげる」の意味を表すヘブル語hrm(名詞形はヘレム)の訳語として考え出された造語である。』とあった。参考までに出エジプト22:20(共同訳では19)の聖絶が他の訳でどのように記されているかをあげると、口語訳:断ち滅ぼされなければならない。 /新共同訳:断ち滅ぼされる。 /NKJ:shall be utterly destroyed /IEV:Condemn to death /NIV:must be destroyed。 となっている。 このことからもわかるように、聖絶とはその多くは滅ぼし尽くすことであり、さらに言えば人は徹底的に殺されるのである。

?.古代中近東においての聖絶
 このような殺戮はイスラエル独自のものであったのだろうか。それとも古代中近東地域全般で行われており、イスラエルがその影響を受けていたのだろうか。この疑問についても新キリスト教辞典では『古代中近東の世界では、しばしば*戦争は町や国の神々(主神)の戦いであると理解され、力のある神の君臨する町や国が戦争に勝つと考えられていた。そして町や村の指導者並びに民にとって、神の戦いを戦うことは、敵を完全に滅ぼし尽して神にささげ、神の怒りを発散し、神の威力を見せ付けることであった。 神の戦いにおけるこの敵の殲滅(せんめつ)を、ヘブル語やモアブ語ではhrmで表した(「モアブの碑石」17行)。?歴代32:14には、アッシリヤの王たちによるこの種の行為が言及されている(?列王19:11、イザヤ37:11では「絶滅させる」と訳されている)。』これはTDOTなどのもこのような背景があったことをいっている。イスラエルは確かに絶滅させることで自国と自国の神の主権を確立させようという背景にあり、そのような中で行われたイスラエルの聖絶はイスラエルの神、聖書の神が他の神々に比類しえない絶対な力の主であり(出エジプト12:12、15:11、詩篇97:9など)、この主が選民イスラエルのために戦われる(出エジプト14:14,25、申命記1:30など)ということを主張している。その証拠にエリコ占拠のおりにイスラエルの斥候を匿い、絶滅の難を逃れた遊女ラハブはイスラエルがエモリ人シホンとその民(申命記2:34)やパシャンの王オグにした聖絶の噂を聞きいていることを告げている。(ヨシュア2:10) まさに聖絶において絶対的な主の力が国々に示されていたのである。 これは現在この記事を読む私達に対しても同様の啓示をしているのではないだろうか。つまり、主こそ力ある神である。 という啓示である。

?.旧約聖書用例からの聖絶
 ここで実際、聖絶という言葉がどのような場面で聖書に用いられているのかを別紙の『新改訳 聖絶マトリクス』を参照しながら見てみる。本来 聖絶は新改訳聖書の造語であってその言語はハラムもしくは、ヘレムというヘブル語である。ゆえに本来はハラム、ヘレムという原語の用例をマトリクス化し解析してみるのがより良いが、考察時間、発表時間という時間的な制約からやはりわかりやすい新改訳聖書でのここでは聖絶の用例を取り上げてレポートする。原語の一覧は付録に上げるにとどめるが、私が見ているところ、原語のハラム、ヘレムという用語が聖絶以外の訳になっている箇所は少ないと言い切ることはできないが、聖絶という訳での用例の方が主流であるといえるとおもう。また、聖絶という訳になっていなくてもその意味するところはほぼ同じ意味である場合がある。
 それでは『新改訳 聖絶マトリクス』の読み方を説明する。各列が意味することはタイトル行にあるとおり、それぞれ『聖書箇所』、『章節』、『命令元』、『理由』、『対象』、『その他』である。(1)や(2)という()付きの数字はその根拠となっている節を示しており、その節は同行の章の中に属するものである。()付きの数字が無い場合は該当章全体から読み取れるものである。空欄になっている箇所や文字がイタリックになっているものは私の解釈である。 『その他』の欄は聖絶ということを理解する上で参考になることを任意で記載している。

私が参考した幾つかの文献もこれらの用例を元にそれぞれが聖絶の意味を解析している。ここでそれらを要約して紹介する。

★BDB
ヘブル語 ~rx .Hiph. ban, devote, exterminate
? be prohibited, forbidden(禁止), unlawful, become sacred(神聖なものとなる);
? make, pronounce sacred(神聖さの宣言), inviolable(侵してはならないもの);
1) カナンやイスラエルの他の隣国を破壊に捧げること(住民を殺し、所有を取り除く)
A)イスラエルのリーダーが宗教的契約として破壊する 
(民数記21:2,3(誓約として)、ヨシュア記6:21、10:1、申命記2:34、3:6、7:2(モーセによって)、20:17(主)、2:10、10:28、35,37,39,40(神聖な命令)、11:11,12,20,21、1サムエル記15:3,8,9,15,18,20)
B) 他の国家、民族が滅ぼすこと 
(?列王記19:11=イザヤ書37:11=?歴代史32:14 ,20:23、エレミヤ書50:21、26(神聖な命令とともに)51:3、ダニエル書11:14)
C) 神ののわざとして (比喩がおおい)  
(イザヤ書34.2、ヨシュア書25:9、イザヤ書11:15)
D) イスラエル人も同じように捧げる 
(他の神を礼拝したイスラエルの町(申命記13:16)、士師記21:11、)
2) 聖なるものとして主に捧げる 
(財産など ミカ書 4:13、レビ記 27:28,29、エズラ記10:8、出エジプト記22:19)
Hif
1-偶像礼拝の禁止  (出エジプト記 22:20(19))
2-大切な所有物の没収 (エズラ記 10:8)
ヘレム 1. devoted thing. 2. devotion, ban;

★TDOT
特定の文脈・用例からくる制限に基づいて以下の意味を定義
The hiphil of hrm means
誰かか何かを聖域のために絶対的永遠的な奉納物として聖別する;
戦争の中で、都市およびその住民を破壊に聖別する;
破壊の原因を出す;
戦争の中で全住民の絶滅;(聖別=捧げる)
The hophal means
確定的に死刑判決が決めること
死刑の執行
(財産の)没収、押収
The noun herem I means
そのものや人を ホファルとして理解して聖別するか、ヒフィルと理解して有罪とする(死刑判決を下された人とする)か、混ぜて理解するか
 聖別、絶滅、殺人の行動


この定義は本質的にまったく漠然としており、多くは不明瞭であり続ける。

 これ以外にも福音主義神学会刊行の『福音主義神学』vol27にある「十戒における殺してはならない」の論文や『新キリスト教辞典』、『新聖書辞典』はBDBに近い観点で聖絶を分析しており、『Dictionary of Old Testament』はTDOTに近い観点で分析している。しかし、どの参考文献からも聖絶に対して二つの観点が抽出される。それは死刑・裁きという意味での聖絶ということと、聖別ものとしての聖絶ということである。
 はたして本当にそうなのであろうか。そのことを考察するために『新改訳 聖絶マトリクス』の対象の人間に着眼してみる。このマトリクスから聖絶されるべき人間は偶像礼拝者、異邦人、聖絶のものを保持した者、御前に集まる召集に応じなかった者、主に聞き従わない者、主に反逆しようとする者である。異邦人は全ての異邦人というわけではなく、イスラエルに立ち向かってくるもの、イスラエルが住まうところで偶像礼拝の罪へといざなう者(偶像礼拝者)である。また、民数記18:14では「聖絶のもの」という表現で具体的な対象があげられていないが、参考文献の多くは死刑に相当する者という見解を述べている。これら聖絶される対象を二分するならば、偶像礼拝者と主に逆らう者(敵対者、内部氾濫者)とすることができよう。前者は列王記以前つまりイスラエルが土地を確保する前、後者は列王記以後つまりイスラエルが土地を確保した以降に良く見られる。(例外はある)。死刑はこの両方に適応されるので3つ目の分類とはなることができないと思われる。このように分類するならば、確かに偶像礼拝者にしろ、主に逆らう者にしろ裁きの対象となるであろう。つまり、聖絶とは神の裁きであった。 という意味合いは正しいようである。
 一方、聖別ものとしての聖絶・・・つまり、神への奉納物という見解は正しいのだろうか? この事を考察するに当たり最初に念頭にあがる聖句は、『しかし、人であっても、家畜であっても、自分の所有の畑であっても、人が自分の持っているすべてのもののうち主のために絶滅すべき聖絶のものは何でも、それを売ることはできない。また買い戻すこともできない。すべて聖絶のものは最も聖なるものであり、主のものである。(レビ記27:28)』である。 聖絶の用例全体から解釈するとき、聖絶すべき人とは前述しているように神の裁きの対象である。また、畑や財産などの没収を聖絶とするとき、それは聖絶された国や民族の財産や、主に逆らい裁かれたものの財産である。また、この箇所の文脈の中で28節以前は主に捧げるが贖うことができるものについて記載されており、主に捧げたものが必ず贖うことのできないものであるというわけではない。29節には『人であって、聖絶されるべきものは、贖われることはできない。その者は必ず殺されなければならない。』とある。重複するが人であって聖絶されるものとは、死刑の対象であり、神の裁きの対象である。このような人と同様に贖うことのできない畑や家畜、所有は聖絶対象となる人と同様の性質を有しているものと理解できないだろうか。エクスポジターズのレビ記28:27の注解の中で聖絶の原語、heremについての説明としてこの語には、聖(total holy)と邪(total evil)の二つを有しているとある。ここで着目する性質とは邪の性質、神に呪われるべき性質である。 贖うことのできない畑ということで具体的に上げられているのはレビ記27:20-21である。この畑は神に聖別された畑で、しかも他人に売られたものである。この畑は買い戻すことはできず人から聖絶された畑として主のものとなる。神に捧げたものというと、いわゆるきよい性質のもとして理解しがちであるが、聖別された畑にも関わらず他の人に売られた畑がきよい性質ものとして神に捧げられる奉納物であったということができるだろうか? わたしは本来聖別されてきよい物とされた物が他の人に渡ったことにより神にのろわれるべき性質を帯びた。それゆえ買い戻すことのできない、聖絶のものとなったと理解する。 この事を説明する上で聖絶された人たちがどのように扱われたかを用例から着目する。聖絶されたエリコは呪いの町として復旧を禁止され廃れるままにされた。(ヨシュア記6:17-21)また、聖絶されたエルサレムの王、ヘブロンの王、ヤルムテの王、ラキシュの王、エグロンの王は木にかけられた。続くマケダ、リブナ、ラキシュ、エグロン、ヘブロン、デビルも同様に木につるしている。この木につるすという行為は見せしめというわけではく、恐らく呪われたものとしての象徴の意味があるであろう。このような事から聖絶のものは神に奉納物として確かに捧げられたが、それは呪われたものを捧げるという奉納物であり、いわゆるきよい捧げ物とは一線を画すものであったといえる。神はなぜそのようにされたのか。それは神ご自身の聖さを示すものであったのと同時に、神の民への配慮、主に聖別されたものがこれらのろいの物によって影響を受け、さらに呪われたものとならない為に聖絶のものとされていると私は理解する。呪われた物を所持して呪われないのは絶対的な聖さをご自身の神性の中に秘められた神のみであり、それ以外のものはそれに触れる時に呪われたものとなってしまう。ゆえにこのレビ記27:28のような警告があり、申命記7:2のような理由が記載されているのではないだろうか。

?.十戒からみた聖絶
 聖絶は十戒に反してはいないのだろうか? 特に「殺してはならない」という第六戒に反していないのだろうか? これについてはまず、聖絶についてというより、この第六戒が指す言葉の意味について着目しなければならない。幾つかの文献によるならば、この律法の「殺す」という言葉のヘブル語רצהという言葉は主に「共同体において公認されていない」暴力的な人殺しや殺意を伴った人殺しのことを指すようである。また、この言葉の多くはイスラエルの共同体の中で同胞に対する殺人に用い、異邦人の殺人に対してはあまり用いられていない。それゆえ対象は異邦人であり、一意の殺意を元に殺すのではない戦争や聖絶はこの律法に反していない。という考え方もできるようである。しかし、実際にはרצהという言葉は意図的でなく、誤って人を殺害した(過失致死)の者にも用いられている用例がいくつもある。事実、のがれの町はそのような者のために用意された律法に準じた町である。
こういった内容を踏まえた上で戦争をどう判断するかという事に対しては幾つかの本で論じられているのでそちらに判断を委ねるとして、聖絶はどのように判断できるであろうか。前記の用例からの聖絶の意味を考慮すると、聖絶は神の裁き、死刑としての意味、共同体に呪いの性質が伝播しないように神が聖(区別)とするという意味があった。 私は裁き的な意味としても、神の呪いからの区別(聖別)としての意味としても共同体(イスラエル)を守るという意味が聖別には大きいと判断する。そうであるならば、明らかに共同体において、しかも、神による共同体を守るものであり、それは共同体に公認されるべきものだったと判断する。
この件については結論を急ぎすぎており、さらに多くの検討と論証が必要であると私も理解しているが、本研究レポートにおいては、今はここまでに留める。

?.新約聖書からの聖絶
 冒頭で記したように、聖絶という言葉は新改訳の新約聖書には一度として出てこない。しかし、聖絶という造語の元になったヘブル語 חרם (ハラム/ヘレム)が七十人訳ではどのようにギリシャ語に訳されており、その用語が新約聖書にはどのように用いられているかということを検証する中で新約の光を当てることができるのではないだろうか。
 ヘブル語 חרם (ハラム/ヘレム)が七十人訳ではαναθεμα (anasema)というギリシャ語に訳されている。この言葉の意味はどういったものであろうか? 以下、バウアーの要約を掲載する。

αναθεμα (anasema)
1)神に奉納された、捧げる =αναθημα
ルカ 21:5
宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。 (やもめが2レプタを捧げる場面)
2)呪われたもの、呪われた、いまいましい
 70人訳ではハラムという語に当てはめており、「呪わしいもの」としてか「聖別」として、神に捧げられます。 
 新約聖書では「呪わしいもの」として明確に利用されている。
 (旧約:民数記21:3/ 申命記7:26/ ヨシュア記6:17/ 7:12/ 士師記1:17/ ゼカリア14:11{新改訳:絶滅})

 新約聖書の用例 {新改訳}
  ローマ人への手紙
    9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
  ?コリント人への手紙
    12:3 ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。

  ガラテヤ人への手紙
    1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
    1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
   → 新共同訳では 「神からみ捨てられよ」 になっている。

3)のろいと表現される内容、呪いそのもの、誓い
70人訳ではαναθεματιζειν という言葉で 申命記12:15,2017 に書かれている。
(いずれも新改訳だと聖絶になっている)

 使徒の働き
  23:14 彼らは、祭司長たち、長老たちのところに行って、こう言った。「私たちは、パウロを殺すまでは何も食べない、と堅く誓い合いました。(「呪い合った」ともとれるのではないか)

 これらからヘブル語 חרם (ハラム/ヘレム)のギリシャ語訳αναθεμα (anasema)も奉納物という表現であることがわかる。しかし、この場合の用例ルカ 21:5は聖絶とは意味合い的に近くはない。寧ろそれ以外の2)呪われたもの、呪われた、いまいましい 3)のろいと表現される内容、呪いそのもの、誓い の方が聖絶の意味合いに近いものであろうし、実際バウアーもその関連性を記している。
 では、新約におけるαναθεμαの用例から実際どのようなものが新約において呪いの対象となりえたのかに着目して一覧する。

ローマ人への手紙 
 9:3・・・キリストから引き離されて、のろわれた者となる・・・

?コリント人への手紙
12:3・・・神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」
と言わず、・・・ (御霊によって語らない者、御霊に逆らう者?)
16:22 主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。・・・

ガラテヤ人への手紙
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
   → 新共同訳では 「神からみ捨てられよ」 になっている。

 これらの一覧からどうやら呪われる対象はキリストから引き離される者、御霊や福音に逆らう者。そして、呪いとは神から切り離されることを指しているようである。ここに旧約における聖絶、つまりヘブル語 חרם (ハラム/ヘレム)との共通性を見出すことができるのではないだろうか。キリストから離れる、神からみ捨てられるということが呪いであり、そのように神から反するようにするものが呪いの対象になるのであれば、まさに聖絶における対象、偶像礼拝への誘惑をするもの。神に従わず裁かれるべきもの、呪いの属性を帯びるものということに一致すると言えるのではないだろうか。
 つまり、新約聖書において聖絶とは、もはや単純に物理的に神に逆らうもの、呪われた者を殺すということではなく、キリストから離すこと、神との断絶という霊的な意味となっているようである。

?.聖絶する神は愛であるか
 今まで旧約聖書用例からの聖絶の意味、十戒との関わり、新約聖書における聖絶ということを考察してきた。確かに聖絶は血なまぐさい徹底的な殺戮に見える。しかし、そこには神の裁きと呪いからの神の共同体の聖別という意味合いがあったことがわかった。 この神の共同体、旧約においてはイスラエルの民であるが、この共同体はアブラハムを一方的に選びだされた神の愛からはじまっている事を忘れてはならない。この選びは救済史的な解釈をするのであれば、私達が今授かった救いの選びの予表であると言うことができるのでないだろうか。そして、この選びは神に愛がないゆえにあるのではなく、寧ろ神の愛のゆえに一方的な恵みのゆえに裁かれるべきものが選びだされ救いに与るのである。
 神の民とは神が聖別した民であり、神に愛された民である。そうであるなら、この民が再び神から離れ(偶像礼拝などで)呪われた者となることを防ぐべく行われる、神の裁きと呪われた者からの聖別である聖絶は神の愛のわざと言うことができるのではないだろうか。
 乱暴な言い方になるが、もちろん、これは神の選びの教理を理解できないもの。まだ、救いの恵みに与っていない者に対しては到底理解できないことであろうし、万人救済論的な視点を持つ場合も理解することができないであろう。その場合、聖絶とは無視すべきこと、もしくは旧約の一部、もしくは全部には神の権威がないといった観点にまで達しなければならなくなってしまうであろう。しかし、私達、聖書の霊感を十全のものとして受け入れる者としては聖絶に対しても又神の救済の計画があり、それを啓示するものとして受け取っていく必要があるであろう。

?.現在においての聖絶
 現在はどのような時代と言えるであろうか。アダムの最初の罪において人は呪われたものとなってしまった。その意味ではこの時、人は肉的にも死をもつようになり、霊的に死んだと言うこともできるのではないか、そして、神はアブラハムを選び出し、イスラエルを神の民として選ばれた民とし、出エジプトという形で神の贖いをしめされた。これは救いの予表であったことはいうまでもなく、神はまず目に見えない霊のことのみを啓示されたのではなく、イスラエルの贖いという目に見える形で啓示された。そして、聖絶において神の主権と神の民を神から引き離すことに対する徹底的な裁きと、神の民を守られるということを示される。新約においてついに霊的救済の啓示にまで達し、イエスキリストの十字架による贖いによってイスラエルのみならず、肉的には異邦人であっても全世界の人に霊的な救いがなされたことが啓示されている。そして、後の日、やがてキリストが再び来られる時、今の不完全な肉体をも復活によって完全に贖われ、霊と肉における救いは完全に全うされる。少しディスペンセーション的な書き方になっているかもしれないが、聖書は漸進的な啓示の書であり、神と神の救いを啓示している書であるとするならば、このように言わざるえないと私は思う。乱暴に聖書の啓示を区分してしまうのであれば、アダムの罪による肉と霊の死以降、イスラエルの歴史を贖いの予表として啓示し、キリストの初臨による霊の贖い、再臨による肉の贖いという啓示のされかたがされているのではないだろうか。
 ゆえに現在はどのような時代であるのか。という問いに対して、この救済史的(贖罪史的)見解から言うのであれば霊の救いの時である言えるのではないだろうか。完全な肉の贖いはやがて来ることは啓示されているが、いつ来るかは啓示されていない。それは父なる神が知っておられることであり、救い贖いがなされるのは何時の時代においても創造の日から終末の日に至るまで神の一方的な恵みの御業である。時に戦争や異教徒の殺害を神の業の聖戦であり、聖絶であるとして推し進めようという人がいるが、それは寧ろ神の業を人の業としてしまっている事であり、私達はマラナタ、主よ、きませりと神の時がくるのを花婿を待ち焦がれる花嫁のように用意周到に準備して待つべきである。その用意とは神の子として相応しく変えれていくことであり、待ち続ける堅忍である。
 では、聖絶とは現在において全く意識しないで良いものなのであろうか。私はそうではないと思う。ここでもう一度、レビ記27:22 聖絶されるべき畑がどういったものであったかを見てみる。 この畑は主に捧げられ聖なるものとされたものが、他に売られた畑である。 これは何を意味しているであろうか。 ガラテヤ人への手紙1:8-9で呪われるべき(聖絶されるべき)といわれているのは、真の福音に反する福音をあなたがたに(ガラテヤの教会に)宣べ伝えようとしている者である。
 つまり、主のものとなっているもの、共同体、教会を再び主から切り離そうとするものは聖絶されるべきなのである。それは肉的に殺すことを意味するのであろうか? 今、現在、霊の救いの時においてはそうではなく、主の共同体からの断絶こそが現在における聖絶になるのではないだろうか。 実に恐れ多いことであるが、主ご自身が 

『また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。』
(マタイの福音書 18:15-18)

と言われており、パウロはこのようにいっている。

『それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。』(?コリント人への手紙 5:10-13)

 私達が現在において聖絶すべきなのは、神の共同体の外の人たちなのではなく、寧ろ共同体の内側なのである。

付録
聖絶と訳されているחרםもの
1) ハラム
出22:20 / レビ27:21、27:28、27:29 / 民21:2、21:3、 / 申2:34、3:6、7:2、13:15、20:17、 / ヨシ2:10、6:18、6:21、8:26、10:1、10:28、10:35、10:37、10:39、10:40、11:11、11:12、11:20、11:21 / 士1:17、21:11 / ?サム15:3、15:8、15:9、15:15、15:18、15:20 / ?列9:21、 / ?歴4:41、 / ?歴20:23、32:14 / エズ10:8 / イザ34:2 / エレ25:9、50:21、50:26、51:3
2) ヘレム
 民18:14、 / 申7:26、13:17 / ヨシ6:17、7:1、7:11、7:12、7:13、7:15、22:20
?サム15:21 / ?列20:42 / ?歴2:7 / イザ34:5、43:28

聖絶と訳されていないחרםもの
1)ハラム
2ki 19:11 / isa 37:11, 11:15(?) / dan 11:44 / mic 4:13
2)へレム
ecc 7:26 / eze 26:5,14, 32:3, 44:29, 47:10 / hab 1:15-17 / zec 14:11 / mal 3:24

コンコルダンス( 用例一覧)
★ハラム(動詞)
Hiphil(使役能動態)
過去形
Nu.21:2, Jos.2:10, 8:26, 10:28, 35, 40, 11:12, 21, 1Sa.15:3, 8, 9, 15,18,20, 2Ch 32:14, Isa 11:15, 34:2, Jer.25:9, Mic.4:13
不定詞
  Deu.3:6, 7:2, 20:17, Jos.11:11, 20, 1Sa.15:9, 1K.9:21, 2K.19:11, 2Ch.20:23, Isa.37:11, Jer.50:21, Dan.11:44
 命令
  Deu.13:15(16), Jer.50:21, 51:3
 未来
  Lev.27:28, Nu.21:3, Deu.2:34, 3:6, 7:2, 20:17, Jos.6:18, 21, 10:1, 37, 39, Jod.1:17, 21:11, 1Ch4:41,

Hophal(使役受動態)
 未来
  Ex.22:20(19), Lev.27:29, Ezr10:8

★ ヘレム(名詞)
Lev.27:21, 28, 29, Nu.18:14, Deu7:26, 13:17(18), Jos.6:17, 18, 7:1a, 11, 12, 13, 15, 22:20, 1Sa.15:21, 1K.20:32, 1Ch2:7, Ecc.7:26, Isa.34:5, 43:28, Eze.26:5, 14, 32:3, 44:29, 47:10a, Mic.7:2, Hab.1:15, 16, 17, Zec.14:11, Mal.4:6,

BDB – qdse (聖) קדשׁ
2. of places set apart as sacred by God’s presence
c. any consecrated thing:
consecrated things in gen. Ex 28:38 (P), Ez 20:40; 22:8 +; these may be †(ה)קדשׁים קדשׁ Ez 44:13, so חֵרֶם Lv 27:28
Brown, F., Driver, S. R., & Briggs, C. A. 2000. Enhanced Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon

参考図書
1) 聖書辞典, 泉田昭、宇田進、他編集 いのちのことば社, 1992
2) 新キリスト教辞典. 宇田進、他編集 いのちのことば社 , 1991
3) 福音主義神学 Vol27 福音主義神学会 1996
4) 聖書と戦争 ピーター・c・クレイギ著 村田充八訳 すぐ書房
5) A Greek-English Lexicon of the New Testament and Other Early Christian Literature William Arndt (著), Walter Bauer (著), Frederick W. Danker (著)  Univ of Chicago
6) Brown-Driver-Briggs-Gesenius Hebrew-English Lexicon (1905),
7) Theological Dictionary Of The Old Testment ?, G.Johannes Botterweck, Helmer Ringgren, EERDMANS  (TDOT)
8) Dictionary of Old Testament Theology&Exegesis vol2, Willem A. VanGemeren, Zondervan
9) Expositor's Bible Commentary, Old Testment, FrankE.Gaebelein, J.D. Douglas, Zondervan 1976-1992

コメント(4)

ヘブル語が化けているのご愛嬌ということで・・・。
どうしてもフォローしろといわれれば、アルファベット表記しますが・・・
度々出てくる「マトリクス」ってのは、私の手書きの資料です。
ここにアップロードしました。
http://www.seikei-seminary.org/bible_study/haram_matrix.xls
上記のマトリクスのアップロードは削除しました。
必要なら別の場所にアップロードします。
細かく読み解くだけの力もないのですが、
cherem/charamが、共同体からの隔絶・除去という角度で、
新約聖書での日本語の訳語、「のろわれたもの」<<「呪い」qalalとは、違うニュアンスであることが、理解できました。

ありがとうございます。

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