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白い街 オストゥーニコミュのオストゥーニの歴史

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オストゥーニ市の広報ネットに掲載されている「市の歴史」や他のネット情報も参照し、オストゥーニの歴史を簡単に紹介します。
直訳調でわかり辛いこともあると思いますが、あしからず。


★オストゥーニの歴史★

古い町がこの場所に築かれたのは約二千前である。
町の名前の起源は、言い伝えによればギリシャ語のAstu-neon(新しい町)であると言われている。
ここへ最初に定着したのは、メッサーピ人(紀元前4〜3世紀)だった。

*メッサーピ人: 古い学説によれば、クレタ文明の子孫と言われていた。最近の学説では、イリリア系(バルカン半島の古代民族)とするのが有力。

第二次ポエニ戦争のとき、町は完全に破壊されたが、古代ローマ人の支配下で復活を遂げた。

*ポエニ戦争は、共和政ローマとカルタゴとの間で、地中海世界の覇権を賭けて争われた一連の戦争である。ポエニとは、ラテン語でフェニキア人(カルタゴはフェニキア人の建てた国)を意味する言葉。紀元前264年のローマ軍によるシチリア島上陸から、紀元前146年のカルタゴ滅亡まで3度にわたる戦争が繰り広げられた(Wikipediaから引用)。

ローマ帝国の滅亡後、オストゥーニは、その後長きにわたって続く異民族ないし外国勢力の支配を受けなければならなかった。
東ゴート人、ランゴバルド人、ノルマン人、神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン家(ドイツ)、フランス・アンジュー家、スペイン・アラゴン家がそれらの支配者たちである(このあたりは南イタリアの歴史とほとんど重なる)。
これらすべては、新しい習慣、新しいルール、新しい技術などを町に同化・定着させる長い過程であった。

オストゥーニは常に、封建領主の領地ではなく、王領としての栄光を保持することに成功してきた。

しかし、1639年、 4万ドゥカーティでこの町を買い取ったアラゴン人セヴァジョス(Zevallos)公爵一族による過酷な支配は、オストゥーニの町に闇をもたらした。
1804年までの165年間、公爵家は町のあらゆる富を見境なく搾取した。かくの如き封建化に対し、町はあらゆる手段をもって抵抗しようとした。

1804年、サヴァジョス(イタリア語ではサヴァッロス)一族の支配も終わりを告げる。法外な借金と失政が公爵家を失脚させた。

しかし、自由への希求は、新たにナポリ=シチリア王国の支配者となったスペイン・ブルボン家によって再び阻まれてしまった。めげることなくオストゥーニの人々は、新しい支配者に対して効果的な抵抗を続けた。そして、自由への希望はさらに広がっていったのである。

オストゥーニは、文字通り「リソルジメント」(イタリア統一運動)の拠点のひとつとなり、政治犯の隠れ家ともなった。
そして1860年、ブルボン家の盾がついに地に墜ちたとき、三色旗がオストゥーニの上にはためいたのである。

ドナート・コッポラ教授の研究によってもたらされた、最近の考古学上の一大発見によれば、オストゥーニとその周辺には、今まで考えられていたよりもっと古くから住民がいたことがわかった。
サンタ・マリア・ダニャーノ(S.Maria d'Agnano)教会の地下納骨堂の近くから発見された若い女性の遺体は、旧石器時代(約24000年前)に属することが判明したのである。

コメント(1)

久しぶりに歴史の授業を受けた気分です。2000年前というのは・・・・日本って本当に遅れてましたね。

歴史を知ってその町を訪れるっていうのもいいですね。でも世界史をちゃんと勉強してないわたしは、もう一度ローマ帝国時代あたりをしっかり勉強しないと、オストゥーニの歴史も分からないですねえ。

がんばります!!!

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