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都立久留米高校 17期生コミュのブルーインパルス墜落

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高校2年 修学旅行の前日 1982年(昭和57年)11月14日(日)

ブルーインパルス墜落

F-86Fブルーインパルスの最終展示飛行から約1年半が経過した1982年7月25日、
松島基地航空祭において、T-2を使用したブルーインパルスでは初の展示飛行が実施され
同年8月8日に行われた千歳基地の航空祭からは本格的なアクロバット飛行による展示飛行が開始された。

ところが、同年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において
「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず、
辛うじて水平飛行に戻したが失速状態に陥り、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した。
これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり、
墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た上、
航空祭には報道のカメラも入っていたことから、事故の一部始終を録画した映像が夕方以降のニュースで繰り返し流される事態になった。
多くの報道では「危険な曲技飛行」として扱われ、ブルーインパルスは発足以来最大の危機を迎えた。

事故原因の究明が行なわれたが、編隊長のブレイクコールは通常より0.9秒遅れており、この短い時間を過失に問えるかどうかが問題となった。
当初は事故調査に対してどのパイロットも非協力的であったが、静岡地方検察庁の杉本一重が「0.9秒の遅れがどのようなものかが分からないと公訴事案とするかの判断が出来ない」と考え、実際にアクロバット飛行訓練に体験搭乗した後は、一転してブルーインパルスのパイロットは調査に協力的になったという。

また、この事故より前に、やはり「下向き空中開花」の訓練中に隊長機のブレイクコールの遅れが発生しており、この教訓からブルーインパルスのパイロットにおいては「リーダー機(編隊長機)の指示が遅れたと判断した場合、そのままリーダー機に追従するように」という申し合わせ事項が作成されていたが、事故機のパイロットはその申し合わせに「編隊長の命令である以上は従う」という理由で拒否しており、申し合わせ事項を明文化した「思想統一事項」が作成された際にも最後まで署名をしなかったという。
ところが、事故調査報告書においては、最終的には編隊長のブレイクコールの遅れが原因と結論付けられたものの、「危険を感じたのであればブレイクせずに編隊長についていくべきであった」として、事故機のパイロットの過失をも問うものになった。
「思想統一事項」の存在が、事故機のパイロットの責任をも問うことになってしまったのである。
その一方、事故機のパイロットは本来の飛行予想ルートからは外れた場所に墜落していたが、
本来のルートの延長線上には住宅地や東名高速道路があったことから、事故機のパイロットは「墜落しても被害の少ない場所」を選んでいたのではないかと推測されているが、
事故機にはフライトデータレコーダーやボイスレコーダーは搭載されていなかったため、真相は不明である。

この事故の後、ブルーインパルスは徹底的に活動を自粛していた。
松島基地のある周辺自治体でも「ブルーインパルスは出て行け」という雰囲気で、とても訓練が出来るような状況ではなかった。
しかし、航空自衛隊にとっても広報活動の大きな柱を失うわけには行かなかった。
実機の飛行とシミュレーターによる徹底的な検証が行われ、安全対策を検討した結果、
1983年10月30日の朝霞駐屯地における自衛隊観閲式での展示飛行から活動を再開することになった。
しかし、この時点での活動は航過飛行のみで、アクロバット飛行についてはその後も慎重に検討された。
最終的に、展示飛行の際の飛行高度引上げ、「下向き空中開花」の課目からの除外などを条件にして、1984年7月29日の松島基地航空祭からアクロバット飛行を含む展示飛行が再開された。

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