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埋もれた偉人 無名の偉人 コミュの埋もれた科学者 発明家 研究家   

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科学や研究などで業績を上げながらも忘れ去られてしまった人、栄光を手中に収める筈が、そうならなかった悲劇の天才科学者等を紹介して下さい。

まずは、「クーロンの法則」をクーロンよりも先に発見し、「オームの法則」をオームよりも先に発見したにも拘らず、それらを発表しようとせず、その約100年後に電磁気学で活躍するマクスウェル James Clerk Maxwell (1831-1879) によってその業績に光が当てられた、

「科学者版ヘンリー・ダーガー」こと、
ヘンリー・キャヴェンディッシュ
Henry Cavendish (1731-1810)

彼は極度の対人恐怖症で、殆ど誰とも話さず、面会人も断固拒絶。
服装も、50年程時代遅れのものを着ていた。
アスペルガー症候群の可能性がある。
召使いと会わないようにするため、テーブルの上に献立を書いた紙を置いて、それを後から召使いが見るという様にしていた。
或る時女中と階段でばったり出会い激しく動転してしまった事がきっかけで、召使い用の第2階段を造らせてしまったというユニークなエピソードがある。
この性格だと肖像画等作られていないだろうと思いきや、王立協会の或る会合の時にこっそり画家を紛れ込ませ、遠くからスケッチしたものを元に制作された肖像画が残っている。

コメント(9)

三松正夫 Mimatsu Masao (1888-1977)

北海道有珠郡壮瞥町の郵便局長、アマチュア火山学者
北海道伊達町(現・伊達市)生まれ
1943年に有珠山東側の麦畑から突然隆起して誕生した昭和新山の研究に、人生をかけた。
昭和新山を定点観測し、その成長過程をスケッチしたものを元に作成した「新山隆起図」は、1948年にオスロで開かれた「万国火山会議」に於いて専門家から高く評価され「三松ダイヤグラム」(Mimatsu Diagram)と名付けられた。
1946年には、昭和新山を荒廃から守る為、私財を投じて丸ごと購入した。
現在では、「三松正夫記念館」(昭和新山資料館)が立てられている。
西村真琴 Nishimura Makoto (1883-1956)

長野県松本市生まれ、植物学者

広島高等師範学校(現・広島大学教育学部)博物学科卒業
京都の乙訓町高等小学校長、満洲の南満洲遼陽小学校長等を経て渡米。
1920年、コロンビア大学から博士号取得。
1921年、北海道帝国大学理学部教授に就任。
1927年、阿寒湖のマリモの研究により、東京帝国大学より理学博士号を取得。
同年、大阪毎日新聞社入社。
1928年、東洋初のロボット「學天則」を制作。京都の昭和天皇御大礼記念博覧会に出品。
大阪毎日新聞社社会事業団内に、全日本保育連盟を結成。初代理事長に就任。
その後、民国窮民孤児援護会(1938)隣邦児童愛護会(1941)の結成など、幼児教育に尽力した。
阿寒湖のマリモの保護に尽力した功績も忘れてはならない。

次男・晃は俳優で、映画「帝都物語」で西村真琴役を、「水戸黄門」で水戸光圀役を演じた。

東洋初のロボット「學天則」は、机の上にロボットが乗った形をしており、空気圧によって表情を変え、腕を動かした。
「ロボット」という言葉は、チェコ語の「強制労働」を意味する「robota」から来た言葉で、カレル・チャペックの戯曲「RUR」(1920)で最初に用いられた。
画家である兄ヨゼフ・チャペックが名付け親らしい。
しかし、東洋初のロボットは、その「ロボット」の語源に全く沿わない内容だった。
微笑み、腕を動かしたりするが「奴隷」とも「強制労働」とも無縁の内容だ。
様々な人種を掛け合わせたという顔、
「天則(自然)に学ぶ」という名前の由来、
左手に持った「霊感灯」と呼ぶ灯かりなど、深い哲学的なものを感じる。

「學天測」は、ドイツに渡ったあと行方不明になってしまったという。

「大阪市立科学館」には、動かない複製品が展示されている。
渡辺哲信 Watanabe Tesshin (1874-1958)

広島県の三原西町にある浄念寺に生まれた住職。

西本願寺の宗主である大谷光瑞(1876-1948)によって「大谷探検隊」メンバーの一人に加えられ、仏教伝播の足跡、遺跡調査を行った。

1902年、光瑞は、ロンドン留学からの帰路を利用し、中央アジアの仏教遺跡調査を企画。

しかし、第21代明如上人が急逝したため、光瑞は急遽帰国を余儀なくされた。
堀賢雄(ますお けんゆう)と渡辺哲信は、カシュガルで光瑞と別れ、別ルートを辿る事になった。

2人は、ホータンからトルファンを経て西安に到達するまで、1年7ヶ月も掛かった(1904年)。


参考文献・「忘れられた明治の探検家 渡辺哲信」白須淨眞(中央公論社)

大谷探検隊100周年「仏の来た道」(西本願寺)
http://www.hongwanji.or.jp/2002/Ootani100/2002otm_12.htm

特集「仏の来た道」集大成(龍谷大学)
http://www.ryukoku.ac.jp/university/kouhou/shuppan/kohoshi/kohoshi56/tokshu_2.html

渡辺哲信と周辺の人々(いちもん30号)
http://www.bekkoame.ne.jp/~hujino/no30/30matuzaki.html

渡辺哲信(郷土三原ゆかりの人たち)
http://www.town.kui.hiroshima.jp/tosho/discover/16watanabe.htm
コルネリウス・ヤコプスゾーン・ドレベル 
Cornelius Jacobszoon Drebbel (1572-1633.11.7)

オランダの発明家

アルクマール Alkmaar 生まれ
ロンドン London 歿

初頭教育しか受けず、大学へは進学しなかったが、様々な発明を行う天才肌だった。

一般に存在が確認されている中での世界初の潜水艦の発明(1620年)。

1600年頃、熱した硫黄と硝石から、当時としては最も効率よく硫酸を得る方法を確立。この手法は、それから150年後に登場するジョン・ローバック John Roebuck(1718-1794、イギリスの化学技術者)の「鉛室法」につながっていった。

凸レンズを2つ備えた顕微鏡の発明(1619年)。

大気の変動を利用した永久時計の発明。

錫塗料の開発。

参考資料
http://en.wikipedia.org/wiki/Cornelius_Drebbel
(日本語版のウィキは未だ書きかけなので、URLが長すぎるので、英語版を示した。そこから日本語版へ行ける)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A1%AB%E9%85%B8
西谷退三(Nishitani Taizō, 1885-1957)

本名・竹村源兵衛

明治18年、高知県高岡郡佐川村(現・佐川町)に、
代々続いた薬種問屋の長男として生まれる。
札幌農学校に在学中、植物学の講義で使用された
ギルバート・ホワイト(Gilbert White, 1720-1793)の
『セルボーンの博物誌』(The Natural History of Selborne)に魅了された。
同校をニ年程で中途退学。

帰郷すると、長男であるために家業を継ぐが、商売には興味が無く、
番頭などに代わりを頼み、自らは趣味に没頭していたという。

1923年(大正12年)までに『セルボーンの博物誌』の翻訳(第1稿)を
済ませていた西谷は、実証的に検討しなければならないとの思いから、
同年叔父に家業を譲り、欧米遊学の途についた。

『セルボーンの博物誌』に関係する書籍80冊ほどを収集したほか、
セルボーン村にギルバート・ホワイトの足跡を訪ね、墓石の拓本を採る事すらした。

イギリスに渡る前は、アメリカに滞在していたが、
ラルフ・ウォルドー・エマソン(Ralph Waldo Emerson)や
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)
所縁のコンコード(Concord)に特に魅了され、そこをよく訪れていたという。 

帰国後、『セルボーンの博物誌』の翻訳に生涯を捧げるため、
故郷の西谷に隠棲する。
”西谷退三”というペンネームは、1942(昭和17)年頃から雑誌「動物文学」に
寄稿する際に名乗った様だが、「西谷に退く(隠棲する)」という意味合いが
込められているものと思われる。

手に入れた書籍を細密に検討し、自らの註釈も加えながら訳出に努めた。
実は、1946年に出版の話が出ていたものの、頓挫。
1952年にも、池田書店からの出版が決定。
蔵書を売る事で出版費用を賄おうとしたようであるが、
その後も原稿の推敲を重ねたようで、死の数日前に決定稿が完成したという。

生前彼は、雑誌に時々寄稿したり書画を蒐集している隠棲者と見られていたが、
『セルボーンの博物誌』の訳業については、極親しい僅かの者しか知らなかった。
子供の頃は腕白だったようだが、晩年は“優しい物静かなおじさん”と
言われていたようである。

独身を貫き、清廉で高潔な生涯を閉じたあと、同郷の友人にして
江戸川乱歩を発掘し横溝正史を育てた事で知られる森村雨村(編集者:小説家)
の尽力によって西谷翻訳による『セルボーンの博物誌』(1958,200部)が出版された。

西谷の1万点もの厖大な蔵書は、死後佐川町が一括購入。
『西谷文庫』として佐川町の所有となった。

佐川町は、森村雨村のほかにも、植物学で知られる牧野富太郎など、
数多くの著名人を輩出している。

【資料】
http://sakawa-kuroganenokai.org/sub/history/people_in_history.html
http://www.eonet.ne.jp/~pitta-selbornian/selborne-6.htm
http://www.mystery.or.jp/kaiho/0512/tantei.html

※資料によって内容に食い違いがあるため、2011年4月27日に青山文庫を訪れ、
西谷の経歴についての確認を行いました。
その資料を中心に、経歴を構成しました。



『西谷文庫の世界』展
場所:佐川町立青山文庫(高知県高岡郡佐川町甲1453-1)
会期:2011/4/9(土)-6/26(日)
休日:月曜日
http://www.town.sakawa.kochi.jp/bunka_kanko/seizanbunko.html
シャルル・エミール・レイノー
Charles-Émile Reynaud(1844-1918)

フランスの理科教師にして発明家



一般的に、本格的アニメーションの元祖は、

『愉快な百面相』(ジェームズ・スチュアート・ブラックトン)
"Humorous Phases of Funny Faces"(1906)James Stuart Blackton
『ファンタスマゴリー』(エミール・コール)
"Fantasmagorie"(1908)Émile Cohl

等と言われているが、実は、レイノーの

『哀れなピエロ』(1892)Pauvre Pierrot
『一杯のビール』(1892)Un bon bock
『道化師と犬』(1892)Le clown et ses chiens
が、世界最初の本格的アニメーションだという。

レイノーによって、動画をスクリーン上に投影する装置である
『テアトル・オプティーク』が発明され、

1892年にグレヴァン蝋人形館(Musée Grévin)
に於いて行われた
『光のパントマイム』(Pantomimes Lumineuses)
と題された、世界初のアニメーション上映会にて公開された。

テアトル・オプティーク(Théâtre Optique)(Wikipedia, 日本語)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%AF

シャルル・エミール・レイノー(Wikipedia,日本語)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%8E%E3%83%BC

しかし、1895年にリュミエール兄弟(Auguste et Louis Lumière)
による映画の公開が始まると次第に客足が途絶えてしまい、
1900年に上映が中止されてしまう。

彼は絶望のあまり、テアトル・オプティークを破壊したうえ、
テープと共にセーヌ川に投げ棄ててしまった。
1917年、失意のうちに
イヴリー・ホスピス病院(l'hospice des incurables d'Ivry)で病没。

幸いにも一部が破棄を免れていたため、
映像が現在に伝えられる事になったようだ。

世界初の本格的アニメーション制作者であるのみならず、
リュミエール兄弟が映画を公開するよりも数年も早くの公開という
驚くべき業績を上げたにも拘らず、何故か知名度がかなり低い。



【画像左】
レイノーの肖像写真

【画像中】
1892年のレイノーによるテアトル・オプティーク初上映
ルイ・ポイエ(Louis Poyet)画

【画像右】
『光のパントマイム』ポスター
ジュール・シェレ(Jules Chéret)画


『哀れなピエロ』(1892)
http://www.youtube.com/watch?v=ncWIXUwN6SY

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