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有明の仲間達コミュの論理は仮説が前提。

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 英語の学習をしようと「国家の品格」の日本語英語対訳をamazonから購入した。英語にはなかなかいけないで、日本語文を「なるほどなるほど」と読んでいる。

 著者藤原正彦さんの言葉を借りれば、「論理は一つの仮説を出発点としている」というのだ。そしてその出発点である「論理」は人間の総合的な情緒的な宗教的な文化的なものから出発しているから、その仮説が正しいことを証明することは不可能とのことになる。ゆえに、論理で全てを証明できないことになる。

 例えば、「児童虐待をしてはいけない」との論理があるとする。しかしながら、それは平和の中である一定条件の中での論理であり、全てがこの仮説で成立するとは言いがたくなる。ある原因等により特定の危険行為を行う子どもがいた場合に、実力行使が必要となることがある。自損行為が激しく、拘束衣を着せておかなければ、自分自身を傷つける子どももいる。そして週に1回身体をきれいにする時に、その子どもをみんなで押さえつけて、きれいにすることがあることをどれだけの人が知っているであろうか?そうした状況も知らないで一つ覚えで「児童虐待禁止」の論理を言い張る「学者」たちを応援するマスコミにあきれるこの頃である。

 論理が一つではないこと。論理は一つの仮説から出発していること。そしてある一定の仮説が成り立つとしても、それは状況によってまったく違った対応になることもあるのが、実際の世の中ではないかと私は思うのである。

 マスコミやみんなに受けのよい論理は反論しがたいことがあるように思える。こうした反論しがたそうにみえる論理にのかって、自分の主張を無理矢理に主張している人が多いことに困った状況に感じる。
 反論しがたそうにみえる論理とは
・死刑廃止
・児童虐待やいじめの禁止
・男女共生
・少数者の権利の主張
・障害者の権利の主張
・エコこそが正しい
・地球に優しい
・セクハラやパワハラの問題
などなどである。これらのことを主張していれば、自分は正しいとの主張が間違いである。ようはその仮説が本当に論理の出発点として必要か。また仮にその仮説が論理の出発点としてあったとしても個々のケースの場合において、その論理だけでは手に負えないことがあることが存在することだ。また、物事はオールオアナッセングではなくて、あいまいなことが多いことだ。

 具体的なことで考えてみよう。いじめはいけないとの論理が絶対的に正しいとする。ある子どもがある子どもを「デブ」等と罵ったとする。これに対して、言われた子どもが殴ったとする。これをどちらも虐めととるか、デブといったのは言葉だから良しとして、殴ったことを虐めとするか、逆に言語の暴力こそ許せないと言語の暴力を虐めと取るか。最後にその両親がそれぞれ虐めと訴えたら、どちらが正しいことになるか。こうした状況を放置した教員を追及するのが正しいか。その結果として、教員が鬱病に追い込まれたら、両親の教員に対する虐めとなるか。などなど、論理だけでは解決できないことが世の中の常なのだ。

 私なら、ジャンケン遊びをしてお互いに「デブ」「バカ」などと仮想社会のごっこ遊びの中でこうしたエネルギーを解消して、草取り、ゴミ拾いなどのお手伝いをたくさんさせて、ご褒美をあげて仲良くさせたいなあと思う。

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