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グレアム・サザーランドコミュのイギリス美術の系譜

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主題性の解体へ

 大戦後間もなく、多くの画家たちがふたたび伝統的な絵画形式に回帰してゆくが、同じような現象(イギリス絵画が大陸の前衛芸術と真正面から向き合うことになった1910頃〜)は、以後のイギリス美術の展開のなかにもたびたび見出せるのである。たとえばスタンリー・スペンサーは、しばしば閉じられた庭園を舞台に、ラファエル前派を彷彿させるようなきわめて「ナラティヴ(物語風)」な画面を描きつづけたし、ポール・ナッシュやグレアム・サザーランドは、シュルレアリスムや抽象絵画の影響を受けつつも、繰り返しイギリスの風景から霊感を得た。肖像画をはじめとする人物画の伝統もまた、フランシス・ベーコン、ルシアン・フロイド、そしてデイヴィッド・ホックニーらによって、今日に至るまで脈々と受け継がれてきている。
 20世紀のイギリス絵画は、さまざまな国際的潮流と深く関わり合いながら発展してきたが、その根底にはやはり、かつてウィリアム・ホガースが提唱した「イギリス人によるイギリス絵画」の理念がーいい換えれば(「国内の」という意味において)「ドメスティック」な特質が生きつづけているといえよう。


あらかわ・ゆうこー美術史家

コメント(8)

ムーアの風景
 
 ロンドンの東北方、マッチ・ハダム近郊の田園地帯にヘンリー・ムーアのスタジオはある。1940年以来50年近くにわたって、彼はこの地で制作を続け、没後もそのスタジオは保存され、今日では一種のムーア研究センターとしての機能を果たしている。緑なす緩やかな起伏の一帯に白塗りの住居やスタジオが点在し、ムーアの彫刻の傍らでは羊が草を食んでいる。ムーアの彫刻の本質や背景を理解するには、このうえない環境である。
 イギリスの近代彫刻を考えるとき、今世紀初頭ヨーロッパ大陸のモダニズムに呼応しつつ格闘していたアンリ・ゴーティエ=ブジェスカ、ジェイコブ・エプスタインといった彫刻家の名を忘れることはできないとしても、真の意味で独創的なイギリス固有の芸術を生み出したのはムーアである。ムーアはギリシア・ローマ以来の彫刻の伝統に学び、ブランクーシといった同時代の前衛の仕事にも敏感に反応し、のみならず遠く古代メキシコ彫刻にまで関心を広げていく。1929年の《横たわる人物》はその重要な達成のひとつだ。しかし、それだけでこの地母伸のような生命力に溢れた雄大なフォルムの秘密が説き明かされるわけではない。
 具象的なフォルムからより抽象度の高いフォルムへ。《横たわる人物》は生涯を通じ繰り返し試みられるモティーフである。それはあくまで人体の比喩であるとしても、背後にはイギリスの風景が透けて見える。大地から生まれたかのような、どっしりと充実したかたち。半ば起こした上体と横たえられた下肢。勢いよく伸ばされた、あるいは関節で折り曲げられた四肢。充満する力が緊張の果てに開放されていく。分節され、かつ連続する量塊に抱かれた空間。巧みな造形はイギリスの田園のアナロジーでもある。緩やかに起伏し、伸び拡がる牧野。なだらかなカーヴで高みを増していく丘陵。ムーアの造形にはあきらかにこうしたイギリスの風景への言及が窺われる。
 よく知られているように、ムーアは奇妙な形の石や木の枝、動物の骨や化石といった、自然が生み出したものを熱心に収集し、しばしばそれらから霊感を得ていた。彼のバイオモルフィックで有機的なフォルムの源泉はここにこそある。それゆえに、彼が暮らし、制作したマッチ・ハダムの緑の風景のなかでイギリスの自然に取り巻かれながら、その作品を観ることの意味は大きい。普遍的な造形言語の探求と自然との思いがけぬ結びつきに、イギリスならではのモダニズムの発現の様態をみる思いがする。
セント・アイヴスにて
 
 ムーアにはいってみればロマンティズムの匂いがする。一方、ベン・ニコルソンやバーバラ・ヘップワースの仕事には、もっと知的で分析的な、クールな精神が宿っている。ニコルソンの矩形の面と円とで重層的に構成された「ホワイト・レリーフ」を考えてみればよい。ここにあるのは、単純さと明晰さであり、みずみずしく透明な幾何学の精神である。ヘップワースの白大理石であれ木であれ、楕円形の量塊に中空が大きくうがたれ、ときにはそこに何本もの弦が張られた彫刻も、ムーアのそれと形態上の類似点はあるものの、本質的に異なるものである。ムーアの重厚なモニュメンタリティに比べると、ヘップワースには軽快でリズミカルな生命が溢れており、重量を感じさせない。
 ニコルソンとヘップワースの出会いは1931年のことであり、やがてふたりは結婚することになるのだが、両者の出会い、そして同時代の前衛芸術家との交友それ自体がイギリスのモダン・アートの歴史をかたちづくっていくのである。32年のヨーロッパ旅行に際して、ピカソ、ブランクーシ、アルプらに出会い、モダニズムの息吹に直に触れたことがふたりにとってどんなに大きかったことか。33年にはパリの「抽象ー創造」展に招かれ、ロンドンの前衛芸術家集団「ユニット・ワン」の結成に参加している。そして30年代半ば以降ナチス・ドイツの迫害から逃れイギリスにやって来た、ヴァルター・グロピウス、ナウム・ガボ、モホイ=ナジ、モンドリアンらとの間により親密な交流が始まる。バウハウスの思想や構成主義の精神がイギリスの地に種蒔かれ、芽吹きはじめるのだ。
 のみならず、忍び寄る戦争の影に促されるかのように、モダニズムの波はコーンウォール西端の海辺の町セント・アイヴスにまで及ぶ。1939年ニコルソンとヘップワースは海流に洗われ、カモメの群れ飛ぶこの地に、はるばるロンドンから移り住むのである。ほどなくして、ガボもまたふたりの跡を追うようにやって来る。ひなびた漁村が、最新の造形思考の尖鋭な拠点となっていくのである。普遍性と国際性を標榜するモダニズム芸術が、中心から遠く離れた周縁で花開いていく。この逆説がいかにもイギリスらしい。いやむしろ、国際性と地方性の交錯こそがイギリス美術の特性といえなくもない。
 ガボは44年アメリカへと旅立っていくが、ニコルソンとヘップワースは戦後も長きにわたってこの地に留まりつづける。彼らのいずれの仕事も、風土性を存分に吸収し、独特の風合いを帯びてくる。セント・アイヴスの風景や潮騒の響きが抽象的なフォルムの彼方に垣間見え、はっきりと聞き取れるのである。
 ところで、このふたりの傑出した芸術家がセント・アイヴスに根を下ろしたことは、同時代、もしくは年少の芸術家たちをこの地に招き寄せることになり、戦後に至って抽象絵画の運動が大きく展開することになった。その中核を担ったのは、ピーター・ラニヨン、ロジャー・ヒルトン、パトリック・ヘロン、テリー・フロストといった若い画家たちであり、1950年代から60年代にかけて抽象表現主義風の絵画が続々と生み出されていったのである。事実、大西洋を越えてニューヨークの画家たちとも直接の交流が行なわれ、マーク・ロスコやクレメント・グリンバーグもセント・アイヴスを訪れている。50年代の最も前衛的で国際的な美術運動とパラレルな動向がこの辺遠の地で生じていたのである。

ロンドンの具象絵画
 
 戦後のロンドン。夥しい数の絵具のチューブや罐、ぼろきれや紙屑、描きかけのキャンヴァスや絵筆が、ある限界を超えて散乱し、堆積した部屋。この混乱の極みのような空間で、フランシスコ・ベーコンの絵画は生み出されてきた。手足をもぎ取られ、醜く歪んだ肉塊。ガラス箱に閉じ込められ、恐怖に駆られ絶叫する法王。死の不安におののき苦悩し、しかし、肉の欲望から片時も離れることのできない人間の不条理を、ベーコンはその類い希なヴィジョンによって描き出すのである。しかも、これらの形象はベーコンの個人的ヴィジョンの結晶であるに留まらず、アウシュヴィッツやヒロシマを体験した戦後世界の人間の普遍的なありようまでも映し出してしまっている。
 セント・アイヴスの国際的な動向にリンクした抽象絵画の一方で、50年代のロンドンでは存在論的絵画とでもいうべき特異な具象絵画が平行して描かれていたのである。こうした具象絵画の担い手として、ベーコン以外にもルシアン・フロイド、グレアム・サザーランド、レオン・コゾフ、フランク・アウアーバックらを挙げることができる。彼らのうちの何人かはのちに「スクール・オヴ・ロンドン」と呼ばれるようになるが、とりわけフロイドはモデルの外皮をはぎ取るような呵責ない描写と心理的アプローチによって、リアリズムが今日でもなお豊かな可能性の源であることを示した。
ポップ・アートの登場

 スウィンギング・ロンドン。60年代、ロンドンは熱く動いていた。アメリカ流のライフ・スタイルが流入し、大量生産、大量消費のマス・カルチュアの時代が到来したのだ。テレビや電気洗濯機、テープ・レコーダーといった家庭用電気器、モータリゼーション、ピンナップ・ガール、映画、宇宙旅行。そして、ツィッギーとビートルズのロンドン。
 リチャード・ハミルトンは、1956年のコラージュ作品「なにが今日の家庭をこれほど異なったものにし、魅力的にしているのか?」において、こうした大衆消費社会のありようをいち早く提示した。この作品に登場するボディ・ビルダーがPOPと印されたロリポップ・キャンディを握っているからというだけではなく、これはポップ・アートの誕生を告げる作品と目されてきた。じつをいうと、ハミルトン、エドゥアルド・パオロッツィといったイギリスの作家たちは、すでに50年代から現代のテクノロジーと大衆文化について大きな関心をもち、独自のアプローチを行なっていたのである。たとえば、パオロッツィは商品広告やSFのイラスト、コミック雑誌やピンナップといった、細々としたキッチュな品々を収集し、それらを利用してコラージュ連作「パンク」を制作していた。ハミルトンの前述の作品は、こうした探求の成果として企画された「これが明日だ」展のために制作されたものだった。
 ウォーホルやリキテンシュタインに代表されるアメリカのポップ・アートが世に出るのが、1960年前後であることを思えば、イギリスのポップ・アートははるかに先行していた。しかし両者の差異は明白であり、大衆文化に対するアプローチも純然たる美学的なものというより、むしろ社会学的関心に基づいたものだった。ポップ・イコンの引用も、ピーター・ブレイクの作品に典型的に見られるように、シルク・スクリーンのような機械的な手法によるよりは、手仕事的な感覚で描くことが好まれたのである。
 さて、ハミルトンの活動の後を受けて、60年代に入るとポップ・アートの第二世代というべき作家たちが登場してくる。いずれも、1960年前後に王立美術学校に学んでおり、年長のアメリカ人R・B・キタイを筆頭に、ディヴィッド・ホックニー、アレン・ジョーンズ、デレク・ボシアー、ピーター・フィリップス、パトリック・コールフィールドといった面々だった。
 第一世代が、大衆文化に対する社会学的関心を特色としていたとするなら、第二世代の関心のありようはむしろ個人的であり、フィリップスを除けばポップ・イコンの引用もさほど直接的ではない。たとえば、キタイにおいては、その興味の対象はパウンドやエリオットといった詩人や二十世紀初頭の社会主義革命家など広範囲に及び、歴史上の人物のイメージが交錯する多義的な画面をつくりだしていた。ホックニーにしても、市販の紅茶や薬品のパッケージの引用を試みたりもしているものの、むしろ彼自身の内面や個人的なオブセッションの反映という要素が強い。同性愛的主題がクリフ・リチャードのヒット・ソングの一節や当時の新聞記事の見出しなども交えながら、グラフィティ的なタッチで描き出される。それは絵画的愉悦に満ちた文学的告白でもあった。
 ホックニーら後続する世代は、古典的な美術もキッチュな大衆文化もすべてが等価な地平で、新たな時代の絵画を追求した。それはポップなイコンが格別描かれずとも、自由な感覚に溢れた、いわば気分としてのポップ・アートだった。そして、周知のようにホックニーは、明るい陽光に溢れたカリフォルニアに渡ることによって、一層自由で解放された絵画を描くことになる。
フォーマリズム彫刻の季節

 50年代初頭、ムーアのスタジオでひとりの若者がアシスタントとして働いていた。アンソニー・カロというこの若者は、やがて59年にクレメント・グリンバーグと出会い、アメリカに渡る。アメリカでは、デヴィッド・スミスの彫刻やケネス・ノーランドの絵画などに触れ、いわばフォーマリズム美学の思想と実践から大きな刺激を受けたのだった。帰国後のカロの彫刻では、スチールによる面や直線、あるいは曲線といった要素を相互に関係づけ、組み合わせることによって、全体が構成されていく。しかも、スチールは鮮やかな色のペイントで塗られ、直接床に置かれている。ムーアの彫刻のような重々しいヴォリュームはもはや微塵もない。空間はこれらの幾何学的な要素の連続によって、分節され、リズミカルな運動によって満たされる。それはあたかもハード・エッジの抽象絵画を三次元空間に押し広げたかのようでもあり、新しい彫刻の誕生を告げていた。
 ところでカロは54年からロンドンのセント・マーティン美術学校で教えていたが、彼に促されるように、60年代を通じ、フィリップ・キング、ティム・スコット、ウィリアム・タッカー、デイビィッド・アネズリーといった年少の彫刻家たちの手によって、新たなタイプの抽象彫刻の探求がなされた。これらの彫刻は「プライマリー・ストラクチュア」と呼ばれたように、いずれも基本的な要素となる幾何学的形態によって構成され、あきらかにアメリカのミニマリズムと密接な関連を有していた。もっぱらスチール、プラスティック、ガラスといった工業素材が用いられ、物質性をほとんど感じさせない無機的な色彩でペイントされ、台座はなく床置きである。いかにも軽快で、産業文明の未来を祝福するようなオプティミズムに溢れている。 


拡張する彫刻

 60年代末、セント・マーティン美術学校はふたたびイギリス美術の新たな胎動の場となった。カロやキングの指導を受けながらも、構成的なモダニズム彫刻に飽き足らない若者たちが、ミニマリズムやコンセプチュアリズム、あるいはヨーゼフ・ボイスなどの海外の新動向に敏感に反応しつつ、これまでの彫刻概念から逸脱し、さらに拡張していくような作品をつぎつぎに発表していったのだ。ギルバート&ジョージは、ビジネスマンのようなスーツ姿で顔に金箔を塗り、自ら台座に上がり「歌う彫刻」となった。リチャード・ロングはイングランドの田園を歩行し、一直線の踏み跡を彫刻として提示した。バリー・フラナガンは、砂を詰めた布袋とロープで形態が自由に変わる彫刻を生み出した。そして、ブルース・マックレーンは世界初のポーズ・バンド「ナイス・スタイル」を結成し、社会生活のなかで人々がとる偽善的身振りをアイロニカルに提示した。これらの作品は、一種のモダニズム批判として立ち現れてきたものであり、物質の直接的な提示や身体性の強調などの点で、アメリカのポスト・ミニマル・スカルプチュアやイタリアのアルテ・ポーヴェラなどとも軌を一にしていた。こうした表現原理の問い直しの機運は、広い意味でのコンセプチュアリズムの台頭と呼ぶことができよう。より狭義のコンセプチュアリズムの作家としては、アート&ランゲージ、マイケル・クレイグ=マーティン、ヴィクター・バーギン、ジョン・レイサムなどがいる。とくに、芸術と言語の関係を経験哲学や情報理論を駆使して検証しようとした作家たちのグループ、アート&ランゲージは、同名の機関紙を発行するなど、特異な活動によって知られる。
 彫刻概念の拡張という文脈でのいかにもイギリスらしい現象として、自然のただなかで環境に働きかけることで作品を生み出していく作家たちがいる。前述のロングをはじめ、風景のなかを歩行するハミッシュ・フルトン、自然木を素材に環境と関わり合いながら彫刻を制作するデイヴィッド・ナッシュ、やはり自然のなかで気の葉や草、土や石といった素材を用いて束の間の造形を生み出すアンディ・ゴールズワージー、流木にレンズで太陽光線を当て、焦げ目をつけていくロジャー・アックリングなどである。また、伝統的なイギリス式庭園の作法に従い、スコットランドで庭をつくりつづけるイアン・ハミルトン・フィンレイは、フランス革命やナチズムに言及しながら文化と政治の今日的意味を問うている。これらの作家たちは、イギリス以外のどんな国にも出現しなかったであろう。それほど特異な、イギリスの歴史や文化と切り離しては理解しえない作家たちなのである。
ニュー・スカルプチュア、そして
 
 70年代を通じ、その概念を拡張しつづけたイギリス美術は、70年代末から80年代にかけて、今度は一転して彫刻なるものへの回帰を示す。それはヨーロッパやアメリカで生じた絵画の復興、イメージの復権とも無関係ではなかったろう。モダニズム彫刻によって放逐されていた形象の意味がふたたび回復され、イメージの喚起が目指されたのだ。「ブリティッシュ・ニュー・スカルプチュア」と呼ばれるトニー・クラッグ、ビル・ウッドロー、リチャード・ディーコン、アニッシュ・カプーア、アントニー・ゴームリーといった彫刻家たちの作品からは、つねになにがしかのイメージが立ち現れて来る。カラフルなプラスティックの破片であれ、廃棄された工業製品であれ、金属製の構造体であれ、色鮮やかなパウダーで彩られた石塊であれ、それ自体はたんなる物質にすぎない。しかしそれがひとたび、私たちは見知っているような、あるいははっきりとは特定できないが記憶のなかに潜んでいるような、あるかたちを与えられると、多様な意味を帯びながら、一種のメタファーとして現れてくる。私たちはこれらの作品を前にして、彫刻の豊かさにいまさらながら触れる思いがしたのである。
 90年代のロンドンは、デミアン・ハーストに代表されるスキャンダラスな「ヤング・ブリティッシュ・アート」の登場に沸き返っていた。だがそれだけではない。90年代はきわめて正統的なひとりの彫刻家を生んだのである。1993年、レイチェル・ホワイトリードは「ハウス」という途方もない作品を発表した。それは一軒の家の内部空間をそのままコンクリートで型取りしたものだった。家は解体され、反転された空間が巨大な量塊として提示されたのだ。現実の空間に存在する三次元の量塊という、彫刻の最も根源的な原理がなんの衒いもなく示されたのだ。しかも、堂々たる実質として提示された量塊が、もともとはなにもない不在の空間だったというアイロニー。それゆえにホワイトリードは、太古以来の彫刻の伝統を継ぐ者であり、なおかつその今日的な意味も十分に備えている。
 *
 ムーア以降のイギリス美術を要約することは容易なことではない。ひとつにはそれが豊穣でありあまりに多様であるがゆえに、単一の物語に還元することがほとんど不可能だからである。ヨーロッパやアメリカのモダニズムの動向に呼応しつつも、それに決して回収されることのないイギリス特有の事象がそこここに見出される。スクール・オブ・ロンドンと呼ばれる具象絵画や自然派の動向がそれである。あるいは、たとえ共通の時代精神に基づくものであろうとも、ポップ・アートのように自ずと差異が生じてくる。
 イギリス美術はけっして都合よく段階的な発展を辿れるようなものではない。批評家のイデオロギー的な煽動に従順に導かれて行くナイーブな心性の持ち主など、この国にいるはずもない。自らの個性と批評眼のみを信じ、制作を続けていく。こうした徹底的に個人主義的な態度が、結果的にこのうえなくユニークな作品を生み出してきたのだ。それはある意味でとても健全なことのように思える。
 しかしそれでもなお、ある精神の系譜のようなものをきれぎれに辿ることはできる。たとえば、彫刻の量塊性といった点についてみれば、ホワイトリードはムーアの血族であり、ムーアはさらに遠くストーン・ヘンジの太古の記憶を継ぐ者なのである。また、構成という点について見れば、ニコルソン、カロ、そしてディーコンという流れを想定することもできる。そして、肉に取りつかれたエキセントリックな異貌のひと、ベーコンですら、デミアン・ハーストという世紀末ロンドンの過剰な暴力の発現のうちに、同族の微を見出すだろう。精神はこうして受け継がれていくのである。

しおだ じゅんいち (美術手帖 '98 2月号より)

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