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OSHOコミュの−SEX:祝祭の彼方−by OSHO

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はじめまして。

これから投稿しようとしている内容は、英語版で『SEX』というごく薄い本を私なりに翻訳したものです。
(英文を一緒に載せられるのならいいのですが、その原稿は残念ながら失ってしまいました)

たぶん20年以上前になると思いますが、ひょんな縁からこの本の邦訳版を出そうとした出版社から、翻訳前のその下訳をする依頼を受けました。そこで一通り訳してみたのですが、所々文脈の続き具合に不自然な点がみられ、いろいろ調べた結果、これはOSHOが一続きのものとして語ったものではなく、講話の断片をつなげ合せながら構成しているということが判明し、結局その時には出版は見合わせるということになったものです(その後、どこかで出版されたかどうかは不明)。

時代は変わり、いまやセックスのイメージは、その当時とは随分と違うものとなってきましたが、いつの時代にあっても、その真髄に迫る話が公けにされることはなかなかありません(『セックスから超意識へ』という本は出版されていますが…)。

このお蔵入りになってしまっている内容は、多少の不自然さがあったとしても、貴重なものだと思い、私一人の中にしまいこんでおくにはもったいないと思うようになりました。短いものですから、これから33回に分けて、ここで皆さんにシェアしたいと思います。

吹黄(ふき)

コメント(52)

>>[12]

コメント、ありがとうございます。

OSHOが残してくれた言葉が、
ヤスミちゃんさんの中で、納得という形で響いてくれたとするのなら、
私としましても、とてもうれしい限りです。
★11

人々は西洋のマインドにまた別の問題をも作った…
男性は女性を満足させ、女性は男性を満足させなければならないという−。

今度はどちらも不安になる。

だから、男性は女性が満足しているかどうかに注意を向けている。
もし彼女が満足していなければ、何かが彼自身に欠けているのではないかとか、
彼は男性として充分ではないのではないかとか、気を回す。

そうして、自分は男性として充分でないと考えはじめるとき、あなたは誤った方向へと向ってしまう…
そうなるとますます困難が生じてくるだろう。あなたはぐらつきはじめ、自信を失ってしまうだろう。

一方、女性も自分がその男性を満足させているのかどうかに気を回し続けている。
もし彼女が、彼は満足していないのではないかとか、彼はいまや世界中で耳にするそのエクスタシーに達しなかったのではないかとか感じると、自分のなかに何か欠けていることがあるのだと思ってしまう。

今やどちらも不安に心乱されるようになり、そして愛における美しい行為は腐敗させられる羽目となる。

こうしたことは、あれこれ煩わされるようなことではないのだよ。


さて、また違った問題もある。
人々はあまりに頻繁に性交渉をもちすぎている。

彼らはほとんど日常機械的にそれをしている。

セックスとはとても健康的なものだという見解を、医学上の権威筋より与えられ続けている。
もし毎日性交渉をもたないならば、どこか具合が悪くなるだろうと−。 

今や彼らは、充分な性交渉がなければ心臓の異常さえも引き起こしかねないとまで言っている。

だが、セックスとは、貴重なものであり、祝祭の日の御馳走であるかのようにすべきものなのだ。
それは日常的にすべきことではない。日々の食事のようにしてしまうべきではない。
それは、あなたが心底あふれんばかりに充満し、そこに異空間が存在する、
そんな稀なる貴重な機会のためにとっておくべきものなのだ。

その貴重な瞬間のための贈り物として、人はそれをとっておかなくてはならない。
そうでなかったら、生はまるで趣きないものになってしまう。

ん? まさに毎日の食事を取ったり、お茶を飲んだり、入浴したりするのと同じように、
あなたは性交をもするのだって?

そうしておいて、それは味気ないという思いに出会う… 何もかもがまったく同じではないか、という。

そこに溢れんばかりの欲求と衝動があるときにだけ、交わりを持つがいい。
そうでないときは、ただ単に
「悪いけど、そこにはそれがないんだ。だから、そうしても一体何になる?」
とだけ言えばいい。

見せかけはよくない。

そして、もしその見せかけを止めたなら、あなたの性交はさらなる深みに至るということがわかるだろう。
★12

人々はいわゆる性交渉なるものを繰り返し過ぎている。
というのも、彼らは決して満たされることがないからだ。

インドのセックスに関する最古の文献、Vatsyayan の「カーマ・スートラ」にこう書かれている。
もしあなたが本当に野性味あふれる性交をすれば、年に一回で充分だ!と。

それは現代人にとって、ほとんど不可能のように思えるだろう… 年に一回だって?

いずれにせよ、彼らは抑制しているような人々ではなかった。

Vatsyayan は世界初の性科学者であり、セックスに瞑想をもたらした最初の人と言える。
その最も深いセンターを知るに至った、最初の人と−。

そう、彼は正しい。もしそのことが極限に達するほどのものであれば、年に一回でほとんど充分だ。
それはとても深く、その残光(余韻)は何ヵ月も続くほどにあなたを満たすだろう。


もしあなたが何事においても性急であれば、性交においてもまたせわしないだろう。
なぜなら<あなた>がそこにいるだろうから。

極めて時間を意識している人というのは、性交においてもせっかちだろう…
あたかも時間を無駄にしているかのように。

だから我々はインスタント・コーヒーを求め、またインスタント・セックスをも求めるのだ。

コーヒーならそれはいい。
だが、ことがセックスに至ってはまったくナンセンスだ。
インスタント・セックスなど存在し得ない。それは仕事ではない。
また、急いでできるようなことではない。急ぐことによって、あなたはそれを台無しにしてしまう。
あなたはまさにその要点を逃してしまうだろう。

楽しんでごらん。それを通して時間を超えたものを感じるはずだから。
だがあなたが急ぐものなら、そのときには、その時間を超えたものを感じることができはしない。
★13

時折、相手の人のエネルギーがあなたのもとには向けられないことが起きる。

さあ、そのことに関して、彼はどうすることもできない。あなたもそれに対してなす術がない。
それはただ単にそういったことが起きるにすぎないのだが。

自然な成り行きとして、
人は自分に夢中になってくれるような、そんな他の誰かを見つけなければならなくなる。
しかし、社会が、文化が、宗教や慣習などそういったすべてのことが、それを妨げる。

たとえ夢中になっていなくても、我々は互いに寄りすがり離れられなくなってしまっている。
そうすることは都合がよく、楽だからだ。そこにはあなたたちが共に愛する子供がいるからだ。
そう、そこにはまだもっと込み入った事情がある。

あれやこれやで、もし抑圧し続けるならば、あなたはついには怒りだすだろう。
あなたはそれを表に出すかもしれないし、出さないかもしれない。
だが、怒りはそこに残ったままだろう… うっ憤が。


時に、もしあなたが意志力で勃起させようと望んでも、
まさにその意志そのものがそれを邪魔することがある。

それはあなたの意志ではどうしようもないことだ。それはあなたの意志を超えたものだ。
あなたがそれを持ち込もうと、たとえどうあがいてみても、
ただ完全に自分がインポテンツであることを見出すのが落ちだ。

そして、どこかおかしいのだなどという考えが一旦マインドに焼きつくものなら、
面倒なことになってしまうだろう。

意志でどうこうする必要などまったくない。
もし勃起すれば、それでいい。 もししなければ、それはそれでまったくいいのだ。

それは単純なことなのだ。その瞬間からだはそういう気分にはないという意味だ。
からだはそのなかに入ることを望んではいない。からだはノーと言っている。それだけのことだ。

ただ単にからだの言うことに耳を傾け、そのからだとともに行動することだ!
★14

愛を何か特別なものとしてごらん… それは特別なのだ。

だから、それにふさわしい瞬間を待つのだ。 
人々はほとんどいつもとんでもない瞬間を選んでいる。

私の観察したところ、カップルが喧嘩したときには決まってその後で愛を交わす。
まず彼らは怒りはじめ、次には互いの喧嘩となる。
そのうちに、彼らはなぜ互いにこんなことをしているのだろうと、その思いに気がとがめるようになる。

そうして、彼らはうまく振るまうことのできない自分自身を嫌悪しはじめる。
ただその償いのために彼らは性交をするのだ。こういったことがほとんど機械的になされている。
カップルは喧嘩し、そして性交をする。

愛を交わすに、これ以上ひどい状態を見つけることができないほどだ。
それでどうやって満たされるというのだ?

正しい瞬間というのを待つのだ。

あるいくつかのスペースが存在している… それはやって来るものだ。
それを誰であろうと操作することはできない。時として、それはそこにある。
それはまさに神聖な贈り物といえるものだ。

ある日突然、あなたは流れているかのように感じる。
大地に接してではなく、 飛んでいるかのように…。まるで自分の重量がないかのように…。
またある時、あなたはあまりにオープンで、彼女にあげられるものなら何でもあげたいくらいに感じる。
これこそ、それにふさわしい瞬間だ。

瞑想し、踊り、歌うがいい。
そして、踊り、歌い、瞑想し、祈る、そのさなかに愛が起こるにまかせてごらん。

するとその同じことがある違った質を帯びてくるだろう。神の質を帯びてくるのだ。

それを私は教えているのだ。
★15

形態は問題外だ。形態にはさほど深い意味はない。

本当に大事なことはそれに対する姿勢… からだの位置でなく、心の位置だ。

例えば、男性はいつも女性の上に乗っている… 女性の上位にいる。これはエゴイストの体位だ。
というのも、いつも男性は自分の方が素晴らしく、優れ、高等だと考えているからだ。
女性より劣っているなんてことがどうしてあり得ようか!と。

だが、世界中の原始社会においては、女性の方が男性の上にいる。

だから、アフリカではこの体位は宣教師の体位として知られている。
というのは、はじめて宣教師たちが… キリスト教の宣教師だが… アフリカにやって来たとき、
原住民たちは彼らが何をしているのかすぐには理解できなかったからだ。
彼らは、そうすることで女性を殺そうとしているのかと思ったくらいだ。

アフリカでは男性上位の体位は、宣教師のとる体位として知られている。

アフリカの原住民たちは言う。これは暴力だ… 男性が女性の上に乗るなんて。
女性は弱く、デリケートだ。だから女性が男性の上にいるべきだ、と。

だが、男性にとって自分自身を女性より低いもの… 彼女の下、と考えるのは難しい。

さて、体位は変えられるだろう。が、その体位についてはあまり気にすることではない。
ただ、あなたのマインドの方を変えることだ。

生命の力に明け渡してごらん。そのなかを漂ってみてごらん。

時にあなたが本当に明け渡しているならば、その瞬間からだは必要に応じた体位をとるだろうから。

もし、パートナーが共に深く明け渡しているならば、
二人のからだはその必要にふさわしい体位をとっていることだろう。


彼女を愛しつつ、彼女の温かさのなかに溶け込んでごらん。

しばらく性的なことは忘れることだ。
また、あなたの頭のなか、あなたの想像のなかで起こり続けている何もかも忘れてしまうことだ。

しばらくの間、目の前の女性のなかにただ溶け込んでみてごらん。

あなたの頭のなかに、いかなるポルノグラフィも持ち込まないこと。性を頭脳的なことにしないことだ。
あなたの性を、感覚に深く届くような、微妙なものを感知できるような、腹の奥底から感じられるような、そんなものにするがいい。

そう、女性のなかに溶け込むのだ。あたかも再び母親の子宮の中の子どもになったかのように…。
もし恋人と共にいて、そうなることを知らなかったのなら、
あなたはその恋人のことをわかっていないのだ。

まったくの無条件で彼女と共にいて、再び母親の子宮の中の子どものようになってみてごらん。
いっさいの隔たりが消えたかのように…。
するとその瞬間、明け渡しとはどういうものかがわかるだろう。
★16

女性との性交中、どんなことも試そうとしないこと。

いかなることも試そうとしてはいけない…
なぜなら、あなたが試そうとするやいなや、マインドが入り込んでくるからだ。

女性との性交中、自分は男性で彼女は女性だ、といった既成事実についてはすべで忘れるがいい。
境界は融合し、混ざり合うにまかせるのだ。

男性のままでいないこと。さもなければ、あなたは取り逃がしてしまう…
またも、二元的な考えが入り込んでくるからだ。あなたは男性、彼女は女性、という二元性が。


自分をインポテンツと考える人は多くいるが、本当のインポテンツの人がいるのはごく稀なことだ。

私はそういう人には実に同情をおぼえる… というのも、彼は変換するはずのエネルギー、
一緒になって変るべきエネルギーをまったく有していないのだから。

彼はその楽しみを味わうことがないだろう。
セックスを通してやってくる楽しみ、それを超えたところからやってくる楽しみを逸することになるだろう。彼は実に哀れだ。

だが、それは極めて稀だ。
100人のインポテンツの人のうち、99%はただ自分がインポテンツだと信じ込んでいるにすぎない。

いかなる種類の動物でもオーガズムを経験している… 最小のものから最大の象に至るまで。
煩わされている動物なんて、どこをさがしてもいない。
それはそうだ、マスターズやジョンソンの本を読むなんてことはないからだ。

そう、彼らはみな楽しんでいる!

実際のところ、人間だけが唯一インポテンツになる動物だ。ほかにインポテンツになる動物はいない。
それについて思い悩むようなことはないのだから。

思い悩むというそのことが人をインポテンツにしてしまうのだ。


早漏は実はまったく性的な問題ではない。それはもっと心理的な問題だ。

生理的にはまったく悪いところはない、が、心理的にあなたはせっかちだ。 
まさにその性急さが早漏を生み出すのだ。

西洋では男性のほぼ70%がこのため悩んでいる。これは小さな問題ではない。
70%というのは膨大な数だ。事実、ある人たちは 早漏は普通のことだと考えだしてしまっている。
なんといっても70%なのだから… それは普通のことに違いない、と。
実はそうでない30%の人々の方がどこかおかしいに違いない…
普通というのは平均的ということを意味するのだから、と。

そしてすぐこの70%は80%、90%になるだろう。この数は成長し続けている。

人類の歴史のなかで、かつて西洋ほどに早漏がこんなに問題になったことはなかった…
それも特により顕著に現れているは、アメリカにおいてだ。
というのは、文化そのものがあまりにもあわただしいからだ。
文化自体がこんなにも時間を気にしすぎるなんてことは、有史以来、はじめてのことだ。
★17

東洋では、未だかつて人々が早漏に悩まされたことなどまったくない。
ものごとはとてもゆっくりと動き、誰も急がないからだ。

時間は充分ある。充分すぎるぐらいに。未来永劫、それは手に入れられるものだ。
人は死んでもまた何度も何度も生まれ変わるという東洋的概念は、
とても長い時間、莫大な継続時間を与えたのだ。

生はただの一度しかないという西洋的考えは、あなたに焦燥感を駆り立てさせる。
ただの一度だって…?
それ故、そのことによって、あなたはすべてのことを今すぐしなければならなくなる。
そうでなければ、それは過ぎ去ってしまう!
だから、ことのすべては速やかに、とり急ぎしなければならなくなるのだ。

西洋のマインドがこういった問題を持ち込んだのだ。
その結果、マインドはそこで機能し、あらゆることを急かしている。
それは内部奥深くから方向性を与え続ける。それを早くせよ、急げ、すぐにかたづけよ、と−。

そこには ものごとをインスタント化してしまいたいという絶えなき渇望がある。
それはあたかも生における唯一のこととは、
いかにして偉大にして猛烈なる迅速さをもってして事を成すかだといったふうにして現れる。

だが、偉大なるものごとの方は、すべてゆっくりと、じっくり待つことを必要としている。
そうでなければ、あなたは取り逃がしてしまうだろう。
それらは時間を要するのだ、あなたに深く浸み渡らせるためには−。
★18

なぜ人はこんなにも様々な関わり方をもっているのだろうか…?
異性愛、両性愛、一対一あるいはグループといった関わり方を−。

人には選択の自由がある。

そして、この選択があなたを病的な者にすることもできるし、
あるいはブッダ(目覚めた人)にすることもできるのだ。

さあ、それはあなたにかかっている。あなたの自由をどのように使うか、に。

私が言っているのは単にこういうことだ。
たとえあなたは自分なりのセックスを生きなければならないとしても、
あなたには自分のスタイルを選ぶことができるのだ。
つまり、あなたには自分のスタイルを選択する自由がある、ということだ。

もし愚者になろうと決めたのなら、あなたが望む愚かさがどのような類のものであったとしても、
少なくとも、その自由はあなたに与えられている、ということだ。

私はあなたに全面的な自由を賦与する。

私のここでの努力は、あなたがそれを超えていくよう、その手助けをすることにこそあるのだ。

もしあなたが同性愛者ならば、その同性愛を超えていくべきなのだ。
もしあなたが異性愛者ならば、その異性愛を超えていくべきなのだ。 

また、そのどちらでもない別の人、自己発情者、自慰行為にふける人がいる。 
彼らはその自慰行為を超えていかなければならないのだ。

人はセックスを超越しなければならない。それがどんな類のセックスだとしても−。
というのも、自分なりの生理形態を超えていかない限り、自らの魂を知ることは決してできないからだ。

もし人が、自分なりのやり方、自分なりのスタイル、自分なりの生き方を見つけたなら、
そのときにはセックスにおける問題は消え去るのだ。

セックスの問題が存在する唯一の理由は、あなたの生のエネルギーが、ある方向に、
そう、あなたがその行動を楽しむことができない方向に、動いていることにあるのだ。

例えば、あなたはある種の仕事をしていてそれが好きではないことがある。
それどころか、それこそ腹の底から憎んでさえいるかもしれない。
ところがそのうち、それが慢性的なものとなり、あまり気に掛けなくなる。
というのも、あなたがひどく嫌っているその同じ仕事を毎日続けているからだ。 

だが、もしある日、あなたが慈しんでできる仕事を始めることになったなら、
突然自分のなかに湧き上がってくるエクスタシーに驚くといったことがあるだろう。

そういったとき、すべてのことが溢れはじめる…
愛、祈り、瞑想、関係性…あらゆることが溢れはじめるのだ!
★19

これは私の観察だが… セックスに対する姿勢は、まさにその人の象徴的な姿勢と言える。
それはあなたの生全体に関するあらゆることを物語っている。

セックスは根源的な罪と言われてきた… が、それは根源的なものでも、罪でもない。

今日に至るまで、社会は極端なまでにセックスに反対してきた…
宗教や教会のすべてがセックスに敵対している…
そのため、彼らはとても深い無意識の憎悪を作り上げてしまったのだ。

あなたは意識的なところではそれに気付かないかもしれない。
あなたのマインドのどこを捜しても、それを看破するようには見出すことはできないかもしれない。

それはからだのまさに根底へ、まさにはらわたレベルへと姿を消し去ったのだ。
何世紀にも渡り、人々はセックスに反対するように教えられてきたからだ。

その憎しみは落とすべきだ。その憎悪と非難(罪の宣告)は落とさなければならない。
もしあなたがセックスに対して敬虔さを覚えはじめるならば、
そのときはじめてそれは落とされ得るのだ。

多くの人々にとって、セックスが抑圧されることは子ども時代に起きている。

それを許される子どもはどこにもいない… それを許す社会などどこにもない。
自分自身の性器に触れ、遊ぶ、それは彼には許されないことなのだ。

それはあなたが思い出すことすらできないくらい、早い時期に起こる。

まだベビーベッドのなかにいるような子どもが自分の性器で遊んでいる。
すると母親がやって来て、その手をどけてしまう。さあ、子どもにとってそれはショックだ。
彼は自分の性器に触れることを恐れはじめる。

それはこんなにも楽しい… それはこんなにもくつろぐ…。
子どもはそれを通してまったく性的でないオーガズムを得ている。
それはオーガズムと言ってもいいようなものだ。

彼の生来の衝動は、性器に触れ、それと遊ぼうとする。それはそれで美しい。 
子どもには、それは悪いことだという考えはまったくない。彼はまだ罪の意識など毛頭ない。
彼はどんなことでもただ自然なことをしているにすぎないのだ。

何度も何度も、彼は止めさせられ、何度も何度も、彼は罪の宣告を受けなければならない。
彼は母親の顔に、父親の顔にその拒絶反応を見てとることができる。
そして、やがてはエネルギーが萎縮し、彼は恐れるようになる。
★20

我々が少年少女に対して性交渉をもてないようにと押さえつけているのだ。
我々が強いて少年たちを隔離した宿坊に入れている。
少女と少年は隔たりをもって置かれ、両者のまさにその間には、警察、治安判事、
大学副総長、学寮長、校長といったもののすべての管理機構が立ちはだかっている。

それらすべてはちょうどその間に構え立ち、少年が少女のもとへと行けないように、
少女が少年のもとへ行けないようにと押し留めているのだ。

なぜだ?
なぜそんなに気をもむのだ?

彼らは雄牛を殺してまでも、去勢牛を作ろうとしているのだ。

<生の真実>というまさにその言葉は婉曲な言い方だ。
それはただ単純なことを隠しているにすぎない…
セックスに対してまったく言及しないようにとしているだけだ。

<セックス>という言葉さえ避けるために、彼らはこの言葉の隠喩を作ったのだ。
<生の真実>という−。 

生におけるどんな真実というのだ? 
ただ、セックスについてはいっさい口を閉ざすというだけのことではないか。

人類はその過去のすべてにおいて、このような欺瞞とともに生きてきたのだ。

だが、子どもたちは遅かれ早かれ見つける…
いや、実際には遅くにではなく、すぐにでも見つけ出すだろう。
それも、とんでもなく間違ったやり方で見つけ出す。
というのも、それを語る準備ができているような、真実あふれる人間が誰ひとりいないからだ。
だから彼らは自ら事を成すべく、動き始めることになるのだ。

彼らは情報をかき集める。彼らはピーピング・トム(のぞきやトム)になる…
そして、彼らがピーピング・トムになってしまうことに関しては、あなたに責任があるのだ。
そして、彼らが集めるのはすべて間違った情報源からであり、醜悪な人々からなのだ。

ポルノグラフィとは、本来自然にあるべき場所では抑圧され、
頭を通してそれ自体の自己表明をしてきたセックスなのだ。

そしてその中には多くの危険がある。

その危険性の一つは、あなたがあまりにポルノグラフィに興味を持ちすぎたなら…
それは世界中で起こっているのだが… そのときには現実の女性が魅力あるものとして、
現実の男性が興味をそそるものとして、見えなくなってしまうことにある。

すると大きな問題が生じる。あなたの想像はプレイボーイ誌に見られるような女性を必要とする。
だが、そんな女性はどこを捜しても見つけることができない…
たとえどんなな人を見つけようとも物足りなく感じるだろう。

さあ、今やどんなものもあなたを満足させることがなくなる。
ゆっくりと、ゆっくりと、現実がまるで現実味の無いものになり、
そして、非現実がより現実味を帯びてくるようになる。
★21

セックスを抑圧してきた男はすぐれた兵士になる。
なぜなら、そこにエネルギーがあり、彼は人々を貫きたいのだから。

銃剣は男根の象徴に他ならない。とすると、これはわいせつだ… 人を殺すための。

私にとっては、暴力こそが唯一のわいせつだ。

女性のからだを貫くことは美しい。
男性のからだによって貫かれる… それは美しい。
ところが、銃剣によってだって…? それは醜い。

だが、もしセックスを抑圧すれば、そのときにはすぐれた兵士をつくることができる。
どの軍隊においてもセックスが抑圧されるのはこのためだ。
最も抑圧的な軍隊が最もパワフルな軍隊になるのだから。

オーガズミックであるということはコントロールを失う能力を意味している。

不断のコントロールがそこにある。
あなたはエネルギーをコントロールしながら、ただそのエネルギーの上に座っているだけだ…
「こうすべきだ。そうすべきではない。これは正しい。あれは悪い。」と。 

あなたは絶え間なくそういったことをし続けている。禁じたり、抑圧したりしながら−。


ただただ、はるか遠くまで行ってみてごらん。
危険に満ちた、ただこの<大いに>が許されている彼方に−。

これだけで、どのようにしてオーガズミックになれるというのだろう…?

もし、あなたが他のことにおいても興奮を極めることができなければ、
セックスにおいてもオーガズミックになることはできない。
もし、怒りのさなかにあってもコントロールしているなら、
あなたはセックスにおいてもオーガズミックになることはできない。

もし、怒りのなかでその興奮の絶頂に身をまかすことができれば、
そのときはじめてセックスにおいてもオーガズミックになることができるのだ。
人とは全面的なものだ。
もし、あなたが激怒のなかに入り込むことができないならば、
愛のなかにどうやって入っていくことができるというのだ? 
不可能だ。

自然体の人はそのすべての感情においてオーガズミックになれるのだ。

★22

我々は動きを抑制している。
世界中の、特に女性にとってのすべての動作、すべての<揺動>を抑制している。

女性たちはまさに死体のようなままにいる。
あなたは彼女に何かをする、が、彼女の方はあなたに何ひとつしない。
彼女たちはただの受け身のパートナーにすぎない。

なぜこんなことが起こるのだろう? 
なぜ世界中こんなやり方で、男性は女性を押さえつけているのだろう?

そこには恐れがあるのだ…
なぜなら、ひとたび女性のからだが自らの自由性を手に入れるものなら、
男性は彼女を満足させることが難しくなるからだ。 
というのも、女性は連鎖オーガズムを有しているが、男性にはないからだ。

どんな女性でも少なくとも三つの連鎖するオーガズムをもつことができる。 
だが、男性はたった一つしかもつことができないのだ。
男性のオーガズムとともに、女性は喚起させられ、さらにその先のオーガズムを準備する。

そうなると、ことは難しくなる。そうなってしまったら、どうやってそれを扱えるというのだ!

彼女はすぐさま別の男性を必要とする。だが、グループ・セックスはタブーとされている。

世界のいたるところで、我々は一夫一婦制の社会を作り上げてきた。
我々はどうやら女性を押さえつけておくことの方がより望ましいと感じているようだ。

だから実に女性の80%から90%が、オーガズムとは一体どういうものか、決して知ることがないのだ。

女性は子どもを産むことはできる、が、それは別のことだ。
彼女たちは男性を満足させることはできる。それもまた別のことだ。
ところが、彼女たちは決して自ら満たされることがないのだ。

だから、もしあなたが世界中の女性のなかにこのような苦痛が…
悲しみが、苦々しさが、欲求不満が…見えるとしても、それは当然のことだ。

女性が根本的に必要としていることが満たされていないのだ。
★23

食べることはあなたにセクシャルな喜びを与える。
なぜなら、セックス・センターと口とはつながり結ばれているからだ。

だから、キスをすることがこんなにもセクシャルなことになるわけだ。
そうでないとするなら… いったいどうして?

もし、あなたが誰かと情熱的なキスをすれば、
即座にセックス・エネルギーが湧き起こるように感じるだろう。

なぜだ?… 口とセックス・センターは随分離れているというのに? 
いや、そうではない。それらは連結されている。だからだ−。
それらは一つのエネルギーの二つの極だ。

だから、あなたがセックスの極を飢えさせるものなら、必ず全エネルギーが口の方に移動する。
あなたはもっとたくさん食べたり、ガムをかんだり、
あるいはもっと他の何かを口にしなければならなくなるだろう。

また、もし他に何もなければ、あなたはひっきりなしにしゃべり続けなければならいことになる。
というのも、しゃべることによってでも口は動くからだ。
人々は一日中ずっとしゃべり続けているのはそのためだ。日中だけでは足りないぐらいだ。
もし、あなたが夜通しその人の傍らに座っていられるとすれば、
その人がずっとしゃべり続けていることが分かるだろう。

エネルギーの一つの極が止めらたなら、そのときにはもう一方が動き始める。 
というのも、エネルギーは何としてでも放出されなければならないからだ。
あなたはそれを抑え、留めておくことはできないのだ。

もし、セックスのエネルギーが完全にうまく流れ出ているならば、すべてのことはまさにハミングする。
すべては調和しているままだ。

そのときには、あなたはただ協調しながら振動しているというだけで、
そこには一種の平静さともいえるものがある。

ひとたびセックス・エネルギーがどこかに突き当たると、それはからだの隅々にまで至る反響がある。

自然と、それはまず頭の中に現れるだろう。
というのは、セックス・センターは一つの極で頭はもう一つの極だからだ… それは両極をもっている。

やがて、セックスはより高い水準のものへと変容されはじめる。

あなたはより創造的になる… あなたは何かを創造しはじめる…
絵を描いたり、詩を作ったり、楽器で音楽を奏でたり、あるいはその他のもので。

これは抑圧ではない… 表現だ。

西洋では、特にフロイトがパンドラの箱を開けて以来、
あなたはまさに終焉までセクシャルなままでいなければならないという考えが生じた。
なにせ、セックスと生が同意語なのだから。

つまり、あなたが7、80歳になってでさえ、
セックスに興味をもったままでいなければならないことになる。
その考えでは、もしあなたがセックスに興味を失うと、
それは生に対して興味を失っているということを意味するのだ。
あなたはもはや必要とされることもなく、今や無用のものだ、ということを意味することになる。

セックスと生とが同意語だという考えは、まったく根拠などない。

セックスと生とはある局面では同意語だ。
幼年期にはそれらは同意語ではない。
青春期にはそれらは同意語だ。
晩年期にはまた同意語ではなくなる。

晩年には晩年の美しさとその宝がある。
まさに、青春にそれなりの美しさと宝があるのと同じように。
★24

セックスはあなたが14歳のときには成熟したものになっている。

誕生からセックスの成熟まで14年かかる。それはもう一方の終焉までの時間とぴったり同じだ。

セックスの衰退から死まで14年かかる。

だから、もしあなたが65歳で、セックスへの興味が自然と消えつつあるのなら… 美しい、
実にいいことだ!

さあ、あなたはもう一つの旅、はるか彼方の岸に向かうための準備をしなければならない。
たぶん、あと14,5年だけは残されているだろう。あなたは80歳を迎えるまでには逝ってしまうだろう。

セックスは、消えていくことによってヒントを与えているのだ… さあ、死へと向かう準備を始めよ、と。

人はある日セックスを超えていかなければならない。
だが、それを超える道はセックスのなかから通じている。
もしあなたがそのなかに正しく入りこんでいかなかったなら、それを超えていくことは極めて難しい。

だから、セックスを通っていくことは、それを超えていくための重要な一部なのだ。

セックスがあなたのなかのまさに無意識的、機械的衝動にすぎないとき、それは間違っている。

覚えておきなさい、セックスが悪いわけではない。その機械的無意識が悪いのだ。

もし、あなたの性に<知>の光を持ち込むことができたなら、その光はあなたの性を変容させるだろう。

もはや、それは性的なものではありえない… 全面的に違った何かになっている。
そのあまりの違いに、あなたはそれを形容する言葉を持ち合わせないほどだ。

東洋では、それに対応する言葉を持っている。<タントラ>だ。

西洋では、それに対応する言葉は持ち合わせていない。

セックスが結合されはじめ、<知>と共に働くようになると、
まったく新しいエネルギーが創り出される… そのエネルギーをタントラと呼ぶのだ。

もしあなたがテクニックに走りすぎると、このタントラの神秘を取り逃がすことになるだろう。

タントラは無為でいなければならない。それは人為(作為)的ではあり得ないのだ。
★25

あなたはテクニックを学ぶことはできる… 性交がより長くできるよう、ある呼吸法を学ぶことはできる。
もし、あなたが非常にゆっくり、まったく急ぐことなく呼吸できるなら、その性交は長くなるだろう。

だが、あなたはコントロールしている。
それは野性的なものではないし、無垢なものでもない。また、瞑想的なものでもない。
それはマインドであり続けるだろう。

真のタントラとは、テクニックではなく、愛だ。テクニックではなく、祈りだ。 
頭指向のものではなく、ハートのなかにくつろいでいることだ。

タントラの性交では、あなたは数時間もいられるのだ。

その極意は、極端なまでに完全に本能的になることにあり、
まったくもってマインドが無い状態になってしまうため、
我々は永遠なる自然に溶け込んでしまうのだ…
女なるものは消え、永遠への扉となり、男なるものは消えて究極への扉と化すのだ。

完全無垢性、絶対的全一性に戻る…
これが我々の性におけるタントラの定義だ。

タントラはあなたにより高度なリラックスの次元を与える。
それは(疲れなどの結果起こる、普通の消極的で受動的なリラックスとは違う)、
きわめて積極的なリラックスだ。

パートナーとなった二人は共に溶け合い、互いに生気あふれるエネルギーを与え合う。

彼らは一つのサークルとなり、そして、二人のエネルギーはそのサークルの中を動き始める。
彼らは互いへと命を吹き込み、生を再生するのだ。

エネルギーは一切失われることがない。むしろ、より多くのエネルギーを得るのだ。
なぜなら、相対する性が出会うことを通して、あなたの全細胞は喚起され、刺激されるからだ。

もし、あなたはそれの絶頂へとは導かず、
エネルギーそのものになったかのように、その感動のなかに呑み込まれているならば…
もし、あなたは熱くなることなく、はじめの状態、そう、まさにその温かさのままにいられるならば…
そのときには、この二つの<温もり>は出会い、
そして、とても長い時間その行為をし続けることができるのだ。

射精することなく、いっさいエネルギーを投げ出すことなく、それは瞑想となりはじめる。
そして、それを通してあなたは<総て>となるのだ。
★26

そこには二つのタイプのクライマックス、二つのタイプのオーガズムがある。

その一つのタイプのオーガズムは知られている。興奮の絶頂へと至るものだ。 
だが、あなたはあまり遠くには行けない。その終わりは既に来ている。

タントラはもう一つのタイプのオーガズムにその中心が置かれている。

もし、我々が最初の種類のものを<頂きのオーガズム>と呼ぶとすれば、
タントラ・オーガズムは<谷間のオーガズム>と呼ぶことができる。
そのなかにあっては、あなたは興奮の頂きにやって来ることはなく、
そのかわり、リラックスの谷間のまさに深淵に至るのだ。

興奮は両方の始まりのために使うべきだ。
始まりは二つとも同じだ、と私が言うのはこのためだ。
だが、その終わりは全面的に違う。

はじめのうち、興奮は激しいものであるべきだ… ますますもって、激しくなっていくように。

そのなかにあって、あなたは興奮の度を高めなければならない。
激しさがその頂点を極めるよう、手助けをしなければならない。

次には、その興奮をただの始まりとするのだ。
いったん男性が(女性の)なかに入ったなら、愛する人も愛される人も共にリラックスできる。
どんな動きも必要とされない。彼らは愛の抱擁(性交)のなかでリラックスできるのだ。

勃起が消えていきそうだと、どちらかが感じたなら、
そのときだけは、ほんの少しの動きと興奮が必要とされる。
だが、またリラックスするがいい。

あなたは射精することもなく、何時間もこの深い抱擁(性交)をずっと続けることができる。
そして、ともに一緒になって深い眠りのなかに落ちていくことが可能になる。

こういったこと…これこそが… 谷間のオーガズムだ。

二人はともにリラックスしている。そして、彼らは二つのリラックスした存在として出会うのだ。

普通の性的なオーガズムはあたかも熱狂しているかのように見える。
一方、タントラ的オーガズムは深く、くつろいでいる瞑想だ。

あなたは好きなだけいくらでも楽しみふけることができる。
エネルギーはまったく失われないからだ。むしろ、エネルギーは増えるくらいだ。

まさに相対する極が出会うことによって、エネルギーは新しく生まれ変わる。

タントラの性交は好きなだけいくらでも長くできるのだ。

普通の性交はあなたの好きなだけというわけにはいかない。
そのなかであなたはエネルギーを失うからだ。

そして、あなたのからだはそれを回復するまで待たなくてはならない。
あなたは回復しても、そのときにはまた、それを失うだけだろう。
(これは馬鹿げて見える。
その生のすべてが、得ては失う、回復しては喪失するといったことだけに費やされるなんて−)
★27

私が<性行為>と言うとき、それは努力が必要なように聞こえるかもしれない。

だが、そんな必要などないのだ!

さあ、愛する人とただ戯れはじめてごらん。ただただ、ずっと戯れていているのだ。
互いを感じ合い、互いに対して敏感になって−。
ちょうど 小さな子どもや犬が戯れ遊ぶように… 動物たちが戯れるように−。

ずっと戯れているだけでいい。セックスのことなんかまったく考えることはない。
それは起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。

もし、ただ戯れ続けるなかでそれが起こったなら、
それはあなたを谷間へと導くことがより容易になるだろう。

だが、もしあなたがそのことを考えているなら、
そのときは既に、あなたのマインドが あなた自身より先行してしまっていることになる。
あなたは愛する人と戯れてはいるが、性行為を考えていることになり、
戯れているという行為は見せかけのものとなってしまう。
あなたはここにおらず マインドが未来のなかにいる。
そう、マインドは常に先へ先へと未来に移行し続けるだろう。

ただ戯れ、性交については一切忘れるがいい。
するとそれは起こるだろう。そうやって、それが起こるがままにまかせることだ。
するとリラックスすることが容易になるだろう。
そしてそれが起こったなら、ただくつろいでいればいい。一体となって−。

互いの<今・在る>もののなかに留まり、その幸福を感じていることだ。


性交には二つの部分がある… はじめと終わりだ。

ずっとはじめのままでいるのだ。 

はじめの部分は、よりリラックスし、温かい。
だから、急ぎ、終わりへと行ってしまわないこと。
完全にその終わりのことなど忘れるがいい。

いかにししたら、はじめに留まることができるのかだって?

覚えておくべきことがたくさんある。
まず、どこかに行くための方策としてセックス行為をしないこと。それを手段としてしないことだ。
そう、手段としてとられる行為こそ、本来、終わりを迎えるものなのだ。
(つまり、それは目的となるのだ。それ自体のなかに終わりをもっているという−)
それにとっての終わりなど存在しない。それは手段ではないのだから。

次に未来のことは考えないこと。現在に留まることだ。
もし、あなたが性交のはじめの部分で<今・在る>ままでいられなければ、
そのときには決して現在に留まることなどできはしない。
なぜなら、その行為のまさにその本性はあなたを現在に投げ込んでしまうような、そんなものだからだ。

<今・在る>ままに、い続けてごらん。

どこに行くこともない、この瞬間のなかに留まり、そして溶け込むのだ。
★28

性交中は目を閉じているがいい。

相手のからだを感じ、あなたに向けて注がれる相手のエネルギーを感じ、
そして、そのなかに消えるほどに呑み込まれてごらん。そのなかに溶け込んでごらん。
するとそれはやって来るだろう。

ただ、ずっとリラックス、リラックス、リラックスだ。

もしそこに射精がなくても、何かおかしくなっているなどとは思わないこと。
おかしくなっていることは何一つない! 
また、何かを取り逃がしてしまったなどと思わないこと。
あなたは取り逃がしてはいない。

その谷間がやって来る前に、あなたは何か取り逃がしているかのように感じるだろう。
だが、それはただの古い習慣にすぎないのだ。
ある期間内、一ヵ月、あるいは三週間といったうちに、谷間は現れはじめるだろう。
そして谷間が現れたときには、あなたは絶頂のことなど忘れてしまうだろう。

<絶頂なし>は、これをするだけの価値がある。

だが、あなたは待たなければならない。
そう、それを無理にしてはだめだ。 コントロールなどしないことだ。

ただ、くつろいでいればいい。

このような抱擁(性交)のなかにあるとき、
愛する人、あるいは愛してくれる人と、このような深い霊的交わりのなかにあるとき…
あなたの感覚は木の葉のように揺れるのだ。
この<揺れ>のなかへと入っていっていくことだ。

我々は恐れるようにさえなっている。
そう、あなたは愛を交わしているあいだ中、からだが大きく動くのを許さない。
からだが激しく動くことを許されるものなら、この性行為が全身に広がってしまうからだ。

それをセックス・センターに集中しているときなら、あなたはそれをコントロールできる。
マインドはコントロールのなかでならい続けることができる。

だが、それがからだ中に広がってしまうと、コントロールできなくなってしまう。
あなたは震えはじめるかもしれない。激しく絶叫しはじめるかもしれない。
そう、一旦からだがこうしたことを譲り受けると、
あなたは自分のからだをコントロールできなくなってしまうだろう。
だから恐れるのだ。

激しい風が吹き、木々が揺れている。
根でさえ震えんばかり、一つ残らずどの葉も揺れている。

まさに、この木のようになることだ。激しい風が吹いている。
そう、セックス、それこそ大いなる風… あなたのなかを吹き抜けている、大いなるエネルギーだ。

震えてごらん! 揺れてごらん!
★29

からだの細胞すべてが、踊るにまかせてごらん。

愛する人もまた踊っているのだ。全細胞を打ち震わせながら−。

そのときはじめて、あなたは共に出会うことができるのだ。
そう、このときの出会いは頭脳的なものではない。
これこそ、あなたの生命のエネルギーの出会いだ。

この揺れのなかへと入っていってごらん。
そうして、振動が続いているあいだ、離れたところにいないことだ。
傍観者になってはだめだ。なぜなら、傍観者となるのはマインドだからだ。

離れて立っていてはだめだ! 
その振動で在り、その振動になりきることだ。 
いっさい何もかも忘れ、その振動そのものになってみるのだ。

それは、あなたのからだが揺れることではない。
それは、あなたが、あなたの全存在が、そうなるということだ。
あなたがその揺れそのものになるということだ。

そのとき、二つのからだ、二つのマインドはそこには存在していない。

そのはじめには、二つの振動するエネルギーがある。
その終わりには、ただ一つのサークルがある… 二つではない−。

セックスのなかに、さあ、すっかり入り込んでごらん。
そのなかに全面的に入っていくのだ。
どんなものも置き去りにしたらだめだ。

完全に無思考になるのだ。

そのときはじめて、あなたは他のものと一つになっているという、まさに<知>が起こる。
そうなってはじめて、この<一つ>という感覚は、パートナーに限らず遊離することができ、
そうして全宇宙と一つになることに使われ得るのだ。

あなたは交合にあって、木や、月や、他のどんなものとでも、共にいることができる。

ひとたびこのサークルをどのようにして創るかを知れば、どんなものとでもそれを創ることができる…
それどころか、何もなくてでさえできるのだ。
★30

このサークルは、あなた自らの内に創り出すことができるのだ。
というのも、男性は同時に男性と女性であり、女性は同時に女性であり男性だからだ。

あなたはその両方だ。あなたは二つから創られたのだから。

あなたは男性と女性のその両方から創り出された。
だから、あなたの半身はもう片方としてそのままいる。
あなたはそれを何もかも完全に忘れることもできるし、
また、サークルを自らのなかに創り出すこともできるのだ。

ひとたびサークルが自分自身の内に創りだされると、
(あなた自身の男性はあなた自身の女性に出会い、内なる女性は内なる男性と出会い、)
あなたは自らの内部で交合のなかにあることになる。

サークルが創り出されるときはじめて、
本当の意味での<(宗教的誓いを立てて行う)独身>が達成される。

サークルが内部に創られるとき、あなたは自由になれるのだ。

タントラ的セックスの後で戻ってきたとき、あなたは昇っているのだ。落ちるのではなく−。

あなたはエネルギーに満たされ、ますます活気にあふれ、
より生き生きと、光を放っているかのように感じるのだ。

そして、このエクスタシーは何時間も、ともすれば何日間にも及び持続することだろう。
それはいかに深くあなたがそのなかにいたかに拠るのだ。

たった一度のタントラ的セックスの体験でも、何日にも及びリラックスしているように感じるだろう…
安らぎ、くつろいぎ、まったく暴力的な激しさはなく、
いっさいの怒りは消え、気がふさぐことなどあり得ないかのように。

タントラは言う。
もしあなたが瞑想のなかへと入っていくなら、セックスは完全に消えるだろう、と。
それは完全に消えることがあり得るのだ。

全エネルギーは、それぞれのより高いセンターへと吸収されるのだ。
そう、あなたのからだはたくさんのセンターを持っている。

セックスとはその最も低いセンターであり、人はその最も低いセンターで生き続けている。
そのエネルギーが高いところへと移動すればするほど、
より高いセンターがさらにもっと花開きはじめるのだ。

その同じエネルギーがハートにやって来ると、それは愛となる。

その同じエネルギーがなお一層高いところにやって来ると、
新たなる次元、新たなる体験が花開きはじめる。

そして、その同じエネルギーが 最も高いところ、あなたのからだの最後の頂点にあるとき、
タントラでは<サハスラーラ>と呼ぶ… 頭の中にある最終チャクラに到達しているのだ。
★31

セックス・センターとは最低部のチャクラで、サハスラーラとは最上部のチャクラだ。
そしてこの二つの間をセックス・エネルギーは移動する。

そのエネルギーはセックス・センターから解放され得るものだ。
それがセックス・センターから放出されると、あなたは他の誰かを産み出すための要因となる。

その同じエネルギーが、頭部のサハスラーラから宇宙へと解放されるそのときには、
あなたは自分自身に新たなる誕生を与えることになる。

これもまた、再生されたものだ。が、生物学的にではない。それは霊的に再生されたものだ。
そのとき、あなたは生まれ変わる。
インドでは普通、二度誕生したこのような人をこうに呼んでいる… < dwij >と。

今や彼は自分自身に新たなる誕生を与えたのだ。

タントラは性を教えるものではない。
それはただ単に、セックスは至福の源泉になり得ると言っているだけだ。

そして、ひとたびこの至福を知り得たら、あなたはさらに遠くに行くことができる。
なぜなら、今やあなたは実在(リアリティー)のなかに根づいているのだから。

人はセックスのなかにいつまでも留まるべきではない。
だが、あなたはセックスをジャンピング・ポイントとして使うことはできる。
これこそ、タントラが意味していることだ。
あなたはセックスをジャンピング・ポイントとして使うことができるのだ。

そして、ひとたびあなたがセックスにおけるエクスタシーを理解すれば、
神秘家たちが語っている… さらに偉大なオーガズム、コスミック・オーガズムとは一体どういうものか、理解できるのだ。

タントラに関して多くの本が書かれてきた。それらはすべてテクニックについて語っている。

だが、真のタントラはテクニックとはまったく関係ない。

真のタントラとは、それについて書くことなどできないようなものだ。
真のタントラとは、自らの内に入れてこそ、はじめて吸収されるべきものなのだ。
★32

現在に至るまで、人類はすべてセックスに取り憑かれたままでいる。
我々は、ゲシュタルトをそっくりそのまま変えない限り、現状のままい続けることになる。

今までそのゲシュタルトがしてきたことといったら、終始、
抑圧−勝手気まま、勝手気まま−抑圧…
この二つの間を行き来し続けることだけだった。

我々はぴったり真ん中に止まらなければならない。

あなたは今までに時計の振り子をその中間に止めようとしたことがあるだろうか?

いったい何が起こる?

時計が止まる。時間が止まるのだ。

それこそ、私がここでしようとしていることだ。
私は、あなたが勝手気ままでも、また抑圧的でも、あって欲しくない。
私はあなたがそのちょうど真ん中でバランスを保って欲しいと思っている。

真ん中にいる、まさにそのことが超越を可能なものとするのだ。

セックスを再生することだけに使う必要はない。

あらゆる創造にセックスは使われる。

偉大な詩人、偉大な画家はセックスの衝動をあまり感じることがないのはこのためだ。
だが、その理由は極めて単純だ。
彼はよりすばらしい何かを創っているため、その必要は満たされているということだ。

仏陀は画家でも音楽家でも詩人でもない。
だが、彼はセックスを超えている。彼には一体何が起こったのだろうか?

最高の創造とは、自分自身の創造なのだ。
最高の創造とは、トータルな内面意識の創造であり、
総てとして存在する内面、<全一性>を創り上げることなのだ。
それが頂点、ヒマラヤの頂上といえる。

仏陀はその頂きにいるのだ。彼は自分自身を創造したのだ。

セックスのなかに、三つの根本的要素(本来の自然の力)があるからこそ、
あなたは至福の瞬間へと至れるのだ。

その三つとは、まず一つめ、時間がないことだ。あなたは完全に<時間超越>している。
そこには時間は存在しないのだ。あなたは完璧に時間のことを忘れている。
時間はあなたに対して時を刻むことを止める。だが、時間が止まるわけではない。
あなたに対してはそれが止まるのだ。そう、あなたがそのなかにいないのだ。

二つめは、セックスのなかにあって、はじめてあなたは自分という自己が無くなっている。
あなたは<非自己>となるのだ。あなたもいなければ、また相手もいない。
あなたとあなたの愛する人は共に別の何かへと姿を消すのだ。

そして三つめは、セックスのなかにあって、はじめてあなたは<自然そのもの>になる。
あなたは自然の一部になる… 木々の一部、動物の一部、星々の一部になるのだ! 
あなたはもっと何か偉大なもののなかに浸されている… 宇宙に。タオに−。

あなたはその中を泳ぐことさえできない。あなたはそういうふうにはいない。
まさに漂っているのだ… 潮の流れを受けるようにして。

この三つのものがあなたにエクスタシーを与えるのだ。

セックスとは、まさにそのなかでそういったことが自然に起こるところなのだ。
★33

ひとたび、これを知れば…
ひとたび、この自然の力を感じることができれば…
あなたはセックスから独立して、この要素(自然の力)を創り上げることができるのだ。

瞑想というのはすべて、セックスを伴わない本質的なセックスの体験なのだ。

だが、あなたはセックスを通過しなければならない。
それはあなたの体験の一部とすべきことだ。
それはまさに概念、観念、思考のレベルのままに置くべきことではない。

セックス・エネルギーは、サマーディのための滋養物だ。

まさにセックスの泥によってなのだ。サマーディの蓮華が開花しつつあるのは−。

決してそれを押さえつけてはならない!

決してそれに反対しないことだ。
むしろ、大いなる精敏さと、大いなる愛とともに、そのなかに深く入っていくことだ。

探検家のように進み入ってごらん。
あなたの性の隅々まで洗いざらい探索し尽くしてごらん。
すると、あなたは驚くだろう。豊かになり、その恩恵をこうむるだろうから−。

あなたの性を知ることで、ある日あなた自身の霊性に遭遇するだろう。
そのときこそ、あなたは自由になれるのだ。

その未来は、まるっきり違ったセックスのビジョンを持っているだろう。

それは、既に過去のものとなってしまった深刻なものに比べてみるならば、
もっと愉快で、もっと楽しく、もっと友愛的で、もっと遊びに満ちたものになっているだろう。

セックスとはまさに始まりであって、終わりではない。

だが、もしあなたがその始まりを逃してしまうと、それに終わりを告げることも、またないだろう。 
 
OSHOのSEXの講話、いかがだったでしょうか?
ことがSEXだけに、個人的なコメントはなかなかしづらいと思います。
ましてや、実践的な話など、とても書けるものではないでしょう。

ただ、この講話を通じて、皆さん個人個人の中で、OSHOの言葉の何かが魂に響き、
マインドを沈黙させ、理解に至るものがあったとすれば、これを公開した甲斐があったというものです。

しかし、問題は、個人個人の体験に変化が訪れるかどうかです。
OSHOの言葉を水先案内のようなきっかけとして、
自らの存在のバイブレーションに、新たなる変容が起こることを願ってやみません。


さて、話は変わりますが…
OSHOは荘子にも注目していたようですね。
邦訳本としては『虚空の舟』上・下二冊があります。

私は個人的に、OSHOに出会う前から荘子にも興味がありました。
OSHOのようなアプローチとは違いますが、個人的に長年研究してきました。
様々な難解な個所や、異説が飛び交っているものに、
そもそも漢字が作られた「字源」に基づき、まったく新しい解釈をする試みをしています。

「荘子」のコミュで、それを書き込んでいるのですが、
まず、「1、天の籟(ふえ)」の新解釈(解説)を終えたところです。

これから、「斉物論篇」を中心に、一つ一つ紐解いていこうと考えています。
しかし、これはあくまでも一つの試みであって、断定的な解釈ではありません。
広く、様々な人の意見(感性)もうかがってみるべきものだと思っていますが、
なかなかその声を聞かれなくて、どこまで荘子の思いを再現できているものか、
少々疑問符付きながらも、一人でできるところまで挑戦してみようと思っています。

もし興味のある方がいらしたら、ご覧ください。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=69703&id=78175018
>>[41]

OSHOの残してくれたメッセージ…
伝わる何かがありましたか。

シェアできて、私のほうこそうれしくもあり、
この場にも感謝しています。

コメントいただき、ありがとうございました。
丁度 タントラ セックス-愛-そして瞑想へ道・・ 読み終えた所で
共時性と共に とても深い共鳴感を 読ませて頂き感じさせて貰えました
プネ コミューンには 10数年前に 2週間程しか 滞在していませんが 齢を重ねて
やっと 20数年間 OSHOが 自分を捕らえてきた「理由」のようなものの 体感が始まってきた時期
禅をメインに OSHO講和本を 読んできましたが タントラ・・ 良きパートナーと巡り合えて やっと 頭で理解してきたつもり・・から その次のステージへの移行期を感じています
あまりMIXIを使わない自分が こうして 一文に巡り合えた事の 深き謝意を含めて・・・ 有難うございました! 敬愛合掌
>>[43]さん

感想コメント、ありがとうございます。

SEXという、非常に扱うに難しいテーマでの話ですが、
OSHOの言葉が、頭からではなく、魂レベルの奥深くにまで響くような、
そんな共鳴感を抱くに至れる理解や実践につながるものであったとするなら、
この上ない幸せなことだと思います。

私は微力ながらもほんの少しの仲介役をしたにすぎませんが、
一人でも多くの人に声を届けられたとしたならば、とてもうれしいです。
また、こういった機会があったことには本当に感謝しています。
>>[44]
2015年以前は 期待値?と言うか? どちらかと言うと OSHOが言う 乞食的マインドにて・・の共時性(思い込みを含めて)でしたが 
2015年以降 様々な 事象体感を経て この共時性体感が 深まってきています とても不思議な 事ですが・・意識を向ければ 向けるほど 体感を得る機会が増える・・ 現在 これらを 瞑想のテーマにしています! 混迷の世・・ こういう時期に 本物とされるモノに 目が向けれられていく OSHOは 難解なのかもしれませんが 自分には20数年を経て やっと 言葉での理解を超え始めている中 吹黄さん の 対価を一切求めない 献身というか?献愛・・の 翻訳に こうして 巡り合えた事に OSHOの香りを感じてしまい 行き成り コメントしてしまいました! 改めて 深き 謝意を・・・ 敬愛合掌
>>[45]さん

マインドや思考でものごとを認識することと、自分の体感…存在(being)としてのバイブレーションそのものを通して認識(自覚)することとは、まるで違うことだと思います。

本物かどうか、それは存在のバイブレーションが宇宙の法則に則った上で、乱されることなく、恒久的な振動を有しているかどうかで決まってくるのではないかと思っています。

さて、「共時性体感」と表現されていることの意味するところ、正確に把握する為にお尋ねしたいと思います。これは俗にいう「偶然の一致」などとも表現されることもあるかもしれませんが、それは「偶然」というより「必然」ではないかというような事象を同時にいくつかの角度から体感する…といったような意味なのでしょうか?それともまったく違う意味なのでしょうか?
>>[47]
自分は 3.11を経て 多分 人生で 初めて とても深く 自分を見つめ直しました
縁があり 月に2回ほど 出向いてた 陸前高田復興の作業の2年間余に従事していく中
今までの 自分の価値観 = マインド・思考からの 啓発本が口にする「引き寄せ?」的 妄想(欲望)ベースの生活だったと想います
その後 ここからが 多分 本来の 共時性(現在 意識を向けて 体感が深まっている部分)的
流れに 沿いだした・・と想いますが 高齢の母に 寄り添いながら 全てゼロからの生活を・・と
2013年末に 北海道・道南に移住しました
金銭対価を至上・・として 生きてきた自分でしたが この移住を機に 「足るを知る」 そして
一次産業という 基幹産業と共に 人生(若輩の自分が口にしてはいけませんが)を リセットさせて
高齢者と共に 歩んで行く事・・・ これらの 発念(想像)〜創造の プロセス・・・に 意識を集中する中
「偶然」以上の「必然」的 出会いや 事象の体感が 初期=当然 偶然かも? 移住二年目以降
少しずつ その中に 「必然性(多分 発念から派生して)」を 見つける事が出来 見つける&感じる事の
積み重ねを経て 今年年始に 全て 必然である・・と 心から やっと 想えるようになった 次第です

OSHO講話で 分かっていたつもりの 「空」の概念や 諸々も
頭(マインド)ではなく 森羅を通して ハート(魂)にて 共鳴していくもの?・・と 今年 この部分に
意識を集中させています

自分を自分と認知している・・ では その認知している 自分とは??
これを 最大限シンプルに 捉えること(又は 融和すること)・・ これが自分には
何かしら OSHOのエッセンスに
繋がっていくのでは?・・と 感じている 昨今です

少し 文面がややこしくて すいません
言語化できる 範囲内にて 記述してみました 苦笑)

敬愛合掌
>>[48]さん

具体的な経緯と説明・・・
ありがとうございました。

自分の身に起こる事象を
「偶然」とみなすか、「必然」とみなすかによって
自分の意識状態は随分と違ってきますよね。
「必然」と感じとった時、自分の中の責任とともに
感謝の念も自ずと湧き上がるのかもしれません。

>頭(マインド)ではなく 森羅を通して ハート(魂)にて 共鳴していくもの?・・

この体得によって、万物との一体感をも感じ、
喜びに満たされたバイブレーションそのものに
打ち震えることになれたらいいですね。

>自分を自分と認知している・・ では その認知している 自分とは??

これは自分の中での「主観的意識」と「客観的意識」の共存のような、
そんな可能性を秘めたものになるのでしょうか・・・
今年の年始に 10年ぶりに 南インド入りした際
「自分を自分と認知している・・ では その認知している 自分とは?? 」
移住前に どれだけ 自分は 自分(低いマインドの方)が 捻出した 言葉 想念ゲームに
エネルギーを浪費し続け しかも 「分かったつもり」で 生きてきたのか?を 脚下照顧する機会に恵まれました
昔なら そうした 機会=偶然 又は オカルト過多的に 「引き寄せた!」と 慢心していたと想います
今回 僅かながらでも 心身一如的な?体感を 伴った・・と 感じているので
その感じたものを 大事に 「客観・主観 融和」的な意識(ハーモニー)へと 森羅と共に育てていこう・・と意識を向けています
禅師としての OSHOには とても 共鳴高く 随分 多くの講話を読んできましたが
昨年手にした
「こころでからだの声を聴く―ボディマインドバランシング」にて モヤモヤしていた 心身・・のバランスに関して 先ず 土台の身体・・へと 意識を向け その流れの上に タントラ〜吹黄様の 一文に繋がる 共生?共鳴の橋としての SEXまで・・ そして 「今」と 繋がってきました
一番 怖い 分かったつもり・・にだけは これからも注視しつつ 楽しみながら 流れる生を もう少し深めていける一年にしていきたいと 想っています! 敬愛合掌
>>[50]さん

お話いただき、ありがとうございます。
なべさんさんとは、時期的なものが違いますが、少し感覚としては似たような?経緯があります。

私の場合、「アンチor軽視・肉体」的な発想で、純粋な理想(論)だけを求めていました。
けれども、メキシコで謎の人物に出会って、「Are you a lady or a baby?」と言われ、
その単純な言葉の裏に、自分の「baby」さを痛感したことから、人生が大きく変わることになりました。
(もっとも、その言葉だけからではありませんが…)

ダイヤモンドを結晶化させるには、炭素(炭)が必要であること
ホワイトガソリンを精製するには、原油が必要であること
美しい蓮華を開花させるには、泥の中に根をはらなければないないこと

いろいろと言葉はありますが、その根源の1つに「SEXエネルギー」が深くかかわるという理解…
自分の足元(肉体)を「反対・無視・軽視」しては通れない…ということを身をもって体感しました。
その後に、OSHOのあの原稿に出会い、より深い確信へとつながっていきました。

「自分」の認識はすべて「主観」だ!…と認めて眺めることができる「自分」には、
ひょっとすると「客観」意識が芽生えているのかもしれないと思ったりもします。

私は過去の一時期、感情・想念の「自己観察ノート(メモ)」をびっちりつけるという訓練をし、
(のちには、ノートなしで、リアルタイムで見守り記憶できるようになって)
自分のありのままの「主観的」部分を自由に展開しながらも、
自分で、自分自身のその全てを常に細部にわたり観察し、自覚していくようになりましたが、
果たしてそれを「客観意識」と呼んでいいものかどうかは、慎重に考えています。
もし仮に、本当にそれが「客観意識」だとするならば、
「主観と客観」意識の共存と融合…とても大切なことだと感じています。

そこで知り得た因果関係・法則を自分自身にだけでなく、
他の人の中での問題解決にも応用できるようなものだということも経験してきました。
そうなると、単に個人的な「主観」を超えたものではないかとも思うことはありますが…。

>一番 怖い 分かったつもり・・にだけは これからも注視しつつ 楽しみながら 流れる生を もう少し深めていける一年にしていきたいと 想っています!

「わかる」→「理解」というのは、「言葉」をきっかけにすることが多いと思いますが、その「言葉」に固執している限りは「つもり」のことが多いかもしれませんね。OSHOは「川を渡り終えたならもう舟は必要ない」という比喩を使っていますが、自分自身の全身全霊で腑に落ちるような「理解」に至った時には、その「言葉」はいつでも捨てられるものになっているのかもしれません。その代り、それを形容する自分固有の「言葉」には溢れるというパラドキシカルな自由な展開になったりするようにも思います。

どうか、楽しみながら、瞬間瞬間変化をとげる生を、より深く感じるような一年でありますように…。
SEXの下訳を読みたいという方がいましたので、見つけやすくするために、このトピを更新しておきます。

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