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精神の基礎体力 Q(+)コミュの水の透視画法 『Q』

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『水の透視画法 』     辺見 庸


会合で大学に行く途中、ラーメン屋で餃子定食を食べた。
たまたま相席になった学生二人はそれにラーメンを付けたセットメニューを
ズルズルかき込んでいた。

口にモノを入れたまま一人がモグモグとぐちる。
「なんか、うめーもん食いてぇ、、、」
もう一人が
「ぜいたくゆうな、超安いんだから.
”飯のことで文句をいうものは、偉い人間になれぬ”だってよ」
愚痴ったほうが、
「う、やめろ.食ってる時に、それゆうな。きもちわりい。」

その時点では何の話か判らなかった.興味もなかった。
若者達はたちまちたいらげる.課題の本を読み終えたか,レポートを出したか、
たがいに問うてる.あれこれ話してから二人ともしきりに慨嘆した。
「半端ねぇ.まじ、半端ねぇよな、、、」

なにが半端ではないというのだろうか。課題本の内容か。
レポートのの難しさか.世の中の急な暗転の不気味さか。
聞き耳を立てた。
話のはしばしから、テキストが小林多喜二の『蟹工船』であることはわかった。

声をひそめてかれらはいう。
「あんな船、まじ、あったの?」
「クソツボとかいっぱいでてきて、きったねぇし」
「現実感ないよな。ひっかかるよな。おっかねぇ、、、」
「また、ああなるってこと?」
「わっかんねぇよ。」
テーブルをはなれぎわに一人がつぶやいた。
「SFみたいだよなぁ、、、」

なるほど.私は内心あいづちをうつ。
学生は彼の時代感覚から『蟹工船』をサイエンスフィクションのようだと言った
のである。

私は,しかし,「暗黒の木曜日」がおきた1929年(昭和4年)に発表された小説
が再び世界大恐慌前夜ともいえるいま、大学のテキストとなり、
理解の度合いはべつにして、若者達に読まれているということが感にたえない。
過去、現在、未来をふくみつつも、こうした時空間の全景こそ、
まるで空想科学小説ではないか。

「飯のことで文句を言うものは,偉い人間にはなれぬ」だの「クソツボ」だの
という作中の言葉や情景に,彼らは実感をもってはいない。
でも,今という時代が,見たことも無い深くて暗いクレバスに墜ちつつあること
は、うすうす感づいているようだ。


私は金色に光るキャンパスのイチョウの下をゆっくりと、あるいていた。
色のことを考えながら.多喜二といえばなにより、
「墨とべんがら」の色がうかぶ。
「、、、墨とべんがらとをいっしょにまぜてねりつぶしたような、
なんとも言えないほどのものすごい色で,一面に染まっている」

多喜二の遺体を見た作家、江口渙の文である。
見事な直喩に、学生だった私は心を染められた。おびえふるえて。
「墨とべんがら」という言葉の混色を,まねたくても絶対にまねたことがない。

1933年、特別警察による拷問で,逮捕即日になぶり殺された多喜二の
からだの内出血が,どれほど凄惨であったか,「墨とべんがら」の混色は
伝えている
つたえている。以来、私にとって戦前、戦中のイメージカラーになった。
これは、SFではない。

多喜二の作品は権力を怒らせた.『蟹工船』も『1928年3月15日』も。
前者は不敬罪の対象とされ,後者は警察の拷問をえがいたことで憎しみをかった。
そのために、からだを「墨とべんがら」色にされたのだ。

若者のおおくはそれを知らない.やっかいだな,と思う。
「墨とべんがら」はいまはない、とされている。
多喜二らをつかまえた治安維持法もいまはないことになっている。
現在のダークチェンジは経済分野であり,,国家全体のそれではない、とみなされ
ている。


そうだろうか、、、とうおいつ思いをめぐらせて私は歩いた。
「墨とべんがら」色はいま、ぼんやりと社会の底に沈着しているだけではないか。
また、うかぶこともないではない。

「労働者が北オホーツクの海で死ぬことなどは、丸ビルの重役には、
どうでもいい事だった.資本主義がきまりきった所だけの利潤では
行き詰まり、金利が下がって金がダブついてくると,、、どんな所へでも、
死にものぐるいで血路を求め出してくる」『蟹工船』より

これをどう読むか。
『蟹工船』セールに乗り出した側は、多喜二の思想を広めたいのではなかろう。
売れるから売るのだ。
資本と権力はとどのつまり「どんな事でもする。」

かつてより”半端ねぇ”のは、それではないか。   おわり

本

コメント(6)

水の透視画法 43
辺見庸

 風景が波とうにもまれ一気にくずれた。瞬間、すべての輪郭が水に揺らめいて
消えた。わたしの生まれそだった街、友と泳いだ海、あゆんだ海辺が、突然に怒
りくるい、もりあがり、うずまき、揺さぶり、たわみ、地割れし、ごうごうと得
体の知れぬけもののようなうなり声をあげて襲いかかってきた。その音はたしか
に眼前の光景が発しているものなのに、はるか太古からの遠音(とおね)でもあ
り、耳の底の幻聴のようでもあった。水煙と土煙がいっしょにまいあがった。そ
れらにすぐ紅蓮(ぐれん)の火柱がいく本もまじって、ごうごうという音がいっ
そうたけり、ますます化け物じみた。家も自動車も電車も橋も堤防も、人工物の
すべてはたちまちにして威厳をうしない、プラスチックの玩具のように手もなく
水におしながされた。ひとの叫びとすすりなきが怒とうのむこうにいかにもか細
くたよりなげに、きれぎれに聞こえた。わたしはなんどもまばたいた。ひたすら
に祈った。夢であれ。どうか夢であってくれ。だが、夢ではなかった。夢よりも
ひどいうつつだった。
 
 それらの光景と音に、わたしは恐怖をさらにこえる「畏れ」を感じた。非常無
比にして荘厳なもの、人智ではとうてい制しえない力が、なぜか満腔の怒気をお
びてたちあがっていた。水と火。地鳴りと海鳴り。それらは交響してわたしたち
になにかを命じているようにおもわれた。たとえば「ひとよ、われに恐惧(きょ
うく)せよ」と、あるいは「ひとよ、おもいあがるな」と、わたしは畏れかしこ
まり、テレビ画面のなかに母や妹、友だちのすがたをさがそうと必死になった。
これは、ついに封印をとかれた禁断の宗教画ではないか。黙示的光景はそれじし
ん津波にのまれた一幅の絵のようによれ、ゆがんだ。あふれでる涙ごしに光景を
見たからだ。生まれ故郷が無残にいためつけられた。知人たちの住む浜辺の集落
がひとびとと家ごとかき消された。親類の住む街がいとも簡単にえぐりとられた。
若い日に遊んだ美しい三陸の浜辺。わたしにとって知らぬ場所なぞどこにもない。
磯のかおり。けだるい波の音。やわらかな光・・。一変していた。なぜなのだ。
わたしは問うた。怒れる風景は怒りのわけをおしえてくれない。ただ命じている
ようであった。畏れよ、と。
 
津波にさらわれたのは、無数のひとと住み処(か)だけではないのだ。人間は
最強、制服できぬ自然なし、人智は万能、テクノロジーの千年王国といった信仰
にも、すなわち、さしも長きにわたった「近代の倨傲(きょごう)」にも、大き
な地割れがはしった。とすれば、資本の力にささえられて徒(あだ)な繁栄を謳
歌してきたわたしたちの日常は、ここでいったん崩壊せざるをえない、わたした
ちは新しい命や価値をもとめてしばらく荒れ野をさまようだろう。時は、しかし、
この広漠とした廃墟から、「新しい日常」と「新しい秩序」とをじょじょにつく
りだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序とどのようにことなる
のか、いまはしかと見えない。ただはっきりとわかっていることがいくつかある。
われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆
にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や
誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている。愛や
誠実、やさしさはこれまで安寧のなかの余裕としてそれなりに演じられつづけて
きたかもしれない。けれども、見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放
りだされた素裸の「個」が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。
これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現
がはたして可能なのか。家もない、食料もない、ただふるえるばかりの被災者の
群れ、貧者と弱者たちに、みずからのものをわけあたえ、ともに生きることがで
きるのか。すべての職業人がやるべき仕事を誠実に追求できるのか。日常の崩壊
とどうじにつきつけられている問いとは、そうしたモラルの根っこにかかわるこ
とだろう。カミュが小説『ペスト』で示唆した結論は、人間は結局、なにごとも
制することができない、この世に生きることの不条理はどうあっても避けられな
い、というかんがえだった。カミュはそれでもなお主人公の医師ベルナール・リ
ウーに、ひとがひとにひたすら誠実であることのかけがえのなさをかたらせてい
る。混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのでなく、他にたいしていつもよ
りやさしく誠実であること。悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、
あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかな
る装飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である。

 いまはただ茫然と廃墟にたちつくすのみである。だが、涙もやがてかれよう。
あんなにもたくさんの死をのんだ海もまるで嘘のように凪ぎ、いっそう青み、ゆ
ったりと静まるであろう。そうしたら、わたしはもういちどあるきだし、とつお
いつかんがえなくてはならない。いったい、わたしたちになにがおきたのか。こ
の凄絶無尽の破壊が意味するものはなんなのか。まなぶべきものはなにか。わた
しはすでに予感している。非常事態下で正当化されるであろう怪しげなものを。
あぶない集団的エモーションのもりあがり。たとえば全体主義。個をおしのけ例
外を認めない狭隘な団結。歴史がそれらをおしえている。非常事態の名の下で看
過される不条理に、素裸の個として異議をとなえるものも、倫理の根源からみち
びかれるひとの誠実のあかしである。大地と海は、ときがくれば、平らかになる
だろう。安らかな日々はきっとくる。わたしはそれでも悼みつづけ、廃墟をあゆ
まねばならない。かんがえなくてはならない。

(おわり)

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