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竹中郁コミュの探しています

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竹中郁が編集した子どもの詩集を探しています。
『子どもは見ている』など。
もし古本屋などであった、などあれば教えてください。

コクトーやボードレール好きな学者にプレゼントしようかな、と思っています。

コメント(9)

 トピック立てありがとうございます!

 ネットの「日本の古本屋」で検索して調べてみました。

 『子どもは見ている その詩でとらえた生活の顔』(東都書房、昭和34)、ありました。大阪の古書店「書砦・梁山泊」にて3000円で売り出しているようです。購入するとなると、送料は無料ですが、郵便振替か銀行振込みでの手数料がかかります。「日本の古本屋」に会員登録(無料)すれば、購入可能です。私の経験上、届くのに三日ぐらいかかります。
 
 「日本の古本屋」のサイトはこれです↓

http://www.kosho.or.jp/servlet/top

古書検索に「竹中郁」と打ち込めば、ざっと関連書籍が出てきます。

『竹中郁少年詩集 子ども闘牛士』『全日本児童詩集』なども売り出しているようです。
ありがとうございます。
『子どもの言いぶん』というのを頼んでみました。
こんないいサイトがあるんですね。いつもamazonで検索してました。

ぜひぜひ、竹中郁の本をドイツ語に翻訳してください。
ちょっと贔屓しすぎですが、僕のとても好きな詩人です。
小さいころから読んでいました。
 竹中郁のドイツ語訳、そうです!
 前に、詩集「黄蜂と花粉」から三つの詩を試訳してみたんですが、どうもドイツ語のニュアンスをしっかり理解できていないようなので、そのままになっています。…今は「現代詩文庫」シリーズを続けて読んでいく作業にかまけているのですが、、、ようやく70冊ちょっと読んだ程度で、なかなか終わりません。他の詩人たちと比べてみても、竹中郁の若々しい詩は、洒脱で、やはり惹かれるものがあります。
 
70冊も読んでるんですか。楽しそうですねー!

若いころの詩と晩年期はそんなに違うんですか。
まぁ、確かにとげとげしさはなくなって丸みがあるかも。
三島由紀夫なども戦前の作品が好きだったようですね。

竹中郁の詩は、コクトーやボードレールに影響を受けてるからか、
前衛・ロマン的な側面があるからドイツではうけいれてもらえるかもですね。
ん、どちらかというとフランスか。


 竹中郁は同人詩誌「四季」創刊当初(1933年)からの中心的メンバーですが、その「四季」時代の詩集は、第五詩集「署名」以降となっています。この「四季」を創刊した時から詩のニュアンスが一変しています。竹中郁自身も「詩風ようやく転じはじめる」と記していますが、この詩集に対して、三好達治、阪本越郎、神西清(三人とも「四季」のメンバー)が揃って、詩風が変わった、と述べています。神西清が、空間の断面を歌う詩人から大胆な告解の詩人へ移った、と評しています。「告解の詩人」とは、少し大層な物言いですが。

 私見によれば、「説明的な」詩になるんです、「四季」以前の「弾む感性」というものが消えてしまう。絶妙なバランス感覚で弾んでいた青春が消えてしまったというか。コクトーの影響はとても強いのですが(第二詩集「枝の祝日」ではコクトーの四行詩を原語で詩集の冒頭に引用しています)、とても個人的な感想に従って言うと、コクトーの詩よりも、断然竹中郁の詩のほうが、読んでいて面白い。コクトーは(翻訳でしか読んでいませんが)、詩にせよ戯曲にせよ、下手くそに投げ出したイメージの散乱や安っぽいエスプリ、といった感じがするんです(音楽劇の脚本「エッフェル塔の花嫁」は例外的に面白いのですが)。フランス音楽に譬えると、コクトーはダリウス・ミヨーですが、竹中郁はジャン・フランセ、といった感じです(かなりマニアックな譬えですが)。

 ボードレールの影響は、どうなんでしょうか、ちょっとピンとこないのですが。少なくとも、竹中郁の詩風に表出しているとは、あまり感じません。あえて名前を挙げるとすれば、ラフォルグあたりになるのでしょう。と言っても、ラフォルグは「語っていく」詩人ですから、これもまた違うのですが。
なるほど、なるほど。面白いですね。
もし差支えなければ、週に一度、いや月に一度か二度、竹中郁の詩についての評論をしてもらませんか?読んでみたいです。

ボードレールは、当時主流であった道徳的価値観(自然への回帰)からは距離を置き、人間そのものがもつ美に着目した人だと言われています。当時の人々が題材としないようなサブカルチャーに関する書や評論も多いように思います。竹中郁もその影響を受け(フランス滞在時に墓参りなどしているようです)、人々の何気ない情景に美を見出し、それを詩にしているような気がします。その点に共通性を見出しました(そんなに学術的ではないですが)。

何はともあれ、竹中郁独特の「空気」が感じられる詩。時々思い返しては読みなおしています。

 評論ですか!
 竹中郁については、そんな特別に詳しいわけでもないし、それほど語ることもないのですが。つまり、たとえば、『竹中郁詩集』(現代詩文庫)を開いて任意の詩を読んでみると、それは「退屈」という詩でしたが、ここで、この詩で、竹中郁が駆使している「ことば」の使い方(というか、煌めかせ方、とでもいうのでしょうか)が、それが、1927年頃の詩にしては、古臭くないんですね、少しも。これはこれは、と感心して、ただ読むだけなので、無理です。
 にしても、竹中郁は、有名ではない(?)人ですよね。後の世代の詩人なり誰かなりが、強く宣伝してないせいでしょうかね。コミュのメンバー数ですら、無残な尾形亀之助に余裕に負けていますし(私が、無残、と言うのは、亀之助が可哀想だからですが、というのは、社会との接触という刺激がなかったからなのか、第ニ詩集以後の内容が酷い有様になっているので)。芥川龍之介も三島由紀夫も竹中郁の詩は好きだったようですから、小説の中にでも竹中郁の詩を引用してくれてもいたら、もっと有名になっていたかもしれません。
 西脇順三郎が、竹中郁の詩はコクトーよりも優れている、と書いていますが、その理由が、竹中郁のウィットが「永遠という思念に連結されているから」と、どうも嘘っぽい屁理屈で説明していますが、単純に、ことばの弾ませ方(と、その弾み方の、そうであることの説得力)が、コクトーよりも上手だと、そう解釈できるかと思います。付けくわえるならば、西脇順三郎の「諧謔」よりも竹中郁の「ウィット」のほうが、精彩のあるものかとも思います。まあ、「諧謔」は語るもので、「ウィット」はかすめるものですから、比較していいものか分かりませんが、西脇の「諧謔」はちょっと過大評価され過ぎの感じもあります。
 竹中郁の「ウィット」というと、オネゲルの管弦楽曲「ラグビー」に捧げた有名な詩「ラグビイ」がありますが、この詩は、どちらかというと、ジャン・フランセの曲に相応しいような軽やかさとリズムがあります。ジャン・フランセはそれほど有名な作曲家ではないですけど、フランス的エスプリ(ウィット)という点ではフランスの作曲家にあっても無類の存在だと思いますが、そういう音楽の軽やかさ、弾んだ青春が竹中郁の詩にもあるかと思います。
 
 うーん、ひょっとしたら、竹中郁が左川ちかのように早世していたら、もう少し認知度(?)が上がったかもしれません。青春のうちに死するモダニズム詩人、ということで。竹中郁の後期の詩も、これはこれで嫌いではないのですけど、作風が変わってしまって、どっちつかずの感が無きにしもあらず、というのか。
竹中郁の「弾ませ方」「ウィット感」。なんとなく分かる気もしますが、例えばどんなんでしょう?

僕は、後期の作品でも、ポズルカマズルカの「足どり」などウィット感あるなーと思います。


「足どり」
見知らぬ人の
会釈をうけて
こちらも丁重に会釈をかえした

二人のあいだを
ここちよい風がふいた

二人は正反対の方向へあるいていった
地球を一廻りして
また出会うつもりの足どりだった



地球一廻りするんかい!ってな感じで。
  
「地球を一廻りして
また出会うつもりの足どりだった」

これ、面白いですね。比喩が巧い。飄々とした筆致で、さりげないウィット。

 「ハルキ文庫」の詩集シリーズで「竹中郁詩集」がひょんなことから出たとしたら、収録して欲しいような詩です。
 同人詩誌第三次「四季」は、昔の角川書店によって発行されていたので、文庫化の可能性がないこともないのですが。無理か。

ちなみに『竹中郁全詩集』での解説によると、もともとは第八詩集「そのほか」所収の詩だったそうですが、のちに第九詩集「ポルカ マズルカ」に再び収録された詩のようです。

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