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ナチス・ドイツ空軍コミュのGünther Rall 少佐 (1918〜2009)

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 ギュンター=ラルは第二次世界大戦で敵機275機を撃墜し、352機撃墜のエーリッヒ=ハルトマン少佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765865297&owner_id=250900》、301機撃墜のゲルハルト=バルクホルン少佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1862231006&owner_id=250900》に次ぐ世界史上第三位のスコアを挙げたエースパイロットであり、戦後は西ドイツ空軍のトップである空軍総監も務めた人物です。
 ラルは、第一次世界大戦末期の1918年3月10日、ドイツ第二帝國バーデン大公国バーデンバーデン近郊のガゲナウで生まれました。父親は鉄工所のマネージャーでしたが、君主制支持者でドイツ国家人民党に近く、右翼組織「鉄兜団」に加入していました。母親は敬虔なプロテスタントで、ラル少年は姉と共に保守的なプロテスタントの家庭に育ちました。
 ラル少年は1930年にヴュルテンベルク州の州都シュトゥットガルトのキリスト教系ギムナジウムに入学しましたが、1935年にナチス政権が民族共同体教育施設として設けた寄宿制ギムナジウムであるナポラ(国家政治教育学校)のバックナンク校に転校し、そこで大学入学資格であるアビトゥーアに合格しました。
 ラルは、1936年に勤労義務を終えた後に陸軍第13歩兵連隊へ入隊し、12月4日にザクセン大管区ドレスデンの士官学校に入学しましたが、親友の影響を受けて1938年7月1日に空軍へ転属し、第二次世界大戦勃発直前の1939年8月19日に操縦教育を終えて、第3航空軍(軍司令官;フーゴ=シュペルレ空軍大将)第52戦闘航空団(JG52)に少尉として配属されました。第52戦闘航空団はヴュルテンベルクホーエンツォレルン大管区シュツットガルトで編成を終えたばかりの部隊でした。司令はメルハルト=フォン=ベルネック少佐で、当時は2個飛行隊・6個中隊のみで編成されており、乗機はBf109Eです。
 第3航空軍はフランス国境防衛が任務でしたので、ポーランド戦では出番が無く、1940年3月1日に第52戦闘航空団に第3飛行隊(飛行隊長;ヴォルフ=ハインリヒ=フォン=ホウワルド大尉)が新設されると、ラル少尉は第8中隊に配属されました。
 同年5月10日に始まる西方電撃戦がラル少尉の初陣で、12日にフランス上空においてフランス軍の米国製カーチスP36を撃墜して初戦果を記録しました。この結果、ラル少尉は5月23日に第二級鉄十字章を受章、7月25日には第一級鉄十字章を受章すると同時に中尉に昇進、第8中隊長に就任しています。第3飛行隊長はアレクサンダー=フォン=ヴィンターフェルト少佐です。
 しかし、ラル中尉は同年夏のバトル=オヴ=ブリテンでは戦果を挙げる事が出来ず、爆撃機の護衛任務専従とされていた第52戦闘航空団(司令;ハンス=トリューベンバッハ少佐)全体が犠牲ばかり出して、苦戦を続けていました。特に第3飛行隊は36人のパイロットが4人になってしまう惨状で、ラル中尉は生き延びるだけで精一杯だったのです。この経験からラル中尉は、戦闘機は爆撃機の護衛などすべきではなく、自由な空中戦を行なうべきであり、その結果として制空権が確保出来れば、爆撃機の安全も保障されるとの確信を抱くようになりました。
 1941年になると、補充再編された第52戦闘航空団は第4航空軍(軍司令官;アレクサンダー=レール上級大将)に転属して、5月20日に始まるクレタ島攻略作戦に参加、ブルガリア王国駐屯を経て、6月22日にバルバロッサ作戦が発動されると、南方軍集団(司令官;ゲルト=フォン=ルントシュテット元帥)支援のためルーマニア王国からソ連領に出撃しました。当時の第3飛行隊長はアルベルト=ブリューメンザート少佐です。
 独ソ戦開始時点でラル中尉の撃墜スコアは1機のみでしたが、6月24日に2機撃墜を果たしたのを皮切りに東部戦線では急速にスコアを伸ばし、僅か4ヶ月で33機を屠る事に成功したのです。
 しかし、同年11月28日夕刻、ラル中尉は黒海沿岸のロストフナドヌー上空で撃墜した敵機に気を取られている隙に対空砲火をエンジンに受けてしまい、どうにかドイツ軍戦線に辿り着いて機体を不時着させましたが、設置されていた友軍の野砲に激突、意識不明の重態に陥ってしまったのです。
 ラル中尉はヴィーン帝國大管区のヴィーン大学病院へ後送されましたが、背骨が三ヶ所で折れており、下半身が麻痺する重傷でした。幸い、意識も下半身麻痺も回復しましたが、医師からは飛行機操縦は永久に不可能と宣告されてしまいました。ヴィーンでのラル中尉は、自らの負傷と東部戦線の苦境に加え、1942年1月には父が死亡したため、すっかり落ち込んで、リハビリへの熱意も無くしていました。ところが、ラル中尉はヴィーン大学病院に勤める美人小児科医ヘルタ=シェーンと偶々知り合ってリハビリを強く勧められ、彼女の気を引くため俄かにリハビリに励むようになって、急速に回復して行きました。そしてラル少尉はヘルタと恋仲になり、一緒にテニスやスキーを楽しめるようになったのです。
 こうして、奇跡的に快癒したラル中尉は1942年8月上旬には古巣の第52戦闘航空団(司令;ヘルベルト=イーレフェルト少佐)第3飛行隊(飛行隊長;フーベルタス=フォン=ボーニン少佐)第8中隊長に復帰、コーカサス油田地帯攻略を目指すA軍集団(司令官;ヴィルヘルム=リスト元帥)を支援する作戦に参加して急激にスコアを伸ばす事になります。当時の乗機はBf109G-2でした。
 僅か一ヶ月弱で29機を屠ったラル中尉は、8月31日には早くもスコアが65機に達して9月3日に騎士鉄十字章を授けられ、10月22日には100機目を撃墜して26日に柏葉騎士鉄十字章を授与されたのです。ラル中尉は見越射撃の名手として高い評価を受ける事となりました。
 中隊長としてのラル中尉は、対英戦の苦い経験から、部下に対して敵戦闘機を戦場から駆逐する事を最優先する事を徹底させ、友軍爆撃機護衛や敵爆撃機撃墜は二の次とするよう指示していました。敵戦闘機に対しては常に上方からの攻撃を徹底させ、降下して逃げる敵をBf109の快速を活かして追尾、撃墜するのを原則とさせ、特にラル中尉自身は狙った敵機を執拗に追い詰めて葬る事で知られていました。敵爆撃機に対しては対空機銃の死角となる後下方からエンジンを狙うのが鉄則でした。
 因みに、11月1日に第52戦闘航空団司令に就任したディートリヒ=フラバク少佐は機体に派手なマーキングをする事を好まなかったため、ラル中尉もマーキングどころか、撃墜マークすら入れない地味な機体で出撃を続けていました。
 なお、この時期、多くの戦闘航空団がBf109から新型のFw190への機種転換を行なっていますが、フラバク少佐以下第52戦闘航空団の指揮官達は上昇力や下降スピードに優れるBf109を愛用し続け、ラル中尉もその一人でした。Fw190は旋回能力や火力はBf109に勝っていましたが、高高度での運動性能が悪かったため、高高度から急降下する戦術を得意とするラル中尉にはBf109の方が適していたのです。
 さて、東部戦線ではB軍集団(司令官;マクシミリアン=フォン=ヴァイクス男爵上級大将)第6軍(軍司令官;フリードリヒ=パウルス上級大将)が11月22日にスターリングラードで包囲され、12月に入るとコ−カサス戦線でもソ連軍の大反攻が開始されたため、第52戦闘航空団は撤退するA軍集団(司令官;エーワルト=フォン=クライスト上級大将http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754036950&owner_id=250900)の援護に当たりますが、冬季は悪天候のため殆ど空中戦が発生せず、ラル中尉はスコアを伸ばせませんでした。
 しかし、1943年春のハリコフ攻防戦支援に於いてラル中尉は再び順調にスコアを伸ばし始め、4月に18機、5月に19機を撃墜しています。6月は第52戦闘航空団はツィタデレ作戦に備えて再編・休養しました。
 同年7月5日、ツィタデレ作戦が発動されてクルスク大戦車戦が開始されると、第52戦闘航空団は南方軍集団(司令官;エーリッヒ=フォン=マンシュタイン元帥)の支援に当たり、ラル中尉は同月6日に大尉へ昇進して第3飛行隊長に就任しました。部下には後に世界史上最高の撃墜王となるハルトマン少尉がいました。
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 ラル大尉麾下の第3飛行隊は8月3日〜5日の三日間で93機もの敵機を屠る大活躍をし、ラル大尉は指揮官としての優秀さを示すと共に、個人成績も急上昇させます。この当時のラル大尉の乗機はBf109G-4でしたが、8月だけで33機もの敵機を葬り、8月9日に175機、25日には世界史上3人目の200機撃墜を達成したのです。
 この結果、ラル大尉は9月12日、オストプロイセン大管区の総統大本営ヴォルフスシャンツェに於いてヒトラー総統から剣付柏葉騎士十字章を授与されました。
 また、ラル大尉はこの本国帰還の機会に恋人のヘルタと結婚しています。夫人との間には後に四人の子を授かりましたが、うち二人は誕生後すぐに夭折しています。
 ラル大尉は10月には40機ものソ連軍機を撃墜して11月1日に少佐に昇進、11月28日には第54戦闘航空団第1飛行隊長ヴァルター=ノヴォトニー大尉に次いで世界史上二人目の250機撃墜を達成しています。背骨を損傷する酷い負傷をした日から丁度2年目の事でした。この時期、ラル少佐はノヴォトニー大尉と激しいトップエース争いを演じていました。
 しかし、当時、東部戦線は既に崩壊して地上軍は敗退を続けており、第52戦闘航空団もパイロット不足が深刻化、機体がダブ付く有様だったのです。
 1944年4月18日、272機撃墜を果たしてトップエースとなっていたラル少佐は、ドイツ本土防空を任とする第11戦闘航空団第2飛行隊長に異動、米英軍と相対する事となりました。ラル少佐はこの時期にはFw190Aにも搭乗していますが、やはりお気に入りはBf109だったようです。
 ところが、米英軍はソ連軍に比べて遥かに強力であり、ラル少佐の部下は経験不足の若年兵ばかりでしたから、敵機を執拗に追い詰めるラル少佐の戦法は西部戦線では通用せず、僅かに2機を撃墜出来ただけでした。1940年5月の初撃墜機と併せても、ラル少佐の西部戦線での戦果は3機のみだったのです。 
 同年5月12日、ラル少佐は帝都ベルリン上空に於いて嘗て無い強敵と遭遇します。アメリカ第56戦闘機群司令でありエースパイロットでもあるヒューバート=ゼムケ大佐のリパブリックP-47サンダーボルトです。ラル少佐のBf109G-5は格闘戦でゼムケ大佐を翻弄、逃げるゼムケ機を単機で追い詰めましたが、背後からゼムケ大佐の僚機の攻撃を受け、乗機が火を噴いてしまいました。ラル少佐は辛うじてパラシュートで脱出に成功しますが、12.7mm機銃弾で左手の親指を消し飛ばされてしまったのです。しかもラル少佐は病院内でジフテリアに感染し、11月まで入院を続けるハメに陥りました。
 ラル少佐は退院後、ジェット戦闘機Me262への機種転換訓練を受けましたが、やはり左手親指を欠いた状態では満足な操縦が出来ず、20時間飛行しただけで訓練を断念しています。この結果、ラル少佐は戦闘機パイロットの技量を向上させるための中隊長育成部隊教官に転じましたが、最早ルフトヴァッフェには育てるべき後輩も殆ど残っていなかったのです。
 1945年2月、ラル少佐は第300戦闘航空団司令に任命されましたが、既にドイツにはパイロットも燃料も殆ど残っておらず、圧倒的な連合軍の前に成す術も無いまま5月9日の休戦協定調印を迎えたのでした。
 ラル少佐の公式出撃回数は631回でしたが、実際には700回以上出撃したと言われています。撃墜した275機のうち戦闘機は241機で、被撃墜回数は公式には5回、実際には8回だとされています。
 休戦後、ラル少佐は米軍の捕虜収容所へ入れられますが、戦犯容疑等は無かったため8月に釈放され、工場労働や森林伐採等に従事しますが、左手親指を欠いた状態では満足な働きは出来なかったようで、小児科医の夫人が家計を支えていました。
 1956年元日、ドイツ連邦共和国空軍が設立されると、ラルは少佐として入隊が認められ、ハルトマン少佐等と共に米国で研修を受けた後、1957年に中佐に昇進してジェット戦闘機のパイロットとして再び大空へ舞い上がったのです。
 ラル中佐は1964年にパリのNATO国防大学で研修を受けて大佐に昇進、第34航空団司令となりました。
 その後、ラル大佐1966年には准将、1967年には少将に昇進、第3航空師団長、第4戦術連合空軍参謀長等を歴任した後、1970年12月16日に中将に昇進して西ドイツ空軍のトップである空軍総監に登り詰めたのです。この時期はロッキード F-104スターファイター戦闘機の事故が相次いだため、ラル中将はマスコミからの厳しい批判にさらされました。
 ラル中将は1973年にドイツ連邦共和国功労勲章の六番目の等級に当たる大功労十字星章を受章、同年末に空軍総監を辞し、翌年からNATO駐在武官を務めました。
 ところが、1975年夏に嘗ての戦友を訪ねてナミビアに旅行した際、アパルトヘイト政策で全世界の非難を受けていた隣国南アフリカを訪問した事を『シュテルン』誌にすっぱ抜かれ、ヘルムート=シュミット社会民主党内閣のゲオルク=レーバー国防相からも批判されて、同年末に退役を余儀なくされてしまいました。
 その後は現役時代の経験等を語る講演活動を続け、2004年には回想録“Mein Flugbuch”(『我が飛行記録』)を出版しました。この間、1985年にはヘルタ夫人と死別しています。
 2005年にゲアハルト=シュレーダー社会民主党内閣のペーター=シュトルック国防相が戦争犯罪を理由に空軍戦闘団の愛称からヴェルナー=メルダース大佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1821773598&owner_id=250900》の名を抹消した際、空軍総監在任中にその名称を付した当事者であるラルや空軍の退役軍人らは反対運動を起こしましたが、阻止する事は出来ませんでした。
 夫人と死別後のラルはバイエルン州バートライヒェンハルで一人暮らしを続けていましたが、2009年10月4日に自宅で死亡しているのが発見されました。検死の結果、二日前の10月2日に心臓発作を起こして死亡した事が確認されましたた。享年91。

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コメント(6)

戦後の尋問の際に、確か太平洋で日本軍と戦わないか?と勧誘されたそうですが、果たして彼は何と答えたのやら?
ス−パ−エ−スは91歳まで生きられたのですね、、なんか良かったです長寿をまっとうできて。
>>[5]
 功成り、名を遂げた上で、天寿を全うするって、なかなか難しいものですが、ラルの場合は見事に成し遂げましたね。

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