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ナチス・ドイツ空軍コミュのErich Gerhard Barkhorn 少佐 (1919〜1983)

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 ゲルハルト=バルクホルンは撃墜数301機のエースパイロットです。このスコアはエーリヒ=ハルトマン少佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765865297&owner_id=250900》の352機に次ぐ世界史上第2位の記録となります。
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 バルクホルンは、1919年3月20日、オストプロイセン州の州都ケーニヒスベルクで生まれました。彼の高校在学中に始まったスペイン内戦へ派遣されたコンドル軍団の活躍に憧れたバルクホルンは、高校卒業直後の1937年11月7日、18歳でドイツ空軍に入隊、1938年3月から操縦士としての訓練を開始しました。バルクホルンは、大戦勃発直前の1939年8月10日に訓練課程を修了して空軍少尉任官を果たし、第1航空軍(軍司令官;アルベルト=ケッセルリンク大将)第3航空管区第2戦闘航空団“リヒトホーフェン”(司令;ゲルト=フォン=マッソウ大佐)に配属されました。第3航空管区は帝都ベルリン防衛を担当しており、第2戦闘航空団は帝都西郊のデーベルリッツに司令部を置いて最新鋭のBf109E戦闘機が配備されていましたが、ヘニング=シュトランペル大尉麾下の第1飛行隊のみしか存在しない発展途上の航空団でした。
 同年9月1日に開始されたポーランド戦において、第1航空軍は北方軍集団(司令官;フェヨドール=フォン=ボック上級大将)の支援に当たりましたが、第2戦闘航空団は殆ど戦闘に参加せず、バルクホルン少尉が実戦を体験する機会はありませんでした。
 第2戦闘航空団は同年10月、フランス国境に展開したA軍集団(司令官;ゲルト=フォン=ルントシュテット上級大将)を支援する第3航空軍(軍司令官;フーゴ=シュペルレ上級大将)に転属してフランクフルトアムマインに司令部を移し、第4飛行隊(Bf109D装備の夜間戦闘機隊)が増設されました。同年11月には第2飛行隊も増設されています。
 1940年3月15日、第2戦闘航空団に第3飛行隊(中隊長;エーリヒ=ミックス大尉)が増設されると、バルクホルン少尉は第1飛行隊から第3飛行隊に異動となり、訓練を続けました。なお、4月1日には第2戦闘航空団司令がハリー=フォン=ビューローボートカンプ大佐に交替しています。
 1940年5月10日に西方戦役が開始されると、第2戦闘航空団は第4軍(軍司令官;ギュンター=フォン=クルーゲ上級大将)の支援に当たり、第3飛行隊は第2軍団(軍団長;アドルフ=シュトラウス歩兵大将)第7装甲師団(師団長;エルヴィン=ロンメル少将)の上空支援を担当して、14日にはセダン上空で英仏空軍と激しい空中戦を演じましたが、まだ21歳のバルクホルン少尉は若過ぎるとの理由で出撃を許可されず、訓練を続けざるを得ませんでした。
 同年6月22日のフランス降伏後、第2戦闘航空団はバスノルマンディ州コタンタン半島に移動し、対英戦に備えました。7月10日、バトル=オヴ=ブリテンの前哨戦が開始され、戦闘機隊による英国沿岸高射砲陣地やレーダー基地攻撃と制空権確保のための作戦が発動されると、バルクホルン少尉は漸く出撃を許され、勇躍Bf109Eを駆って離陸しますが、まだイングランド海峡上空へすら出ないうちにホーカー=ハリケーン戦闘機によって撃墜され、パラシュート脱出を余儀なくされました。
 数日後、バルクホルン少尉のBf109Eは英国上空でスーパーマリン=スピットファイア戦闘機によって機首のオイルクーラーを打ち抜かれてしまいました。エンジンの温度が上がり、出力が下がる中、バルクホルン少尉は必死で操縦を続け、何とかイングランド海峡上空に出ましたが、ここでまた別のスピットファイアから多数の7.7mm機銃弾を浴びせられたため、機体を反転させて海上へパラシュート脱出しました。列機が近隣の海軍巡視艇に連絡してくれたため、バルクホルン少尉は無事救出されましたが、その数分後にその海域へ英軍艦艇も現れているため、彼は1機も撃墜を記録出来ないまま危うく捕虜になるところだったのでした。このため、以後、バルクホルン少尉は被弾しても決してパラシュート脱出はせず、機体を不時着させるようになりました。
 1940年8月1日、バルクホルン少尉はベルギーのオーステンデに基地を置く第52戦闘航空団(司令;フーベルタス=メルハルト=フォン=ベルネック少佐)第2飛行隊(隊長;ハンス=ギュンター=フォン=コロナツキ大尉)第6中隊(中隊長;レッヒ中尉)に転属、第3小隊長に就任します。
 バルクホルン少尉は同年8月13日にアドラーアングリフ作戦が発動されてバトル=オヴ=ブリテンが本格化すると連日出撃を繰り返しますが、初撃墜は容易に達成出来ませんでした。それでも、頻繁な実戦参加を嘉されて10月23日には第二級鉄十字章受章に至りますが、その直後の10月29日に又してもイングランド海峡上空で被弾、乗機を不時着させる破目に陥りました。
 しかし、バルクホルン少尉は負傷せずに済んだため、さらに出撃を繰り返し、12月3日には第一級鉄十字章を受章しています。
 1941年2月1日、後に197機撃墜のエースとなるヴァルター=クルピンスキー少尉がバルクホルン少尉の部下として着任しますが、二人は同じオストプロイセン州出身だった事もあって意気投合し、生涯の友となります。なお、この当時のバルクホルン少尉の部下には他にハインツ=クノーケ伍長とグリュネルト伍長がいますが、何れも後にエースパイロットとなっています。
 バルクホルン少尉は1941年5月までBf109Eを駆って英国空軍相手に激闘を続け、100回以上の出撃を行ない、21回の交戦を記録していますが、どうしても初撃墜を記録出来ませんでした。但し、バルクホルン少尉は逸早く敵を発見する視力と勘を備えており、第2飛行隊で真っ先に敵機を発見するのは常に彼だったのです。
 1941年5月下旬、第52戦闘航空団(司令;ハンス=トゥリューベンバッハ少佐)は、ベッサラビアからウクライナ侵攻を目指す南方軍集団(司令官;ルントシュテット元帥)を支援する第4航空軍(司令官;アレクサンダー=レール上級大将)第4航空軍団(軍団長;クルト=フリューグベイル中将)に転属となり、ルーマニア王国へ移動、6月22日のバルバロッサ作戦発動を迎えました。
 エーリッヒ=ヴォイトケ大尉麾下の第2飛行隊では、第4・第5中隊が制空任務、第6中隊が地上支援を命じられたため、暫らくの間バルクホルン少尉は空中戦の機会を得ませんでした。
 しかし、7月2日1850時、バルクホルン少尉はフランス戦以来通算120回目の出撃で漸く初戦果を記録します。葬った相手はイリューシンDB-3双発爆撃機でした。この時のバルクホルン少尉の機体番号は「白の5」だったため、彼は以後この数字をラッキーナンバーと定めて、必ず白の5の機体を使用、後に出世してからも指揮官用マークの中に小さく白の5を書き込む程の拘りようでした。また、彼はパーソナルマーキングとして愛妻Christlの名を白ペンキで書いていました。ちなみにクリストル夫人との間には3人の娘が生まれています。
 なお、第52戦闘航空団のパイロットは尾翼方向舵の撃墜マークを書かない者が多かったため、バルクホルン少尉もそれに倣いました。
 続いて、バルクホルン少尉は7月28日1120時にポリカルポフI-16を屠って戦闘機の初戦果を記録し、8月22日1225時には重装甲のIl-2シュトルモビク地上攻撃機を叩き落して5機撃墜をクリア、エースの称号を得ました。9機撃墜を記録していた11月11日には中尉に昇進、同月30日1007時にはI-16を屠って10機撃墜を達成しています。
 100機以上撃墜を記録した大エースは、初撃墜以後急速にスコアを伸ばすケースが多いんですが、バルクホルン中尉の場合は初撃墜から半年間で総撃墜数の三十分の一しか墜としておらず、遅々たるペースでした。この原因は、彼の属する第6中隊が地上支援を主任務としていた事の外、彼が格闘戦を好み、一撃離脱に適したBf109Eの利点を活かしきれていなかった点にもありました。
 しかも、同年12月に第2飛行隊は再編成のためドイツ本国に帰還したため、バルクホルン中尉は半年間も前線から遠ざかってしまったのです。再編成によって第2飛行隊は最新鋭のBf109Fを装備する事となりました。
 1942年5月21日、バルクホルン中尉は第2飛行隊(隊長;ヨハンネス=シュタインホフ大尉)第4中隊長に任命され、11人の部下と共に南方軍集団(司令官;ボック元帥)第11軍(軍司令官;エーリッヒ=フォン=マンシュタイン上級大将)によるセヴァストーポリ要塞攻略戦支援のためクリミア半島へ赴きます。
 5月16日0618時、バルクホルン中尉はMig-1戦闘機を屠って久しぶりの撃墜を記録しますが、ここから彼のスコアは驚異的な伸びを見せ始めます。
 6月22日にはラボーチキンLaGG-3戦闘機を一挙に5機葬って26機撃墜を達成、「一日で達成されたエース」の称号も得ました。続いて7月19日にはロストフ上空でLaGG-3戦闘機3機・I-16戦闘機1機・英軍供与のハリケーン2機の計6機を一日で撃墜、スコアは51機となりました。
 しかし7月25日、64機撃墜を達成していたバルクホルン中尉は被弾して不時着したのを機に休暇を与えられ、休暇中の8月21日にドイツ十字金章、23日に騎士十字章を授与されました。
 同年10月上旬にバルクホルン中尉は、コーカサス方面でA軍集団(司令官;アドルフ=ヒトラー総統兼任)の上空支援に当っていた第4航空軍団第52戦闘航空団(司令;ヘルベルト=イーレフェルト少佐)第2飛行隊第4中隊長へ復帰、10月7日にLaGG-3戦闘機4機を一挙に屠って再びスコアを伸ばし始めます。
 同年11月、B軍集団(司令官;マクシミリアン=フォン=ヴァイクス男爵上級大将)第6軍(軍司令官;フリートリヒ=パウルス上級大将)がスターリングラードでソ連軍に包囲されると、第52戦闘航空団(司令;ディートリヒ=フラバク中佐)は第6軍への空輸に当たる第8航空軍団(軍団長;マルティン=フィービク大将)の護衛に駆け付け、バルクホルン中尉は12月19日0915時にスターリングラード上空で米国製カーチスP-40ウォーホーク戦闘機を葬って100機撃墜を達成しました。この時期、第52戦闘航空団は装備機をBf109G型へと転換しています。
 バルクホルン中尉は、105機撃墜を達成していた1943年1月11日、オストプロイセン州の総統大本営ヴォルフスシャンツェにおいてヒトラー総統から柏葉騎士鉄十字章を授与されました。
 同年2月2日、パウルス元帥の降伏でスターリングラード攻防戦は終わりを告げましたが、第52戦闘航空団はA軍集団(司令官;エーヴァルト=フォン=クライスト元帥http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1754036950&owner_id=250900)・B軍集団の撤退戦の上空支援を続け、バルクホルン中尉は2月11日と12日の二日連続で一日4機撃墜を果たして、2月末までにスコアは120機に達しました。
 同年3月になると南方軍集団司令官マンシュタイン元帥が戦線建て直しに成功したため、第52戦闘航空団は補充を受けて一服する事が出来ました。3月25日には第2飛行隊長がヘルムート=キューレ大尉に交替しています。
 同年4月下旬から第52戦闘航空団は南方軍集団・A軍集団の支援でソ連空軍と活発な空戦を再開、バルクホルン中尉は順調にスコアを伸ばして行きました。
 同年7月4日、ツィタデレ作戦が発動されて南方軍集団・中央軍集団(司令官;ギュンター=フォン=クルーゲ元帥)がクルスク大戦車戦を開始すると、第52戦闘航空団はヨハンネス=ヴィーゼ大尉麾下の第1飛行隊とギュンター=ラル大尉麾下の第3飛行隊をクルスクへ派遣、第2飛行隊はロシア最南部に展開するA軍集団の支援のためクリミア半島の基地に残る事となったため、バルクホルン中尉も暫し休息する事が出来ました。
 しかし、ツィタデレ作戦が中止され、8月に入ってソ連軍の大反攻が開始されると、第2飛行隊は約40機の戦闘機のみで広大な戦線を支える破目に陥り、バルクホルン中尉は獅子奮迅の激闘を繰り返す事となります。
 1943年8月8日0610時、バルクホルン中尉はベッソノウカ上空でシュトルモビクを屠って世界史上15人目の150機撃墜を達成しました。これを嘉されて162機撃墜を果たしていた9月1日、バルクホルン中尉は大尉に昇進し、第52戦闘航空団第2飛行隊長に任命されたのです。ちなみにバルクホルン大尉麾下の第4中隊長は急速にスコアを伸ばして来ていた3歳年下のハルトマン中尉で、二人は生涯の親友となります。また、第5中隊長は後に237機撃墜を達成するヴィルヘルム=バッツ中尉、第6中隊長は後に203機撃墜を達成するヘルムート=リップフェルト中尉ですから、バルクホルン大尉麾下の第2飛行隊は世界最強の飛行隊と言って過言ではありませんでした。
 バルクホルン大尉は部下に対して、褒めるときも叱るときも公平平等に接する高潔な人格の持ち主で、稼動機1機のみの中隊にも出撃を命じたりする一方、疲労困憊して限界に達している部下を見抜いて静養させたり、前線の部下と本国の女性との遠距離結婚式を取り持ったりして人心収攬に当たりました。爆撃機護衛任務を放擲して敵戦闘機を深追いしたリップフェルト中尉を厳しく叱責した事もありますが、その撃墜は戦果として公平に賞賛しています。
 また、バルクホルン大尉はどんな危険な任務であっても、飛行隊長自ら常に先頭を駆って部下に模範を示し、乱戦の中で撃墜結果が誰のものか判らなくなった時は、気前良く戦果を部下に譲ったと言われているため、彼の実際の撃墜数は数十機多いのではないかとも言われています。
 さらに、敵機に命中弾を与えた後は必ず脱出のための機会を与えたとも言われており、その戦闘機パイロットとしての能力以上に優れた人格を賞賛する上官や部下が極めて多く、その人柄はソ連空軍将兵の間でも広く知れ渡っていたと言われます。バルクホルン大尉は傲岸不遜な人物が多かったドイツ空軍エースの中では、珍しくもの静かで控えめな人物であり、戦果を吹聴するような事は無かったため、一般国民の間での知名度は高くなかったようですが、騎士道精神を体現した真の武人として玄人筋では極めて高く評価されていたのでした。
 バルクホルン大尉は1943年11月30日0950時、コロンカ上空でYak-1戦闘機を屠り、世界史上5人目の200機撃墜を達成しました。当時の彼の乗機はBf109G-6です。
 同年12月末、フェドール=トルブーヒン上級大将麾下のソ連第4ウクライナ正面軍がクリミア半島の付け根を扼した事によって枢軸国A軍集団は分断され、クリミア半島には第17軍(軍司令官;エルヴィン=イェーネッケ歩兵大将)とルーマニア軍11個師団の合計約150000人の将兵が取り残されてしまいましたが、海上補給路は維持されていたため、第2飛行隊はクリミアに留まってソ連空軍と激戦を続けました。
 同年12月2日、バルクホルン大尉は一日で一挙に6機もの敵機を葬り、28日には一日で7機、29日には4機、1944年1月1日には4機と凄まじいペースでスコアを伸ばします。1月23日には1000回目の出撃も達成しました。
 そして同年2月13日、バルクホルン大尉は朝からクリミア半島への輸送船団上空支援のため黒海上空へ出撃、1046時から1320時の間に4機を撃墜したのに続き、1550時にYak-9戦闘機を屠って250機のスコアを達成したのです。これは、第54戦闘航空団第1飛行隊長ヴァルター=ノヴォトニー大尉・第52戦闘航空団第3飛行隊長ギュンター=ラル大尉に次ぐ世界史上3人目の快挙でした。
 この功績でバルクホルン大尉は3月2日、ヒトラー総統から剣付柏葉騎士十字章を授与されました。
 しかし、第2飛行隊が展開するクリミア半島の情勢は悪化する一方でした。同年3月30日、A軍集団から改称された南ウクライナ軍集団司令官に就任したフェルディナント=シェルナー山岳猟兵大将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1856860144&owner_id=250900》は、クリミア半島主要部が占領されてもセヴァストーポリ要塞と軍港は海上補給で維持可能だと判断していましたが、4月23日に輸送船団がソ連空軍と潜水艦の猛攻撃で大損害を受けたため考えを改め、セヴァストーポリ死守に拘泥するヒトラー総統を説得して撤退許可を取り付けました。
 しかし、この決断は遅きに失し、撤退部隊を載せた輸送船団もソ連海空軍の攻撃で大損害を出してしまいます。バルクホルン大尉は5月1日に少佐に昇進しますが、5月9日にセヴァストーポリ要塞も陥落したため、第2飛行隊は第52戦闘航空団司令部のあるルーマニア王国へ撤退する事となり、整備兵達を戦闘機に詰め込んでクリミア半島から脱出しましたが、高射砲部隊要員等は見殺しにせざるを得なかったのです。クリミア半島に取り残された部隊は5月12日にソ連軍に降伏を余儀なくされました。
 ルーマニアへ異動したバルクホルン少佐は5月下旬から第2飛行隊を率いてソ連空軍との交戦を再開します。
 5月31日には早朝から出撃して0538時から0610時の間に4機を屠り、スコアを273に伸ばしますが、この日は2〜5度目の出撃ではスコアを稼げず、夕刻になって6度目の出撃を行ないました。ソ連爆撃機編隊を発見したバルクホルン少佐は猛然と突っ掛かりますが、疲労困憊していて注意力が散漫になっていた彼は背後から米国製ベルP39エアラコブラ戦闘機が忍び寄っていた事に気付かなかったのです。この機を操縦していたのは、最終的に59機を撃墜したソ連空軍エースで、第9親衛飛行師団長の身でありながら出撃を繰り返していたアレクサンドル=イワーノヴィチ=ポクルィシュキン中佐(後に空軍元帥)だったと言われます。
 バルクホルン少佐は突然右腕と右足を打ち抜かれましたが、何とか胴体着陸に成功し、病院に担ぎ込まれました。この結果、第4中隊長のハルトマン中尉が第2飛行隊長代理に就任、瞬く間にスコアを伸ばして入院中のバルクホルン少佐を追い抜き、先に300機撃墜を達成してしまいました。
 1944年10月下旬からバルクホルン少佐は第2飛行隊長として任務復帰しますが、既にルーマニア王国も連合国側へ寝返り、戦線はハンガリー王国まで後退していました。バルクホルン少佐は10月26日1425時にYak-3戦闘機を屠って復帰後初スコアを挙げ、11月16日には一日で5機を撃墜、1945年1月3日にも一日4機撃墜を果たして順調にスコアを伸ばして行きました。
 そして1月4日には、ラボーチキンLaGG-5戦闘機3機を葬った後、Yak-9戦闘機を屠り、バルクホルン少佐はハルトマン中尉に次いで世界史上二人目の300機撃墜を達成したのです。翌日にもバルクホルン少佐はLaGG-5を撃墜してスコアを301に伸ばしました。
 同年1月16日、バルクホルン少佐はポーランドに基地を置いて本土防空任務に当たっていた第6戦闘航空団司令に任命され、4年以上在籍した第52戦闘航空団を離れる事となりました。第6戦闘航空団は同年元旦に強行されたボーデンプラッテ作戦で航空団司令ヨーハン=コグラー中佐や、かつてバルクホルン少佐の直属の上司だった第3飛行隊長キューレ少佐が戦死しており、作戦可能な飛行隊は2個のみで、しかもBf109G・Fw190A・Fw190D等の機体が混在し、燃料も殆ど無い体たらくでしたから、バルクホルン少佐に再建が託されたのでした。
 バルクホルン少佐は、この部隊では「長鼻のドーラ」と呼ばれたFw190Dを乗機とし、デスクワークの傍ら時折自ら出撃をしましたが、乗りなれたBf109とは勝手が違うためか、敵機撃墜を果たす事は出来ませんでした。
 バルクホルン少佐は第6戦闘航空団再建のため尽力を続けましたが、第三帝國の滅亡が迫る中、全くの徒労に過ぎない事は明白でしたので、4月10日に至り、身心の消耗のために入院し、司令職を解任されてしまいました。後任はゲールハルト=シェープフェル少佐です。
 このような状況下、戦闘機隊総監を解任されたアドルフ=ガーランド中将《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1850781681&owner_id=250900》がジェット戦闘機Me262で構成された第44戦闘団を結成したニュースを聞いたバルクホルン少佐は入院中の身でありながらこれに志願し、4月15日に転属が認められました。
 バルクホルン少佐は機種転換訓練もまともに受けないまま4月17日に出撃を行ないますが、勿論、戦果を挙げる事は出来ませんでした。続いて4月21日、バルクホルン少佐は第44戦闘団における2回目の出撃を行ない、アメリカ軍爆撃機編隊に接近しましたが、不意にエンジンが燃え上がりました。バルクホルン少佐は速度を落として不時着しようとしましたが、降下してキャノピーを開けたところをアメリカ軍のノースアメリカンP-51マスタング戦闘機に狙われ、数発の12.7mm銃弾を受けてしまいました。この結果、地上スレスレを飛行していたバルクホルン少佐のMe262はバランスを失って尻餅を突き、林の中に突っ込んでしまったのです。
 バルクホルン少佐は衝撃でコクピットから前方に放り出されましたが、その寸前にロックが外れて猛烈な勢いで前方にスライドして来たキャノピーの防弾ガラスが少佐の後頭部を直撃、バルクホルン少佐は重傷を負って病院に担ぎ込まれ、ベッドの上で5月9日の休戦を迎えたのでした。
 第二次世界大戦を通してのバルクホルン少佐の戦績は、出撃回数1104回・撃墜301機ですが、撃墜したのは全てソ連軍機で、西側連合軍機は1機も落とせないままでした。被撃墜は9回で、3回負傷しています。
 バルクホルンは休戦後、アメリカ軍に抑留されましたが、勿論、戦争犯罪の嫌疑はありませんでしたので、9月には解放されました。彼は長期間東部戦線で過ごしていながら、最後に西部戦線に回ったためにソ連軍に引き渡されずに済み、10年間もソ連に抑留されたハルトマン少佐に比べて遥かに幸運だったと言えます。
 バルクホルンの故郷ケーニヒスベルクはソ連領カリーニングラードとされてしまったため、彼はクリストル夫人や娘達と共にドイツ連邦共和国バイエルン州に住む事となり、西独再軍備が決まると1956年に連邦国防軍に志願して、空軍少佐として10月23日から第31爆撃航空団“ベルケ”の第1爆撃飛行隊長を務める事となりました。
 バルクホルン少佐は、ヨハネス=シュタインホフ大佐・ギュンター=ラル少佐・エーリヒ=ハルトマン少佐等の元第52戦闘航空団のエースパイロット達と共に新生空軍立て直しに尽力し、1957年1月以降は西ドイツ・アメリカ・イギリスで米国製戦闘爆撃機の搭乗訓練を受けています。
 バルクホルン少佐は1957年11月30日に中佐へ昇進して第31爆撃飛行団司令となり、自らもリパブリックFー84Fサンダーストリーク戦闘爆撃機を操っていました。
 バルクホルン中佐は1964年に大佐へ昇進しますが、軍内の権力闘争からは距離を置いていたため、シュタインホフ中将・ラル中将が相次いで空軍トップの空軍総監に就任したのとは異なって出世は遅れ気味で、1969年に准将、1973年に漸く少将昇進を果たし、NATO軍中央ヨーロッパ第4航空軍司令官に就任しますが、1976年に退役、バイエルン州の小都市テーゲルンゼーで隠居生活を送っていました。
 1983年1月6日にバルクホルンは愛妻クリストルを乗せてアウトバーンを走行中、ケルンのフレッヒェンで事故に遭い、クリストル夫人は即死し、バルクホルンは病院に搬送されましたが1月8日に死亡してしまいました。享年63。
 9回も撃墜されながら必ず生還していた空の英雄も陸上では無力だったようです…。夫妻はテーゲルンゼーの墓地に埋葬されています。
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コメント(3)

 トピの内容を加筆・修正しました。
大戦を生き延びた偉大なエ−スに敬意を表しますむかっ(怒り)
アルティ-有地 人寧閣下
大きな戦果を挙げたのみならず、ちゃんと生き延びた点が凄いですよね。

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