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ナチス・ドイツ空軍コミュのHans Joachim Walter Rudolf Siegfried Marseille 大尉 (1919〜1942)

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  ハンス=ヨアヒム=マルセイユ空軍大尉は、ルフトヴァッフェの数多のエースパイロットの中でも随一の空戦技量の持ち主として知られ、リビア戦線で活躍したため“Stern von Afrika”(アフリカの星)と謳われた人物です。
 明らかにフランス系の名を持つマルセイユ家は、1685年にフランス国王ルイ14世がナントの勅令を廃止してユグノー(カルヴァン派プロテスタント)迫害を開始したためにドイツへ亡命した家系です。
 ハンス=ヨアヒムは、1919年12月13日、ヴァイマール共和国の首都ベルリンのヒャルロッテンブルク地区でジークフリート=ゲオルク=マルティン=マルセイユ陸軍大尉と妻シャルロットの子として生まれました。父ジークフリートは1935年に空軍が発足すると陸軍から移籍し、大佐となっています。
 ハンス=ヨアヒムは、ベルリンシェーネブルクのプリンツ=ハインリヒ=ギムナジウムを卒業後、父の縁で1938年11月7日、18歳でに空軍に入隊、戦闘機パイロットコースに進みます。
 1940年8月10日に少尉に任官して第2教導航空団に配属され、その三日後から開始されたバトル=オヴ=ブリテンに参加、8月24日に初撃墜を果たし、9月9日に第二級鉄十字章、17日に第一級鉄十字章を受章しています。12月24日に第52戦闘航空団に転属した後も、中隊長ヨハンネス=シュタインホフ中尉の麾下で英空軍と死闘を繰り返し、バトル=オヴ=ブリテン期間に合計7機を撃墜してエースパイロットとなりました。撃墜機数からすると目だった成績ではありませんが、撃墜したのは全て強敵のスピットファイアばかりであり、この頃から卓越した空戦技術の片鱗を見せていました。但し、自らも6回撃墜されています。
 マルセイユ少尉は1941年2月にゲールハルト=ホムト中佐麾下の第27戦闘航空団へ転属しますが、同年4月、第27戦闘航空団は、ガイスラー中将麾下の第10航空軍団に属して北アフリカのリビア戦線へ進出しました。
 マルセイユ少尉は4月23日にアフリカ戦線での初撃墜を果たし、9月24日に一気に4機のハリケーンを屠って通算22機撃墜に達しましたが、同年末の撃墜累計は36機で、特に目立った存在ではありませんでした。また、軍紀違反などの素行不良で上官から睨まれていたため、なかなか中尉昇進を果たせませんでした。
 なお、1942年に入ると第27戦闘航空団は東部戦線から転戦して来たケッセルリンク元帥麾下の第2航空軍に所属する事となります。
 1942年2月21日に50機撃墜を果たして、翌日、騎士十字章を受章した辺りからマルセイユ少尉は空戦術の向上に開眼し、急速に撃墜スコアを伸ばし始めます。即ち、同年5月には14機を撃墜して通算68機に達し、6月3日には僅か11分間で米国製P40を6機も屠って通算75機撃墜を達成、6日に柏葉騎士十字章を授与され、中尉昇進を果たして8日に弱冠22歳で中隊長に任命されたのです。
 続いて6月17日にも12分間で6機を撃墜、通算101機撃墜を果たしたため、翌日、帝都ベルリンへ召喚されてヒトラー総統から直々に剣付柏葉騎士十字章を授与されました。同年6月の撃墜機数は実に33機に達しています。
 この後、2ヶ月間に亙ってマルセイユ中尉は休暇を与えられ、本国で報道機関のインタヴューや写真撮影、イヴェント参加等を行なって過ごしました。
 この間、ゲッベルス宣伝大臣が戦意高揚のためにマルセイユ中尉を「アフリカの星」と名付けて大々的にその戦功を報道したため、彼の知名度は一気に高まり、容姿端麗なマルセイユ中尉は特に女性の間でアイドルのように持て囃される事となりました。
 マルセイユ中尉は、格闘戦を主体とした戦闘スタイルで卓越した操縦技倆と目の早さを持ち、旋回しながら敵機の未来位置を予測して射撃する、いわゆる偏差射撃の名手であり、その攻撃にかかった敵はまるで自分から銃弾に向かって行くようだったと言われます。また、1機当たりの機銃弾消費量は平均15発と隊内で一番少なく、無駄弾を撃つ事も殆ど無い真の天才でした。
 マルセイユ中尉は同年8月下旬にリビアへ戻り、8月31日にハリケーン2機を屠って休暇明けの初戦果としました。そして、翌9月1日、マルセイユ中尉は0926時から13分間でハリケーン3機・スピットファイア1機を撃墜し、さらに1155時からの10分間でP40の10機編隊を全滅させ、1847時からの6分間でハリケーン5機を撃墜、1日で17機を撃墜するという空前の快挙を成し遂げたのです。しかも相手は全て戦闘機です。この記録は1年後にエミール=ランク少尉が1日18機撃墜を果たして破っていますが、これは東部戦線におけるものですから、ソ連空軍よりも遥かに強力な英国空軍相手に偉業を達成したマルセイユ中尉の技量は驚異的なものです。
 この結果、9月3日、第2航空軍司令官ケッセルリンク元帥の申請により、マルセイユ中尉へ宝剣付柏葉騎士十字章授与と大尉昇進が通知されました。22歳の大尉はドイツ国防軍最年少でした。
 しかし、折りしもロンメル元帥麾下のドイツ・アフリカ装甲軍とモンゴメリー大将麾下の英第8軍の間で展開されていたエル=アラメインの戦が激化していたため、ヒトラー総統による宝剣付柏葉騎士十字章授章式は延期されました。
 この結果、マルセイユ大尉はアフリカに留まって、9月3日には6機、5日に4機、6日に4機、7日に2機、11日に2機、15日に7機、26日に7機と驚異的なペースでスコアを伸ばし、9月の撃墜機数は実に54機に達しました。特に15日の7機撃墜は僅か11分間で達成したものでした。
 アフリカ装甲軍司令官ロンメル元帥は「君の活躍なくしてドイツ・アフリカ装甲軍の勝利は無い」とマルセイユ大尉を絶賛しています。
 しかし機体強度及びエンジン出力が向上したこの時期の戦闘機による格闘戦においては、旋回機動を行うたびにパイロットにかかる加速度(G)のレヴェルも格段に高く、パイロットに強度の疲労を与えました。このためマルセイユ中尉の体力と精神力は大きく消耗する事となり、戦闘からの帰還直後は「死との遊びで疲れ果て、タバコも手が震えてうまくつける事が出来なかった」と言われます。
 マルセイユ大尉はアフリカではBf109F-4/Tropを愛用し続け、常に“黄色の14”を描いていました。1942年夏には新型機Bf109G-2/Tropがアフリカ戦線にも配備されて来ましたが、エンジン故障率が高い機体だったため、マルセイユ大尉は新型機を使用するようにという命令を無視していました。しかし、ケッセルリンク元帥の命令により、仕方なくBf109G-2/Tropを受領し、1942年9月30日朝、Ju87急降下爆撃機編隊を護衛して通算382回目の出撃を行ないます。この機体にも“黄色の14”が描かれていました。
 この出撃時には敵機と遭遇しないまま帰投する事になりましたが、帰路、敵地上空で突如エンジン火災が発生し、コクピット内にまで黒煙が充満して来ました。マルセイユ大尉は何とか機体を操って味方領域のシディー=アブドゥルラーマンにまで退避後、正式なベイルアウトの方法では無く、背面で急降下する機体からパラシュート降下を試みて飛び出しました。しかし、マルセイユ大尉の身体は自機の尾翼に激突し、パラシュートが開かないまま地上に落下して行ったのでした。享年22。“アフリカの星”の呆気無い最期でした。
 マルセイユの撃墜機数は158機で、数百機撃墜を誇るエースパイロットがゴロゴロいるドイツ空軍においては第30位のスコアに過ぎませんでした。しかし、弱体なソ連空軍相手にスコアを稼いで行った東部戦線のエース達とは異なり、マルセイユが撃墜したのは全て強力な英国空軍機でしたから、彼がドイツ空軍随一の空戦技量の持ち主である事は誰もが認める事でした。もし、マルセイユが東部戦線に配属されていたら1000機撃墜も夢ではなかったかもしれません。
 マルセイユ大尉が撃墜した敵機の一覧は以下の通りです。
・カーチスP-40ウォーホーク戦闘機(米軍機) 101機
・ホーカー・ハリケーン戦闘機 30機
・スーパーマリン・スピットファイア戦闘機 23機
・マーチンA-30バルチモア双発爆撃機(米軍機) 2機
・ブリストル・ブレニム双発爆撃機 1機
・マーチン・メリーランド双発爆撃機 1機

 マルセイユの戦死後、戦友達はピラミッド状の墓を造りましたが、これはクフ王のピラミッドの頭頂部の欠落した部分と同じサイズとされました。
 マルセイユ大尉戦死から一ヶ月も経たない10月24日、イギリス第8軍はスーパーチャージ作戦を開始、ドイツ・アフリカ装甲軍は大敗を喫して西走し、北アフリカ戦線は崩壊してしまいました。ロンメル元帥の「君の活躍なくしてドイツ・アフリカ装甲軍の勝利は無い」の言葉は真実となってしまったのです。
 また、マルセイユ大尉が授与される筈だった宝剣付柏葉騎士十字章は、結局、遺族の下にも届けられませんでしたが、現在、他の遺品と共にウーターゼンの空軍博物館に展示されています。
 なお、マルセイユ大尉の父であるジークフリート=ゲオルク=マルティン=マルセイユ空軍少将は1944年に東部戦線で戦死しています

コメント(6)

大審問官さん、毎度有難う御座います。
言わずと知れた「起動戦士ガンダム」のシャアのモデル(機体はリヒトホーフェンだが)となったこの人物、ワシはこのお方のコスを主に致しております。旋回しながらの機銃掃射、離れ業の正に天才です。映画、アルフレッド・ワイデンマン監督の「撃墜王・アフリカの星」の主人公で有名ですな。
天才とはこの方の為に有る言葉です。
事故死がなければ間違いなくトップ・エースであった事でしょう。
東部戦線に行ってれば1000機撃墜もあり得たかもしれませんねえ。
1000機撃墜!夢ですね〜!実に惜しい。キャノピーがちゃんと開けば・・・
エンジンが不調になったのは無念でしたね…。
事故がなければ米英機のみで300機オーバーというのもあったかもしれません。

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