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ナチス・ドイツ空軍コミュのHans Ulrich Rudel 大佐 (1916〜1982)

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 ハンス=ウルリッヒ=ルーデルは、スツーカと呼ばれたJu87急降下爆撃機パイロットとして空前絶後の戦果を挙げた人物です。その戦果は、戦車519輌・装甲車及びトラック800台以上・100mm口径以上の重砲150門以上・装甲列車4両・戦艦1隻・駆逐艦2隻・上陸用舟艇70隻以上・戦闘機2・爆撃機5・その他の航空機2…という驚異的なもので、特に戦車519輌という数字は一人で戦車1個軍団を殲滅したに等しい数字です。
 ルーデルは第一次世界大戦中の1916年7月2日、プロイセン王国のニーダーシュレージエン州コンラーツヴァルダウでルター派教会牧師ヨハネス=ルーデルの長男として生まれました。8歳の頃に母親のマーサから貰ったパラシュートの玩具で遊んでいる内に空を飛ぶ事に興味を持ち、パイロットを目指し始めたと言われます。
 ルーデルは20歳となった1936年12月にビルトパークヴェルターのドイツ空軍学校へ100倍の競争率を突破して入学、戦闘機乗りを希望していましたが、卒業前に学内で「卒業生は全員爆撃隊に編入されることになる」という噂が流れ、卒業間近に空軍総司令官ゲーリング空軍元帥の「我々は新編成のスツーカ爆撃隊のため、多くの青年将校を必要としている」という演説を聞かされたため、急降下爆撃隊に志願しました。しかし、実際は卒業生の殆どは希望した戦闘機隊に配属されています。
 1938年6月に少尉としてグラーツの第168急降下爆撃航空団第1飛行隊に配属されましたが、中隊長から偏屈者扱いされて偵察隊に転属させられ、偵察機のパイロットとしてヒルデスハイムズの訓練校で偵察写真撮影航法の訓練を受けた後、1939年1月に第121長距離偵察飛行隊に配属されています。
 1939年9月、第二次世界大戦が勃発すると、ルーデル少尉はプレンツラウの第121軍第2軍地区偵察大隊に所属し、ポーランド戦役に遠距離偵察隊員として従軍、同年10月11日に第二級鉄十字章を受章しました。
 1940年5月にフランス戦が開始された時はウィーンのスタンメルスにある訓練航空部隊に副官として配属されていたため戦闘には参加出来ず、フランスの降伏直前に漸くカーンの第3急降下爆撃航空団第1飛行大隊への転属が実現しましたが、バトルオヴブリテンには急降下爆撃機パイロットとしての転換訓練の最中であったため作戦には参加していません。当時のルーデル少尉は技量未熟なパイロットとみなされており、一時期グラーツに戻され急降下爆撃訓練を続けて、同年9月1日に中尉に昇進しています。
 1941年4月、第2急降下爆撃航空団第1飛行大隊に転属してバルカン侵攻・クレタ島侵攻に参加しますが、地上待機の予備パイロットのまま終わり、戦闘に参加出来ませんでした。
 第2急降下爆撃航空団第1飛行大隊はバルバロッサ作戦が開始されると、中央軍集団(司令官;ボック元帥)を支援する第2航空軍(司令官;ケッセルリンク元帥)に配属され、ルーデル中尉は開戦翌日の1941年6月23日に急降下爆撃隊員として初の戦闘を経験し、同年7月18日に第一級鉄十字章を受章、急降下爆撃機Ju87D型を駆って、終戦まで東部戦線で戦い抜く事になります。
 東部戦線においてはルーデル中尉はメキメキと技量を上げて戦果を拡大し、1941年8月1日に第2急降下爆撃航空団が北方軍集団(司令官;レープ元帥)を支援する第1航空軍(司令官;ケラー上級大将)所属に変わると、第3飛行大隊に転属、9月23日にはクロンシタット軍港停泊中の常備排水量23360tの戦艦マラートの第一煙突付近にに1t爆弾を命中させて大破着底させ、戦隊司令官イワノフ少将以下乗員362名を屠る大戦果を挙げています。ルーデル中尉は、さらに駆逐艦2隻を撃沈し、戦艦オクトブレスカヤにも1t爆弾を命中させましたが、これは不発でした。、
 同年末には出撃回数が400回を突破したため、1942年1月6日に騎士鉄十字章を受章しました。
 1942年春にオストマルク州グラーツの補給大隊に一時転属しますが、この時、父の勧めにより、同郷の幼馴染の女性と結婚、翌年には息子が生まれています。
 1942年夏、ルーデル中尉は南方軍集団(司令官;ボック元帥)を支援する第4航空軍に配属されていた第2急降下爆撃航空団第3飛行大隊に戻ってクリミア半島に赴き、11月には出撃回数が650回を突破しました。
 1943年2月10日、ドイツ空軍パイロットとして初めて出撃回数が1000回を突破し、4月1日には大尉に昇進しましたが、この時、乗機を両翼下部に37mm対戦車砲を持つJu87Gに変更しています。この機体は非常識な大口径砲を搭載したため、飛行時の安定性は著しく低下しており、些細な操縦ミスでもバランスを崩し墜落する危険性がありました。実はこの機はルーデル大尉の進言によって開発されたもので、ルーデルは「操縦が恐ろしく難しい機体」と語りながらも、この機体を自由自在に操る技術を身に付けていたのです。
 同年5月10日にはベルリンの総統官邸でヒトラーから柏葉騎士鉄十字章を授けられ、7月19日には第2急降下爆撃航空団第3飛行大隊長に任命されました。
 同年9月には戦車撃破数が100輌を突破したため、11月25日には東プロイセンの総統大本営ヴォルフスシャンツェにおいてヒトラーから剣付柏葉騎士鉄十字章を授けられています。
 1944年3月1日には少佐に昇進し、その直後の3月13日にはドニエストル川上空でLa-5戦闘機と相打ちになって不時着しましたが、相手は23機を撃墜したソ連軍エースパイロットでソ連邦英雄の称号を持つレフ=シェスタコフ大佐でした。シェスタコフ機は、後部機銃手のヘンシェル伍長が撃墜したか、ルーデル機が急旋回した際の余波に煽られ墜落したと考えられています。
 同年3月20日、ルーデル少佐はドニエストル川東岸に不時着したスツーカに乗っていた部下二人を助けようと着陸しましたが、右車輪が軟弱な地面にめり込んで離陸出来なくなり、ソ連軍地上部隊に発見されてしまいます。ルーデル少佐は部下達と共にまだ冷たいドニエストル川を泳いで西岸に渡りますが、後部機銃手のヘンシェル伍長は溺死してしまいました。さらに西岸においてソ連兵に捕らえられかけ、逃走しますが、不時着機の二人は射殺され、茂みに隠れたルーデル少佐にもソ連軍用犬がすぐ近くまで迫って来て万事休すと思われました。しかし、結局発見されず、ルーデル少佐は翌日友軍陣地に辿り着く事が出来ました。ルーデルは自伝で「それにしても勘のにぶい軍用犬だ」と書いています。
 この事件の後、ルーデル少佐には第4航空軍司令部から敵地への着陸を禁ずる異例の命令が出されましたが、その後もルーデルはアクロバットそのものの手法で敵地に不時着した僚機の乗員を救出したりしています。ルーデルは、従来から出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類偽造までした人物ですから、命令を素直に聞く事はあり得なかったのです。
 ちなみに、352機を撃墜した戦闘機隊トップエースのエーリッヒ=ハルトマン少佐《http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1765865297&owner_id=250900》も一旦ソ連軍の捕虜になりながらソ連兵を殴り倒して逃亡に成功していますから、空の英雄達は地上戦能力も高かったようです。それともソ連兵がアホ過ぎただけなのか…。
 1944年3月26日には一日で17輌もの戦車を撃破し、出撃回数は1800回を超え、戦車撃破総数は202輌に達したため、翌日の国防軍軍報に出演しています。
 この結果、ルーデル少佐の名はソ連軍にも広く知れ渡り、彼の首にはソ連軍によって賞金10万ルーブル(現在の日本円で5000万〜1億円)の賞金が懸けられたのみならず、独裁者スターリン書記長が演説の中でルーデルを「ソ連人民最大の敵」と名指しするに至りました。
 同年3月29日にはベルヒテスガーデンの総統別荘でヒトラーから宝剣付柏葉騎士鉄十字章を授けられましたが、この際、ヒトラーはルーデル少佐が以後出撃する事を禁止する命令を出しました。しかしルーデルは「総統、もし私が飛行大隊と行動を共にするのが許されないのでしたら、私は受賞とを辞退申し上げたいと存じます」と言って総統に命令を取り消させています。
 同年6月1日には出撃回数が2000回を突破し、8月1日にはインメルマン連隊とも呼ばれる第2地上攻撃航空団司令に就任、9月1日には中佐に昇進しました。
 この間、戦線はルーマニア王国からハンガリー王国へと移り、同年11月、ルーデル中佐は対空砲火を受けて太腿部に二箇所の銃創を負いますが、負傷から8日目にはギプスをつけたまま任務に復帰しています。
 同年12月中旬、第2地上攻撃航空団はFw190に機種転換されますが、ルーデル中佐は後部機銃の付いていないFw190を好まず、後に乗機をJu87Gに戻しています。
 12月29日、ヒトラー総統は新たに宝剣付黄金柏葉騎士鉄十字章を制定して、フランクフルトアムマイン近郊の総統大本営でルーデルに授与、同時に大佐に昇進させました。この際、ヒトラーは帝国議会議長兼航空大臣兼空軍総司令官ゲーリング国家元帥・国防軍最高司令部長官カイテル陸軍元帥・海軍総司令官デーニッツ海軍元帥等が居並ぶ前で改めてルーデル大佐に出撃禁止を命じますが、ルーデルはまたもやそれを拒否、ヒトラーも出撃を許可する事にしました。
 なお、宝剣付柏葉騎士鉄十字章は12使徒になぞらえて12人の軍人に与えられる予定でしたが、実際に授与されたのはルーデルだけでした。これより上位の勲章はゲーリング国家元帥が唯一の例外として佩用した大十字章のみです。
 また、ルーデル大佐はナチス党員ではありませんでしたが、ヒトラーを強く崇敬しており、自伝の中でヒトラーと会うたびに深い感銘を受けたと何度となく記述しています。これは、ヒトラーが前線の将兵には親身に接する人物であり、日頃一方的な命令ばかり押し付けてくるゲーリング国家元帥等の空軍高官と違い、自分の意見をはっきりと述べれば承諾するヒトラーの態度に好印象を持っていたからだとされされています。そして、ヒトラーの方もルーデル大佐をを高く評価していました。
 1945年に入ると戦局が絶望的になる中、ルーデル大佐は中央軍集団(司令官;シェルナー上級大将)を支援する第6航空軍(司令官;グライム上級大将)に属して出撃を続けましたが、2月に入るとヴァイクセル軍集団司令官を兼ねる事となったヒムラーSS国家長官によって引き抜かれ、第1航空軍(司令官;プフリューグベイル大将)に移動しました。シェルナー上級大将は「ルーデルは一人で一個師団の価値がある」と述べてルーデル大佐の航空支援に全幅の信頼を置いていたため、ヒムラーの画策に激怒し「小銃のみで戦線を維持できるとでも思っているのか!」と喚き散らしたと言われます。
 ルーデル大佐の戦車撃破総数は、この頃500輌を突破しています。
 しかし、1945年2月8日、ルーデル大佐はフランクフルトアンデアオーデル近郊でソ連軍の40mm対空砲弾を受けて不時着、右脚を切断する重傷を負いました。ところがルーデル大佐は、治療期間中にソ連軍を攻撃出来ない事の方が悔しいと涙ながらに訴え、負傷が完治していない3月25日に病院を抜け出して部隊に戻りました。当時、ヒムラーSS国家長官がヴァイクセル軍集団司令官を解任されたのを受けて第2地上攻撃航空団は再び中央軍集団の支援に戻り、ベーメンメーレン保護区(チェコ)に駐屯していました。
 上層部は、復帰後のルーデル大佐は航空団司令として当然地上勤務に就いていると思っていましたが、実はルーデルは3月31日から特注の義足を装着して出撃を繰り返しており、4月から終戦までに30輌以上の戦車を確実に破壊したと言われていますが、公式戦果として認められているのは3輌のみです。
 そもそもルーデルは以前から戦友達の評価を上げるために、自らの戦果を他人の戦果として申告させる事が多かったのですが、これは一定の戦果を上げれば休暇が与えられる制度があったため、この戦果譲渡は休みたくないが故の行動であったとも言われています。
 ルーデルは負傷した際も、病院からこっそり抜け出しては出撃し戦列に紛れていたため、実際に挙げた戦果はさらに多かったものと推定されています。ルーデルは自伝で「誰が破壊したのかわからない戦車」が多過ぎた事から、ルーデルが病院を抜け出している事が発覚、軍医に怒られたと書いています。
 同年4月14日、ヒトラー総統はルーデル大佐をベルリンの総統官邸に呼び出して「全ジェット部隊の指揮を取ってくれ」と頼み込みましたが、ルーデルは「私の経験は急降下爆撃と戦車攻撃くらいのものです」と言って断っています。19日にも再度総統官邸に呼び出されたルーデル大佐はヒトラーから繰り返し全ジェット隊の指揮を命じられましたが、この時も断っています。
 さらに4月27日にもルーデル大佐はベルリンに召喚され、He111爆撃機でベルリン上空に飛びますが、着陸場所に指定されたポツダム広場が既にソ連軍に占領されていたため実現しませんでした。そして同月30日、総統は自決し、5月9日、ドイツ第三帝國は西側連合国に無条件降伏したのでした。
 大戦中、ルーデルは2530回の出撃を行い、その内430回がFw190での出撃でした。被撃墜回数は30回に及びますが、全て地上部隊の対空砲火によるもので、戦闘による負傷は5回です。また、ルーデルは航空機9機も撃墜しているためエースパイロットの称号も持っており、37mm対戦車機関砲で敵機を撃墜した事もあります。
 5月8日、終戦決定を知ったルーデル大佐は、ソ連軍の捕虜になる事を避けるため僅か8機だけ残存していた麾下の航空部隊を率いて最後の飛行に出ます。休戦協定正式調印前でしたので、多数のソ連軍機が攻撃をかけて来ましたが、ルーデル大佐は「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」と、被弾・負傷しながらもソ連機の大群を蹴散らして全機が無事にアメリカ軍占領下のバイエルン州まで飛び、キッチンゲンにあるアメリカ陸軍航空軍第405戦闘大隊の基地に着陸しました。将校6人・下士官6人・民間人1人の脱出行でした。なお、民間人少女の乗っていた機以外は、アメリカ軍がこれらの機体を使用することを防ぐために、着陸の際にわざと主脚を折っています。
 捕虜となったルーデル大佐は、既に多数のドイツ軍将校が収容されている部屋に連行されますが、空の英雄ルーデル大佐が来た事に気付いた将校達が一斉にナチス式の敬礼を行い、それを見た米軍通訳は「英語が話せるか?それからナチ式敬礼をするのはもうやめてもらいたいとの事だ」とルーデルに要求しました。これに対しルーデルは「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外は喋ゃべろうと思わない。どんな敬礼をしようと君らの知った事ではあるまい。我々はドイツ軍人としての敬礼法を教わり、それをそのままやっているだけの話だ。スツーカ隊は空の戦いで敗れはせぬ。我々は囚人ではない。ドイツ兵は全ての戦闘に負けたものではなく、ただ物量の重圧に屈したに過ぎない。我々がここに来たのも、ソ連軍地域に留まるのを欲しなかったからだ。ま、そんなことはどうでもいい、身体を洗わせてもらいたい。それから何か食べ物が欲しい」と思うがままに言い切り、通訳を辟易させました。
 米軍は最後の戦闘で負傷していたルーデルを入院させた上で「何故あのような310km/hしか出ないJu87で2500回も出撃し、生き残る事が出来たのか?」との尋問を繰り返しましたが、ルーデルは「私には、これという秘訣はなかったのだが…」と答えるのみでした。
 米軍は東部戦線に従軍した全ての将兵をソ連軍に引き渡すというヤルタ協定について、ルーデルのみは例外としました。スターリンから「ソ連人民最大の敵」と名指しされていたのが考慮されたのかもしれません。
 西側連合軍はルーデルが戦争犯罪に該当する行為はしていないと判定したため、1946年4月、ルーデルは軍人病院からの退院を以って釈放され、その後、ヴェストファーレン州のゲルスフェルトで輸送関係の仕事に就きました。
 ルーデルに転機が訪れたのは、多くの元ドイツ空軍関係者へ宛てたアルゼンチン政府による非公式の招待状を受け取ってからです。招待されたドイツ空軍関係者には、ルーデルの他にも元戦闘機隊総監アドルフ=ガーランド中将・特殊作戦部隊の第200爆撃航空団司令ヴェルナー=バウムバッハ大佐・フォッケウルフ社の主任設計者であるクルト=タンク博士等がいました。
 しかし、当時ドイツからアルゼンチンまで直接行く手段はなかったため、ルーデルは先ずアルプス山脈を越えてスイスからイタリアへと赴き、ローマで国際赤十字の発行する渡航文書を入手して1948年6月に南米アルゼンチンに渡りました。この旅にはルーデルの親友であり、終戦時第2地上攻撃航空団第1飛行大隊長だったヘルバルト=バウアー少佐と、終戦期を共に過ごした5代目後部機銃手のエルンスト=ニールマン大尉も同行しています。
 アルゼンチン到着後はアルゼンチン航空機産業の顧問に任命され、コルドバの航空技術研究所で勤務しつつ、時の独裁者フアン=ペロン大統領とその妻のエバ=ペロンや、パラグアイの独裁者アルフレッド=ストロエスネル大統領と親交を結びました。両独裁者の間を取り持ち、両国の経済開発計画にも関与しています。
 また、草創期のアルゼンチン空軍の士官学校において、ルーデルは教官として幹部候補生に操縦法や低空飛行による航空戦闘技法を教え込んでいます。1982年のフォークランド紛争に際して、アルゼンチン陸海軍が英軍相手に逼塞する中、空軍のみは低空侵入からのミサイル攻撃で英軍に大損害を与えますが、これはルーデルの薫陶を受けた候補生の一人だった空軍総司令官バシリオ=ラミドソ准将がルーデル流の肉薄攻撃戦術を部下に徹底していたからです。ルーデルは教育者としても優れた手腕を持っていた訳ですね。
 アルゼンチンでのルーデルは、武器販売コンサルタント・ジーメンス社のロビイスト・フォッケウルフ社のアドバイザー等として実業界で活躍する傍ら、片足が無いにも拘らずテニス・水泳・スキーの競技会などで好成績を収めたスポーツ愛好家でもありました。特にアルペンスキーでは南米選手権において優勝までしています。
 さらに趣味として登山も嗜み、標高6962mの南米最高峰であるアコンカグア山を含むアンデス山脈の多くの山々を制覇しています。世界で五番目に高い活火山である6723mのユヤイヤコ山にも三度登っていますが、1953年の一度目の登頂の際には滑落して氷壁を400m落下したものの、幸運にも雪だまりに飛び込んだため僅かな打撲や痣のみで事なきを得、登頂に成功しました。フアン=ペロンは個人的にこの偉業を讃えています。二度目の際には第2地上攻撃航空団の元同僚であるマックス=ダインス・写真家エルヴィン=ノイベルトと共に登山しましたが、途中でノイベルトが滑落死した事で遠征は中止となりました。だが、ルーデルはそれからわずか10ヶ月後に再登頂してノイベルトの遺体を引き揚げ、ユヤイヤコの山頂に埋葬しています。
 ルーデルはアルゼンチンで回想録の執筆も行い、1949年11月に『急降下爆撃』"Trotzdem" として出版されています。戦闘の記録でありながら共産主義への嫌悪とヒトラーを尊敬する内容が見られため、ドイツではルーデルはナチの残党と見做されるようになりました。Trotzdemは世界各国で翻訳され、総発行部数は100万部以上を記録しています。
 ルーデルは別の本でヒトラー暗殺計画を非難し、先の大戦はドイツの生存権の為の戦争だったと擁護していますが、親友であるピエール=クロステルマンは、ルーデルはナチズムなどの政治思想は持ち合わせていなかったと証言しています。
 また、アルゼンチンにいる際にルーデルが設立した軍人互助会組織"カメラーデンヴェルク"は、ドイツで獄中にあったルドルフ=ヘス副総統やカール=デーニッツ大統領に援助物資を送ったり弁護費用を負担するなどしており、秘密裏にヨーゼフ=メンゲレSS大尉等のナチス戦犯の国外逃亡を手助けしています。
 1953年にアルゼンチン政府との契約が終了した後、ルーデルはドイツ連邦共和国に帰国し、極右政党ドイツ帝国党(DRP)幹部となって同年のドイツ連邦議会選挙に出馬しますが落選してしまいました。
 その後はオーストリア共和国のクーフシュタインに移り住み、1965年、49歳の時に21歳のドイツ人女性ウルスラと再婚して、後に息子が生まれています。
 また、同年5月22日には、ルーデルの努力によってギーセンの北の丘に第2地上攻撃航空団の戦死・行方不明のパイロットや整備兵を弔う記念碑が建立されました。
 1967年、アメリカのフェアチャイルド社はA-10サンダーボルトII攻撃機を設計する際、対地攻撃の第一人者であるルーデルを顧問に迎えており、A-10の設計思想の一部はルーデルの助言に基づくものだと言われています。
 1970年4月26日、ルーデルはオーストリアのホッホフュゲンでのダウンヒルの練習中に、重度の脳卒中の発作に襲われました。医師の懸命の治療によって一命を取り留めたルーデルは当初は歩く事すら危ぶまれる状態でしたが、日々のリハビリと精神力によって、再びスキーや水泳などスポーツがこなせる迄に回復しました。
 1976年春には、ルーデルスキャンダルと呼ばれる事件が起こります。ルーデルはドイツ連邦軍の高級幹部からドイツ空軍第51偵察航空団「インメルマン」の慣例行事に招待されました。ルーデルの言動から、連邦国防省は彼を好ましくない人物と見なしていましたが、野党ドイツキリスト教民主同盟(CDU)の国防担当委員マンフレート=ヴェルナーの介入の後、第2地上攻撃航空団「インメルマン」の最後の司令としての出席が実現しました。催事中、ルーデルは、カール=ハインツ=フランケ空軍中将とヴァルター=クルピンスキー空軍中将等に自著のサインをしたり、記念写真を撮ったりしました。その後、両中将は公式の場にも関わらず、ナチとネオナチ支持者としてのルーデルの経歴を与党ドイツ社会民主党(SPD)の重鎮政治家ヘルベルト=ヴェーナーのドイツ共産党員の過去と比較し、正当化したのです。ヴェーナーは大戦中にモスクワにいて、ラヴレンティー=ベリヤ麾下のソ連内務人民委員部(NKVD)の工作に関わったとされる人物です。両中将はヴェーナーを過激派と呼び捨てる一方で、ルーデルは高潔な人物と称え「銀の食器一つ盗んではいない」と述べました。
 この結果、国防大臣のゲオルク=レーバーは、両中将等に1976年11月1日付で早期退役を命じましたが、この人事に野党CDUは大反発し、1978年に至ってレーバーが大臣辞任に追い込まれる一因となったのです。
 1982年12月にルーデルは新たな脳内出血を起こし、12月18日に西ドイツのローゼンハイムの病院で死去しました。葬儀の際には西ドイツ空軍のF-4戦闘機2機が追悼飛行し、また、多くの退役軍人が参列した他、ネオナチの連中が押しかけてドイツの国歌の1番や戦時中の軍歌が高歌放唱されたり、ナチス式敬礼が行われるなど騒然たる葬儀となりました。
 ネオナチはともかく、西ドイツ連邦軍は第三帝國国防軍との関係を決別した建前になっているため、元国防軍軍人の葬儀等に現役軍人が公人として出席する事を禁じていましたので、空軍の追悼飛行は西ドイツ国内のみならず近隣諸国でも大問題とされましたが、マスコミの質問に対して軍関係者は「あれは単なる訓練飛行であり、下で国防軍軍人の葬儀をしていたことは知らなかった」と言い逃れています。
 ルーデルの遺体は12月22日にドルンハウゼンに埋葬されましたが、騒ぎを警戒して墓所の正確な位置は公表されていません。 

コメント(7)

キターーーーー!ルーデル様〜!
露助どもの戦車を次々となぎ倒し、かつスツーカ(空戦能力は無い)にて戦闘機をもと次々と撃墜!片足でも頑張ったワシの英雄です〜!!!
 戦闘機エースよりも、彼こそが真のエースパイロットですよね。戦後、西側連合軍の連中は、スツーカで戦闘機を撃墜した話を信じようとしなかったらしいです。まあ、ソ連の戦闘機がショボ過ぎるとも言えるんでしょうが…。
 トピの内容を加筆・修正しました。
Ryo.F閣下
 まさにその通りですね。米英に阿諛追従してペコペコしている戦後の日本人は実に情けない限りです。社内公用語を英語にする企業なんて論外ですわなあ。
スーツカたまらなく好きな飛行機です。スツーカのミニチュアモデルを見つけては購入して只今22機あります。段ボール2箱!嫁に見つかるとうるさいのでクローゼットの奥に隠してたまに虫干し(笑)。

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