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我が愛しのアスリート図鑑コミュの輪島 大士(大相撲)

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輪島 大士(わじま ひろし、本名:輪島 博(わじま ひろし)、1948年1月11日 - )は、石川県七尾市出身で花籠部屋所属の元大相撲力士、全日本プロレス所属の元プロレスラー、元タレント。第54代横綱。血液型A型。身長185cm。ニックネームは蔵前の星・黄金の左。現役後はワジー。姓は輪島で石川県出身だが輪島市出身ではなく、同じ能登半島の七尾市石崎町出身である。

金沢高、日本大学と相撲部で活躍。真偽は不明だが、日大時代のテストでは、白紙の答案用紙に「日大相撲部、輪島」と書いておけば合格になったという伝説がある。また、もともと文理学部体育学科に在籍していたが、当時の体育学科は卒論が必修だったため、卒論が必修ではない同学部社会学科に転籍したといわれている。大学では2年連続で学生横綱に輝くなど14個のタイトルを獲得した。学生横綱を決めた一番の相手は、同志社大学の逸見憲治(逸見政孝の実弟)であった。日大卒業後の1970年、花籠部屋(師匠は元幕内・大ノ海)に入門し、同年1月場所に幕下付出で初土俵を踏んだ。東農大出身の元小結・豊山(現・湊親方)は大学時代からのライバルである。

幕下を2場所連続で全勝優勝して当時の最短記録で十両入り、十両も4場所で通過して初土俵からわずか1年で新入幕を果たした。1972年9月場所では千秋楽に貴ノ花との水入りの大相撲を制して、場所後に貴ノ花とともに大関に昇進した。大関になって4場所目の1973年5月場所を全勝優勝で飾り場所後に横綱に推挙され、初土俵からわずか3年半という超スピード出世で横綱へ上りつめ、史上初の学士・本名横綱が誕生した。

同時に大関に昇進した貴ノ花とは、土俵を離れれば親友同士でもあった。「角界のプリンス」と言われた貴ノ花が、大横綱の大鵬や27歳の若さで急逝した玉の海と激闘を重ねたのに対し、「蔵前の星」と呼ばれた輪島は、ほんのわずかなタイミングのズレで大鵬とは対戦がなく、玉の海とも平幕時代に一度顔を合わせたのみである。それがかえって新しい時代を象徴する力士といった感を強くした。

学生相撲出身初の横綱であり、横綱になっても本名を四股名にしていたのは大相撲の歴史上でも輪島のみ(外国出身力士が帰化し四股名を本名とした例を除く)。右手の引きが強いこともあって左の下手投げを得意とし、「黄金の左」と言われ一世を風靡した。下手投げを得意とする力士は大成しないというジンクスを破っている数少ない例である。当時の大相撲では「力士は走ると腰が軽くなる」(相撲は「摺り足」が基本で、足の裏を地面から離す「走る」行為は基本に反する、という考えからか?)と言われていたが、輪島は通常のスポーツ選手と同じように積極的にランニングを行い(元祖は横綱・玉の海らしい)、「稽古」を「練習」と呼ぶなど、あらゆる面で型破りだった。こういった点から「相撲を取るために生まれてきた男」「天才」という声もあった。

小兵力士には絶対的な強さを見せたが、高見山大五郎等の巨漢力士に対しては脆さを見せる事も多かった。横綱・北の湖とは好敵手であり、2人で輪湖時代(りんこじだい)を築いた(北の湖との通算成績は23勝21敗で、ほぼ互角)。また、1973年11月場所では一場所15日制になった以降で唯一の、休場しながらの優勝(12勝2敗1休)という珍記録を持つ。ちなみに1989年3月場所で優勝した千代の富士も14日目の大乃国戦で左肩を脱臼して翌日の千秋楽を休場している(但し休場ではなく不戦敗の扱い)。

1973年7月の横綱昇進後は、輪島時代を築くかに見えたが、北の湖が急速に台頭し、74年には輪島の牙城を脅かすようになる。3月場所に大関に昇進した北の湖は破竹の勢いで5月に優勝、7月場所も輪島に1差をつけて千秋楽を迎えた。北の湖圧倒的有利の下馬評の中、輪島は結びの一番、優勝決定戦と立て続けに北の湖を得意の左下手投げで降し、横綱昇進は許したものの先輩横綱の意地を見せた。翌75年には本格的な輪湖時代到来かと思われたが、輪島が腰痛から3場所連続休場に追い込まれるなど大不振となる。貴ノ花の二度の優勝、北の湖の伸び悩みなどもあり、戦国時代の様相を呈するようになった。

だが輪島は復活した。1976・77年は真の輪湖時代を迎えたといってよい。12場所のうち輪湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度、優勝決定戦が1度。優勝も輪島5回、北の湖5回と実力は全く伯仲していたと言ってよい。このころの両者の取り組みは、右で絞って北の湖に強引な上手投げを打たせ、下手投げを打ち返すかまたは右前廻しを引きつけて北の湖の腰を伸ばすのが輪島の勝ちパターン。北の湖が左下手廻しを引き、ガップリ四つになって胸を合わせるのが北の湖の勝ちパターンであった。1977年7月場所には1差で追う北の湖を退けて3度目の全勝優勝、同年11月には相星の北の湖を電光石火の切り返しで降し、大鵬に次ぎ双葉山と並ぶ史上第2位の12回優勝を記録した頃が、輪島の絶頂期であった。

78年に入ると、輪島は3月場所の右ひざ靭帯の怪我や年齢的なこともあり、北の湖の後塵を拝することが多くなる。この年ライバル北の湖は5連覇を達成した。しかし輪島は、この頃から右四つ左上手の取り口に進境を示し、千代の富士・栃光・栃赤城・双津竜など右四つ得意の力士には、むしろ自ら右四つに行き制する取り口が増えた。79〜80年の晩年は、体力の衰えをこのいぶし銀の上手さと気力とで補い、前半戦は上位陣の中でも最も安定した相撲ぶりを見せることが多かった。若手が次々と台頭する中、79年7月、80年11月と二度の優勝を重ねたのは立派であると言えよう。

1981年3月場所中に引退し、定年退職間近であった師匠とバトンタッチする形で花籠部屋(※現在の花籠部屋とは別)を継承した。しかし、1985年2月に角界では前代未聞の、年寄名跡「花籠」を借金の担保にしていたことが表面化し、日本相撲協会は臨時の理事会を開き、委員から平年寄への2段階降格処分と無期限謹慎処分を決議した。結局これが原因で、妻(師匠・大ノ海の長女)は自殺未遂(その後離婚)、自身も1985年12月に廃業(部屋は消滅、力士は放駒部屋へ移籍)、さらに若乃花や輪島らの横綱を陰で支えた師匠の妻・中島トミが1986年5月23日の夕刻に首を吊り自殺するという悲劇を生んだ。

大相撲を離れた輪島は、1986年に全日本プロレスに入門。ジャイアント馬場のツテでアメリカの名レスラー・ネルソン・ロイヤルから指導を受ける。身体能力は高かったが、大相撲のクセが抜けずに「倒した相手を寝技に持ち込むことをせずに待ってしまう」という致命的な欠点があった。本人曰く「相撲では足より上が土俵(地面)に付くと負けになってしまうから、どうしても背中をマットに付けることに抵抗があった」とのこと。プロレスの基礎を十分学ぶだけの下積み期間がなかったのも事実といえる。また阿修羅原のバックドロップを受ける際に恐怖心からか体を横にひねってしまい後ろ受身を取り損ねて首を負傷することも。

そういった経験不足の状態でありながら、全日本プロレス総帥のジャイアント馬場とタッグを組んで、アメリカにてデビュー戦を行う。相撲技の「喉輪」と「かち上げ」を合体させて開発したという、オリジナルの必殺技ゴールデン・アームボンバー(喉輪落とし)で快勝したが、プロレスとしての見せ場を作る技術は低く、目の肥えたファンからは厳しい評価も下された。なおゴールデン・アームボンバーは輪島引退後の全日マットで田上明が復活させ、後に高角度喉輪落とし(チョークスラム)へと発展していく。 他に片足抱え式のバックドロップも得意としていた。

「お守り」として馬場が付いたタッグでのデビュー戦や、移動の際に一般レスラーのようにバスでなく新幹線を使うなどの特別待遇があった。このためマスコミは「他の選手が反発し、レスラー仲間がほとんどいない」などと悪意的に報じ、巡業中の輪島の様子を心配する記事が週刊プロレスにも掲載されている。しかし仲田龍によれば、輪島自身が馬場や会社から特別待遇を受けていることにあまり快く思わない他の選手のことを気にしていたらしく、若手レスラーに食事を奢ったり、随分年下のレスラーや社員にも敬語を使い、年下である渕正信らのアドバイスを熱心に聞くなど、周囲に大変気を遣っていたそうであり、また練習もきちんと行っていたとのことであり、「全く仲間がいなかった」「練習をしなかった」というレッテルは間違いであることが分かる。 また輪島デビュー前に全日本プロレスから取材拒否を受けていた週刊プロレスの巻頭記事で、当時全日本と業務提携していたジャパンプロレスの大型新人であった馳浩が「輪島さんと同じリングに上がるんですか!?」と否定的な言動をしたという記述がされたが、これは後に馳本人により否定される。ジャパンプロの長であった長州力も新日本プロレスから北尾光司を契約解除する際に北尾と比較して「輪島は一生懸命やっていたからな」と語るなど、リング上ではすれ違いに終わったジャパン勢からもその姿勢は認められていたようだ 。 リック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦、スタン・ハンセンとのPWFヘビー級新王者決定戦に出場するなどマッチメイク面では優遇された(輪島入団のおかげで全日本プロレス中継がゴールデンタイムに復活し、初回放送で20%を超える視聴率を稼ぐなど、視聴率やチケット販売の影響と推測される)。

レスラーとしての評価は決して高くなかったが、同じ大相撲出身の天龍源一郎との絡みは非常に激しいものだった。自らのバックボーンへのリスペクトを忘れない天龍は、その世界で最高峰を極めた輪島に対し「強くあってほしい」と願い、それが輪島への厳しい攻めにつながった。煮え切らない試合を続けていた輪島もそれに触発され、天龍が放つ容赦のない蹴り技を真っ向から受けるなど迫力ある対戦となった。相撲では格下だった天龍(天龍の生涯最高番付は前頭筆頭)が、格上の元横綱を激しく蹴りまくるという展開は、プロレスを八百長視していた層にも少なからぬ衝撃を与えたと言える。当時新日本にUターンしていた前田日明はこの2人の試合を見て「これはヤバイ。あんな事をやられたら、自分らの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いていたという。

必殺技のゴールデン・アームボンバーが、後年「喉輪落とし」として多くのレスラーに使われたり、同じ角界出身の天龍と激闘を展開したりとそれなりの活躍を見せたが、徐々に精彩を欠くようになり、大相撲時代から仲の良かったプロレスラー石川敬士の退団と同時に1988年12月に引退した。

プロレス引退後は、大相撲解説などの他タレントとしても活躍。日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に準レギュラーで出演し、いわゆる天然ボケタレントとして活躍する。福澤朗アナウンサーの「好きな魚は?」の問いに、真顔で「マグロ!」(ブリと言う時もあった)、「好みの女性のタイプは?」の問いに、真顔で「金髪!」と叫ぶ姿が視聴者の笑いを誘った。この番組で、輪島お見合い企画を開催し、現在の夫人と再婚。また、とんねるずの石橋貴明からワジーと言うあだ名で呼ばれだし、ワジーと言う名称が定着する。また、この番組ではテロップが初めて出た事でも有名。 輪島の「マグロ!」「金髪!」の回答に江戸文字体や相撲字体・歌舞伎文字体のテロップが現れ、バラエティ番組に革命を起こす結果となった。また、滑舌が悪いことを表すためか、輪島の発言のテロップにはたとえ断定口調で話していても必ず「?」マークが加えられ『マグロ!?』という具合になっていた。この番組には輪島功一も準レギュラーで出演していたが、石橋貴明は輪島功一の方は「功一」と呼び、輪島大士の方を「ワジー」と呼んでいた。ちなみに、輪島功一とは従兄弟ということであったが、芸能活動を始めた時期が近かったために口裏を合わせて従兄弟にしたとのことである。なお、木梨憲武と輪島の共演はほとんどなく、木梨が輪島をなんと呼んでいたのかは不明。

その後、アメフト・Xリーグのクラブチーム「ROCBULL」の総監督に就任し、現在はキューバの相撲ナショナルチーム監督のほか、能登観光協会大使、石川県観光親善大使を務める他、地元の鮮魚販売会社スギヨのCMにスギヨふるさとの味大使として登場している。



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