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我が愛しのアスリート図鑑コミュのE・フィッティパルディ(レーサー)

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エマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi, ポルトガル語の発音ではエメルソン、1946年12月12日 - )はブラジル・サンパウロ生まれのレーシングドライバー。元F1ドライバー、CARTドライバーである。F1とCARTの両方でチャンピオンになった。愛称はエモ(Emo)。F1現役時代は大きなもみ上げがトレードマークであった。

サンパウロの裕福な家庭の息子として生まれる。イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールを経て1969年にフォーミュラ・フォードでヨーロッパでのレースを始め、すぐに頭角をあらわし1970年にはF2ではあるがロータス入りを果たした。

F2マシンの性能がイマイチだった為に結果は出せなかったが、シーズン途中でロータスF1チームのNo3ドライバーとして加わった。ところが、想定外のアクシデントが大きなチャンスをもたらす事になる。イタリアGP開催地・モンツァでのヨッヘン・リントの事故死と、ジョン・マイルスの引退によってNo1ドライバーになると才能を開花。大抜擢直後のアメリカGPで念願の初優勝を遂げたのである。

ロータスでの最初のフルタイム参戦となった1971年はドライバーランキング6位であった。1972年のシーズンはロータス72Dの熟成がすすみ、11レース中6勝してシリーズチャンピオンになった。25歳273日でのワールドチャンピオンは当時の最年少記録であり、2005年にフェルナンド・アロンソ(24歳58日)が更新するまで、33年間も更新されることのなかった大記録であった。

1973年のシーズンはロータス72Dで3勝したが、シーズン途中に登場したロータス72Eに悩まされジャッキー・スチュワートに16ポイント及ばず、チャンピオンを逸した。
1974年は強豪のマクラーレンと契約して、スイス人ドライバーのクレイ・レガツォーニと競り合って2度目のワールドチャンピオンになった。なお、母国のブラジルではこれを記念した記念切手が作られるなど、名実ともにブラジルの英雄となった。しかし翌1975年はニキ・ラウダについで2位に終わった。

その後、マクラーレンを離れて、自らが設立し、兄のウィルソン・フィッティパルディが指揮を執るコパスカー・フィッティパルディに移籍した。ブラジルの国営精糖・精銅会社であるコパスカー社から多額の資金援助を得るなど、国家的英雄としてまさに国を挙げたサポートを受けた参戦であった。

1978年にブラジルグランプリで2位を獲得した他、1980年には自らと第2ドライバーのケケ・ロスベルグがそれぞれ1回づつ3位に入賞するなどところどころで活躍を見せた。しかし、マシンの戦闘力がそれほど高くなかったこともあり、入賞は多いものの優勝争いに絡むことはなく、1980年シーズンをもってF1から引退した。

1980年にF1を引退したあと、4年後の1984年よりCARTに参戦した。38才の最初のシーズンはパトリックレーシングに参加するまで2チームに所属した。パトリック・レーシングには5年間所属し、6勝するとともに、高い完走率を示した。1989年には5勝をあげ、すべてのレースで5位以内完走することによって、CARTチャンピオンになった。とくにインディ500では200周のうち158周をリードし、2位以下に2周差をつけて優勝した。

1990年から強豪チームの1つであるロジャー・ペンスキーのチームに所属した。その後も安定した好成績を保ち続け、1993年には2度目のインディ500の優勝を果たした。その際、勝者として与えられたミルクにはほとんど手を付けず、自身の経営する農園で作られたオレンジジュースばかりを飲んでいたため批判を受けるという珍しい出来事があった。


[編集] 引退
50才ちかくまで一線ドライバーとして活躍したが、1996年の事故による負傷により、引退し、2003年にCARTのチームオーナーとして復帰した。

また、A1グランプリでブラジルチームを率いて若手ドライバーの育成にも励んでいる。






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