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我が愛しのアスリート図鑑コミュの王 貞治(野球)

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王 貞治(おう さだはる、中国語拼音:Wáng Zhēnzhì・ワン・チェンジー 1940年5月10日または5月20日 - )は日本生まれ・中華民国国籍の元プロ野球選手・現プロ野球監督。左投左打でポジションは内野手(一塁手)。国民栄誉賞の受賞者第一号でもある。東京都墨田区で中国人を父に、日本人を母に生まれたハーフ。東アジア野球界の英雄であり、特に台湾野球人の間では憧れの的。

現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。読売ジャイアンツの主軸として積み上げた通算本塁打数868本はハンク・アーロンの755本をはるかに上回る記録で、その他数々の記録を保持する。ジャイアンツでは入団から監督を退くまで背番号1を背に戦い、1番はチームの永久欠番となっている。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる古今無双の大打者である。

現在は福岡ソフトバンクホークス取締役副社長、ゼネラルマネージャー兼監督。ワールド・ベースボール・クラシック初代優勝監督でもある。愛車及び送迎車は共にレクサス・LS。タレントの王理恵は次女。

[編集] 出生
東京都墨田区で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓:当住)の間に生まれる。実は、5月10日に二卵性双生児の弟として出生したのであるが、戸籍上は5月20日が出生日とされている。これについては諸説あり、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を遅らせたことからという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のために届けが遅れたという説などがある。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は、1歳3ヶ月で死亡した。その後も、貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と、本人が述べている。


[編集] 少年時代
父・仕福は貞治を電気技師にさせたかったようだ。父の仕福は兄の鉄城を医師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズで活躍していた)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業高等部に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。荒川との最初の出会いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王が出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「君は左利きなんだから、左で打ってみなさい」とアドバイスし、王がすぐに実践したところツーベースを打った。王はそれからずっと左で打つようになった。左利きの王が右打ちだった理由は、兄が右打ちだったかららしい。

小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。


[編集] 早実時代
早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、春の甲子園で3試合連続完封により決勝戦へ進出。決勝戦では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。ちなみに、当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生の時には春の甲子園では30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。なお、国体には、当時の国籍規定のため出場できなかった。


[編集] 当時の人物像
温厚そうな人柄だが、早稲田実業時代は、王貞治と言えば都内で一、二を争うケンカの猛者だった。同世代の映画監督山本晋也も、早実の王といえばケンカの強さで有名だったと証言している。この向こうっ気の強さは生来の物のようで、幼稚園の頃に自分よりはるかに大きな小学生相手に一歩も引かずに殴り合ったという逸話がある。本人も、ケンカでは負けた記憶がないと語るほどである。


[編集] 現役選手時代
1959年に契約金1500万円で読売ジャイアンツに入団。プロ入りの同期には板東英二・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向。プロ初出場試合では国鉄の金田正一と対戦し、全打席三振に終わるが、この初出場試合の結果は長嶋のそれと同じである。入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149と期待に応えたとは言えないものだった(実際、その頃は「王は王でも三振王」などと野次られていた。ただし王がリーグ最多三振を記録した年はない)。そのため1961年には阪急のエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。

1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法はアメリカでは一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」と呼ばれる。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」「練習の翌朝、顔を洗おうと、腕を動かそうとしたが動かなかった」という話がある。

また、特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようだ。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。この打法改造がきっかけとなり、驚異的な勢いで本塁打を量産し始め、同年から1974年までの13年間、本塁打王を独占。1964年にはシーズン本塁打55本の日本新記録(現在はタフィ・ローズ、アレックス・カブレラと並ぶタイ記録)、同年5月3日に開かれた阪神戦(後楽園球場)では1試合4打席連続ホームランを記録。当時の広島の監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる『王シフト』と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。

1971年の日本シリーズでは当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志から逆転サヨナラ本塁打を放ち、チームの日本一に貢献。

1972年9月には公式戦7試合連続ホームランの記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、いまだに日本プロ野球記録である。

1977年9月3日、対ヤクルト戦で、アメリカメジャーリーグのハンク・アーロン選手が持っていたメジャーリーグにおける本塁打記録(755本)を破る756号を鈴木康二朗から放つ(ただし、当時の日米のレベル差と日本の球場の狭さ、圧縮バットの使用などを考慮する必要がある(後楽園球場は両翼の実測が85mほどであり、外野に向かって傾斜が下がっておりバッターにとっては非常に有利な球場として知られる。また、圧縮バットは通常の木製バットよりも反発力が高く飛距離が伸びるとされ、王の引退と同時に使用が禁止された)。これにより、同年国民栄誉賞第1号を授与された。1980年に現役引退。現役本塁打通算868本は未だ破られていない(ただし、ニグロリーグのジョシュ・ギブソンの通算本塁打数を962本とする説があり、断定できない)。また、通算OPS1位、13年連続を含む15回の本塁打王、三冠王2回などの記録も残している。ちなみに通算本塁打記録を球団がギネスブックに登録申請したが、当時の日本の野球場がメジャーに比べて狭いとの理由から認められなかった(これは野球の世界に「世界記録」という概念がない、という立場からであって、前述のジョシュ・ギブソンの記録などと並んで記載はされている)。

日本の本塁打記録では、通算2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけている。野村は王と同年代に南海で活躍した選手で、本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(昭和47年に両翼のみ91.4mに拡張された)と後楽園よりさらに狭いグラウンドであった。野村が投手をリードする捕手兼任、さらに昭和45年〜52年は監督も兼ねる重責を担っていた事を差し引いても、王がいかに当時としては飛びぬけた打者であったかは容易に理解できよう。現在の日本のプロ野球で使用される球場は広島、神宮を除いてほとんどが両翼100m近い大きさであるが、ボールを打ったときの反発力が昭和30〜40年代と今では大きく違うことも考えられるので、当時と今との単純比較はできない。

バットで残した記録に隠れがちだが、一塁手としての守備も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。現役最後の1980年には一塁手の守備機会連続無失策記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ちなみにハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の大洋戦とアーロンの記録を超えた9月3日のヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。

上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」を声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

王の打撃は1978年ごろから徐々に鈍り始め、1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退を表明。その年は打率は2割3分台(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)とかなり悪かったものの本塁打は30本を記録しており、王自身の打撃に対するプライド、またファンへの思いが窺える。引退セレモニーはシーズンオフのファン感謝デーの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置きそのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行き、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行なうように呼びかけるという王の人の良さが最後にみられた名場面だった。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。

引退試合後に堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトにホームランを浴びた。ちなみに王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。

野球人として
実は阪神タイガースに入団を打診され、仮契約でほぼ決まりかけていた。当時の新聞にも「優勝した甲子園のマウンドでまた投げられて光栄です」とコメントしている。が、当時の東京-大阪は移動に時間も掛かり、契約書を持参した阪神球団関係者が王の実家を訪れた前日に読売巨人軍と契約していた。また、これと逆の事が田宮謙次郎入団の時におこっている。

背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によってたまたま1が空いていたため、それをつけることになったというのが実情である。

長嶋茂雄とはチームの主力・顔として14年間の長きにわたり3・4番を務めて『ON砲』などと呼ばれ、2人で数多くのアベックホームランを放った(初のONアベックホームランは1959年6月25日、天覧試合となった後楽園での阪神戦。通算で106本(連発は29本)のONアベックアーチを放つ。106本目は長嶋の引退試合で放ったもの)。長嶋引退後も選手・監督として、王の引退後は監督同士、時には親友として、長く交友を続けている。また「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際には、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる。

「乱闘が起きてもベンチでただ一人手を洗っていた」という逸話を残すほど争いを好まない王が、唯一乱闘の口火を切ったのは1968年の対阪神戦(甲子園球場)。阪神・ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーのもとに詰め寄った(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、打撃コーチ・荒川博がバッキーと乱闘して退場となった。さらに交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤のボールをレフトスタンドに叩き込み、事実上の報復を果たした話は有名。なお、この事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折。投手生命を絶たれる原因となった。上記のように温厚な王ではあるが、門限を守らず、平気な顔で長電話に興ずる同僚の堀内恒夫に対して一度だけ鉄拳を振るったことがあり、その時王は目に涙を浮かべていたと堀内は証言している。

ホームランを打っても大はしゃぎするようなことが無かったのは兄の鉄城の影響である。大学時代、ホームランを打ってホームベース上で喜ぶ王を見た鉄城は「打たれた相手のことを考えろ。」と王を叱りつけた。以来、王はホームランを打っても喜ぶそぶりをしなくなった、と言う。

足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。しかし意外にも腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか(この話は漫画「巨人の星」にも出てくる)、女性にも負けることもあったという。(ちなみに巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)

756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が送られる手はずとなっていたが、3日間ホームランが出なかったため製作していた花屋は45万円分のカーネーションを無駄にすることになった。どうやらボランティア製作だったようである。

この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場1塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す感動的な瞬間もあった。

また、日本テレビ放送網は当時ジャイアンツ主催試合を独占中継していたが、この756号のホームランは生放送できなかった。というのも、当時の中継は19:30からの放映で、記録を決めた19:10の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映し、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。

その756号を打たれたヤクルト・鈴木康二朗は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向し、永らく現役を続けた。

通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで"やしろ"となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。

プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本勲しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしい。引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている(後日、自身の引退の理由について「陰毛に白髪ができて、潮時だと思った」ともコメントしている)。尚、張本は王の引退理由についてサンデーモーニングで「投手からの牽制球が年とともに恐怖感が増してきたから」と語っていた。

現役時代、日本シリーズで活躍しながらMVPを1度も受賞できなかったが、これは王が現役時代から日産自動車とのコマーシャル出演契約を結んでいた事もあり、日本シリーズMVPの賞品の自動車(トヨタ自動車協賛)を受賞し、新聞やテレビにその画像・写真を露出してしまうと契約違反になる恐れがあったものと思われる。また1971年の日本シリーズ第3戦、9回裏2アウト1・3塁の場面で阪急・山田久志から放ったサヨナラ3ランは自他ともに認める最高のホームランであったが、それでも日本シリーズMVPを手にすることは出来なかった。

現役時代より大スターであったにもかかわらず、非常にファンサービスに熱心であり、サインを断ったことは一度もないという。それゆえ現在もソフトバンクの選手にファンサービスを熱心に行なうよう指導しているという(まだ若手時代の小久保裕紀がマスコミのインタビューにふてぶてしく答えた後、翌日のスポーツ新聞の小久保の記事を読んで「ファンの事を考えてコメントをしろ!」と激怒した事もある)。ちなみに王本人は少年時代、巨人選手にサインを貰おうとするも、川上哲治などには見向きもされず、与那嶺要に貰えることができたそうで、その与那嶺の姿勢に王も倣っているという。ちなみに最近の王は、サインをする際に俺は今までサインを書きすぎてるから、ネットオークションに出したって1銭の価値も無いよと笑って冗談を交えながらサインをする。もちろん騙されるようなことでもないが、球場の売店などで市販されているサインボール等はプリントアウトや代筆である。

ほとんど知られていないが、犠牲フライの日本シリーズ記録を保有している。

通算敬遠427の中にランナー無しでの敬遠が13回含まれる(さすがに満塁では無い)。初回ランナー無しでの敬遠もあり、理解の範疇を超えている。本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものがあふれてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。

通算四球も2390個で2位に1000個近くの差をつけてダントツの1位である。2390個もの四球数は、言い換えれば2390安打と同じ価値ともいえ、この通算四球数だけで名球会入りができてしまう選手は日本プロ野球界において王貞治しかいない。ちなみに通算四球数2位の落合博満は1475個。四球の数が影響して通算本塁打率10.7や通算OPS1.080も不滅の記録として残っている。

「空白の一日事件」に対して「江川の代わりに阪神に行く小林繁はトレードマネーとして1億でも2億でももらったらいい」と公言している。巨人に入団してきた江川卓に対して「キャンプで彼と同部屋になることは断固拒否する」食堂にいた江川に対して「嫌な奴がメシ食ってる」と発言したともされる。王の監督在任中の1985年にバースにストライクを投げたら罰金と言うベンチの指示を無視したり、1987年に江川が引退したことは、これらの王の発言に対する江川の報復であると考えるファンもいる。

1996年3月30日の開幕戦は千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ戦。この年ロッテの監督に就任した江尻亮は、エースクラスの伊良部秀輝や小宮山悟ではなく、園川一美を開幕投手に指名した。開幕戦前日にこのことを知った王は「開幕投手には格というものがあるだろう」と激怒。ところが開幕戦では園川を5回途中で降板に追い込んだもののその時点でチームは2-5とリードされており(最終的に4-6で敗戦)、王のこの発言も「負け犬の遠吠え」で片付けられてしまった。

常人離れした自己抑制心の持ち主で、現役時代は毎年シーズン前に不安を抑えるためタバコを吸い、シーズンが始まるとタバコを止めるという事を繰り返した。

全米の野球マニアにもベーブ・ルース、ハンク・アーロンより多い868本の本塁打を打った「サダハル・オー」の名は知られている。第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会では観客から日本チームの誰よりも大きな拍手と声援で迎えられ、日米野球ではサインや握手を求めるメジャーの選手が殺到するほどである。実際に、2005年ソフトバンクでプレーしたトニー・バティスタ経由で、サミー・ソーサやミゲル・テハダが王のサインボールを手に入れている。

「世界のホームラン王」として世界中の野球人から尊敬される『生きる伝説』王貞治の登場が、WBCの大会価値を大いに向上させた点も見逃すことはできない。またこのWBC優勝により、福留孝介の代打起用やイチローを中心とするスモール・ベースボールなどの采配、「世界の王」としてのチームのモチベーションへの影響力などが改めて見直され、メディアもこれらを大々的に報じ、2度の日本一の時以上に監督としての王の名が世間に知れ渡ることとなった。さらに日本を世界一に導いたことで、「世界の王」という名称が今まで以上に使われるようになった。しかしながら本人は、「世界の王」とはバットを持っていた時(=現役当時)の話であり、既に現役を引退し監督となり長年経過した現在は「世界の王」ではないとインタビュー(1999年10月28日放送のTBS系ZONE)で話している。

優勝の際の胴上げで舞う姿は、手足を指先まで伸ばし、非常に美しいことも有名。『ザ!鉄腕!DASH!!』で胴上げに関する企画を行う際、その年の日本一になったこともあり、理想の「上げられ側」のモデルとされた。ホークスでは鷹の羽ばたきを意識してか両腕を横に広げることが多いが、WBCではオーソドックスに上の方に伸ばしていた。

王の業績を記念した球場「早稲田実業学校・王貞治記念グラウンド」が八王子市にある。

2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞した。

2006年12月20日、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞した。また、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。

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