ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

我が愛しのアスリート図鑑コミュの砂岡良治(ウェイトリフティング)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
1984年(昭59)重量挙げの銅メダリスト、砂岡(いさおか)良治さん(38)は選手生活を終えた後、栃木県大平町の実家で農業を継いだ。「米、麦、大豆。最初は簡単に考えていたけど、やってみると奥が深い」。重量挙げの五輪メダリストは計9人。引退後はほとんどが指導者となったが、1人違う世界を選んだ。五輪の悔しさが、原因だったのかもしれない。

 81年の全日本選手権で優勝して以来、92年(平4)バルセロナ五輪まで、全階級を通じて最も重い記録を保持していた。82・5キロ級は10階級(当時)のうち、重い方から4番目にすぎない。日本選手の中で、実力は飛び抜けていた。甘いマスクから「玉三郎」ともいわれた。

 ロサンゼルス五輪は、紛れもなく優勝候補だった。前年の世界選手権で4位となったが、そのときの上位3人は五輪をボイコットしていた。「普段の実力を出せれば、金メダルもなんてことなかった」。しかし22歳の若者は、自らにプレッシャーをかけていた。

 ジャーク2本目で「風邪ひいても挙がる」はずの200キロを失敗した。銀メダルを捨て、一発逆転優勝を狙った3本目。自己記録を2・5キロ上回る207・5キロに挑んだが、成功しなかった。会場からは「ナイスチャレンジ」の声が飛んだ。だが、砂岡さんには聞こえなかった。帰国後は、ショックで1カ月以上も練習できなかった。

 ソウル五輪は6位、バルセロナは記録なしに終わった。いずれの大会も、ベスト記録を出していればメダルに手が届いたはずだった。腰痛に悩まされたことを差し引いても、不本意な結果だった。「あのロサンゼルスでつまずいたことがすべて」。3回の五輪で、納得いく大会はなかった。

 メダルは講演などを頼まれるたび、家から持ち出す。五輪にあこがれる子供たちに、実際に触ってもらうためだ。「あんまり大事にしてないかな。金じゃないから」と冗談めかして話す。昨年4月から大平町教育委員会で働く。「今年はこの町から2人目の五輪選手を送り出すことになりそうです」と声を弾ませる。女子ソフトボールのエース、石川多映子が、人口3万弱の同町出身なのだ。

◆砂岡良治(いさおか・りょうじ) 1962年(昭37)2月18日、栃木県下都賀郡大平町生まれ。大平中では野球選手。小山高1年で重量挙げを始め、日体大1年で全日本王者に。82年には日本人初のジャーク200キロ突破。82・5キロ級と90キロ級で全日本選手権11度優勝。86年アジア大会で日本の旗手を務め、82・5キロ級で連覇を達成。ベスト記録はスナッチ165・5キロ、ジャーク205・5キロ、トータル370キロ。171センチ。

コメント(1)

なつかしい選手のアップありがとうございます。

確か、ロスで力を出せなかった理由の一つが、差し入れのおにぎりを悪いからと無理して食べ過ぎて、腹痛に悩んだことではなかったでしょうか?本当か嘘かは別にして、彼の優しい性格をよく現している逸話だと思います。

ところで私はずっとスナオカだと思っていました。ありがとうございます。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

我が愛しのアスリート図鑑 更新情報

我が愛しのアスリート図鑑のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。