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我が愛しのアスリート図鑑コミュのN・マンセル(F1)

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ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル OBE(Nigel Ernest James Mansell OBE, 1953年8月8日 - )は、イギリスのF1ドライバー。F1とCARTのチャンピオンを2年続けて獲得した唯一のドライバー。2005年国際モータースポーツ殿堂(The International Motorsports Hall of Fame)入り。


イギリス中部の地方都市の労働者階級の家に生まれ、持ち家を売り借金を重ねながら糟糠の妻ロザンヌとともに苦労して頂点まで上り詰めた、苦労人タイプのドライバー。豪快で大胆なドライビングスタイルは男性を中心に人気を博し、アラン・プロストやネルソン・ピケ、ケケ・ロズベルグ、アイルトン・セナらと並び、1980年代のF1を代表する名ドライバーの一人としてよく紹介される。

その短気で愚直な性格から、どのチームでもチームメートとの関係は悪く、特にウイリアムズ・ホンダ時代のネルソン・ピケとの不仲はよく知られている。また、尊敬していると公言していたアラン・プロストと不仲になった事も知られている。しかし、その後ウイリアムズでのチームメイトであったリカルド・パトレーゼや、同胞で同じく苦労人のデイモン・ヒルとは良好な関係を築いていた。

カートやイギリスF3選手権を経て、1980年にロータスでF1にデビュー。F1デビュー戦ではガソリンタンクから燃料がしみ出しており、それがレーシングスーツを通して背中に炎症を作ったが、その痛みに耐えてマシンを走らせた。

しかしロータス在籍時のマンセルは、後に暴れん坊といわれる時と比べると精彩がないシーズンを送ることになる。しかも理解者でもあったチーム監督のコーリン・チャップマンが1982年12月に急逝してしまい、その後を継いだピーター・ウォーとは非常に折り合いが悪かった。1984年のアメリカGP(ダラス)では自身初のポールポジションを奪ったものの、チェッカー目前で壁にタイヤを当ててミッションを壊してしまい、自らマシンを押してチェッカーを目指すも、途中で力尽き気絶してコース上に倒れてしまったという逸話もある。結局ロータス在籍実質4年で、幾度か表彰台には登るが勝利を得ることはできず、新鋭アイルトン・セナの加入により押し出される形でチームを去ることになる。このためセナとの仲はあまり芳しくなかった。

シート探しの際に、何とか反射神経が良いというところを見せようとして、高く掲げたコインを落とし、テーブルに落ちる前にキャッチする、ということを相手に見せて回っていた。実際には慣れれば誰にでもできることなのだが、その熱心さとおかしさが彼の名を一躍有名にしたという。

1985年にウィリアムズへ移籍。その年のヨーロッパGPでようやく初優勝を果たす。72戦目での初優勝は、当時の最遅記録だった。続く南アフリカGPでも優勝し、急激に頭角を現してゆくことになる。

ウィリアムズは1983年最終戦からホンダエンジンの供給を受けており、その戦闘力が高まった翌1986年は一気にチャンピオン争いに加わる事になるが、チームメイトのネルソン・ピケとの関係は険悪であり、互いの情報交換は一切なかった。マンセルは最終戦オーストラリアGPを迎えた時点でランキングトップに位置しており、チャンピオンをほぼ手中に収めていたが、決勝では左リアタイヤのバーストにより、リタイア。この際、287km/hでの走行中のバーストにもかかわらず、クラッシュすることなくコントロールし、マシンを停止させている。結局あと一歩の所で王座を逃し、チャンピオンの座はピケとのチームメイト同士の争いの間隙を突いたマクラーレンのアラン・プロストにさらわれる形となった。

1987年はイギリスGPでの地元観客の大歓声を受けての怒涛の追い上げで30秒近い差を逆転し優勝など、ここでもチャンピオン争いを展開。この年全ドライバー中最多の6勝を記録するが、リタイアも多く、勝てないレースでもコンスタントに入賞していたピケにランキングではリードを許すことになる。鈴鹿サーキットで行われた第15戦日本GPにおいて、逆転の可能性を掛けて挑むが、予選1日目に大クラッシュ。背中を痛めたことでこのレースと最終戦を欠場に追い込まれ、2年連続で王座を逃す。

1988年はホンダがマクラーレンへのエンジン供給に切り換えた事により、ウィリアムズは非力なジャッドエンジンでの戦いを余儀なくされ、チームメイトのリカルド・パトレーゼとともにマンセルも大苦戦を強いられた。更に、水疱瘡により2戦欠場して、結局出場した14戦中12回もリタイアしてしまった。しかし、2回の完走では2回とも2位表彰台を獲得。この年は、トレードマークである口ヒゲを剃っていたことでも話題となった。

1989年からは、フェラーリへ移籍。エンツォ・フェラーリから直々のオファーを受けた最後のドライバーと言われる。既に病床のエンツォはオファーを出す立場ではなかったとの説もあるがマンセル自身はエンツォと数回に渡って会食をしており、直々のオファーを受けたとも言っている。

1989年は前年に続き、マクラーレンのプロスト・セナが圧倒的に強かったが、孤軍奮闘。開幕前、マクラーレン圧倒的有利の下馬評の中、開幕戦ブラジルGPで優勝。新技術であったセミオートマチックを搭載したマシン・フェラーリ 640のデビュー戦にして初勝利でもあった(レース中に誤作動を起こしたため、操作部分がついているステアリングを交換するという珍事も発生した)。その後はマシントラブルにしばしば泣かされ、チームメイトのゲルハルト・ベルガー共々、リタイアが続いたが、ヨーロッパ第2ラウンドに戻ってからは毎レース表彰台に登る。そして第10戦ハンガリーGPでは、予選12番手から追い上げ、シーズン2勝目を挙げた(1位走行中のアイルトン・セナをトラブルなしの同一周回で抜いたのは、この年はマンセルのこの時のみであった。プロストはこの年ワールドチャンピオンを獲得するも、セナをコース上では1度も抜けなかった)。

一方で第13戦ポルトガルGPでは、ピット逆走(フェラーリのピットを通りすぎてしまった為にバック走行、レギュレーション違反)の後の黒旗(失格を意味する)を3周にわたって無視(本人は、逆光で旗が見えなかったと弁明)、最終的にアイルトン・セナと第一コーナーの飛び込みで接触事故を起こし、出場停止を受ける一幕も。失格しながらも走行を続け接触事故を起こし、しかも相手がギリギリの所でチャンピオン争いに踏みとどまっていたセナだったこともあり、この接触はかなりの波紋を呼んだ。

1990年にはチームメイトがアラン・プロストとなるが、プロストの移籍前には良好だった関係は、イタリア語が出来るプロストが順調な成績を収める中、自身が精彩を欠いていたこともあって、チームの主導権が完全にプロストに移り、芳しくなくなった。そんな中、第8戦母国イギリスGPでリタイア後、突然の引退を表明。しかし、その後これを撤回して古巣ウイリアムズ復帰を決意。

サンマリノGPでベルガーとの接触を避ける為、躊躇無くダートに逃げ時速300km/hからの360度ドリフトでコースに復帰するという離れ技を行ったのもこのシーズン。

第13戦ポルトガルGPでは、ポール・トゥー・ウィンを達成するが(この年唯一の勝利)、このレースではスタートでチャンピオン争いをしていたチームメイトのプロストに幅寄せし、波紋を呼んだ。

1991年、ウイリアムズはエイドリアン・ニューウェイとパトリック・ヘッドの合作、FW14を投入。序盤には3戦連続リタイヤを喫したが、レースを重ねるごとにマクラーレン・ホンダのアイルトン・セナを凌ぐ速さを見せ、第7戦フランスGPから第9戦ドイツGPまで3連勝するなど、猛烈な追い上げを見せる。

しかし、第5戦カナダGPではスタートから終始トップを走行しながら、最終ラップでストップ。レース終了後にマシンを調べたところエンジンが掛かりギアも入ったため、「マンセルが観客に手を振った際、誤ってマシンのキルスイッチに触れたのでは」という説も囁かれた(本人は否定。しかしチームはその後、キルスイッチの配置を手の届きにくい所に移している)。その後も、第11戦ベルギーGPでトップ走行中にストップ。

第13戦ポルトガルGPでは、トップ快走中のタイヤ交換作業直後にスタッフが右後輪のナットを締め忘れ、脱落。その後、自チームのピットレーン外で再装着作業を行ったことが、レギュレーション違反とされ、失格処分を受けている。続くスペインGPで優勝し、逆転の可能性を残し挑んだ第15戦日本GP決勝では、10周目セナの後ろを走行中にコースアウトし、リタイア。このことで王座はセナのものとなり、三度王座を逃す結果となった(ちなみに鈴鹿でコースアウトする直前、マンセルはピットに無線でI`m cruising now.と言っていたらしい)。

速さではセナとマクラーレンを上回っていたものの、マシンの信頼性に難があったことに加え、チームやマンセルのイージーミスが致命的な敗因になったと言われている。また何度もチャンピオンを逃した様子から、「無冠の帝王」の代名詞の一人にあげられるようにもなっていた(この年、シーズン5勝)。

1992年、ウィリアムズはアクティブ=サスペンション(商標上はリアクティブ・サスペンションと呼ばれる)などを搭載したハイテクマシン・FW14Bで序盤から圧倒的な速さを見せる。マンセルはチームメイトのリカルド・パトレーゼをも圧倒し、前年のセナの開幕4連勝を上回る開幕5連勝を記録するなど、連戦連勝。第11戦ハンガリーGPにおいて、2位に入り、遂に念願のワールドチャンピオンに輝いた。レース後、セナがこれ以上ないほどの親密な様子で近づいてきて、マンセルを抱きしめながら「よくやったね、ナイジェル。本当にいい気分だろ?そうじゃないか!これであんたも僕が嫌な野郎だった訳がわかったよな?この気分をなくしたり、他人に経験させたりしたくなかったのさ」と呟き、マンセルに祝辞を述べた。最終的に16戦中14回のポールポジション、計9勝を記録しているが、これは1988年にセナが記録した13PP、8勝の記録を塗り替える当時の最多記録だった。

しかし一方で、ウイリアムズとの契約のもつれや年俸の高騰などを理由に、パトレーゼと共にチームを離脱。マンセルはチャンピオンを決めた僅か2戦後、イタリアGPで引退会見をすることとなった。ウイリアムズのオーナー、フランク・ウイリアムズは既にこの時に、自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れると確信しており、プロスト、セナもウイリアムズに熱烈なラブコールを送っていた(セナは、無給でも構わないとまで発言していた)。マンセル自身も周囲も、マンセルがプロストかセナとコンビを組むとなれば、ほぼ確実に揉めるだろう、と予想していたことだった。

しかし実際はプロストは1992年のシーズンもウィリアムズ入りを画策したが、マンセルの契約はセカンドドライバーを選べるオプションがあった為、マンセルに拒否されプロストは1シーズン浪人となった。その後も粘り強く交渉し、1993年のウィリアムズ入りを1992年の8月には契約していた。その契約ではプロストはセカンドドライバーを選べるオプションがあり、プロストはセナを拒否することが出来た。マンセルにしてみれば年間チャンピオンを獲得したにも関わらず、年俸ダウンかつジョイントナンバー1扱いという内容ではあったが、一度はその契約条件を呑んだ。しかし、セナがマスコミを通じて「ウィリアムズに乗れるなら無給でもいい」と発したメッセージをフランク・ウィリアムズが契約交渉に持ち出し(プロストとの契約上セナが加入する可能性はないにも関わらず)更なる年俸ダウンを提示したため、マンセルは交渉を打ち切って引退宣言をすることになった。マンセルが本気だと知ったフランク・ウィリアムズは、急遽モンツァの記者会見場にスタッフを派遣し、記者たちの面前で人目をはばからず「ナイジェル、お前の条件は全部受け入れるからやめてくれ」と懇願したがマンセルは構わず会見を続行し、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言した。会見をしたイタリアGPの後、マンセルはインディへの移籍を発表した。

翌1993年にはアメリカのCARTにニューマン・ハース・レーシングから参戦し、ルーキーながら5勝を挙げてチャンピオンを獲得。ルーキー・オブ・ザ・イヤーにも輝いている。しかしここでもチームとの契約トラブルなどから翌1994年シーズン終了後に離脱へと至る。1994年シーズン中にはCARTの日程に影響のないフランスGPに、事故死したセナの代役として、古巣ウイリアムズからスポット参戦でF1復帰。ラスト3戦にも参戦し、日本GPでは豪雨の中(2ヒート制のため、あくまでも見かけ上ではあるが)ジャン・アレジとの長い3位争いで一歩も引かぬバトルで健在ぶりを示し、最終戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得、決勝でも優勝を記録した。

翌1995年はアメリカ・フロリダ州からマン島に戻り、イングランドのウッドバリ・ゴルフクラブの近くへ引越しをして本格的にF1に復帰するつもりだったが、ウィリアムズはマンセルより若くて給料の安いデビッド・クルサードを選んだ(しかもそれを知らされたのは直接ウィリアムズ関係者ではなく、マスコミから)為、結局マクラーレンと契約を結ぶも、コックピットが狭いとの不満を漏らして開幕2戦を欠場。第3戦から参戦するも、マシンのポテンシャルが低いことにモチベーションを失い、シーズン途中で離脱を表明。事実上F1から「引退」した(過去2度とは異なり、この時には正式な引退表明はしていない)。

その後、フォードよりBTCC参戦。

F1離脱以降の主な出来事

ピットロードで追突されてリタイア
3戦連続被撃墜
二人乗りF1の模擬レースでの最終ラップクラッシュ(フェルナンド・アロンソに追突)
マン島の自宅に入った空き巣を素手で撃退

1985年-1987年と3シーズンに渡ってウィリアムズ・ホンダチームでドライブした上、その豪快なドライビングスタイルや苦労人としてのレーシングキャリアが多くの日本のファンのハートをつかみ、ホンダエンジンを搭載するマシンと離れた後も、親しみを込めて「マンちゃん」と呼ばれ絶大な人気を博していた。

このあだ名を命名したのは、レース専門誌「Racing On」に頻繁に登場したモータージャーナリストの西山平夫である。フジテレビのF1中継で実況をしていた古舘伊知郎も、レース誌を見てか、ウイリアムズ復帰後にたまに使用していた事がある。他に、古舘語録においては「荒法師マンセル」が多く用いられた。

1985年、ウィリアムズに移籍したマンセルの乗るマシンは、シーズン途中からカーナンバー5番が赤く塗られた。この年、当時としては最遅記録となる参戦72戦目で、悲願のF1初優勝を遂げる。以来、「赤い5番=レッド5」はマンセルのトレードマークとなり、ウィリアムズ在籍時、CARTニューマン・ハース在籍時に付けているほか、最近では2005年に開催されたグランプリマスターズレースでも赤いカーナンバー5を付けている。

元々は、当時のチームメイトケケ・ロズベルグとヘルメットの色が似ていたため、チームクルーが混同を避けるために始められたものと考えられる。これを真似た例として、1994年に周回遅れにチームメイトと混同されてブロックされることに悩まされたミハエル・シューマッハがカーナンバー(これも「5」だった)を数戦だけオレンジ色にした例がある。

レッド5は度重なる失敗にもめげずチャンピオン(カーナンバー1)を目指すマンセルの闘志の象徴であったが、F1ではチャンピオン獲得後にCARTに転向したためレッド1は見られなかった。CARTでは王者となり2年目にレッド1を付けたが、同年に古巣ウィリアムズにF1復帰した際には、レッド5ならぬレッド2(レッドツー)を付けた。

噂として、1995年にマンセルがマクラーレンからフル参戦することになった際、ロン・デニスがフランク・ウィリアムズにカーナンバー(当時のマクラーレンのカーナンバーは7・8、ウィリアムズは5・6)の交換を申し出たとの逸話もあるが、結局実現はしていない。

ちなみに、1998年にBTCCにスポット参戦したときは、カーナンバー5をジェームス・トンプソンが使用していたため、レッド55を付けた。BTCCのカーナンバーは黒となっていたが、イギリスの国民的英雄であるマンセルに敬意を表して、赤いカーナンバーを認めたようだ。

レース中以外にも、マンセルは多くの逸話を残した。

前年、F3のレースで頚椎を骨折するという大怪我を負っていながら病院を抜け出し、鎮痛剤を通常の人間の7倍(一説には6倍)を打って、ロータスのコーリン・チャップマンとの面接に向かった。怪我を案ずるチャップマンには「同姓同名の別人でしょう?」として、翌年のロータスのシートを獲得した。
ロータス時代、折り合いの悪かったピーター・ウォーから「オレのケツに穴があいている限り、オマエは優勝しない」と批判された。その後マンセルは自伝でこのことについて触れ、「今ではきっと、ひどい便秘になっていることと思う」と皮肉った(通算31勝)。
1987年オーストリアGPで優勝したマンセルは、表彰台へ向かうオープンカーに乗っていた。そして観客に手を振ろうと立ち上がった際、ちょうど車が橋の下を通過しようとしていたため、橋桁に頭を思い切りぶつけてしまい、頭を抱えながら表彰台に上がるハメになってしまった。さらに余談だが、このレース時にマンセルは親知らずを痛めており、鎮痛剤を飲みながらのレース出場だった。
1989年のブラジルGPでは、この年フェラーリが投入したセミオートマティックギアボックスのトラブルなど、マシンの信頼性の低さから、5周程度でリタイアするものと考えていた。この為、マンセルはリタイヤ後すぐに帰国するつもりで、ブリティッシュ・エアウェイズのパイロットに、レーススタートから間もない時間でのロンドン行きのチケットを手配させた。しかし、レースではリタイアどころか優勝をしてしまい、結局予定していた飛行機に乗れなかった。余談だが、同GPの表彰台でトロフィーを受け取ろうとしたマンセルは、トロフィーのとがった部分で指を切った。
1992年のカナダGPでセナとのバトルでコースアウトし、この年初のリタイヤを喫したが、セナのコース取りに怒り、ウィリアムズのピットに戻る途中マクラーレンのピットに立ち寄り、ロン・デニスにつかみかかった。この姿はフジテレビでの中継でも映し出されており、マンセルとデニスの確執を象徴するシーンの1つともなっている。
デニスは元々、「世界中で契約できるドライバーがマンセルだけになっても、私は彼と契約しない」とまで語っていたほどマンセルを評価していなかったが、1995年にはそのマンセルと契約した。契約にあたってはセナやプロストのような大物ベテランドライバーの死亡・引退による人気の低下を懸念したFIA側の思惑があり、ミスマッチとも思える契約につながったが、このようなコンビが長続きするわけもなく、3戦限りで契約解除となった。
沖縄空手初段(黒帯)。この試験を受けるために、わざわざ沖縄まで行った。
日本においてもファンが多い。かつて存在した公式ファンクラブ(ザ・ナイジェル・マンセル・オフィシャルファンクラブ)は母国イギリスのほか日本支部があった。
地元でフェラーリのディーラーを経営する傍ら、自らの名を冠した博物館を運営している。2005年11月に南アフリカのヨハネスブルクで開催された、F1の往年の名ドライバー達によるグランプリマスターズで優勝。

2005年にイギリス・デヴォンシャーにあるカート場を買収し、息子のレオとグレッグのための大規模なレーシング施設に改修したが、その際地元住民から騒音公害と近隣道路の渋滞の原因となるとして猛反発を受け、「キャンセル・マンセル」と銘打った反対運動を起こされた。

同年、BBC Twoの自動車情報番組「トップ・ギア」に出演、スズキ・リアナを使用したタイムアタックで1分44秒6を記録。これは、ジェンソン・バトン(1分44秒7)やデイモン・ヒル(1分46秒3)を上回る、現在までで総合2位の好記録である。

2007年現在、息子のレオとグレッグが、共にイギリスF3に参戦中。



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