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我が愛しのアスリート図鑑コミュの10.19?

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この年のセ・リーグ優勝チーム、中日ドラゴンズは名古屋市のホテルで日本シリーズ前の合宿を行っていた。監督の星野仙一はこの試合を自室でテレビ観戦し、日本シリーズでの対戦相手の行方を見守りながら、ふと「闘っている仰木さんの立場だったらどうだろうか、結果を待っている森さんの立場だったらどうだろうか」などと、自分と同じ“監督”としての立場を考えつつ、勝敗とはまた別のところに想いを巡らせていた。
パ・リーグの優勝決定はこの近鉄の最終戦までもつれたため、日本シリーズの前売入場券のうちナゴヤ球場開催分の入場券は、対戦カードを「中日 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記する措置が執られた(引き分けによる日程の追加など特別な事情がない限り日本シリーズのチケットは全てシリーズ開始前の前売りである)。但し、かつてはリーグ優勝の決定がシリーズ直前までもつれるケースが何度もあったため、これは1988年に限ったケースではない。(翌年も「巨人 対 パシフィック・リーグ優勝チーム」と表記する措置が執られた)引き分けによる日程の追加など現在ではドーム球場を本拠地とする球団が多くなったため、かつてよりも公式戦の日程消化に比較的余裕ができ、また入場券も大手プレイガイドのオンラインシステムによる発券が主流となり、作成に掛かる時間が大幅に短縮されている(対戦カード決定後に作成しても十分間に合う)ため、このようなケースは稀になりつつある。
ベースボールマガジン社は日本シリーズ向けの雑誌を作成する必要があったが、パリーグ優勝がぎりぎりまで決まらなかったので西武優勝版と近鉄優勝版の2通りの版を作る羽目になっていた。
ダブルヘッダー第1試合で球審を務めた橘修は「7回辺りから球場全体の雰囲気が異様になり、マスクをしていても胸が絞めつけられそうだった」と述懐している。橘はこの時の冷静かつ正確なジャッジが評価され、パ・リーグ優秀審判員賞を受賞した。

ロッテは1978年に川崎を本拠地として以来、慢性的に観客動員数が伸び悩んでおり、この1988年も観客動員数は12球団最下位と言う体たらくぶりだった。球団は苦肉の策として当時、1シーズン全試合有効の無料招待券(1枚につき、シーズン中の1試合に入場可)を近隣住民をはじめ多くの人々に大量に配布していた。とは言え、1980年代のロッテは低迷続きでこの年も最下位を独走。優勝争いに加わるなど到底考えられず、さらには川崎の施設老朽化等もあって、この招待券配布も観客動員の増加には殆どと言っていい程効果が無かった。実際のところ、招待券を受け取っても結局使わずじまいで済ませてしまう人が大半だった。
そんなこともあって、10月19日に近鉄が川崎球場で優勝を決定する可能性が生じても尚、ロッテ球団関係者は全く慌てていなかった。事実、この日の前日になっても関係者は「たとえ観客がいつもより多いとはいっても、せいぜい普段の週末程度(土・日曜の観客数は多くても概ね15,000〜20,000人ほど)しか集まらないだろう」などと高を括っていたそうである。
但し当時、プロ野球の観客動員数の発表は実数によるものではなく、上記のような球団の公式発表による数値はあくまでも公称値である。特にロッテは当時、観客の実数が1,000人に満たなかった試合でも年間予約席(シーズンシート)の席数などを含めて「3,000人」などと公式発表するケースが多かった事を念のため付記する。
だが、この甘い観測はあっけなく覆され、この日は朝から無料招待券を持った客が血相を変え大挙して川崎球場に詰め掛けた。ファンの一部には金券ショップや持っていた人から譲り受けたり買い取ったりした人々もいた。当然の事ながらこの招待券はシーズン全体の動員数を考慮して配布していたので(とは言え前述の通り、そもそも招待券を大量に配布したところで観客増を望める状況ではなかったのだが)、当初の予想に反して球場の定員を大幅に上回る人々が集まり、入場出来なくなる人が続出した。あぶれた観客は球場に隣接する雑居ビル、マンション、アパート等の上の階に観戦場所を求めて集まり、右翼側場外にあるマンションは階段や踊り場、さらには屋上までが人でいっぱいになってしまったほどだった。
無料招待券で入れる自由席に入場制限がかけられると、今度は指定席が飛ぶように売れた。しかし普段観客の入らない川崎球場では、定員分の券を予め用意していなかった。また当時川崎には指定席の発券システムがなく、不足した分は窓口の係員が座席表を逐一照合しながらゴム印で席番を打刻して観客に手渡す、という手作業で行われていた。そのため、チケットを求めて集まった観客の列に発券がいよいよ追いつかなくなり、急遽席番無しの立ち見券を発行。この時点で空席はまだあるのに、指定席で立ち見券を売ったのも前代未聞だった。しまいには「大人用」のチケットがなくなってしまい、「子供用」のチケットまで「大人用」に使うことになった。(「子供」のところをペンで消して使用した)
こうしたことから、超満員の観客はチケット売り上げ増には余り貢献しなかったが、構内や近辺の売店は大わらわだった。普段では考えられない満員の観客のため売られている食べ物や飲み物が売れに売れる事態となり、更に第1試合と第2試合の間のインターバルが夕食の時間とほぼ重なったため、第2試合が始まる頃には殆どの食べ物、飲み物が売り切れてしまった。一塁側場外のラーメン店も麺が底を突いて売り切れとなったが、あまりの空腹から、店主に「せめてスープだけでもいいから分けてくれ」と嘆願する観客もいたという。
この日の川崎球場には「本日仰木胴上げ日」という横断幕を掲げて応援するファンもいた。観客の9割近くが各地から動員された近鉄ファンおよび(どちらのファンでもないが)近鉄を応援する人々であり、さらにホーム応援席にはロッテの勝利を願う西武ファンもいたため、ホームである真のロッテファンはさらに少なかったことになる。現在のホームである千葉マリンには勿論、ビジター時にも存在する熱狂的ともいえるロッテファンは当時は存在せず、本当にホームの球団なのかという応援団の少なさだった。

この日の夕方、阪急ブレーブスがオリエント・リース(翌年4月、社名をオリックスに変更)に売却されることが発表された。9月に南海ホークスがダイエーへ売却されることが決まった際にはマスコミもその情報を以前からキャッチしていたが、阪急に関しては全くの予想外で、この日のスポーツマスコミは「10.19」と「阪急身売り」の対応に追われた。この日、川崎には阪急担当記者の一部も取材の応援に駆けつけていたが、彼らも急遽帰阪したり、買収関連の記者会見が行われる都内のオリエント・リース本社へ急行したりと予定変更を余儀なくされ「よりによって、何でこんな大事な日に(そんな発表をするのか)」と漏らす者もいたと言う[1]。蛇足だが、当時は「オリエント・リース」という会社の知名度が乏しかったこともあって、間違えてオリエントファイナンスに行ってしまった記者もいたそうである。翌日のスポーツ紙のうち日刊スポーツとサンケイスポーツは「阪急身売り」を一面で取り上げた。なお、この年阪急と南海が売却された事によって、パ・リーグ創設の1950年以来経営母体が一度も変更されたことがない球団は、偶然にもこの日ダブルヘッダーを戦っていた近鉄1球団だけとなった。
関東地方では当初この試合の中継予定は無かったが、テレビ朝日が『パオパオチャンネル』『ニュースシャトル』内で随時川崎球場からの中継を差し込んで放送、少しずつ試合中継を放送するうちに「もっと見たい」「(プロ野球)中継を続けてくれ」と視聴者からの電話が殺到したため、編成局長の独断で急遽番組予定を変更して第2試合途中の午後9時から全国放送(近畿では、前述の通り系列のABCテレビが第1試合から完全中継した。なお、ABCテレビではアニメ『ハーイあっこです』の系列局への裏送りを実施した。また、翌年から地元パ・リーグ球団が復活する予定となっていた福岡県のKBCと、当時地元球団のなかった宮城県のKHBの両局も、ABCの中継を1試合目から放送していた)。しかも当時人気番組だった『さすらい刑事旅情編』と差し替えた[2]上にCMを入れないという民放ではおおよそ考えられないことをやってのけ(後に久米宏曰く「スタッフが試合に夢中でCMを入れそこなってしまった」[3])、そして午後10時からの『ニュースステーション』もメインキャスター・久米宏が番組冒頭部分から「今日はお伝えしなければならないニュースが、山ほどあるのですが、このまま野球中継を続けます」「伝えなければならないニュースもあるし、誰か助けてください」の一言と共に本来のニュース番組としての内容を全て飛ばして[4]放送し、中継を続けた。いかに全国の野球ファンがこの試合の行方を固唾を呑んで見守っていたかがわかる。尤も、近鉄戦のナイターが全国ネットで放送されるのは極めて異例であり、当時のテレビ朝日系列が如何に近鉄の試合に敏感な編成だったかが伺われる。
この試合の中継放送は、近畿地区では視聴率46.7%、関東地区でも視聴率30.9%と、日本シリーズ以上の驚異的な高視聴率を記録した。余談だが、これは18年に渡って放送されたニュースステーションの歴代最高視聴率である。
この試合の中継は視聴者の反響を呼び、同年12月30日に放送された『ニュースステーション 年末スペシャル』でも「今年記憶に残ったニュース」として10.19を取り上げ、ドキュメンタリーの形で数十分にわたって放送した。また毎日放送も後に、この試合のドキュメントを放送している。また1992年にこのダブルヘッダーをダイジェストしたNumberビデオ「最終戦 10.19川崎球場」が文藝春秋社から発売された。

翌年1989年のパ・リーグは、オリックスの開幕8連勝で始まり首位を独走、6月末時点で2位近鉄に8.5ゲーム差をつけたが、ここから近鉄が猛追、7月を14勝6敗で大きく勝ち越しオリックスを捉えた。さらに、9月に入ると西武も猛追、首位が目まぐるしく入れ替わる大混戦を演じた。

10月5日、対オリックス戦に敗れた近鉄は自力優勝が消滅した。また同日、当時の近鉄球団のオーナーだった佐伯勇が逝去。翌10月6日の対オリックス戦は、重苦しい空気のまま延長にもつれ込んだが10回裏、ハーマン・リベラのサヨナラ3ラン本塁打により5-2で勝利した。

リベラのコメント「このホームランを、妻とおなかの子と、故佐伯オーナーにささげる」
そして近鉄は、10月7日の対日本ハム戦に勝利、10月8日は近鉄・阿波野秀幸と日本ハム・西崎幸広の初の直接対決となったが4-0で勝利した。

しかし10月9日の対ロッテ戦は6-7で敗戦、近鉄は残された西武との4試合、2敗を喫した時点で優勝が消滅するという状況に追い詰められた。

そして天王山、10月10日からの西武対近鉄直接対決3連戦を迎えた。この時点で首位西武と3位近鉄とのゲーム差は2.0。

10月10日、西武対近鉄戦。西武が敗れ同日オリックスがロッテに勝利すれば、オリックスにマジック4が点灯する状況だった。試合は西武先発渡辺久信と近鉄先発山崎慎太郎の緊迫した投手戦となったが、8回表、リベラの勝ち越しソロ本塁打により3-2で近鉄が勝利した。山崎のコメント「負けたら終わりなんだと思えば自然と力が抜けて気負いが無くなった」。なお、オリックスは投壊により4-17でロッテに大敗したが、試合後西武の敗戦を知らされた、オリックス・上田利治監督は「そうかっ」と表情を変えたという。

流れは近鉄にあったが、10月11日は雨のため、西武対近鉄戦、ロッテ対オリックス戦共に試合中止、両試合とも急遽翌日にダブルヘッダーが組まれた。そして運命の10月12日を迎えた。

10月12日、西武対近鉄(西武ライオンズ球場)のダブルヘッダーが行われた。西武が連勝し、同日オリックスが連敗すれば西武の優勝決定という状況だったが、第1試合、近鉄は0-4の劣勢から主砲・ラルフ・ブライアントが、西武先発郭泰源から4回表にソロ、6回表に同点に追い付く満塁本塁打、そして5-5で迎えた8回表、再びブライアントに打席が回ってきた。西武・森祇晶監督はここまでブライアントを被本塁打0に押さえ込んでいた渡辺久信をマウンドに送ったが、ブライアントは渡辺久信の4球目、ライトスタンドに突き刺さる勝ち越しソロアーチを放ち、6-5で第1試合近鉄勝利。
第2試合も中3日のエース阿波野秀幸を立てて14-4で近鉄が連勝した。なおブライアントは第2試合3回表にも西武先発高山郁夫から2-2の均衡を破るソロ本塁打を放ち、打撃機会4打数連続本塁打を達成、「奇跡の4連発」と語り継がれている。近鉄にマジック2が点灯。また、オリックスも10-2、14-2でロッテに連勝した。

この3連戦では、当時“猛牛キラー”と称された西武のドラフト1位ルーキー・渡辺智男は全く登板しなかった。渡辺は10月15日、消化試合となったが近鉄対西武最終戦に先発し、延長12回を投げ抜き5-6で勝利した。「渡辺智を登板させとけば西武は優勝できたかもしれない」といった森采配に対する批判がある。しかし、渡辺智男は10月9日、ゲーム差無しで迎えた西武対オリックス最後の直接対決に先発し、8回1/3を投げていた事(結果は11-2で西武勝利)、このダブルヘッダーが1勝1敗なら10月15日が決戦となっていた事、さらに、前年10月に右肘軟骨除去手術をしていた事や、試合展開などから登板させることはできなかった。森は「渡辺智男が使い物にならなくなったら、誰が責任を取るのだ」と反論している。

また、この3連戦は10日(テレビ朝日)と12日の第2試合(フジテレビ)が全国ネットでテレビ中継され、12日の第1試合も関東ローカルではあったがフジテレビが担当した。ちなみに、同試合に順延となった11日は本来TBS(全国ネット)の担当予定だったが[5]、中止決定を受け翌日の担当局であるフジテレビと話し合いの末、同局への委譲が決定した。結果的に実現はしなかったが、CS放送(当時は主にケーブルテレビ向が主体)が全くと言っていいほど普及されていなかった当時としてはパ・リーグの同一カード3連戦がゴールデンタイムで全国に生中継されること自体が異例だった。

10月13日、ロッテ対オリックス戦、舞台は川崎球場。ロッテの先発は奇しくも10.19第2試合と同じ園川一美。ロッテは5回裏に愛甲猛がオリックス先発佐藤義則から逆転3ラン本塁打。8回表から抑えに伊良部秀輝を投入。5-3でオリックス痛恨の敗戦。近鉄についにマジック1が点灯した。前年、近鉄の優勝を最終戦で阻止したロッテが、今度は近鉄の優勝をアシストした形になるという、皮肉ではあるが、しかし劇的な展開だった。

そして10月14日、本拠地藤井寺球場での近鉄対ダイエー戦。近鉄ファンで超満員に膨れ上がった藤井寺球場は、試合途中から観客席で大ウェーブが何度も起きるなど、尋常でない盛り上がりとなった。7回表から阿波野秀幸が胴上げ投手として登板すると、スタンドからは前年同様の阿波野コールが沸き起こる(ただ、この采配は吉井理人には不満の残るものだった。詳細は吉井の項を参照)。5-2でダイエーを降した近鉄はオリックスをゲーム差なしの勝率1厘差で上回り、9年ぶりのリーグ優勝を果たした。ファンも選手達も涙を流した。

この試合はレギュラー番組[6]を休止して、当日19:00からABCテレビをキーステーションにANN系列で生中継された(但し青森放送、山形放送、山口放送、テレビ大分など当時のNNN系列とのクロスネット局では放送なし)。結果的に、近鉄バファローズのみならずABCにとっても前年の雪辱を果たす結果となった。実況はABCの太田元治が担当し、前年10.19の第2試合を実況した安部憲幸は近鉄ベンチレポートを担当した(ちなみにダイエー側のレポーターはKBCの後庵継丸が担当)。前年に引き続き近鉄戦で優勝決定が掛かったナイターが全国ネットで放送されるのは2年連続であり、当時のANN系列が近鉄優勝に注目していた編成だったかが分かる。

^ オリックスの当時の社長で、現在もオリックス球団オーナーの宮内義彦は、「(社長としての多忙なスケジュールの中)この日しか空いている日が無かった。この日までパ・リーグの優勝争いがもつれ込むことは全くの予想外だった」と後に雑誌のインタビューで語っている。
^ 当初午後9時から15分だけ野球中継を放送し、「さすらい刑事旅情編」以下の番組を繰り下げることで対応し、さらに15分延長して9時30分までの挿入処置としたが、中継続行を望む視聴者からの電話があまりにも殺到したため、ついに「さすらい刑事旅情編」の放送を取り止め、10時から生放送の「ニュースステーション」に繋ぐ決断を下した。
^ 急な番組差し替えでスポンサーへの対応が出来なかった事に加え、繰り下げ対応だったものが急遽差し替えとなり、残り24分間でドラマ枠のCM全てを放送するのは困難だった。
^ 世界経済を揺るがしたいわゆる「ブラックマンデー」から丁度1年になる日だったため、番組内で特集を組み、ウォール街からの中継も行う予定だったが、野球中継のために特集そのものが中止となった。
^ この日は当初19:00から2時間にわたり「8時だョ!全員集合スペシャル」(番組は1985年に終了済のため、同番組の傑作VTR集)を放映する予定だったが、西武対近鉄戦への変更とともに同試合が雨天中止にならない限りは放送延期となるはずだった。しかし、雨天中止となったことで当初の予定通り放映できた。そのため、一部の「8時だョ!全員集合」及びザ・ドリフターズのファンは、この雨天中止を喜んだ、とも言われている。
^ この日は土曜日だったため、通常時の番組は19:00から「悪魔くん」、19:30から「おぼっちゃまくん」(ABCのみ大阪ガス提供の「部長刑事」)、20:00から「暴れん坊将軍III」。なお、試合当日ABCは本来「おぼっちゃまくん」を先行放送している17:55から「部長刑事」を繰り上げ放送した。

コメント(1)

ありがとうございます!詳しすぎる内容にただただ感服いたします!

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