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我が愛しのアスリート図鑑コミュのE・ダーヴィッツ(サッカー)

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エドガー・スティーヴン・ダーヴィッツ(Edgar Steven Davids、1973年3月13日 - )は元オランダ代表のサッカー選手。ポジションはMF。アヤックス・アムステルダムに在籍。

国籍はオランダであるが生まれは南米のスリナム共和国出身。代表のチームメイトでもあるクラレンス・セードルフやジミー・フロイド・ハッセルバインクも同国出身である。

2000年、左目に緑内障を発症し失明の危険もあったが、手術により克服し特殊防護ゴーグルを着用することとなった。そのゴーグルは彼のトレードマークとなっている。(以前はOAKLEY社のwater jacketを使用していた。このモデルは本来、サーフィン用である。)

短気なことでも有名で、20代の頃はそれがもとで多くのトラブルを起こしたようだが、近年はトットナムの練習でもユースの指導をしたりプロ意識が高いことでも知られる。特にダーヴィッツを蔑ろにするような発言があれば強烈なパンチが飛んでくるという。

また、監督批判を公然と行うこともしばしある。EURO1996の時はヒディンクを批判し追放されたり、近頃ではワールドカップメンバーに外れた事に対しファン・バステンに対し批判を展開した。

日本好きでもあり、剣道の防具を欲しがるほどのマニアらしい。また、家には和室があるという。

NECナイメーヘンに、従弟のロレンゾ・ダーヴィッツが所属している。

体格には決して恵まれていないが、当たりの強さ・無尽蔵のスタミナを持ち、守備の読みも鋭い。一方で瞬時にセンス溢れる攻撃の起点となるボランチであり、強靱な体から放たれる抑えのきいたミドルシュートも武器。戦術眼もあり、プレーメーカーの役割も得意とする。相手にどこまでも食らいつく守備能力の高さとプレーぶりから「闘犬」の異名を持つ。また、アヤックスのユース時代はFWだったということも生かし、時折みせる前線への飛び出しも相手チームの脅威。シザース等テクニックにも秀でており、世界最高のボランチの一人である。

一方で闘争心が暴走し、警告、退場を受けることもしばしばあり、それがプレー内外でも確執に転じることもある。一時期は「黒人のダービッツは白人の選手にはパスを出さない」といわれる時期もあったり、プライベートでの夜の活躍も有名で、それが自分のリフレッシュと公言しているのは有名。だが彼の試合でのスタミナや活躍ぶりを見れば文句のつけようがないため、彼を使う指揮官の悩みのタネとなる。

驚異的な体力で中盤を忙しく駆け回り、どんな大きな相手にも決して競り負けない、激しい闘志を持ったプレーヤー。

アムステルダムにあるオランダの名門サッカークラブ、アヤックスの下部組織、アヤックス・アカデミーを経た後91-92シーズンデビュー。

94-95シーズンにはパトリック・クライファート、ヤリ・リトマネン(元フィンランド代表)等と共に20歳の若さで、UEFAチャンピオンズリーグを制覇する。(このユベントスとの決勝戦でユーベのキャプテン、アントニオ・コンテの大腿部をニープレスし、病院送りとした。)その後トヨタカップにも来日、グレミオをPK戦の末下して世界一の称号も手にする。

その活躍が認められ1996年にはイタリア、セリエAのビッククラブ、ACミランに移籍。入団一年目は15試合に出場。しかし、二年目は開幕直後にペルージャ戦でGKと交錯して骨折してしまう。スキャンダル、チームメイトとの軋轢など(コスタクルタの腐ったリンゴ発言など)、悪童扱い。(道で口論になった男をメリケンをつけた拳で殴りつけ、裁判→賠償金というケースもある。)その後、1997年にミラン首脳陣はシーズン半ばに彼を見放し、同セリエAのユヴェントスに移籍させる。このとき、コスタクルタ等チームメイトは歓喜したという。

名門に加入した彼は、1997-1998年シーズン途中加入ながらスクデット(当時25回目)に多大な貢献をした。ミラン所属時とはうって変わって、チームメイトの皆が信頼を寄せた。それでも、彼はアウトロー的存在であることに代わり無かった。2000年には薬物使用(筋肉増強剤ナンドロロン)に引っかかり出場停止となってしまう。本人は「緑内障の治療薬に含まれる成分が原因」とコメントしているがオランダ代表だったフランク・デ・ブールも同時期に同様の薬を服用したとして出場停止処分を受けている。

ユーベとの契約は2001年までの予定であった。しかしながら、2004年6月まで延長となる。この契約更新後、両者の関係は悪化していく。CLでのアーセナル戦において、当時監督のマルチェロ・リッピが彼を休養させる為、クロアチア代表でもあるイゴール・トゥドールを起用すると、この起用策に怒りを露わにした彼は生中継中のカメラにあろう事か「ゲームに出さないなら、チームを俺は離れるだけだ!!」とぶちまけた。これにユーベ首脳陣はダービッツに多額の罰金を科し、関係はますます悪化する。

2002年、ダーヴィッツはローマにもラブコールを送っているなどともささやかれた。ローマは高く彼を評価し、一時は移籍も話に出たがモッジGMはそうはさせず白紙となる。03-04シーズンはブレシアから、若手のガーナ人、ステファン・アッピアーの入団によりポジションを奪われ、プレーするのは重要度の低い試合ばかりとなる。プレミアシップの強豪、チェルシーの大物会長ロマン・アブラモビッチからの多額のオファーもあったが、彼は首を縦に振らなかった。もはや関係は修復不能の泥沼状態であったが、彼はひたすら2004年6月のEURO開催を待った。

一方、当時の代表監督ディック・アドフォカートはアヤックス時代エドガーが共にプレーしたこともある、現在FCバルセロナの監督のフランク・ライカールトにレンタルという名案を提案する。これを首脳陣も快く納得しスペイン、リーガ・エスパニョーラのFCバルセロナへと新天地も求めた。こうして2004年1月11日に正式に移籍が発表される。これでダーヴィッツはEUROまでの十分な環境を手に入れた。これは両チームにおいても効果的であったことは過言ではない。1月17日、アスレティック・ビルバオ戦(結果1-1)にデビュー。その後も活躍し、不振に苦しむチームをリーグ2位に押し上げる最大の原動力となった。

その後2004年7月、シーズン終了後に大量補強をにらんだイタリア、セリエAのインテルへ完全移籍、その戦場を移す事となる。しかし、序盤戦はスタメン出場をしたものの、徐々に戦術の関係で出場機会は少なくなり、同ポジションの豊富な選手層もそれに追い討ちをかけた。次第にマンチーニ監督との関係も悪化し、インテルを退団。2005年にイングランドのトットナムに移籍した。入団一年目はトットナムの好成績を後押しする形での貢献をしたが、2年目になると、コートジヴォアール代表で”パスマイスター”の異名を持つディディエ・ゾコラの入団、台頭もあって出場機会が減少、このことによってヨル監督とオランダ語で激しい口論を交わしたのはチームの関係者を驚かせた。そのこともあってか、出場機会を求め、2007年1月に古巣アヤックスへ11年ぶりに復帰した。2007-2008シーズン開幕前のプレーシーズンマッチゴー・アヘッド・イーグルス戦にプロテクターを付けずに出場、案の定左足脛骨を骨折し長期の離脱を余儀なくされた。

オランダ代表デビューは1994年4月20日アイルランド戦。

1998年のフランスワールドカップでは6試合に出場、決勝トーナメント一回戦ユーゴ戦では試合終了間際に強烈なミドルシュートを叩き込み勝利に貢献している。

EURO2000にもフランク・ライカールト監督に率いられて全試合に出場しベスト4進出に貢献した。

しかし、ルイス・ファン・ハール監督に率いられた2002年W杯欧州予選ではチームの低迷(ファン・ニステルローイの離脱等)からその姿を日本、韓国に現す事は出来ず。

2004年EURO2004 ポルトガル大会では、予選をチェコにまさかの逆転で決勝トーナメント進出を危ぶまれたものの、怒濤の踏ん張りでチームは決勝トーナメント初戦スウェーデンをPKの末に下し、準決勝、ポルトガル戦まで駒を進めた。結局、マニシェのスーパーミドルが入って破れたものの、オレンジ軍団復活の兆しは見えてきた。その後、迷采配の代表監督ディック・アドフォカートが退任し1990年代の伝説的選手でもあったマルコ・ファン・バステンが代表監督に就任。彼はエドガーを代表キャプテンに指名したが、インテルでの出場機会の激減により、最近では代表の座から遠ざかっている。また、2006年ワールドカップでは、代表候補まで選ばれたが、最後に落選して出場することはなかった。

1991-1996 アヤックス
1996-1997 ACミラン
1997-2004 ユヴェントス
→2004.1 - 5 FCバルセロナ (loan)
2004-2005 インテル・ミラノ
2005-2007.1 トッテナム・ホットスパー
2007.2- アヤックス


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