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我が愛しのアスリート図鑑コミュのH・クレスポ(サッカー)

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エルナン・ホルヘ・クレスポ(Hernán Jorge Crespo、1975年7月5日 - )は、アルゼンチン出身の同国代表、セリエA・インテル所属のサッカー選手。ポジションはFW。 アルゼンチン代表として2006年7月現在、ガブリエル・バティストゥータ(54得点)に次ぐ34得点を挙げている同国屈指のストライカーである。

ずば抜けて高い能力があるわけではないがストライカーに求められるすべての技術が備わっている万能フォワード。左右両足どちらでのボール扱いも苦手とせず正確で強烈なシュートを放つことができ、敵のディフェンスラインの裏を突く鋭い飛び出しに優れ、高い打点からのヘディングも決められる。運動量も非常に豊富で守備にも献身的。周りを活かす術も知っており、目に見えない所でも仕事をこなす。

絶妙の飛び出しをオフサイドと判定されると、頭を抱えこんだり、両手を大きく広げて「どうして?」とオーバーアクション気味にアピールするのも彼の特徴のひとつ。

1993年から1996年までアルゼンチン国内リーグの強豪リバープレートでプレー。1996年からイタリアに渡りセリエAのパルマに所属した。当初はイタリアのサッカーに馴染めず、満足のいく結果を残せなかったが、1999年にはパルマのコッパ・イタリアとUEFAカップの優勝に大きく貢献。その功績が認められ、翌2000年には当時のセリエA新記録となる1100億リラ(約66億円)の移籍金でラツィオへ引き抜かれる。ラツィオでは移籍初年度に得点王を獲得し、在籍2年間でリーグ戦54試合計39得点とその移籍金に劣らぬ大活躍を見せる。

そして2002年にはロナウドの抜けた穴を埋めることを期待されたクレスポは、2000万ユーロに加えコッラーディの譲渡という破格の条件でインテルへと移籍した。しかし怪我の影響であまり試合には出られず、期待ほどの結果は残せなかった。翌シーズンの巻き返しが期待された矢先に、ロシア人の石油王であるアブラモヴィッチがオーナーに就任したチェルシーが行った、スター選手を次々に獲得する補強戦略の対象となり、結局インテルはクレスポを手放してしまった。インテリスタからの猛抗議もあり思い直したインテルは白紙撤回をチェルシーに要求するも時既に遅く、その願いは叶わなかった。

2003年はチェルシーに活躍の場を移すもイングランドのサッカーに順応できず精彩を欠き、出場機会にも恵まれなかった。2004年にはモウリーニョがチェルシーの新監督となったが、構想外だったクレスポはセリエAのACミランにレンタル移籍となる。かつてパルマ時代にも監督だったアンチェロッティ監督の下で、シェフチェンコ等とコンビを組んでその年のUEFAチャンピオンズリーグ準優勝に貢献するなど、クレスポは本来の輝きを取り戻した。本人はそのままイタリアに残ることを望んだが、翌2005年はレンタル元のチェルシーに呼び戻され、伸び盛りのドログバと同じポジションを競わせる形で貴重なスーパーサブとして使われた。不本意な形とはいえ、イングランドへの再挑戦では好調なパフォーマンスを維持した。

イタリアへの復帰を熱望するクレスポの意を汲む形で、2006年にはチェルシーから2年契約のレンタル移籍でインテルに復帰。イブラヒモビッチと強力な2トップを形成し、欧州の主要リーグで新記録となるリーグ17連勝に貢献するなどリーグ戦独走の原動力となった。シーズン終了後には再びチェルシーへの呼び戻しが予想されたが、本人の非常に固い意思もありインテルへの残留と完全移籍が決定した。

1993年-1996年  リバープレート
1996年-2000年  ACパルマ
2000年-2002年  SSラツィオ
2002年-2003年  インテル・ミラノ
2003年-  チェルシーFC
→2004年-2005年  ACミラン (loan)
→2006年-現在  インテル・ミラノ (loan→完全移籍)



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