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我が愛しのアスリート図鑑コミュのF・ブラッシー (プロレス)

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フレッド・ブラッシー (Fred Blassie、1918年2月8日 - 2003年6月2日)は、アメリカ・ミズーリ州セントルイス出身の元プロレスラー、元プロレスマネージャー。身長175cm、体重105kg。

ニックネームはクラッシー(Classy、お洒落な)。ハリウッド・ファッションプレート(The Hollywood Fashion Plate)の異名を取り、オシャレには非常に気を使ったことでも知られる。近年でもザ・ロックやクリス・ジェリコらが彼のファッションの影響を受けている。日本では「銀髪鬼」と呼ばれ黎明期の日本プロレス界に衝撃を与えた。

決めセリフは自伝のタイトルにも使われた「Listen, You Pencil Neck Geeks!」(この雑魚野郎め、といったような意味のスラング)

夫人は日本人。

高校時代はボクシングや野球をしていたが、精肉所で働きながらトレーニングを積み1935年にプロレス入り。その後アメリカ海軍に入隊し第二次世界大戦へ出征した。戦後1947年に活動を再開し、正統派レスラー「フレッド・マクダニエル」としてNWAジュニアヘビー級王座を獲得するなど活躍していたが人気はいまひとつで、1959年に赤毛の髪を銀色に染め、ロサンゼルスを拠点として噛みつき攻撃を得意技とするヒールに転向してから大ブレイクした。

1961年ロサンゼルスに新たに設立された初代WWA認定世界ヘビー級チャンピオンとなるが、力道山に敗れタイトルを奪われた。1962年4月にタイトルを奪回すべく日本プロレスに参戦するため初来日。このとき力道山、グレート・東郷らとのタッグ戦でブラッシーの噛みつき口撃が炸裂、額から激しく血を滴らせるグレート・東郷の姿をテレビで見た老婆がショック死したこともあるが、当のブラッシーは気にかける様子もなく「アメリカでは5〜60人はショック死させた。」と言い放った。彼のヒールとしての嫌われようは半端ではなく、地元ロサンゼルスでは、幾度となくナイフを持ったファンに襲われ、硫酸をかけられたことすらあるという。投げつけられたゆで卵が眼に命中し、片方の視力はほとんど失われたともいわれる。

当時、1959年4月10日の皇太子明仁親王(今上天皇)成婚の中継をきっかけにテレビのカラー放送が一部開始された時期で、人気番組のプロレス中継もカラー放送(1960年9月10日開始)されていたが、カラーテレビが高価であったため、多くの一般家庭ではグレート・東郷の額から滴る黒光りするグロテスクな流血をモノクロテレビで視聴することになった。前述のように1962年4月27日には、カラーテレビでブラッシーの試合を視聴した老人4名(諸説あり)が流血シーンを見てショック死する事件が起きている。

1962年7月にロサンゼルスで力道山を破りタイトルを奪回し以後タイトルを防衛した後、1972年にも全日本プロレスに参戦しジャイアント馬場と対戦した。1974年には新日本プロレスにも参戦しアントニオ猪木と対戦したが、視聴者が噛みつき口撃を見慣れたこともあって、初来日のときの迫力は失われていた。

1973年にWWF(現WWE)で現役引退後は悪役レスラーのマネージャーとして活躍した。新人レスラーの発掘にも尽力し、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセンらを大スターへと導いた。1994年にはそれまでのプロレスでの功績により、WWF殿堂(現WWE殿堂)入りした。

2003年4月に自伝を上梓し、5月12日にWWEのRAW大会にゲスト出演したが、直後の5月24日に倒れ6月2日にニューヨーク郊外の病院で死去。死因は、長い間心臓と腎臓に疾患を抱えており、これが悪化したためといわれている。

ビンス・マクマホンが父親からWWEを買い取る際、父ビンス・シニアから出された条件が彼(とジェームス・ダッドリー)の永久雇用であった。そのため彼は現場から退いた後も、生涯WWEのテレビ放送の在宅モニターを勤め、またビンスもブラッシーが亡くなる最期の日まで「ファイトマネー」を払い続けていた。

フレッド・ブラッシーは黎明期の日本プロレス界において、最も衝撃を与えた悪役レスラーである。前歯は差し歯だったと言われているが、この前歯をヤスリで研ぐパフォーマンスを見せたうえで、序盤から終盤まで噛みつき口撃で対戦相手を「血まみれ」にする悪役に徹した。ヤスリは、実のところ、爪を研ぐための目の細かいヤスリで、歯を削る真似をしただけだった(しかもこのパフォーマンスは力道山の指示による日本限定の物だったらしい)。異様な目つきで銀髪の外人レスラーが、当時のヒーロー力道山をはじめ人気レスラーの額に噛みつく姿は「吸血鬼」を連想させ「噛みつき魔」とも呼ばれた。

ブラッシーは現役引退後もマネージャーとして活躍した。1976年6月26日に行われたアントニオ猪木対モハメド・アリの異種格闘技戦では、アリのマネージャーを務めた。プロレス出身でありながらボクシング陣営に加わったことで、プロレス関係者の反感を買った。無名だったハルク・ホーガンやスタン・ハンセンを売り出すにあたって、キャラクター作りにアドバイスを与え大スターへと導いた。一貫してヒールのマネージャーを務めており、ニコライ・ヴォルコフとアイアン・シークの反米軍マネージャーなどを務めた。ユーゴスラビアからの亡命者であったニコライ・ヴォルコフはギミック上ソ連出身の共産主義者として登場する際に、共産主義者のギミックを拒否していた。だがブラッシーの「演じることで嫌っていることを表現せよ」とのアドバイスでこのギミックを受け入れた、というエピソードもある。

大の親日家として知られる。2度の離婚の後、日本人のミヤコさんと結婚し最期まで添い遂げた。存命中に『あの人は今!?』(日本テレビ系)の取材に夫婦で笑顔で出演し、自宅でミヤコさんがブラッシーの散髪をする姿が放映されたこともある。ミヤコさんは、2003年7月のWWE横浜アリーナ大会開催時のパンフレットに手記を寄せている。
1978年に藤波辰巳(現・藤波辰爾)がニューヨークでWWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を獲得した際、公私にわたり尽力した。ブラッシー死去の知らせを受けた藤波は「とても寂しい。自宅に招待され食事をご馳走になった。当時(ニューヨークでの王座獲得)があるから今の僕がある。とても感謝している。」とコメントを寄せている。


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